ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:香川編 83番霊場
第八十三番札所 一宮寺 に向かう 大凡 18km。

高松市内に入ると地図が不案内で可也時間を食い一宮寺に着いた時は11時半近く。当寺を加えて後6ヶ寺残っている。納経の終了時間はpm5:00と決っているし、一ヶ寺でも残れば改めて再度の挑戦となるし、地図と首っぴきでの走行となると間に合うかな?と些か心配となった。
霊場の霊験か仏の導きか参拝の途中、八十八箇所巡礼専属タクシーの運転手さんで北海道の何某さんを巡行されていた長野秀雄氏の知遇を得た。『今日中に廻り終えたいのですが、タクシーに随行させて呉れませんか?』お願いしたら『ゆっくり廻れますよ。後ろに付いて下さい!!』と心良く承知して呉れた。
讃岐名物のうどんで昼食を採り、第八十八番札所 大窪寺まで先導して戴き、pm4:30には納経を済ませることが出来た。恐らく先導して貰っていなければ何ヶ寺か残して居たに違いない。感謝!感謝!である。今でも年賀状遣り取りをしている。
第八十三番札所 神毫山 一宮寺 大宝院

西 門 (裏 門)
駐車場の最寄にある門で最初は正門と勘違い。この門から入り参道を抜けて仁王門を出て再度仁王門から入る。

山 門 (仁王門)

扁 額
大きな草鞋が奉納されており草鞋と仁王像が同居していた。


「阿・吽」 仁 王 像
山門を潜り参道を進むと左側に鐘楼・観世音菩薩・薬師如来石の祠・手水場と並んでいる・・・

鐘 楼


手 水 場
手水で身を清め本堂・太子堂に向かう・・・

本 堂

巡礼専属タクシーの運転手さんと北海道の何某さん
太子堂へ・・・太子像が拝顔できる・・・


太 子 堂

太 子 堂 向 拝

内 陣

内 陣
本堂・太子堂の参詣を終えて境内を散策・・・

地 蔵 菩 薩 堂

水 掛 不 動 尊

観 世 音 菩 薩 像

薬 師 如 来 祠
地獄の釜、石仏がはいっている隙間に首を突っ込むと地獄の釜の音がする、悪いことをすると頭が抜けなくなると言われている。

菩 薩 堂
散策も終わり納経所へ・・・

納 経 所

御 朱 印
無事参詣を終えて第84番札所 屋島寺に向かう・・・・・・・合掌 10月10日午前12時00分
『略縁起』
★大宝年間(701~704年)に★義渕僧正が開き、当時は大宝院と称して法相宗に属していたとされる。その後、諸国に一宮が建てられたとき、行基菩薩が堂塔を修築して田村神社の第一別当職となり、寺号も神毫山一宮寺に改められた。大同年間には弘法大師が留まり、聖観音像を刻んで安置して本尊とし、宗派を真言宗に改めた。後に兵火にかかり、第二別当職にあった弥勒寺と末寺は没収されたが、一宮寺は残った。しかし天正年間の長曽我部元親の兵火で堂塔は灰燼に帰し、中興宥勢大徳によって再興されて現在に至る。延宝7年(1679年)には、高松城主松平頼重(初代藩主)により田村神社の別当職を解かれて神仏は分離した。現在もこの名残りをとどめて境内は田村神社と隣接しており、仁王門の前は神社の境内地で鳥居と向かい合っている。
★ 大宝(たいほう、だいほう、正字体:大寶)は、日本の元号のひとつで慶雲の前。701年 - 704年の期間を指す。この時代の天皇は文武天皇。
大宝年間には完成した大宝律令が施行され、都城としての藤原京や遣唐使派遣ならび、元号制定も律令国家成立の一環として行われた。『日本書紀』に拠れば、大宝以前にも大化(645年 - 650年)、白雉(650年 - 654年)「白雉(はくち)は大化の後」、1年だけ存在した朱鳥(686年)「朱鳥(しゅちょう、すちょう、あかみとり)は、日本で飛鳥時代から使われた元号である」などの年号があったとされるが、日本における元号制度は断絶状態にあり、「大宝」の改元により元号使用は再開される。以降、元号制度は途切れることなく現在に至るまで続いている。
★ 義渕僧正:法相宗の僧。百済聖明王の末裔と言われており天武天皇が育てられたとも言われている。
★ 本尊:聖観世音菩薩 (伝 弘法大師作) ★開基:儀淵僧正
★ 本尊の真言:おん、あろりきゃ、そわか
◎ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ) (翻訳・村上 護)) (参考資料として)

創建は余りに古く、はっきりしない。一宮は田村大明神。猿田彦命である。また、孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲媛とも言われている。貞観九年に神位が昇った。宮は、寺前に別の構えとなっている。松が茂り、木立は年輪を経て鬱蒼としている。左に、花の井と呼ばれる名水がある。寺の本尊は高さ三尺五寸の聖観音立像。境内には稲荷社があり、前に鐘楼がある。
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