ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:香川編 79番霊場
第七十九番札所 天皇寺 に向かう 大凡 7km。

第七十九番札所 金華山 天皇寺 高照院

天 皇 寺 石 碑
天皇寺はかっては、「保元の乱」で敗れ讃岐に流刑された崇徳上皇を祀る神社白峯宮の神宮寺であった。


四脚の 三 輪 鳥 居
普通の明神鳥居の左右にやや小さい脇鳥居を組み合わせた珍しい鳥居で、奈良・大神神社など全国で3ヶ所にしかない。この横には源頼朝寄進の下乗石がある。

源頼朝寄進の 下 乗 石
下乗石.とは結界を示した石標で、ここから先は聖地であるからどんな高貴な者でも乗り物からおりて、自分で歩いて参拝せよ!との約束事がある。
四脚の鳥居(三輪鳥居)を潜り境内に入ると正面奥に白峰宮がある、参道の左手前に天皇寺の本堂と大師堂が隣接し左手に手水場、右手に馬の彫像がある。

手 水 場

馬の 彫 像(菊の御紋章)
手水で身を清め社殿に向かう・・・

白 峰 宮 社 殿

白 峰 宮 社 殿

社殿の 内 陣
白峰宮:七十五代 崇徳天皇は★保元の乱に敗れ、保元元年(1156年)讃岐に流されて「讃岐院」とも呼ばれた崇徳院を祀る神社である。
★保元の乱:皇位継承問題や摂関家の内紛により朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変である。
保元の乱を分かりやすく解説した文章があったので素の儘に転載させて戴きました。
保元の乱
保元の乱(ほうげんのらん)とは、1156年(保元元年)、後白河天皇(ごしらかわてんのう)と崇徳上皇(すとくじょうこう)が皇位の継承をめぐり対立。それに、藤原氏も兄弟、二手に別れて加担し争った戦争です。では、保元の乱について、もうちょっと詳しく見てみましょう。
崇徳上皇がまだ天皇だった所からお話しましょう。(あっ、ちなみに上皇とは、天皇の座を退くと上皇という位になります。さらに上皇が出家、仏教の道に進むと法皇となります。)
その頃、長きに渡って政治の実権を握っていた崇徳天皇のおじいさん、白河法皇が亡くなります。1129年のことです。
そして、政治は実権は崇徳天皇の父、鳥羽上皇(とばじょうこう)の手に移り変わります。
1141年。鳥羽上皇は、藤原璋子(ふじわらのしょうし)の子である崇徳天皇に天皇の座を譲らせ、愛してやまない藤原得子(ふじわらのなりこ)の子である体仁親王(後の近衛天皇)に天皇の座を譲るように言い渡します。
これにより、崇徳天皇は上皇となり、天皇の座には近衛天皇が座ることになります。
当時は、院政といって上皇となっても権力を持ち続けることができたのですが、この近衛天皇は崇徳上皇の弟として扱われた為、その院政ができずに事実上、崇徳上皇の権力は衰退していってしまうことになるのです。
その後、近衛天皇は17歳の若さでお亡くなりになりますが、次に天皇の座についたのは、崇徳上皇の子ではなく、弟にあたる後白河天皇でした。
この時に、自分の子が天皇に付くことが出来ていれば、将来の院政も可能であり、権力を再び手に入れることが出来たはずなのに、天皇の座に付いたのは、またしても弟。
崇徳上皇にしたら、はらわたの煮えくりかえる思いだったことでしょう。。
そして、ついに1156年です。鳥羽法皇が亡くなると共に、崇徳上皇が動き出します。保元の乱です。
崇徳上皇は、皇位を取り戻そうと藤原頼長(ふじわらのよりなが)と手を組みます。頼長も天皇側についていた兄の忠通(ただみち)から関白の座を奪い取るには絶好のチャンスです。また、源氏、平氏もそれぞれに分かれて激しく争うことになります。
崇徳上皇側・・・・藤原頼長 ・ ・ 源為義 ・平忠正
VS
後白河天皇側 ・・藤原忠通 ・ ・源義朝 ・平清盛
この時、活躍したのが後に名を轟かせることになる、源義朝(みなもとのよしとも)や平清盛(たいらのきよもり)です。(犬猿の仲のような2人ですが、この時はまだ仲間同士でした)
この保元の乱は、夜襲により後白河天皇側の勝利となります。
崇徳上皇は、長年の恨みを晴らすことなく負けてしまったわけです。
そして、この乱により見事活躍して見せた武士達が力を付けていく転機となったと言われています。
(歴史年代ゴロ合わせ暗記より)
鳥居方向に参道を引き替えし天皇寺本堂・太子堂へ・・・

本 堂

本 堂

内 陣


太 子 堂


内 陣
太子堂の傍らに安楽地蔵尊・鐘楼が・・・

鐘 楼

安 楽 地 蔵 尊
参詣と境内散策を終えて中門を通り納経所へ・・・

中 門


納 経 所

御 朱 印
無事参詣を終えて第80番札所 国分寺に向かう・・・・・・・合掌 10月10日午前8時35分
『略縁起』
天平年間に金山の中腹に、行基菩薩によって開創され、弘法大師によって荒廃した堂舎を再興されている。大師が弘仁年間(810〜24)にこの地方を訪ね、弥蘇場という沢水が落ちる霊域にきた際、ひとりの天童が現れて閼伽井を汲み、大師にしたがい給仕をした。この天童は、金山を鎮守する金山権現であった。天童は、永くこの山の仏法を護るようにと誓って、持っていた宝珠を大師に預けた。大師はこの宝珠を嶺に埋めて仏法を守護し、その寺を摩尼珠院と号した。大師はまた、弥蘇場の霊域にあった霊木で本尊とする十一面観世音菩薩をはじめ、脇仏として阿弥陀如来、愛染明王の三尊像を彫造し、堂舎に安置した。この本尊の霊験が著しく、諸堂が甍をならべ、境内は僧坊を二十余宇も構えるほどであった。
保元元年(1156年)7月、崇徳上皇(天皇在位1123〜41)は「保元の乱」に敗れ、京都・知足院に入られて落飾された。直後の同月23日、上皇は讃岐国に遷幸されるよう勅命があり、末寺の長命寺本堂を皇居と定められた。上皇は、阿弥陀如来への尊崇が深く守護仏とされていたが、長寛2年(1164年)御寿46年で崩御された。二条天皇(在位1158〜65年)は、上皇の霊を鎮めるため崇徳天皇社を造営、また、後嵯峨天皇(在位1242〜46年)の宣旨により永世別当職に任じられ、現在の地に移転された。 明治新政府の神仏分離令により、摩尼珠院は廃寺とされたが、天皇社は白峰宮となって初代神官には摩尼珠院主が赴任した。明治20年、筆頭末寺の高照院が当地に移り、金華山高照院天皇寺として今日にいたっている。
★ 本尊:十一面観音菩薩 (弘法大師作) ★ 開基:弘法大師
★ 本尊の真言:おん、まか、きゃろにきゃ、そわか
◎ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん )(翻訳・村上 護) (参考資料として)

空海の開基。本堂の本尊は十一面観音像。鎮守は金山権現。城山大明神とも呼ばれ、古くから祀られている。伴社が多くある。
この地に崇徳天皇の霊を勧請し、廟を建てた。ゆえに、この地は、崇徳天皇と呼ばれている。天皇が崩御したとき金棺を暫く置いたので、宮を作ったという。釣殿・拝殿が現存している。寺は観音堂の後にある。寺は昔、多くの堂宇を備えた広大なものだったという。境内には礎石が多く残っている。
この地から一町ほど西に、野沢という霊水の湧く場所がある。諸病を癒す水だ。霊水から三町ばかり上った山の中腹に、薬師如来の石像がある。空海の作で、高さ二尺ほどの立像だ。土地の人々は、霊水が薬師から出て野沢に通じていると言っている。この薬師像を板敷きに据えると水が出ず、石の上に置くと水が出るという。伝承では、景行天皇の時代、佐留霊公が船で南海/瀬戸内海を進んだとき、大魚と遭遇した。船が呑み込まれ、乗っていた人々は死に、霊公だけが残った。霊公は勇猛に剣で大魚の臓器を破って外へ出た。しかし霊公は力尽きて、意識を失ってしまった。そこへ天童が降って来て、野沢の水を霊公に注いだ。霊公は蘇生した。野沢を弥蘇波と呼ぶようになった。このような伝承があるのだから、霊水の存在は空海に先行する。霊水が先にあって、空海が薬師像を作ったのだろう。温泉に薬師像が置かれるようなものだ。また、崇徳院は崩御のとき、白峰・青峰のいずれかに葬るよう遺言した。国司と崇徳天皇に従っていた人々が朝廷の判断を待つ間、遺体を保存するために金棺を弥蘇波の水に浸けた。それ以後、水は霊性を高めたという。
この浦の向かいに見える沙弥島は、醍醐聖宝尊が生まれた場所だ。歌枕では、佐美島と書く。「玉もかるさに紀の国の佐美島」と詠んでいる。塩飽島が並んで見える。
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