ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:香川編 66番霊場
徳島、高知、愛媛の三県(第一番札所 霊山寺~第六十五番札所 三角寺)を終え最初の香川県に入る。
第六十六番札所 雲辺寺に向かう 大凡20km。

雲辺寺は雲辺寺山の山頂にある。雲辺寺山は標高921mで四国霊場では一番高所の札所ということになる。以前はバスで雲辺寺口まで行き、徒歩で2時間ほど山道を上る難所の一つだった。だが今ではロープウェイでは7分ほど。雲の中を通り抜けながら、難なく山頂まで行ける。ロープウェイの山頂駅から直接参道に入り、本堂までは、400メートル程度歩く、途中に★五百羅漢がある。


第六十六番札所 巨鼇山 雲辺寺 千手院
雲辺寺は四国八十八ヶ所霊場中最も高い山中に位置し生憎の小雨、全山霞中、まさに雲の中のよう。雲辺寺の名に恥じぬ風景である。

ロープウェイ山頂駅から参道を進むと「おむかえ大師」がお出迎え・・・・・。

おむかえ 大 師
参道に羅漢像が続く・・・・。







五 百 羅 漢 像 群
いたるところに五百羅漢像が立っている。弘法大師が入唐し、はじめて土を踏んだ福建省赤岸鎮の五百羅漢院の羅漢像を模して刻んだといわれる。
★羅漢:阿羅漢の略で釈迦の弟子で500人の聖者。仏教経典の結集に参加した500人の阿羅漢を言う。
サンスクリット語のアルハトarhatの主格形アルハンarhanにあたる音写語で、「尊敬を受けるに値する者」の意。(日本語大辞典)

雲 辺 寺 石 柱

手 水 場 ・ 鐘 楼

手 水 場・吐 水 龍

鐘 楼
手水場で身を清め先ずは本堂に向かう・・・・・・・・

本 堂
御本尊は千手観世音菩薩脇佛は不動明王と毘沙門天。この本堂はひげ爺が参拝時の旧本堂です。

新本堂:平成21年11月に落慶法要が行われた
現在の本堂に安置されている千手観音像は前仏の石仏であり、本当の御本尊は国指定重要文化財であり、収蔵庫に安置されている。

本 堂 内 陣

千 手 観 世 音 菩 薩

秘仏 千 手 観 世 音 菩 薩

秘仏 毘 沙 門 天
本堂の近くに『おたのみなす』・・・・・


「おたのみなす」の腰掛

太 子 堂

太 子 堂 前 境 内

厄 除 け 不 動 尊

水 子 地 蔵 尊


納 経 所

御 朱 印
無事参詣を終えて第67番札所 大興寺に向かう・・・・・・・合掌 10月9日午前10時20分
『略縁起』
★延暦八年(789年)寺の建築用材を求めて雲辺寺山に登られた弘法太子は山の神韻を感じられ、この地こそ霊山なりと山頂近くに堂宇を建立したのが始まりだと言う。それから十数年後の
★大同2年(807年)嵯峨天皇の勅願を奉じて再び登山した大子は、千手観音を刻み仏舎利と毘廬遮那法印(仏法石)を山中に納めたちのちここを四国六十六番札所として定められた。以後法灯は連綿と栄え続けていたが天正年間長曾我部の兵火にあって堂塔は消失、以来荒廃が続いたが後年、蜂須賀家の保護を得て再建同家の祈願所となった。
雲辺寺は海抜921m、四国の札所の中では一番の高所にあり、四国高野と呼ばれ阿波、伊予、讃岐に各坊を持つ学問道場であつた。創立七十七代に及ぶ寺域には巨杉巨木が生茂る道場であり、寺宝に大子筆の不動明王像,愛染明王像、巨鼇山の扁額がある。
◎ また疑問が生まれた。
★延暦八年(789年)寺の建築用材を求めて雲辺寺山に登られた弘法太子は山の神韻を感じられ、この地こそ霊山なりと山頂近くに堂宇を建立したのが始まりだと言う。とあるが大子の生誕は774年であり、延暦八年は大子16歳である。15歳の時都に出、母方の舅(おじ)阿刀大足について、論語、孝経・史伝・文章等を学ぶ。阿刀大足は、桓武天皇の皇子伊予親王の持講(家庭教師)であったといわれる。
18歳の時大学大学(明経科)に入学すし、20歳すぎには大学を去り、山林での修行に入ったとされている。
年代が合わない。
★またも出てきた大同2年(807年): 第四十二番札所:一課山 仏木寺編でも書いたが到底無理な話である。嵯峨天皇の勅願を奉じて再び登山とあるが嵯峨天皇の在位は809~823年であり、有り得ない話であり
大同2年は第50代桓武天皇が延暦25年(806年4月)逝去され平城天皇の御代である。大子と平城天皇に関しても仏木寺で述べた通りである。
当寺に限らず『略縁起』の年代には疑問の点が多すぎるようだ。
★ 本尊:千手観音菩薩(★伝 弘法大師) ★ 開基:弘法大師
★ 本尊の真言:おん、ばさら、たらま、きりく
★伝とは:伝わる、伝える、伝えの意味。伝説、伝聞、伝記等の接頭語で伝運慶等と使う。伝と有るのは確証は無く、そのように伝えられていると受け取った方が良いかも知れない。
◎ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護) (参考資料として)

山は険しく、道が奥深く巡っている。五十町登って境内に出る。堂が雲に包まれており、雲辺寺の名称が、もっともなものだと感じる。西は眼下に伊予が見え、北は中国地方の諸国を一望に見渡せる。東と南には讃岐・阿波・土佐の三国が広がる。山の根は四国に跨り、昔は四国坊と呼ばれる四つの寺があった。今では雲辺寺しか残っていない。阿波の国主が造営したものだが、昔から讃岐霊場の一つに数えられている。
本尊は千手観音の座像で、高さは三尺三寸。脇士は不動と毘沙門天。いずれも空海の作。御影堂、千体仏堂、鎮守社、伴社、鐘楼、二王門がある。境内は緑深く、俗世から隔絶している。
自黙道人は縁起を見たと書き残しているが、私は見たことがない。いつのことかは分からないが、閑成という丈夫がいた。鹿を射て、血の跡を辿ると堂の中へと続いていた。閑成が不審に思って本尊を見ると、像の胸に矢が当たっていた。閑成は殺生の罪を悔い、菩提心を発して出家した。仏が、朝夕に罪を重ねる閑成を憐れんで、鹿に化けたのだろう。中世、寺は火災に遭った。このとき本尊は姿を消したが、年を経て忽然と戻ってきた。
巨鼇は、列子に「渤海の東に大壑あり。其中に蓬莱・方壺等の五山あり。居る所の人は皆、仙聖の種なり。この五山の根連たるや、尽く所なし。当に潮波に従いて、上下往来して、暫くも峙つ事を得ず。帝、西極に流れん事を恐れて、禺強に命じて、巨鰲十五をして首を挙げて、これを戴かしめ、これよりその山動かず」と。今、この山も聳えて、かの五山が浮かんでいるようだ。ゆえに巨鼇を山号としたのだろう。
鼇は海中の大鼈。伝に云う、神霊の鼇あり。列子に鰲となす。鰲は大魚、鼇はこれたらん。
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