ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
- 2023 . 02 «
- 1
- 2
- 3
- 4
- 5
- 6
- 7
- 8
- 9
- 10
- 11
- 12
- 13
- 14
- 15
- 16
- 17
- 18
- 19
- 20
- 21
- 22
- 23
- 24
- 25
- 26
- 27
- 28
- 29
- 30
- 31
四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:香川編 80番霊場
第八十番札所 国分寺 院に向かう 大凡 7km。

第八十番札所 白牛山 国分寺 千手院

山 門 (仁王門)


「阿吽」・仁 王 像
仁王門を潜ると参道が本堂に向かって真っすぐに延びる、八十八ケ所の石像が両脇にならんでいる。参道を進むと右に四国最古の釣鐘があり、左手に手水場がある。

真っ直ぐ延びる参道と八十八ヵ所の石像


鐘 楼 堂



手 水 場
手水場で身を清め本堂へ・・・



本 堂

内 陣

太子堂へ・・・

弘 法 大 師 礼 拝 殿 の門

礼 拝 殿 扁 額

太 子 堂 礼 拝 殿
礼拝殿には太子像が祀られている。納経所と売店が同居していた。


太 子 像

遍 路 用 具 記 念 品 の売店
撮影中「撮影禁止」に気付き中止する。
礼拝殿の後方の二重の塔は手っきり多宝塔であろうと思っていたが太子堂の本殿であった。


太 子 堂 と 水 子 地 蔵 尊
礼拝殿で御朱印を戴き参道を引き返す、脇に石像・堂が多数並ぶ。

縁 結 び の 社

願 掛 け 不 動 尊

願掛け不動尊 と 修業大師

弁 財 天 堂


堂内の 弁 財 天

弁財天を守護する 六 福 神

毘 沙 門 天 堂

内 陣

千 体 地 蔵 堂

内 陣

御 朱 印
当寺には特設の納経所は無く太子堂拝殿に併設されている、太子堂参詣時に戴いた。
無事参詣を終えて第81番札所 白峯寺に向かう・・・・・・・合掌 10月10日午前9時20分
『略縁起』
国分寺は天平13(741)年、聖武天皇の勅願行基菩薩の開基にして国家安穏五穀豊穣万民薬楽等祈願のためまた地方文化の発展を願って国ごとに建立された讃岐の国分寺である 讃岐国分寺として、行基が十一面千手観音を安置して開基した。
この開創から時代が降った弘仁年間、四国を巡錫中の弘法大師が当寺に久しく留錫され、行基作の五・三メートルの大立像(本尊)の損傷箇所を補修、そして四国第八十番札所と定められた。
その後、天正年間(1579~1591年)に兵火にかかり、本堂と鐘楼を残して伽藍を焼失。慶長年間(1596~1614年)に讃岐国守・生駒一正(いこまかずまさ)によって再興され、江戸時代には高松藩主松平家代々によって庇護された。参道両側には八十八カ所の本尊の石仏が並び、境内には地蔵堂や閻魔堂、緑結社(えんむすびしゃ)などさまざまなお堂や社が点在している。
★ 本尊:千手観音菩薩(行基菩薩作) ★ 開基:行基菩薩
★ 本尊の真言:おん、ばざら、たらまきりく
◎ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん )(翻訳・村上 護) (参考資料として)

行基菩薩の開基だという。聖武天皇は陰陽の理にかなった姿をしており、幽玄なる哲理や神智に通じていた。霊性あるものを庇護し、仏教への帰依が深かった。天平九年に、諸国に国分寺を建立する詔勅を下した。高さ一丈六尺の釈迦如来像と二菩薩像、そして大般若経を写して諸国分寺に納めた。虎が嘯けば、谷に風が生じる。慶雲は龍に従って湧き上がる。原因があるからこそ結果が生じる。聖武天皇の詔勅で国分寺が建立され、国分寺の建立で仏教が興隆した。ところで国分寺建立のときに当たり、行基は出かけていって畿内に五十の寺を建て、諸国に多くの霊場を開いた。朝廷の仏教普及策に手を貸した。この讃岐国分寺が行基の開基だというのは、そういった事情を反映しているのであろう。
現在の本堂は、東西九間・南北八間の規模。本尊は空海作で高さ一丈六尺の千手観音。思うに聖武天皇の詔勅では、国分寺の本尊は高さ一丈六尺の釈迦如来像であるはずだ。とはいえ、国分寺の本尊は、必ずしも釈迦如来ではない。当初から薬師を本尊としたものも、あったのではないだろうか。
薬師堂が東の方にある。鎮守は、春日明神だ。伴社は四十余。
本堂の東に一本の大きな枯れ木がある。勅木だともいうし、本尊を作った残りの木だともいう。霊異を起こすことが多い。堂の前には蓮池がある。橋を架けており、往来できる。堂から正しく南に二王門があり、この前にも広い池がある。関の池と詠んでいる。蓮が美しく立ち、香りが遠く広がって心惹かれる。観音の永代供養にと国司から与えられたもので、その他の用に使うことは許されない。
境内は四町四方。松や杉が茂り、堂宇はさほど立派ではない。昔の仏閣は、土佐勢の攻撃によって滅びてしまった。跡だけは、みな残っている。
スポンサーサイト