ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:香川編 76番霊場
第七十六番札所 金倉山 に向かう 大凡 4km。

第七十六番札所 鶏足山 金倉寺 宝幢院

山 門 (仁 王 門)

山 門の 仁 王 像

山 門 扁 額

智証大師生誕・訶梨帝母堂 (かりていもどう)の石柱


「阿・吽」 仁 王 像
山門を潜ると左側に鐘楼。右側に手水場があり正面に本堂が建つ。

鐘 楼

手 水 場
手水場で身を清め本堂に向かう・・・


本 堂


本 堂 内 陣

向拝脇 金箔の 大 黒 天

願 供 養 念 珠
願をかけながら数珠を引いて回すと願が叶うと言われている
本堂の左側には訶梨帝母堂(かりていもどう)・観音堂が並ぶ・・・

訶 梨 帝 母 堂
訶梨帝はサンスクリットのハーリティーの漢訳で訶梨帝母(かりていも)とも言われ鬼子母神のこと。鬼子母神を「きしぼじん」というが読み方は正確には間違いである(ぼが呉音ではなく漢音であるため)、「きしもじん」が正確である。
子授け、安産、子育ての神として祀られている。

訶梨帝母堂 内 陣

天 井 絵

観 音 堂

観 音 堂 扁 額

観 音 堂 内 陣
太子堂へ・・・


太 子 堂

太 子 堂 内 陣

水 子 地 蔵 尊 像
「一願一杓」:「一杓に一つの願いを込めてお地蔵さまにお水をかけてください」

乃 木 将 軍 の妻返しの松
善通寺第十一師団長を務めた頃、金倉寺の客殿を仮住居としていたと言う。明治31年12月31日夕景、妻の静子夫人は、遥々東京から来訪したが、面会せず直ぐに帰京すべき旨伝え厳命により、夫人は途方に暮れ松の木の下で永らく佇み後に一応引き返したと云う。その松は乃木将軍妻返しの松」として手入れされている。

智 証 大 師 入 山 像
平安時代の天台宗の僧で天台寺門宗の宗祖。僧名は円珍、諡号(しごう)は智証大師(智證大師、ちしょうだいし)。入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。
【諡号】とは高徳の人に没後、追贈する称号をいうが、仏僧の場合、没後、朝廷から贈られる賜り名をいい、大師・菩薩・国師・禅師・和尚・法師・上人・三蔵などの各号がある。例=空海の弘法大師、最澄の伝教大師、叡尊の興正菩薩など。中国に始まる。(勅号という場合は生前賜った号を呼ぶことが多い)( 世界宗教用語大事典より)
因みに円珍が醍醐天皇より智証大師の諡号が贈られたのは延長五年(927年)。入寂されたのは寛平3年(891年)享年78歳の時であるから36年後のことである。
弘法大師という諡号を醍醐天皇が空海に贈ったのは、死後86年経った921年である。
境内の散策を終えて納経所へ・・・

納 経 所

御 朱 印
『略縁起』
宝亀五年(774年)長者和気道善の開基で当時は道善寺と号した。もともと当山は弘法大師のおいでのち延暦寺五代座主となり三井園城寺を賜った智証大師の誕生地である。のち唐から帰朝した大師が、先祖の菩提のために伽藍を造営し薬師如来を刻み、本尊として安置した。金倉寺と改称したのは延長六年(928年)醍醐天皇の勅命によるものであり、この地の金倉郷の名をとって命名、その後、広大な寺領や百三十二坊、数十の神仏閣堂宇は建武の争乱、さらに永正、天文とつづいた兵火にあつてことごとく焼失した。その後寛永9年 1632年藩主★松平頼重が祈願所として再興した。
★ 松平頼重:江戸時代前期の大名。常陸下館藩主(5万石)、その後、生駒騒動で改易となり天領となった讃岐高松に12万石で入封される讃岐高松藩初代藩主。水戸徳川家初代徳川頼房の長男に生まれるが庶子として扱われ水戸家を継げなかった。異母弟の光圀が水戸藩主となる。
★ 本尊:薬師如来(伝 智証大子作) 開基:和気道善
★ 本尊の真言:おん、こんころ、せんだり、まとぅぎ、そわか
当寺に着いたのが午後5時少し前、5時には納経所が閉まる。急ぎ納経を終えて、お決まりの本堂、大子堂での納経を済ませ境内をゆっくり散策。
多度津駅前のビジネスホテルに宿を決めた。全く初めての街なので皆目不案内、駅前のタクシー乗り場で『魚と酒の旨い店を頼む』と案内して貰う、帰りには電話貰えれば迎えに来るとの事。名前は思い出せないが、瀬戸内の所為か中々魚が旨い。鱈腹喰らい良く飲んだ。迎えのタクシーで宿に着いたのは11時。
明日は12ヶ寺、可也の強行軍であるが愛媛と違い香川は札所と札所間が短いようである故マア何とかなるだろう。
第七十七番札所 道隆寺には朝7時前には門前に着いて居よう等と考えている内、満腹と酒の勢いで爆睡。
◎ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん )(翻訳・村上 護) (参考資料として)

証大師の生まれた旧跡だ。父は和気氏の宅成、母は佐伯氏であった。よって智証大師は、空海の親戚に当たる。智証大師は生まれつき聡明で、すでに老成した人のようだった。八歳のとき、仏典に因果経というものがあるだろうから、読んでみたいと父に言った。驚いた父は探し求めて、因果経を与えた。十歳のときに詩経・論語・漢書・文選を読んだ。十五歳で延暦寺座主・義真の弟子となった。後に山王権現の神託により唐へ留学した。日本に帰って三井寺を建て、唐から持ち帰った経典・仏像を納めた【智証大師の描写は「今昔物語巻十一」の「智証大師亘宋伝顕蜜法帰来語第十二」と同じ】。
金倉寺は、智証大師の父母の荘園だった場所である。両親の菩提を弔い、また自分の生まれた場所を仏教の場として永く伝えたいと思ったのだろう。自筆の遺影も残っている。永暦二年に朝廷が寺に補修を加えたという。唐から伝来した曼荼羅や鐃鉢、十六善神などの宝物が多くある。本堂の本尊は薬師如来像。鎮守の八幡社には拝殿がある。右に鐘楼、山王権現・智証大師の御影堂がある。
この寺は、空海の遺跡ではない。開基が空海の死後だ。空海が死んだとき、智証大師は漸く二十歳ほどだった。とはいえ、親戚なので空海も此の地に当然、遊んだことだろう。
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