ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:香川編 67番霊場
第六十七番札所 大興寺に向かう 大10km。

第六十七番札所 小松尾山 大興寺 不動光院

山 門 (仁王門)
仁王門は、文保2年(1318年)に河野通継が建造したもので国宝に指定されている。仁王像も2,5mの大きさがあり、鎌倉時代に運慶によって作られ四国で一番古いといわれている。

山門石柱・修業大師立像

修 業 大 師 立 像

山 門 扁 額


「阿吽」 金 剛 力 士 像
仁王像は2,5mの大きさがあり、鎌倉時代に運慶によって作られ四国で一番古いといわれている。

境内から見た山 門 (裏側)

奉納された 大 草 鞋

ひげ爺 記 念 撮 影
仁王門をくぐると石段があり、上り詰めると右に鐘楼左に手水舎、正面に本堂、本堂の左奥に弘法大師堂、右奥に天台大師堂がある。92段の石段の途中に弘法大師が植えたと伝えられている榧(かや)と楠の老樹があります。

92段の石段と榧(かや)の樹

自然記念物小松尾寺のカヤ

楠の巨木(香川の保存木の石柱あり)

楠の先端部 (樹高25m)
香川県保存木大興寺の大クス :樹齢700年余、樹高25m、幹囲6,7m、昭和54,12,13指定
右に鐘楼左に手水場・・・・・・・

鐘 楼
三豊市指定有形文化財梵鐘:貞享2年 (1685年)鋳造、昭和45,11,6指定

鐘楼脇の 子宝地蔵尊

手 水 場
手水場で身を清め本堂へ・・・・・

本 堂
天平14年(742年)に東大寺の末寺として建立され、嵯峨天皇の勅願によって空海(弘法大師)が弘仁13年(822年)に開基し、本尊の薬師如来を刻んで安置した。本尊薬師如来は秘仏で61年に一度の開帳となっている。

本堂の「七 日 燈 明」
病気平癒、安産、良縁を願い 赤い蝋燭を奉納すると、7日間灯し祈祷して戴ける。

本堂前の 三鈷松、松葉が三本
松は普通は2本葉なのに・・いつか不思議な縁起物として評判になって・・「三鈷の松」、財布に入れておくと金が溜まるとか・・・・・?
大興寺は真言宗の寺院であるが、往時真言二十四坊天台十二坊が甍を連ね、同じ境内で真言天台二宗が兼学したという珍しい来歴を持つ。そのためか天台宗の影響が大きく、本堂に向かって左側の弘法大師堂とともに、右側に天台宗第三祖智顗を祀る天台大師堂があるという配置にその名残を留めている。

太 子 堂 本堂の左側

天台大師堂 本堂の右側
天台大師堂(中国の高僧智顗(ちぎ)を祀っている)

納経所 ;本堂の一郭、左側に納経所

御 朱 印
無事参詣を終えて第68番札所 神恵院に向かう・・・・・・・合掌 10月9日午前11時55分
『略縁起』
弘仁13年(822年)、嵯峨天皇の勅命によって弘法大師が熊野三所権現鎮守の霊場として開創し、本尊の薬師如来を刻んで安置したとされる。かつては真言宗と天台宗の二大宗派によって管理されていた珍しい寺で、真言二十四坊、天台十二坊が境内に並んで建てられ、本堂の左右に真言・天台の両大師堂があった。弘法大師空海と★天台宗の最澄の2人は同時期に唐へ留学をした仲。最澄は大師から密典十二部を借覧したり、高野山で大師の開壇の儀式を受けた。だがその後大師は最澄からの理趣釈経の借覧を手紙で断り、また最澄の弟子である泰範が大師の元から帰らなくなったことなどにより2人は決別してしまう。その後天正年間の兵火でほとんどの堂宇は焼失、現在の本堂は慶長年間に再建されたもの。
★最澄:平安時代の僧。日本の天台宗の開祖である。先祖は後漢の孝献帝に連なる登萬貴王(とまきおう)で、応神天皇(第15代天皇(在位270年 -310年)の時代に日本に渡来したといわれている。
★ 本尊:薬師如来(伝 弘法大師作) ★開基:弘法大師
★ 本尊の真言:おん、こんころ、せんだり、まとぅぎ、そわか
◎ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん )(翻訳・村上 護) (参考資料として)

空海が弘仁十三年に開いた。当初は七堂伽藍を備えた大寺であった。現在でも、礎石は残っている。最盛期には、真言宗だけでなく天台宗の研究も盛んで、学僧が犇めいていた。豊田郡小松尾村にあるため、小松尾寺とも呼び、小松尾山と号している。
本尊は薬師如来で、脇士は不動明王と毘沙門天。立像で高さは四尺。いずれも空海作。十二神は高さ三尺二寸で、堪慶の作だ。本堂の右には、鎮守である熊野権現の社がある。左にある大師堂の大師像は、堪慶の作。醍醐の勝覚が裏書きしている天台大師御影がある。大興寺と書いている額は、従三位藤原朝臣経朝の手による。文永四丁卯七月二十二日丁未と裏書きしている。経朝は世尊寺家。行成第八世の子孫のようだ。このような高位にある者の額が残っていることから、往年の興隆ぶりが偲ばれる。近世まで、宝塔・鐘楼があった。
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