ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:香川編 77番霊場
第七十七番札所 道隆寺 に向かう 大凡 4,5km。
今日は強行軍に為るので早朝6時30分に門前に到着、人けの無い山門を潜る・・・

第七十七番札所 桑多山 道隆寺 明王院

山 門 (仁 王 門)

扁 額


「阿・吽」 仁 王 像
仁王門を入ると左側に手水場があり参道一番奥に本堂がある、本堂まで観音様が行列を造って並んでいる。255体あるそうだ。手水で身を清め本堂へ進む・・・

手 水 場

観音様の行列(参道の途中で山門方向)

観音様の行列(参道の途中で本堂方向)

眼 な お し 薬 師 さ ま


本 堂

扁 額

本 堂 内 陣

眼 な お し 薬 師 さ ま

本堂の右に大師堂、左に納経所がある。小さいさまざまな祠は本堂を取り巻くように点在する・・・

も ど り 観 音 さ ま


正一位加茂稲荷大明神
商売繁盛、五穀豊穣にご利益があります・・・

愚 痴 き き 地 蔵
太子堂とその周辺・・・

本 堂 ・ 太 子 堂 ・ 鐘 楼

太 子 堂

大師に許しを請う 衛 門 三 郎

太 子 堂 と 多 宝 塔

多 宝 塔

鐘 楼
納経と散策を終え最後に納経所へ・・・

納 経 所

御 朱 印

ひ げ 爺 記 念 に 一 写
早朝なので人影も無く、参詣を終え退出時に漸く人に会い撮って貰った一枚・・・
無事参詣を終えて第78番札所 郷照寺に向かう・・・・・・・合掌 10月10日午前7時10分
『略縁起』
当寺領はもと和気道隆公の荘園であった。この荘園内の桑畑で天平勝宝元年(749年)のある夜怪光が起きた。道隆公は怪光を退治したが、その時誤って乳母を射殺、道隆公は乳母の供養を願い桑の木で薬師如来像を刻みそれを安置するための堂宇を建立したのが始まりである。
その後、第2代住職朝祐法師が七堂伽藍を建立し寺号を開祖の名をとり道隆寺と名付けた。後弘法大師が当寺に留錫され薬師如来を刻み道隆公の彫った小像を体内に納めて本尊とし四国七十七番札所と定められた。和気道隆公の廟は本坊に祀られ、観音堂には理源大子の観音菩薩が、持仏堂には智証大子作の大日如来が安置されている。
本尊:薬師如来 (伝 弘法大師策) ★開基:和気道隆
本尊の真言:おん、こんころ、せんだり、まとぅぎ、そわか
◎ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ) (翻訳・村上 護) (参考資料として)

元明天皇時代の和気道隆という人にまで、開基は遡る。道隆は日本武尊の後裔だという。道隆の荘園にある桑園で、大きな桑の木が怪異を起こした。その木を伐って薬師如来像を作らせた。小さな堂を建てて薬師像を安置し、朝な夕な供養した。
延暦末年、道隆の子孫・朝祐の代になっていた。空海と出会って道隆について語り、薬師像を見せた。像が小さいので朝祐は空海に、大きな像を作ってくれと頼んだ。空海は信仰心の篤さに打たれ、高さ二尺五寸の薬師像を作り、胎内に道隆の小像を納めて、永く失われないようにした。朝祐は真言密教に深く帰依し、髪を剃り出家した。荘園も財物も捨てて寺を建て、薬師像を本尊とした。空海を供養して過ごした。境内は四町四方で、本堂・弥勒堂・宝塔・鐘楼・二王門・僧坊などが建ち並び、一大寺となった。弘仁末年に朝祐入道は空海を招き、仏教的な資格を何ら持たないでも受けられる、曼荼羅諸仏と結縁する結縁灌頂を開催した。話を聞いて多くの僧侶や人々が集まり、賑わった。このときには十余の宿泊所を建てて、集まった人を受け入れた。盛んに仏法を普及させたが、時代が変わって、今は衰えてしまっている。伽藍は一宇を残して、礎石だけとなってしまった。とはいえ昔から伝わる宝物が、二三百もあるという。寺の右は五嶽に接し、左には丸亀の険しい山が聳えている。南には葛原、北は海。境内は緑深く、幽玄の境地となっている。
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四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:香川編 72番霊場
第七十二番 曼荼羅寺に向かう 大凡4km強。

第七十二番 我拝師山 曼荼羅寺 延命院

山 門 (仁 王 門)

山 号 (扁 額)


「阿・吽」 仁 王 像
山門を潜り参道を進み小さな橋を渡ると左側に手水場・鐘楼、右側に延命地蔵・大師像が並ぶ。
左側に・・・・

手 水 場

鐘 楼
右側に・・・・


延 命 地 蔵 尊 像

修 業 大 師 像
手水場で身を清めて本堂に向かう。

本 堂



本 堂

本 堂 内 陣
本尊:大日如来。空海(弘法大師)の出身氏族である佐伯氏の氏寺として推古天皇4年(596年)に創建され、当初は世坂寺(よさかでら)と言われていた。
本堂の左に護摩堂が建つ。前に不動明王像・干支別守り本尊十二体。左側に八幡宮。

護 摩 堂
護摩堂は お護摩を焚いて修法するところ 不動明王かご本尊。

護 摩 堂 内 陣


不 動 明 王 像

干 支 別 守 り 本 尊

八 幡 宮
五穀豊穣・家内安全・健康長寿・学業成就・ 交通安全・恋愛成就のご利益とか・・・・・・
本堂の右側に観音堂・・・・大日像・納経所

観 音 堂

観音堂に納められた聖観音立像(檜一本造り)は平安後期の作といわれ、県指定有形文化財。

大 日 如 来 石 像

納 経 所
少し下り参道の左側に太子堂が建つ。右に水子地蔵・左(山門側)に 延命地蔵堂・愛染堂・地蔵堂がある。

太 子 堂

太 子 堂

太 子 堂 内 陣

彫刻で飾られた珍しい 香 炉
右側に・・・・

水 子 地 蔵 堂
左側に・・・・

延 命 地 蔵 堂

愛 染 堂

地 蔵 堂
大方のお参りを済ませ納経所で御朱印を戴く。

納 経 所

御 朱 印

山 門 の 裏 側

仁王門の裏側には大きな「草鞋」が奉納されていた。
無事参詣を終えて第73番札所 出釈迦寺に向かう・・・・・・・合掌 10月9日午後3時10分
『略縁起』
弘法大師の一族である佐伯家の氏寺として推古4年(596年)の建立で当寺は世坂寺と号していた。
★大同2年(807年)に、唐より帰国した大子が母親の菩提を祈るため唐の青竜寺に模した東堂を建立し、本尊として大日如来を刻み、金剛界、胎蔵界の両界★曼荼羅を安置し奉ったことに因み寺号を曼荼羅寺に改称七十二番札所と定められた。
境内には空海の手植えとされた「不老松」があったが、2002年に枯死している。その松で彫った笠松大師像がある。

樹齢1200年を超す大師お手植えの「不老松」として紹介されている。高さは4m足らずだが、直径が17〜18mもあり、正円形の傘状をしていて約200㎡の地上を覆っており、菅笠(すげがさ)をふたつ伏せたような形をしていたので、通称「笠松」と呼ばれていた。

枯死した「不老松」で彫った太子像。
★またも出てきた大同2年:空海年表に因ると、唐からの帰国は大同元年(806年)10月帰朝、九州の太宰府に入京の許しが出るまでの大同4年のはじめまで観世音寺に止住することとなる。しかも監視付きとの説もある。この状況下で四国中に札所を開基する等出来よう筈は無い。一番札所から七十二番迄に何件有ったか検証してみる。所謂『伝』の類か?『略縁起』事態が信じられなく為りそうだ。
★曼荼羅は仏教(特に密教)において聖域、仏の悟りの境地、世界観などを仏像、シンボル、文字、神々などを用いて視覚的・象徴的に表したもの。「曼陀羅」と表記することもある。


曼 荼 羅

高野山参詣の時撮影した金剛峰寺休憩の間の曼荼羅。
★ 本尊:大日如来(伝 弘法大師作) ★開基:弘法大師
★ 本尊の真言:おなぶらうんけん、だどばん
◎ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん )(翻訳・村上 護) (参考資料として)

善通寺が落成した後、空海が建立し自作の七仏薬師を金堂に安置した。壮麗な建築が目を奪い、仏教談義に明け暮れる僧侶たちが犇めいていた。元杲、仁海、成尊らの高僧が住み、深遠な教理を称揚した名刹であった。戦国期まで度々兵火に曝され廃れ、妖しい生き物の棲処となり果てた。豊臣時代から江戸初期に讃岐一国を治めた大名・生駒氏の家臣・三野某が、寺の退廃を嘆いて三間の仏堂を建て若干の田を寄進した。寺が再建され、どうにか今に続いている。北には険しい山が聳え、他方には豊かな平野が美しい織物のように広がっている。南には五岳が剣のような峰を連ねている。現在の境内は二町四方で緑深く、俗世間の雑事から切り離されている。大日如来を安置する本堂と護摩堂が並び、前には鐘楼、後には鎮守の社がある。
西行法師が寓居したという水茎の岡は、この寺から三町ばかり西にある。「山里に憂き世厭はむ友もがな」の歌は、ここで詠んだという。寺の庭には、西行笠懸の松があり、関連する歌もあったやに思うが、忘れてしまった。
この寺には、元杲・仁海・成尊、三人の高僧が住んでいたと伝えられている。【京都山科】小野の寺も曼荼羅寺・延命院などと呼んでいるが、此処と同じである。小野の寺は元々西行院と呼んでいたという。しかし霊場になっているこちらの曼荼羅寺は、空海が建てて以来の号だから、小野の寺の方が号を真似たのだろうか。
四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:愛媛編 60番霊場
第六十番札所 横峰寺に向かう 大凡28km。

第六十番札所 石鉄山 横峰寺 福智院

仁 王 門
59番霊場 国分寺では寺中が桜が満開であったが当寺には残雪が彼方此方に・・・・・。



「阿吽」の 仁 王 像
仁王門を潜ると・・・・・・・。


石柱(左)に石鉄山別當横峰寺とある。日陰の処に残雪。
去年の台風些か荒れた感がある、今は新装されている。

新装された庫裏・納経所

手 水 場
納経所前の石段を登り本堂に向かう。

本 堂

台風被害の寄付依頼看板

本 堂 内 陣
太子堂へ・・・・・・


太 子 堂

歓 喜 天 堂

地蔵さんの先に鐘楼堂

鐘 楼 と 修 業 大 師


修 業 大 師 像

納 経 所

御 朱 印
無事参詣を終えて第61番札所 香園寺に向かう・・・・・・・合掌。
『略縁起』
白雉(はくち)2年(651年)★役行者小角が星ヶ森で修行中、石鎚山山頂に蔵王権現が現れ、その尊像を刻み本尊として安置しました。天平年間(729~749年)に行基菩薩が訪れ大日如来を刻み胎内に役行者の像を納めて安置した。
大同年間(806~810年)に弘法大師が訪れ42歳厄除けの星供の法を修め、石鎚山山頂で21日間修行し、結願の日に再び蔵王権現が現れ大日如来を刻み本尊とし、第六十番札所として定められた。
明治の廃仏毀釈により石鎚神社・西遙拝所・横峰社となり、明治42年(1909)横峰寺として再興した。
如何にも役行者小角開基の寺に相応しい様相である。
★役行者小角:
役 小角(えん の おづの /おづぬ /おつの、舒明天皇6年(634年)伝 - 大宝元年(701年)伝)は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者である。姓は君。修験道の開祖とされている。後の平安時代に山岳信仰の隆盛と共に、役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれるようになった。
実在の人物だが、伝えられる人物像は後の伝説によるところが大きい。天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など多くの修験道の霊場に、役行者を開祖としていたり、修行の地としたという伝承がある。(ウイキぺディァ参考)
★西日本の最高峰、標高1983mの霊峰石鎚山の北側、中腹の標高750mにあり、八十八ヶ所中3番目の高さで伊予の関所寺であり最大の難所である(四国詣り6つの難所(鶴林寺・太龍寺・神峯寺・横峰寺・雲辺寺・焼山寺)の1つといわれる)。今は途中まで参拝専用バスがあるが、冬季は不通の場合が多い。自動車では有料の平野林道を通る。通行料金は普通自動車往復で1,800円。
★ 本尊:大日如来(伝 弘法大師作) ★開基:役行者小角
★ 本尊の真言: おん、あぶらうんけん、ばさら、だどばん
◎ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護) (参考資料として)

周布郡にある。石仙菩薩が開いた。彼は外見こそ僧侶であったが、神通力を有していたため、当時の人は石仙と呼んだ。縁起は、弥山・前神と共に、三寺で同一のものだ。縁起は、石鉄/石鎚権現、役行者、石仙について書いている。縁起の記述は、神懸かり且つ奇怪で、とりとめがない。神懸かりであることは凡人が云々評価できるものではないが、書き方が稚拙である点については、書いた者の責任だといえる。神には罪がない。石仙は役行者の再来だとされているが、あり得ることだ。比叡山の光定は伊予の人で、もとは石仙の弟子であったという。
石仙の評判を聞いた桓武天皇が、勅使を派遣して招聘した。石仙が拒むと、勅使は天皇の所有ではない土地はなく、その土地に住んでいる以上は勅命に従うべきだと詰った。すると石仙は立てた錫杖の上に座った。これは、清和天皇が病気平癒祈願のために招いた勅命を、摂津の勝尾寺六代座主の行巡上人が、修行中は寺から出られないからと断った話に似ている【行巡伝説では天皇が汗の如きはずの綸言を変えて京都に来なくて良いからと寺で祈祷してもらうことにした。行巡は数珠と袈裟を自分の代わりに京へ送った】。行巡の話と同様なら、桓武天皇の代であり、空海と同時代だということになる。考えてみると、石鉄山は役行者の開基なので、恐らく横峯寺も役行者の開基だろう。余りに昔のことなので、確かなことは分からない。
寺の中心的な神社は蔵王権現を祀っている。本地仏は両手を膝に置き親指と人差し指で輪を作る、上品上生形の阿弥陀如来像だ。三十六王子社および末社が多くある。
本堂の大日如来像、脇士の持国天は堪慶の作。同じく脇士の多聞天は運慶の作。右の厨子には如意輪観音像、左の厨子には空海像が納められており、共に空海作。
二王門には高さ六尺余の執金剛神像を安置している。
寺の霊宝は、上品上生と書いている空海直筆の額、石仙が書いたという仏光山の額、詳しいことは分からないが空から降ってきた一尺余りの独鈷石。
二町ほど登ると、鉄の鳥居が建っている。弥山の拝所だという。弥山までは九里。ここから北を望めば、青い海が遙かに見える。波に島々が浮かんでいる。中国地方の山がいくらか目に入る。まるで絵画を見ているような美しさだ。
寺領が若干ある。四方の境には札が立っている。
石鉄の鉄は鉞を意味する。「おの」とは読むが、「つち」と読ませる理由が分からない。愚かだから、鉄の字を使ってしまったのか。縁起には、石土とも書いている。石土については、前神寺の記事で触れる。
四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:伊予愛媛編 41番霊場
早朝AM6:00に出発する。
第四十一番札所 龍光寺に向かう大凡50km。
第四十番札所から第四十一番札所まで50kmあるが昨日宇和島市まで40kmほど引き帰し宿を取ったのであと10kmの行程である。宇和島市は、伊達家十万石の城下町である。その宇和島から北東へ約10kmほど行くと三間平野に出る。龍光寺は、三間平野を見下ろす小高い山の中腹にあった。
遠くで見た時赤い鳥居が目立ち一瞬また間違えたかな?と思ったが龍光寺はお稲荷さんと同居していた。

第四十一番札所:稲荷山 龍光寺 護国院

龍光寺の山門は大きな石の鳥居
四国八十八ヵ所霊場1番霊山寺~40番観自在寺まで巡拝し山門の無い霊場は初めてである。当寺は神仏習合(しんぶつしゅうごう)の寺で稲荷神社と同居している。神仏習合とは、日本土着の神祇信仰と仏教信仰が混淆し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象。神仏混淆(しんぶつこんこう)とも云う。((ウィキペディア参照))

鳥居を潜ると、参道が民家の間を抜け石段へと続く。

長い石段が続き正面の赤鳥居が稲荷神社。

石柱の建つ中段が龍光寺のエリアである。 左に本堂、右に大師堂。

狛犬さんと水子地蔵尊が迎えて呉れる。 少々違和感を覚えるが神仏習合の面影を色濃く伝えている霊場である。

本 堂


本 堂 ご本尊:十一面観音像

手 水 場 石段の左側

観 音 菩 薩 像 石段の右側

本堂の右側にはお稲荷さんに登る石段があり、忠魂碑が寄り添って建つ。忠魂碑とは、地方の靖国神社とも呼ばれ、日清(現中国)・日露(現ロシア)戦争以後の出征兵士の英霊を祀る石碑である。

大 師 堂
大師堂は稲荷さんに登る石段の右側に建つ。左手前に七福神が並び下段に水子地蔵尊。

七 福 神

水 子 地 蔵 尊

鐘 楼

納 経 所
本堂を挟んで左に納経所、右に鐘楼。

御 朱 印
無事参詣を終えて第42番札所 仏木寺に向かう・・・・・・合掌 4月4日午前7時20分。
【略縁起】
大同2年(807)、この地を巡錫していた弘法大師は一人の老爺と出会う、老爺は「我この地に住み、仏法を守護し諸民に利益せん」と言って姿を消したそうだ。
大師は、仏法流布を誓いこの老爺こそ五穀大明神の化身に違いないと尊像の十一面観音菩薩を、さらに脇仏の不動明王,毘沙門天を刻み、堂宇を建立して安置、稲荷山龍光寺と号し四国霊場の総鎮守とされた。
由緒ある寺だが明治初年の『廃仏棄釈令』により稲荷大明神は氏神となり石段の上に下に新しく本堂を建て十一面観音菩薩を祀った。
当寺は龍光寺というより「三間のお稲荷さん」で近在に通っている。
★ 本尊:十一面観音菩薩 (伝 弘法大師作) ★ 開基:弘法大師
★ 本尊の真言:おん、まか、きゃろにきゃ、そわか
余談ではあるが、 秋の彼岸に、大阪天王寺の四天王寺に参詣した。当寺にも鳥居と山門が同居していました。

石柱に『大日本仏法最初四天王寺』とある。和宗総本山 四天王寺 - 日本仏法最初の官寺。

鳥 居 と 山 門

五 重 塔 と 金 堂


金堂の仏像と壁画。二本仏教が未だ根付かない時代の所為か仏像・壁画も大陸仏教の色彩を色濃くの残している。
四天王寺は、推古天皇元年(593)に建立されました。今から1400年以上も前のことです。『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫りもし、この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立しこの世の全ての人々を救済する」と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立されました。(四天王寺の歴史 創建・原文のまま)
★ 『四国遍礼霊場記』 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)

宇和郡登賀利村にある。社が鎮座した年代は詳しく分からない。この神は、空海と筑紫で出会い、後に紀州の田辺でも出会った。空海が名を問えば、京都八条の二階堂柴守長者だと答えた。大師は、自分が与えられた東寺は近所なので、守護してほしいと頼んだ。後に神が東寺を訪れたとき、空海は饗応し法事など行った。稲荷山に小さな社を建て、祀った。額を書いて懸けた。二階堂は、現在の御旅所となっている。この神は稲を荷として担いでいるので、稲荷と呼ぶ。筑紫でも紀州でも巳の日に空海と稲荷が会ったので、巳の日を縁日にすると伝えられている。
一説には元明天皇の時代、和銅年中に神稲荷山に示現した。宇賀姫といって、五穀の祖神であり豊饒を司る。また飯成とも書く。だいたい神道の説は、記紀の神代に載る神に取り合わせようとするものだ。しかし、はっきりしたものは少ない。天照太神から神武天皇まで二百三十四万余年間の事跡が何も伝わっていない。八幡神とされる十六代応神天皇の時代に至って、百済から論語などが渡来した。初めて異国の教えに接し、仁義という言葉を知った。人々の願いに応じて、聖徳太子が出現し、日本の言葉と漢字を繋ぎ合わせ、儒教を人々に学ばせ、神道を称え仏教を興し、両者の裡は根本では一つだと考えた。神聖な者でなければ、このようなことは出来ない。これ以前に日本で道義を語る者はいなかった。唐の周公や孔子と並び称すべき人物だ。以後、神道を説く者で、仏教に触れない者はなかった。ところが近世、神道でも宋朝派儒教の他者排除病に罹って、神道に意見を刷り込ませ仏教を排撃するよう謀り、色々な嘘を言い募っている。あるいは儒教の鬼神論を緩用して、元々の日本の神を滅ぼそうとする腐った流儀もある。自己の執着による妬みによって自分の最も大切な深部を忘れて、国の禁制を破り愚かな者を惑わす族もいる。私の説によって虚説を引き、体系的に語ることはない。おおかたは我流の、仏教をよこしまに排除し神社にあらぬ言い掛かりをつけているだけだ。現在の稲荷社では、空海を嫌って新説を作っているが、典拠はない。
社は久しく荒廃していた。図の通りである。道清という者が人々に声を掛け、社と二寺を再興した。
第四十一番札所 龍光寺に向かう大凡50km。
第四十番札所から第四十一番札所まで50kmあるが昨日宇和島市まで40kmほど引き帰し宿を取ったのであと10kmの行程である。宇和島市は、伊達家十万石の城下町である。その宇和島から北東へ約10kmほど行くと三間平野に出る。龍光寺は、三間平野を見下ろす小高い山の中腹にあった。
遠くで見た時赤い鳥居が目立ち一瞬また間違えたかな?と思ったが龍光寺はお稲荷さんと同居していた。

第四十一番札所:稲荷山 龍光寺 護国院

龍光寺の山門は大きな石の鳥居
四国八十八ヵ所霊場1番霊山寺~40番観自在寺まで巡拝し山門の無い霊場は初めてである。当寺は神仏習合(しんぶつしゅうごう)の寺で稲荷神社と同居している。神仏習合とは、日本土着の神祇信仰と仏教信仰が混淆し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象。神仏混淆(しんぶつこんこう)とも云う。((ウィキペディア参照))

鳥居を潜ると、参道が民家の間を抜け石段へと続く。

長い石段が続き正面の赤鳥居が稲荷神社。

石柱の建つ中段が龍光寺のエリアである。 左に本堂、右に大師堂。

狛犬さんと水子地蔵尊が迎えて呉れる。 少々違和感を覚えるが神仏習合の面影を色濃く伝えている霊場である。

本 堂


本 堂 ご本尊:十一面観音像

手 水 場 石段の左側

観 音 菩 薩 像 石段の右側

本堂の右側にはお稲荷さんに登る石段があり、忠魂碑が寄り添って建つ。忠魂碑とは、地方の靖国神社とも呼ばれ、日清(現中国)・日露(現ロシア)戦争以後の出征兵士の英霊を祀る石碑である。

大 師 堂
大師堂は稲荷さんに登る石段の右側に建つ。左手前に七福神が並び下段に水子地蔵尊。

七 福 神

水 子 地 蔵 尊

鐘 楼

納 経 所
本堂を挟んで左に納経所、右に鐘楼。

御 朱 印
無事参詣を終えて第42番札所 仏木寺に向かう・・・・・・合掌 4月4日午前7時20分。
【略縁起】
大同2年(807)、この地を巡錫していた弘法大師は一人の老爺と出会う、老爺は「我この地に住み、仏法を守護し諸民に利益せん」と言って姿を消したそうだ。
大師は、仏法流布を誓いこの老爺こそ五穀大明神の化身に違いないと尊像の十一面観音菩薩を、さらに脇仏の不動明王,毘沙門天を刻み、堂宇を建立して安置、稲荷山龍光寺と号し四国霊場の総鎮守とされた。
由緒ある寺だが明治初年の『廃仏棄釈令』により稲荷大明神は氏神となり石段の上に下に新しく本堂を建て十一面観音菩薩を祀った。
当寺は龍光寺というより「三間のお稲荷さん」で近在に通っている。
★ 本尊:十一面観音菩薩 (伝 弘法大師作) ★ 開基:弘法大師
★ 本尊の真言:おん、まか、きゃろにきゃ、そわか
余談ではあるが、 秋の彼岸に、大阪天王寺の四天王寺に参詣した。当寺にも鳥居と山門が同居していました。

石柱に『大日本仏法最初四天王寺』とある。和宗総本山 四天王寺 - 日本仏法最初の官寺。

鳥 居 と 山 門

五 重 塔 と 金 堂


金堂の仏像と壁画。二本仏教が未だ根付かない時代の所為か仏像・壁画も大陸仏教の色彩を色濃くの残している。
四天王寺は、推古天皇元年(593)に建立されました。今から1400年以上も前のことです。『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫りもし、この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立しこの世の全ての人々を救済する」と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立されました。(四天王寺の歴史 創建・原文のまま)
★ 『四国遍礼霊場記』 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)

宇和郡登賀利村にある。社が鎮座した年代は詳しく分からない。この神は、空海と筑紫で出会い、後に紀州の田辺でも出会った。空海が名を問えば、京都八条の二階堂柴守長者だと答えた。大師は、自分が与えられた東寺は近所なので、守護してほしいと頼んだ。後に神が東寺を訪れたとき、空海は饗応し法事など行った。稲荷山に小さな社を建て、祀った。額を書いて懸けた。二階堂は、現在の御旅所となっている。この神は稲を荷として担いでいるので、稲荷と呼ぶ。筑紫でも紀州でも巳の日に空海と稲荷が会ったので、巳の日を縁日にすると伝えられている。
一説には元明天皇の時代、和銅年中に神稲荷山に示現した。宇賀姫といって、五穀の祖神であり豊饒を司る。また飯成とも書く。だいたい神道の説は、記紀の神代に載る神に取り合わせようとするものだ。しかし、はっきりしたものは少ない。天照太神から神武天皇まで二百三十四万余年間の事跡が何も伝わっていない。八幡神とされる十六代応神天皇の時代に至って、百済から論語などが渡来した。初めて異国の教えに接し、仁義という言葉を知った。人々の願いに応じて、聖徳太子が出現し、日本の言葉と漢字を繋ぎ合わせ、儒教を人々に学ばせ、神道を称え仏教を興し、両者の裡は根本では一つだと考えた。神聖な者でなければ、このようなことは出来ない。これ以前に日本で道義を語る者はいなかった。唐の周公や孔子と並び称すべき人物だ。以後、神道を説く者で、仏教に触れない者はなかった。ところが近世、神道でも宋朝派儒教の他者排除病に罹って、神道に意見を刷り込ませ仏教を排撃するよう謀り、色々な嘘を言い募っている。あるいは儒教の鬼神論を緩用して、元々の日本の神を滅ぼそうとする腐った流儀もある。自己の執着による妬みによって自分の最も大切な深部を忘れて、国の禁制を破り愚かな者を惑わす族もいる。私の説によって虚説を引き、体系的に語ることはない。おおかたは我流の、仏教をよこしまに排除し神社にあらぬ言い掛かりをつけているだけだ。現在の稲荷社では、空海を嫌って新説を作っているが、典拠はない。
社は久しく荒廃していた。図の通りである。道清という者が人々に声を掛け、社と二寺を再興した。
四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:土佐高知編 三十六番霊場
昭和53年頃(広島市在住)足掛け3年近く仕事の関係で愛媛県を中心に四国四県を走り回った時代があり、高知県に出かけると必ず泊まりは高知市と決めており定宿もあったが、これらがさっぱり解らない。龍馬ファンで必ず桂浜に挨拶に行くのを常としていた故2度ほど泊まった桂浜近くのホテルに先ず行ってみたが建物は有るが真っ暗、闘犬場、駐車場のある広場の売店の姐さんに聞くと3年程前に潰れたとのこと、可也遅い時間なので姐さんは店の後片付けをしていたが、『宿がなくちゃお困りでしょう、近くに国民宿舎が有るんで電話してみましょ』と気軽に応じて呉れた、団体客が入っていて満室とのこと。『駅前の中心街に出れば沢山ホテルはありますよ、海岸通を走って5Km程行くと高知市街の標識が在るんで右折し広い道路を真っ直ぐ行けば中心街ですよ』と親切に教えてくれた。親切さに礼を言い、標識に沿って右折し広い道を市街地向けて走る、過去の記憶では街から少し離れると道の両脇は空き地だらけで暗い道であった様に記憶の隅にあるが、民家ではない建物、食べ物屋、会社ビル、パチンコ、ガソリンスタンド、コンビニ等が両脇を埋め明るい通りに為っているのに些か驚く。桂浜から4~50分も走った頃、チンチン電車に出会い漸く中心街に近付いた事に気付いた。
播磨や橋(?)停車場近くのコンビに入り『近くにホテルは有りませんか?』と聞く、年配の店長らしい方が『近くに有ります、案内しましょ』と気軽に案内して呉れた。
徳島の鴨島も室戸市でもコンビニでホテルを訪ねると必ず案内して下さった。法衣の所為か、常からお接待の心を有しているのか、道を尋ねても必ず丁寧に応えてくれる。無計画の旅行者には有り難いこと、感謝感謝である。
自分を省みて後悔しきり、今後はこう在りたいものだ。
ビジネスホテルに落ち着き旅装を解くと朝抜き昼抜き水分のみに因る空腹が一度に遣ってくる。播磨屋橋の近くに『土佐料理 司』と言う地酒の旨い魚中心の料理を出す飲み屋が有った筈である。
フロントを訪ねるとホテル近辺の飲食店、珊瑚の販売店等々の名前入り簡単な地図をくれた、播磨橋も直ぐ近くで『土佐料理 司』も有った。早速出かけることにした。途中の珊瑚の店でオッカナイの珊瑚のブローチを土産に買う。
『土佐料理 司』のイメージも大変わり、昔は正面に大きなカウンターが有り板場さんの前で好みの魚を調理して貰った様に記憶にあるが店舗を広げたのであろう個室形式に変わっていた。魚料理は自分でもする所為なのか好みの魚を目の前で捌いて調理する昔風が自分には合っている様な気がする。
丁度季節は下り鰹のシーズン、早速地酒の『土佐鶴』と『鰹たたき』を注文する。脂の乗りも抜群だし鰹特有の生臭さも全く無い、鮮度と製法が原因のようである。

鰹 の 「た た き」

鰹の塩たたき;熱いうちに塩を振って食べる

わ ら(藁) 焼 き
『土佐料理 司』では炭火焼だとの事。焼き方としては強い火力で短時間に表面のみを焼くのを最良とし、松葉、藁、鉋屑(檜の物が最高らしい)等々方法は有るが屋内では出来ず炭火焼を採用しているそうだ。
鰹も一本釣りで生き絞めをした4kg前後の物しか使わない懲り様である、店特製のポン酢もまた旨い、思わず2人前喰らった。地酒&鯛の兜煮と刺身定食でお開きとした。
明日は愈々桂浜よりスタートである、AM5:00にモーニングコールを頼み程好い酔いに誘われTVを見ながら眠りに入った。
目覚めるとTVがジィジィ鳴っている、AM5:00チョット前、昨夜の夕食に満足した所為か目覚めも良好、朝の定期便を済まし早速出立の用意。
フロントで精算を済ましたのがAM5:40、マネージャーが朝食抜きでは大変でしょうと『お接待です』とアンパン3ヶの差し入れ、有難く頂戴する。
早朝の所為で道はガラ空き、桂浜に思わぬ早く着く、龍馬さんに挨拶を終えても未だ旭日は土佐の大洋に沈み辺りも薄墨色である。
暫らく待つうち、雲の切れ目から旭日が顔を出した。

桂浜沖の水平線に漸く旭日が顔を出した

旭 日 が 昇 っ た

釣 り 人 が 一 人


坂 本 龍 馬 だ ~!!


室戸岬の中岡慎太郎と向き合っている・・は「噂話」だった。
「説明」
桂浜にある龍馬像と、室戸岬にある中岡慎太郎像は土佐湾を隔てて向かい合っていると、よくいわれる。実際は、慎太郎像がほぼ真南を向いていて、龍馬像が西にあるので向かい合っていない。龍馬像は、東を向いていて慎太郎像の少し北(北川村の方)を見ている。このウワサの根源となったのは、両方の銅像を作った彫刻家の本山白雲が、作者の意図としては向かい合わせたかった。と語っていたからで、そのためか慎太郎像はやや右(西)向きに作られている。龍馬像と向かい合わせるように建てると、慎太郎が山の方を向いてしまうため、断念した。
(取材協力 : 高知県立坂本龍馬記念館)そうである。
大ファンである龍馬に就いては、爺の拙い文章で綴るには余りにもおこがましい。多くの小説家が小説にしている。良く龍馬を知りたい人は司馬遼太郎の『龍馬が行く』お読み下さい。
桂浜の龍馬と旭日に会えて今日は好天気になりそうだ。
第三十六番札所;青龍寺に向かう。 前日に、車の場合には34番札所からは36番⇒35番と変則に回った方が行き易いと教えられたので、桂浜より青龍寺に向かった。距離は定かならず。

第三十六番札所 独鈷山 清龍寺 伊舎那院

青 龍 寺 登 り 口
石段下の左手に納経所、恵果堂があり、右手に手水場がある。

納 経 所・恵 果 堂

手 水 場
斜め上方に三十の塔。滝と不動明王像。

三 重 塔


滝 と 不 動 尊

仁 王 門

仁王門脇の 観 音 像
仁王門を潜ると:

170段の石段が続く。石段を上りきったところに本堂が建ち、左に大師堂、右に薬師堂があるが、この配置は唐の青龍寺と同様であるといわれている。
途中に手水場。

階段途中の手水場
この寺の近くに高校野球の甲子園出場の常連校・明徳義塾高校はすぐそばにある。第68代横綱・朝青龍(明徳義塾出身)のしこ名はこの青龍寺から取ったもの。青龍寺の石段でよくトレーニングをしていたそうだ。

本 堂
本尊の波切不動は、空海が乗った遣唐使船が入唐時に暴風雨に遭った際に、不動明王が現れて剣で波を切って救ったといわれ、空海がその姿を刻んだものであると伝える。

本 堂 扁 額 (波切不動尊)

本堂と向かい合って並ぶ三十三観音の石像。
左に大師堂、右に薬師堂。

大 師 堂

大師堂脇の 不 動 尊

本堂脇の 不 動 尊

薬 師 堂
本堂・大師堂・薬師堂の参詣を終え下山、傾斜の激しい200段以上の石段の下りは中々キツイ!最下段にある納経所で御朱印を戴く。

御 朱 印
無事参詣を終えて第35番札所 清滝寺に向かう・・・・・・合掌 11月2日午前7時40分。
★ 本尊:波切不動明王 (伝 弘法大師作) ★ 開基:弘法大師
★ 本尊の真言:のうまく、さんまんだ、ばさらだん、せんだまかろしゃだ、そわたや、うん、たらた、かんまん
『略縁起』
唐に修行に行かれた弘法大師は★恵果和上から真言の秘法を伝授された。弘法大師は恩に報いるため和の国に一寺を建立すること請願する、有縁の地を求め独鈷杵(どっこしょ)を投げた、杵は東方に飛び此の地に落ちた。
帰国後、四国を巡錫中にその杵を見付け当寺を建立し、杵に因んで独鈷山とし寺号は恩師を偲び青龍寺としたそうだ。ちょっと無理があるような気がするが::::。
本尊の波切不動明王は海上安全、豊漁等の守護神として信仰を集めているとのこと。
当寺は土佐市と須崎市を繋ぐ横浪黒潮スカイライン(横波半島を巡る)の 先端部に有り奥の院は太平洋に落ちそうな場所に位置している。
★恵果和上:中国唐代の密教僧で日本の空海の師。俗姓は馬氏。長安の東にある昭応の出身。真言八祖の第七祖。長安青龍寺住職。多くの弟子を育てた。
真言八祖とは、インドで生まれた密教(真言宗)が空海までの三国(インド・中国・日本)八代に及ぶこれら正統の祖師を八祖大師または「伝持の八祖」と言う、七代目が恵果で八代が空海である。
★ 『四国遍礼霊場記』 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)

高岡郡竜村にある。山は高く、前面は開け背後へと聳えている。左は青海原、右には峰が重なり合っている。空海が唐で投げた独鈷杵が、この山に落ちていたため、独鈷山と呼ぶらしい。地形が唐の青龍寺に似ているため、寺を建立し青龍寺と称するという。本尊の不動明王像は、空海の作。鎮守は白山権現。境内には泉があり、空海が建てた龍王の宮がある。日照りのとき、この泉に鐘を浸すと、たちまち雨が降るという。
堂から四町ばかり西に、奥の院がある。石を九尺四方刳り抜いて、空海が作った高さ六尺の不動明王石像を安置する。
播磨や橋(?)停車場近くのコンビに入り『近くにホテルは有りませんか?』と聞く、年配の店長らしい方が『近くに有ります、案内しましょ』と気軽に案内して呉れた。
徳島の鴨島も室戸市でもコンビニでホテルを訪ねると必ず案内して下さった。法衣の所為か、常からお接待の心を有しているのか、道を尋ねても必ず丁寧に応えてくれる。無計画の旅行者には有り難いこと、感謝感謝である。
自分を省みて後悔しきり、今後はこう在りたいものだ。
ビジネスホテルに落ち着き旅装を解くと朝抜き昼抜き水分のみに因る空腹が一度に遣ってくる。播磨屋橋の近くに『土佐料理 司』と言う地酒の旨い魚中心の料理を出す飲み屋が有った筈である。
フロントを訪ねるとホテル近辺の飲食店、珊瑚の販売店等々の名前入り簡単な地図をくれた、播磨橋も直ぐ近くで『土佐料理 司』も有った。早速出かけることにした。途中の珊瑚の店でオッカナイの珊瑚のブローチを土産に買う。
『土佐料理 司』のイメージも大変わり、昔は正面に大きなカウンターが有り板場さんの前で好みの魚を調理して貰った様に記憶にあるが店舗を広げたのであろう個室形式に変わっていた。魚料理は自分でもする所為なのか好みの魚を目の前で捌いて調理する昔風が自分には合っている様な気がする。
丁度季節は下り鰹のシーズン、早速地酒の『土佐鶴』と『鰹たたき』を注文する。脂の乗りも抜群だし鰹特有の生臭さも全く無い、鮮度と製法が原因のようである。

鰹 の 「た た き」

鰹の塩たたき;熱いうちに塩を振って食べる

わ ら(藁) 焼 き
『土佐料理 司』では炭火焼だとの事。焼き方としては強い火力で短時間に表面のみを焼くのを最良とし、松葉、藁、鉋屑(檜の物が最高らしい)等々方法は有るが屋内では出来ず炭火焼を採用しているそうだ。
鰹も一本釣りで生き絞めをした4kg前後の物しか使わない懲り様である、店特製のポン酢もまた旨い、思わず2人前喰らった。地酒&鯛の兜煮と刺身定食でお開きとした。
明日は愈々桂浜よりスタートである、AM5:00にモーニングコールを頼み程好い酔いに誘われTVを見ながら眠りに入った。
目覚めるとTVがジィジィ鳴っている、AM5:00チョット前、昨夜の夕食に満足した所為か目覚めも良好、朝の定期便を済まし早速出立の用意。
フロントで精算を済ましたのがAM5:40、マネージャーが朝食抜きでは大変でしょうと『お接待です』とアンパン3ヶの差し入れ、有難く頂戴する。
早朝の所為で道はガラ空き、桂浜に思わぬ早く着く、龍馬さんに挨拶を終えても未だ旭日は土佐の大洋に沈み辺りも薄墨色である。
暫らく待つうち、雲の切れ目から旭日が顔を出した。

桂浜沖の水平線に漸く旭日が顔を出した

旭 日 が 昇 っ た

釣 り 人 が 一 人


坂 本 龍 馬 だ ~!!


室戸岬の中岡慎太郎と向き合っている・・は「噂話」だった。
「説明」
桂浜にある龍馬像と、室戸岬にある中岡慎太郎像は土佐湾を隔てて向かい合っていると、よくいわれる。実際は、慎太郎像がほぼ真南を向いていて、龍馬像が西にあるので向かい合っていない。龍馬像は、東を向いていて慎太郎像の少し北(北川村の方)を見ている。このウワサの根源となったのは、両方の銅像を作った彫刻家の本山白雲が、作者の意図としては向かい合わせたかった。と語っていたからで、そのためか慎太郎像はやや右(西)向きに作られている。龍馬像と向かい合わせるように建てると、慎太郎が山の方を向いてしまうため、断念した。
(取材協力 : 高知県立坂本龍馬記念館)そうである。
大ファンである龍馬に就いては、爺の拙い文章で綴るには余りにもおこがましい。多くの小説家が小説にしている。良く龍馬を知りたい人は司馬遼太郎の『龍馬が行く』お読み下さい。
桂浜の龍馬と旭日に会えて今日は好天気になりそうだ。
第三十六番札所;青龍寺に向かう。 前日に、車の場合には34番札所からは36番⇒35番と変則に回った方が行き易いと教えられたので、桂浜より青龍寺に向かった。距離は定かならず。

第三十六番札所 独鈷山 清龍寺 伊舎那院

青 龍 寺 登 り 口
石段下の左手に納経所、恵果堂があり、右手に手水場がある。

納 経 所・恵 果 堂

手 水 場
斜め上方に三十の塔。滝と不動明王像。

三 重 塔


滝 と 不 動 尊

仁 王 門

仁王門脇の 観 音 像
仁王門を潜ると:

170段の石段が続く。石段を上りきったところに本堂が建ち、左に大師堂、右に薬師堂があるが、この配置は唐の青龍寺と同様であるといわれている。
途中に手水場。

階段途中の手水場
この寺の近くに高校野球の甲子園出場の常連校・明徳義塾高校はすぐそばにある。第68代横綱・朝青龍(明徳義塾出身)のしこ名はこの青龍寺から取ったもの。青龍寺の石段でよくトレーニングをしていたそうだ。

本 堂
本尊の波切不動は、空海が乗った遣唐使船が入唐時に暴風雨に遭った際に、不動明王が現れて剣で波を切って救ったといわれ、空海がその姿を刻んだものであると伝える。

本 堂 扁 額 (波切不動尊)

本堂と向かい合って並ぶ三十三観音の石像。
左に大師堂、右に薬師堂。

大 師 堂

大師堂脇の 不 動 尊

本堂脇の 不 動 尊

薬 師 堂
本堂・大師堂・薬師堂の参詣を終え下山、傾斜の激しい200段以上の石段の下りは中々キツイ!最下段にある納経所で御朱印を戴く。

御 朱 印
無事参詣を終えて第35番札所 清滝寺に向かう・・・・・・合掌 11月2日午前7時40分。
★ 本尊:波切不動明王 (伝 弘法大師作) ★ 開基:弘法大師
★ 本尊の真言:のうまく、さんまんだ、ばさらだん、せんだまかろしゃだ、そわたや、うん、たらた、かんまん
『略縁起』
唐に修行に行かれた弘法大師は★恵果和上から真言の秘法を伝授された。弘法大師は恩に報いるため和の国に一寺を建立すること請願する、有縁の地を求め独鈷杵(どっこしょ)を投げた、杵は東方に飛び此の地に落ちた。
帰国後、四国を巡錫中にその杵を見付け当寺を建立し、杵に因んで独鈷山とし寺号は恩師を偲び青龍寺としたそうだ。ちょっと無理があるような気がするが::::。
本尊の波切不動明王は海上安全、豊漁等の守護神として信仰を集めているとのこと。
当寺は土佐市と須崎市を繋ぐ横浪黒潮スカイライン(横波半島を巡る)の 先端部に有り奥の院は太平洋に落ちそうな場所に位置している。
★恵果和上:中国唐代の密教僧で日本の空海の師。俗姓は馬氏。長安の東にある昭応の出身。真言八祖の第七祖。長安青龍寺住職。多くの弟子を育てた。
真言八祖とは、インドで生まれた密教(真言宗)が空海までの三国(インド・中国・日本)八代に及ぶこれら正統の祖師を八祖大師または「伝持の八祖」と言う、七代目が恵果で八代が空海である。
★ 『四国遍礼霊場記』 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)

高岡郡竜村にある。山は高く、前面は開け背後へと聳えている。左は青海原、右には峰が重なり合っている。空海が唐で投げた独鈷杵が、この山に落ちていたため、独鈷山と呼ぶらしい。地形が唐の青龍寺に似ているため、寺を建立し青龍寺と称するという。本尊の不動明王像は、空海の作。鎮守は白山権現。境内には泉があり、空海が建てた龍王の宮がある。日照りのとき、この泉に鐘を浸すと、たちまち雨が降るという。
堂から四町ばかり西に、奥の院がある。石を九尺四方刳り抜いて、空海が作った高さ六尺の不動明王石像を安置する。