ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:香川編 71番霊場
第七十一番札所 弥谷寺 に向かう 大凡12km。

第七十一番札所 剣五山 弥谷寺 千手院

本坊 山 門

仁 王 門

仁 王 門 扁 額


「阿吽」 仁 王 像
弥谷山は、古来より霊山(仏山)として信仰されたといわれ、日本三大霊場(恐山・臼杵磨崖仏・弥谷山)の一つに数えられる。霊山の名にふさわしく可也急峻で仁王門から本堂に至るまでに540段余りの石段がある。
仁王門を潜り長い石段を上って行くと金剛拳菩薩の像がある。ここから108段の階段を登ると太子堂がある。

急 で な が ~ い 石 段

金 剛 拳 菩 薩
仁王門から此処までの石段262段とか・・・・・・・

手 水 場 と 案 内 図
煩悩の数と言われる108個の石段を登ると太子堂。

太子堂へ続く108煩悩階段

太 子 堂
納経所は太子堂にある。

納 経 所
大師堂内を奥に進むと「獅子の岩屋」がある。空海が「真魚」と呼ばれていた幼少期に学問をしたと伝えられる場所である。大師像と父母の二像(父は阿弥陀如来像、母は弥勒菩薩像)が祀られている。



獅 子 の 岩 屋
大師堂を後にして急な参道、石段を行く・・・・・・。鐘楼堂、多宝塔、大師像、護摩堂等々多数。本堂手前の参道に石仏、岩壁に沢山の磨崖仏が並ぶ。

急 な 石 段

鐘 楼

多 宝 塔

修 業 大 師・十 王 堂

岸壁に食い入るように建つ護摩堂
さらに進むと・・・・・・・求聞持窟に出る。本堂への最後の石段が左側に・・・・・。

本堂への登り口の祠と石像


弥 陀 三 尊 磨 壁 仏
大師堂から本堂へ向かう途中の岩壁にあり、大師が刻んだとされています。「磨崖仏(まがいぶつ)」と呼ばれ、真言を唱えると極楽往生ができると言われている。

本 堂

本堂は背後の岸壁に食い入るように建っている。本堂で最後の納経を済ます。
従来のお参りの順序では、山門(仁王門)を潜り先ず手水で身を清め本堂で納経を済まし太子堂、その他諸堂を巡り最後に納経所で御朱印を戴き山門より退出するのが常道であろうが当寺では変則な巡拝方法をとった。
当寺は山門から本堂まで540段の石段を登らねばならぬ厳しい参道が続く。足の弱い弱者の為に駐車場から太子堂の近く(本坊山門)までバスが送迎、262石段が除かれる訳である。ひげ爺もこれを利用したので当ブログの最初の写真が本坊山門と為った次第である。変則でわあるが初めに太子堂で御朱印を戴き、本堂の納経を済ませてから下山し仁王門まで一息に下った。

太 子 堂 の 納 経 所

御 朱 印
無事参詣を終えて第72番札所 曼荼羅寺に向かう・・・・・・・合掌 10月9日午後2時30分
『略縁起』
天平年間、聖武天皇の勅願により行基菩薩が開創。当山より八国が眺望出来ることに因み蓮華山、八国寺と号していた。その頃大子は真魚と呼ばれていたが、この岩窟で勉学されている。さらに延暦23年に入唐した大子は真言密教を受法、帰国後の★大同2年再度登山修行中、空中から五柄の剣が降るの霊を感じた事により剣五山と改号し、本尊千手観世音菩薩を刻んで安置、弥谷寺と改号し七十一番札所と定められた。
その後天正年間全山消失したが慶長年間に★生駒讃岐守が再興した。
★またも出てきた大同2年
★生駒讃岐守:生駒家は豊臣氏家臣の生駒親正が、秀吉の四国平定後の天正15年(1587年)、讃岐1国の17万3000石を与えられたことに始まる。高松城は、天正15年に生駒親正によって築かれた。親正の子・一正(讃岐守)は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて東軍に加担したため、戦後に所領を安堵された。しかし、第4代藩主・生駒高俊時代の寛永17年(1640年)にお家騒動(生駒騒動)により改易され、出羽矢島藩に転封された。
外様 17万3千石 (1600年 - 1640年)
1. 親正(ちかまさ)〔従四位下、雅楽頭〕
2. 一正(かずまさ)〔従四位下、讃岐守〕
3. 正俊(まさとし)〔従四位下、讃岐守〕
4. 高俊(たかとし)〔従四位下、壱岐守〕
★本尊:千手観世音菩薩(伝 弘法大師作) ★開基:行基菩薩
★本尊の真言:おん、ばざら、たらまきりく
◎ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん )(翻訳・村上 護) (参考資料として)

もとは行基菩薩の開基。この山の霊験を見た大師が登って求聞持修行をしていたとき、空から五柄の宝剣が降ってきたため、剣五山と号する。また、剣の御山とも呼ぶ。「五」と「御」は同じ「ご」だから、転訛したのだろう。山の南側は開け、東・北・西には三朶の峰が聳えている。そのうち中岫に空海は登り、岩屋を掘り仏像を彫刻した。本堂の岩屋から造り始め、壮麗な堂宇とした。
本尊は空海作の千手観音像。このため千手院と号する。本尊の脇士は不動と毘沙門天像。護摩の岩屋には、二間四方の石段の上に、不動明王・弥勒菩薩・阿弥陀如来の像を安置している。脇の石段には、高野山の道範阿闍梨の像がある。道範が讃岐に流罪となったとき、この寺の住持に頼まれ、行法肝要抄を撰した。奥書に記されている。この住持が道範像を作ったものだろうか。
聞持窟の大きさは九尺と二間で、内部の壁面には五仏・虚空蔵菩薩・地蔵菩薩などを彫りつけている。また、空海が自分の両親を阿弥陀如来と弥勒菩薩になぞらえ造った石像がある。今の参詣者は、阿弥陀・弥勒と思わず、ただ空海の両親として拝んでいる。空海の御影もある。もと木造であったものを、石像に作り替えた。石窟の前には四間・六間の拝堂を、南向きに懸け作っている。本堂の左側の岩壁に、阿弥陀三尊の六字名号九行を、空海が書き付けいている。
空海が登ったとき、蔵王権現が示現した。このため空海は、高さ七八尺の蔵王権現像を彫って、寺の鎮守として祀った。恐ろしい形をしている。この辺りの岩には梵字の阿を彫っていたり、五輪塔・阿弥陀如来像などがあって、訪れる人の目を驚かせている。この山で目につくところ、足の踏むところには必ず仏像がある。このため仏谷と号し、仏山と呼んでいる。護摩窟の下方に鐘楼がある。住持の坊は中腹にある。斜めになっている石段の両側にも、石仏が多い。三町ほど下に二王門を構えている。少し左には、石窟の薬師堂がある。
東南の高峰は飛び出た岩の頭すべてが五輪であり仏像だ。その数は幾千あるか分からない。
この山は崖が切り立ち屹立して肩を並べる山がない。霞を食べ風に乗る仙人でもなければ、簡単には上れないだろう。雲霧がつねに起こり、霊木・異草が茂り、岩を伝う泉の水が清らかだ。心が浄化され、嗜欲が消えていく。
峰に登れば周囲に八国を見渡せる。このため八国寺と呼ばれている。近郷の人は、この山に登ることを、「八国する」という。いつの頃からか「弥谷(やこく)」と書くようになった。「弥(や)」と「八(や)」、「谷(こく)」と「国(こく)」は、相通じている。また、山号院号寺号まで八栗寺と同じで、行状記に載せる記事も同様だ。ただし行状記は内容に誤りが多く、典拠とするには値しないのだが。とはいえ、山の霊気も同様であり、この寺と八栗寺は、確かに分かちがたい。
この寺には多くの宝物があったが、数回にわたって賊に奪われてしまい、残っているものは少ない。そのうちにも珍しいものが一つある。空海が持っていた紫銅の鈴である。回りに四天王を、それらの間に三鈷杵を彫りつけている。見る人を驚かせている。
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