ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:香川編 73番霊場
第七十三番札所 出釈迦寺に向かう 大凡400m。

第七十三番札所 我拝師山 出釈迦寺 求聞持院

修業大師と山頭火の句碑
駐車場から山門(鐘楼門)にいたる参道(?)で修業大師が出迎えてくれました。


鐘 楼 門
短い石段を登り山門を潜り境内に入ると、左側に手水場があり、捨身ヶ嶽禅定(しゃしんがたけぜんじょう)の立札がある。右側に求聞持大師坐像がある。

手 水 場




求 聞 持 大 師 坐 像

手水場で身を清めて本堂に向かう・・・・・

本 堂

本 堂 内 陣
(伝)弘法大師作の本尊・釈迦如来と、脇仏に不動明王、虚空蔵菩薩がある。
捨身ヶ岳禅定に登れない人のために、本堂左手の石段を登れば捨身ヶ嶽(奥ノ院)遙拝所があります。

捨身ヶ嶽(奥ノ院)遙拝所
捨身ヶ嶽禅定まで登れなくても、ここでご宝号を唱え祈願すればご利益があると言われている。ひげ爺も奥ノ院に行けずここでお参りする。


奥 ノ 院 遠 望

地 蔵 堂
本堂右には太子堂・・・・

太 子 堂

太 子 堂 内 陣
お参りを終え納経所に・・・・・

納 経 所

御 朱 印
無事参詣を終えて第74番札所 甲山寺に向かう・・・・・・・合掌 10月9日午後3時50分
『略縁起』
この寺の奥之院、我拝師山の山頂に捨身ヶ嶽禅定がある。昔は倭斯濃山と称されたと言われる。出釈迦寺の境内から1,8kmほどの道程で、さらにその先に石の護摩壇と稚児大師像が立っている。そこが幼少の弘法大師が身を投げた行場であるとされる。大師の和讃に「御年七つのその時に 衆生の為に身を捨てて 五つの嶽に立つ雲の たつる誓いぞ頼もしき」とあるように、大師が7歳のおりに寺の裏山に登り、「我、一切の衆生を済度せん(仏道に入って衆生を救いたい。成就するなら霊験をあたえよ、さもなげればこの身を諸仏に捧げる)」と言って山の上から谷底に飛び降りた。するとこのとき釈迦如来と天女が現れ、雲上に大師を抱きとめて「一生成仏」の宣を受けたとされる。大師は感激し、後に釈迦如来像を刻んで本尊として堂宇を建立し、出釈迦寺と号した。釈迦が山にこもって苦行をし、山から下り痩せ衰えた姿を「出山の釈迦」と呼ぶため、寺号はそれから付けられたとされる。また、このとき倭斯濃山を我拝師山に改めたともいわれる。
★ 本尊:釈迦如来(伝 弘法大師作) ★開基:弘法大師
★ 本尊の真言:のぅまく、さんまんだ、ぼだなん、ばく
◎ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん )(翻訳・村上 護) (参考資料として)

曼荼羅寺の奥の院という。西行は、この寺について次のように書いている。「曼荼羅寺の行道所/奥の院に登る道は手を立てたように急で、まことに骨が折れる(この世の大事)。空海が自筆の経を埋めた峰だ」。俗に、この坂を、世坂と呼んでいる。険しいため、参詣の人は杖を捨て岩に取り付いて登る。南も北も視界を遮るものがなく、一望に見渡せる。空海が観想修行をしていると、白い雲の中に釈迦如来が現れた。空海は釈迦を拝み、我拝師山と名付けた。山家集に拠ると、この辺りの人は「わかはし」と言い習わしている。「わがはいし山」の「山」も捨てて読まない。昔は塔が建っており、西行の時代までは礎石が残っていたという。
この山は、善通寺五岳の一つだ。西行の時代には既に堂もなかったらしいが、近世、宗善という人が志を立て、麓に寺を建立した。また、この山の一際険しい場所を、捨身の嶽と呼んでいる。幼い頃の空海が、己の修行が成って人々を救うことが出来るか否か試すため、仏に祈って飛び降りた。天人が下ってきて、空海を受け止めた。西行の歌に、「巡り会はん事の契りと頼もしき 厳しき山の誓いみるにも」。
西行の旧跡・水茎の岡は、曼荼羅寺の縁起に載せられているが、出釈迦寺にある。
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