ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:香川編 75番霊場
第七十五番札所 善通寺 に向かう 大凡 1,4km。

第七十五番札所 五岳山 善通寺 誕生院
「誕生院」と称される西院、「伽藍」と称される東院の東西二院に分かれています。

西院より入山する。

正 覚 門
アーチ状の済世橋を渡り唐風の正覚門を潜ると左側にパコダ供養塔・忠霊塔・護摩堂・聖霊殿などがある。

パ コ ダ 供 養 塔


慰 霊 塔

護摩堂(国登録有形文化財)…不動明王を祀ってある

聖霊殿(国登録有形文化財)…戦没英霊堂

御影堂(大師堂)(国登録有形文化財)
御影堂を中心とする「誕生院」は、お大師さまが御誕生された佐伯家の邸宅跡にあたり 御影堂近辺でご誕生と伝えられている。御影堂は天保2年(1831年)に建立され、昭和11年に修復されています。


御 影 堂 (大 師 堂)

護摩堂と親鸞堂、鐘楼、納経所

鐘 楼

手 水 場
西院から東院に・・・

仁 王 門

西院から東院に続く回廊

仁 王 門 扁 額


「阿・吽」の 仁 王 像
仁王門から回廊を通り東院へ・・・

金 堂 (本 堂)

ひげ爺 金堂前で記念撮影

金 堂 扁 額


金堂前の 舟 形 手 水 大 石

舟形手水前の子授修行大師像

『忠臣蔵』の中心人物。大石 良雄(おおいし よしお/よしたか)は、播磨国赤穂藩の筆頭家老。元禄赤穂事件で名を上げ、これを題材とした人形浄瑠璃・歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』で有名になった。
「良雄」は諱で、通称(仮名)は「内蔵助」。一般にはこの大石 内蔵助(おおいし くらのすけ)の名で広く知られる。本姓は藤原氏。家紋は右二ツ巴。
因みに、ヒゲ爺も良雄で~す。忠臣蔵の大ファンでもある。

五 重 塔 と 鐘 楼


五重塔(国登録有形文化財)は、江戸時代・弘化2年(1854年)仁孝天皇の御綸旨により再建がはじまり、明治35年(1902年)に完成した、国内で3番目の高さを誇る木造塔です(基壇~相輪頂:約43m)。創建以来、倒壊・再建をくりかえし、現在の塔は4代目です。


五 百 羅 漢 像
東院の境内を散策し最後に東院の塀に沿って並ぶ五百羅漢のユニークな石像を眺めながら東院を後にした。
西院に帰り納経所で御朱印を戴く・・・

鐘 楼 傍 の 納 経 所

納 経 所

御 朱 印
無事参詣を終えて第76番札所 金倉寺に向かう・・・・・・・合掌 10月9日午後4時40分
『略縁起』
五岳山 善通寺の創建は、『多度郡屏風浦善通寺之記』(江戸時代中期成立)によると、唐より帰朝されたお大師さまが、御父の寄進した四町四方の地に、師である恵果和尚の住した長安・青龍寺を模して建立したお寺で、★大同2年(807年)臘月(陰暦12月)朔日に斧始めを行い、弘仁4年(813年)6月15日に落慶し、父の諱「善通(よしみち)」をとって「善通寺」と号したと記されています。
鎌倉時代に佐伯家の邸宅跡に「誕生院」が建立され、江戸時代までは、善通寺と誕生院のそれぞれに住職をおく別々のお寺でしたが、明治時代に至り善通寺として一つのお寺となりました。現在は真言宗善通寺派の総本山であり、また四国八十八ヶ所霊場の75番札所でもあります。
現在の善通寺は「屏風浦五岳山誕生院善通寺」と号し、山号の「五岳山」は、寺の西にそびえる香色山・筆山・我拝師山・中山・火上山の五岳に由来し、その山々があたかも屏風のように連なることから、当地はかつて「屏風浦」とも称されました。そして、「誕生院」の院号は、お大師さま御誕生の地であることを示しています。御誕生所である善通寺は、京都の東寺、和歌山の高野山とならぶ弘法大師三大霊跡のひとつとして、古くから篤い信仰をあつめてまいりました。
総面積約45,000平方メートルに及ぶ広大な境内は、「伽藍」と称される東院、「誕生院」と称される西院の東西二院に分かれています。金堂、五重塔などが建ち並ぶ「伽藍」は、創建時以来の寺域であり、御影堂を中心とする「誕生院」は、お大師さまが御誕生された佐伯家の邸宅跡にあたり、ともに弘法大師御誕生所としての由縁を今に伝えています。(四国八十八ヶ所霊場会公式ホームページより転載)
★またも出てきた大同2年:ブルータスならぬ、四国八十八ヶ所霊場会公式ホームページよ!お前もか!ってな感じ。今後は語りませぬぞ!!。
★ 本尊:薬師如来 開基:弘法大師
★ 本尊の真言:おん、こんころ、せんだり、まとぅぎ、そわか
◎ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん )(翻訳・村上 護) (参考資料として)

多度郡屏風浦にある。空海の著した「三教指帰」に「玉藻所帰之嶋橡樟蔽日之浦【玉藻なすところの島、橡樟、日を覆うの浦】」とある場所だ。空海の父まで代々伝わった荘園だった。父は佐伯氏で、名を善通という。佐伯氏は、景行天皇の皇子・稲背入彦を出自としているらしい。外敵に攻め勝った褒賞として与えられた土地だ。佐伯姓は、孝謙天皇の時代に朝廷から与えられたという。母は、阿刀氏。
二人に託され空海は、この世に生まれ落ちた。空海が幼少の時分に遊んだ場所は、霊場として幾つかが残っている。唐で仏教を学び帰って、両親・祖先の供養と人々の救済のため、此処に寺を建てた。
山号の五岳は、近くに香色・筆・出釈迦・中山・火上の五峰が聳えるところから付けた。寺号の善通は、父の名から直接に付けた。院号の誕生は、空海が生まれた場所だからだ。
昔の伽藍は、空海が学んだ唐の青龍寺を倣っていたという。道範阿闍梨の記す所に拠れば、金堂は一辺七間の二層構造で、間にくびれた部分があるため、よく見ると四階建てあった。高さ一丈六尺の薬師三尊・四天王像を、空海自ら作って安置した。これらは埋仏で、納めた壁面に前仏として薬師三尊を浮き彫りにした。護摩堂は一辺七間で、空海自作の釈迦如来像を安置した。二重の宝塔には、空海自筆の自画像を納めた。この自画像は、空海が唐へ向かうとき、旅中の危険を思って哀しむ母を慰めるため、描き残したものだ。これは告面の孝を自画像で尽くそうとしたのだ【礼記の曲礼上第一。孝子の為すべきこととして、「出必告反必面/出ずるに必ず告げ帰りて必ず顔を合わす」とある】。西行の記す所に拠れば、善通寺の御影の傍に御師【釈迦如来カ】も一緒に描き込まれていた。道範阿闍梨は空海の御影を見て、次の詩を詠んだ。「世に出でて自ら留める影よりぞ 入りにし月の形をも見る」
空海が生まれた場所は、山の根の部分であった。西行が此の地に来たとき、空海の生まれた場所には囲いがしてあり、松を植えていた。「哀れなり 同じ野山に立てる木の かかる印の契りありけり」「岩にせく閼伽井の水のわりなきは 心澄めども宿る月かな」西行作。道範の記述に拠ると、空海の生まれた場所には、石畳を高く広く積んでいた。今は七重の如法塔がある。道範の歌に「高野山 岩の室戸に澄む月の麓より出でける暈は」とある。
また、道範の記述に拠ると、この寺は二町四方で、色々な堂舎があった。宝塔・灌頂堂・護摩堂が多く並んでいた。事物の興廃は、世の常である。この寺も例外ではない。西行や道範の時代までは創建当時の伽藍があったというが、今では跡が残っている程度だ。現在の大師堂は、空海が生まれた場所に建っているという。
空海が幼少の頃に遊んだ場所が、みな遺っている。遊墳仙遊原、四王執蓋地、捨身誓願岳などと呼ばれている所だ。
西行の歌集に、「大師の住んでいた場所の近くに庵を結んでいた頃、月が皎々と明るく海の方が曇りなく見渡せたことがあった」と詠んでいる。「曇なき山にて海の月見れば 島ぞ氷の絶え間なりける」である。また、侘びしい庵住まいのうちに、「今よりは厭わしめ命あればこそ かかる住居の哀れをも知れ【今よりは厭わじ命あればこそ……】」と詠んだ。更に、庵の前に立つ松を見て「久しに経て 我後の世を問へよ松 跡偲ぶべき人も無き身ぞ」。写本の系統に依っては、下の句を「跡慕ふべき人も無き身に」と伝えている。西行が歌った松は、今でも南大門の西脇に立っているという。西行松と呼ばれている。道範は聞いて、「契り置く西へ行きける跡に来て 我も終わりを松/待つの下露」と詠んだ。
空海が修行した御道行所は我拝師山といって、五岳の一つである。現在では善通寺とは別に出釈迦寺としている。我拝師山については、出釈迦寺の項で触れるため、ここでは詳しく書かない。
天皇家・将軍家の崇敬が代々篤い。天皇・上皇の公的文書が二十余通、将軍家からの寄進状が多く遺っている。昔は荘園も多くあり、学問・修行に打ち込む僧侶たちが犇めくほどだった。天皇の要請で行われる法事などもあったようだ。鎌倉幕府の公的記録「吾妻鏡」には「貞安二年三月十三日に、讃岐国善光寺の荘園であった場所に鎌倉の御家人が領主として入り込み収穫を取り上げてはならない、との命令が出されている。将軍家が祈祷をしていた期間でもあるから、弘法大師が生まれた場所に立つ由緒正しい寺の権利を侵してはならない、との理由だった。しかるに近年は、善通寺の私有地に鎌倉幕府から任命された地頭が赴き収穫を取り上げている。寺の財政に事欠くようになったため、原状に戻してほしいとの嘆願書が届いた。特に許して、鎌倉幕府は地頭の任を解いた」とある。
後嵯峨上皇の陵が、この寺にある。後宇多上皇と亀山上皇が陵の左右に石塔を奉納している。亀山上皇は自ら筆を執り、紺色の紙に金泥で法華経と結経である観普賢経を写し、後嵯峨上皇の陵に奉納した。現在も遺っているという。
寺宝には、以下のようなものがある。空海の袈裟二十五条。空海の鉢と錫杖。空海の母が作った一字一仏の法華経序品仏像、字は空海が書いた。西行は当時、「空海直筆であろう四つの門の額は少し割れているものの無事といってよいが、後世にはどうなっていることだろう」と心配している。道範の時代には、半分の二枚しか残っていなかった。善通寺と書かれていたという。ある書に載っている話を紹介しよう。昔、陰陽博士の安倍清明が、縁あって讃岐に下ったときのことだ。清明は、使鬼神/式神に火を灯させて夜道を歩いていた。善通寺の前に差し掛かると、火が消え使鬼神の姿も見えなくなった。通り過ぎると、再び使鬼神が現れ火を灯した。清明が尋ねると、使鬼神は寺の額を四天王が守護していたため恐れて、違う道を通ったのだと答えた。
鎮守は、空海の氏神である八幡宮。ご神体は、空海の作。
真雅僧正は、空海の弟なので当然、此処に住んでいた。後に遍照院の寛朝僧正、延命院元杲、小野の仁海、宥範、宥源、宥快らといった、徳の高い僧侶たちが、此処で過ごした。道範阿闍梨は、仁治四年の春、無実であるのに罪に問われ讃岐に流罪となった。空海の遺跡を慕敬して、寛元三年九月に善通寺へと移った。多くの書物を著した。浄土宗の祖・法然上人も讃岐に流罪となったとき、空海の遺跡を拝むことができると喜んだ。
この寺の寺務は元々東寺長者が兼務していた。後宇多上皇の時代以後、後嵯峨の門主が五六代続けて寺務を執った。その後、唐橋親厳僧正が寺務に就いたため随心院門跡の管掌となった。
五岳の一つ筆山の名称に関わる西行の歌がある。「筆の山 掻き/書き登りてもみつるかな 苔の下なる岩の景色を」
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