ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:香川編 78番霊場
第七十八番札所 仏光山 郷照寺寺 に向かう 大凡 7km。

第七十八番札所 仏光山 郷照寺 広徳院

山 門
山門を潜り、参道を進むと駐車スペースになっていて左側に当寺の案内看板・鐘楼と手水場があり10段余りの石段を上がると境内、左に納経所、右向こうに本堂、庚申堂がある。本堂左の通路を通り石段を上がると正面に大師堂がある。


当 寺 案 内 看 板



鐘 楼

手 水 場
手水で身を清め石段を登り境内へ・・・。まず本堂に向かう。

本 堂
本尊の阿弥陀如来は鎌倉時代の作。

二 重 構 造 の 屋 根
二層の屋根が特徴的で、東大寺など奈良の寺院によく見られる奈良様式の造り、札所の中でも珍しい。

格子戸越しに内陣が見える

本堂、大師堂ともに天井は、絵ではなく彩色された美しい草花のレリーフで彩られています。これは1999年に終了した「平成の大修理」の際に設置されたもので、立体的な天井画は札所の中でも珍しい。
本堂傍の庚申堂・・・

庚 申 堂

内 陣

天 井 絵
庚申信仰とは:四天王寺(大阪)の『庚申縁起』には、以下のように説かれている。
「庚申日」の夜、人々が眠っている間に体を抜け出た三匹の虫が天に昇り、その人の善悪を天帝に告げる。そして、報告を聞いた天帝は、罪の軽重に応じて寿命を縮め、時には命をも奪うとされる。その災いから逃れるためには、「善をなし悪をやめ、庚申の夜には、香華や百味の飲食を供え、真言を唱えて仏を念じて眠らない。さらに、六度の庚申の夜を無事に勤めれば、願いが成就する。」と。 庚申(かのえさる)の夜、無病息災を願いながら眠らないで過ごすという平安時代の貴族社会の風習が鎌倉時代の武家社会を経て、少しずつ民衆の間に浸透し始めた。
さらに江戸時代には、その風習は全国規模で広まり各地に庚申を祀る集団「庚申講」が結成され、やがて民間信仰の中心的な存在のひとつとなった。とある。

ぽ っ く り 地 蔵 尊
本堂と庚申堂の傍らにあります。「痴呆症や寝たきり」に為りたくないと考える年寄りが多い所為であろうお参りも多いそうだ。「ぽっくり」「コロリ」と名の付く地蔵・観音・弁天が全国に点在する何れも盛況とか・・・。
太子堂への参道脇には地下のお堂に3万体の観音像を納めた万体観音洞がある。

万体観音堂入り口に建つ観音像

阿弥陀如来像を中心に観音像が並ぶ


観 音 像 その数3万体
厄除け太子堂へ・・・


太 子 堂


厄 除 太 子・厄 除 祈 願 殿

内 陣

天 井 絵
太子堂の後方に粟島明神堂・・・

粟 島 明 神 堂

内陣の 七 福 神
参拝を終え境内の散策も済んで納経所へ・・・

納 経 所

御 朱 印
無事参詣を終えて第79番札所 天皇寺に向かう・・・・・・・合掌 10月10日午前8時10分
『略縁起』
聖武天皇神亀2年(725年:霊亀年間との説もある)に行基菩薩によって開創され、仏光山道場寺と名づけられた。本尊の阿弥陀如来は行基菩薩の作といわれる。後の大同2年(807年)には弘法大師が留錫し、荒廃した伽藍を改築して霊場に定めた。のちの弘仁6年(815年)には一刀三礼でご尊像を刻み厄除けの誓願をしたといわれる。やがて理源大師や道範阿闍梨が寺にとどまり、後の正応元年(1288年)、一遍上人が伽藍を再興した。その折、一遍流の法門による光明を大衆に与える踊り念仏の修行道場となり、郷照寺に改名された。室町時代には細川頼之の帰依を受け、子院七か寺を有して栄えていたが、戦国期に長曽我部勢の兵火により焼失。後の寛文4年(1664年)に、高松藩主松平頼重により再興された。その際、宗派を一遍上人を偲び時宗に改宗され、寺名も七十七番道隆寺と似ていた事から「郷照寺」と改められた。なお四国霊場で宗派が時宗なのはこの寺のみである。文化2年(1805年)には藩主が病気平癒を祈願し、それが成就したので大書院を建立し、四石の保護料を寄進したといわれる。その後病気平癒の折祷寺として松平家代々の庇護を受け、本堂や客殿観海桜などが建築されている。
★ 本尊:阿弥陀如来 ★ 開基:行基菩薩
★ 本尊の真言:恩、あみりた、ていせい、からうん
◎ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん )(翻訳・村上 護) (参考資料として)

本尊は空海作の阿弥陀如来。鎮守社・鐘楼がある。いつしか時宗の寺となった。向かいには津の山・茶臼山、左には青い海が広がり塩飽・佐美島が見える。所の名を、鵜足津/宇多津という。
道範阿闍梨が流罪となったとき、宇多津の豪族・橘氏に預けられた。道範が自ら書いた記録に、「少し上手の、堂と僧坊がある所に移された。ここは景色が良く、東を望めば孤山が月を捧げ、西を振り返れば遠くに見える島が夕日に包まれており、日想観を行っているようだ。背後に松山が聳え、海に続いている。『寂しさを いかで耐えまし松風の浪も音せぬ住処なりけり』。山に登って見渡して『宇多津かた この松蔭に風立てば 島の彼方も一つ白浪』」。道範が寓居した寺は恐らく、ここであろう。
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