ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:香川編 85番霊場
第八十五番札所 八栗寺 に向かう 大凡 8km。

第八十五番札所 五剣山 八栗寺 観自在院

歓 喜 天 大 鳥 居
当寺には入山方法が二通りある。①車・ケーブルの場合は聖天大鳥居に至る。②歩き遍路の場合は山門へ・・・。
ひげ爺は①の車・・・
駐車場を出て道なりに進むとと多宝塔、大師堂、さらに参道を行くと大鳥居に出くわす、正面に聖天堂があり右手に本堂がある。
山門から入ると正面に本堂があり左側に聖天堂・護摩堂(納経所)がある。
大鳥居から境内に入り山門に行き再び境内へ・・・

山 門 (二天門)

多 聞 天

持 国 天

山門から見た 諸堂の境内配置

大鳥居から見ると 左から 護摩堂(納経所)・歓喜天・本堂の順と為る・・・

手 水 場
手水場で身を清め本堂→歓喜天(聖天堂)→納経所に行き、帰路の参道にある太子堂・鐘楼・多宝塔等々の順で巡る・・・

本 堂

本 堂 内 陣

歓 喜 天 (聖天堂)
本尊は弘法大師作の歓喜天である。高さ約15cmという小さな黄金の像で、50年に1度しか開帳しない秘仏だという。
歓喜天は「聖天さま」とも称されている。歓喜天は、あらゆる災いを取り除き人々に福を招くという天尊であり、とりわけ商売繁
盛、合格祈願、縁結びなどに霊験があることで広く知られている。

歓 喜 天 扁 額
本堂の右横側から参道を辿る・・・駐車場へ向かう

本 堂 の 右 側

十 一 面 観 音 像

鐘 楼 堂

地 蔵 堂

十 二 支 守 り 本 尊

十二支守り本尊・太子堂・多宝塔

太 子 堂

太 子 堂 内 陣

多 宝 塔

納 経 所
御朱印は本堂・聖天堂参詣の時戴いた・・・

御 朱 印
無事参詣を終えて第86番札所 志度寺に向かう・・・・・・・合掌 10月10日午後1時40分
『略縁起』
寺は天長6年(829年)の創建で、当初は千手観世音の小像を安置して千手院と称していた。弘法大師は幼少の頃よりこの山に登り、土で仏像などを造っていたとされる。後に虚空蔵求聞持法を修しているときに五柄の利剣が虚空より降ってきた。そして蔵王権現が現れて「この山は、仏教にふさわしい霊地である」と告げられたため、その剣をこの山に埋めて山の鎮護として五剣山と名づけ、山項からは8か国(現在の中国・四国地方)が見えるため八国寺としたとされる。その後、大師が入唐前に植えた8個の焼き栗が、帰国後ことごとく生長繁茂していたので八栗寺に改めたとされる。戦国時代、長宗我部元親の乱のため寺は焼失したが、後に高松藩主松平頼重公(初代藩主)が再建した。当時は5つの峰が剣の尖のようにそびえ立っていたとされるが、元禄11年(1698年)の豪雨で西の峰が半分に割れ、宝永3年(1706年)の地震で東の峰が崩れ、現在は4峰になった。
★ 本尊:正観世音菩薩 (伝 弘法大師作) ★開基:弘法大師
★ 本尊の真言:おん、あろりきゃ、そわか
◎ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護) (参考資料として))

険しい峰が三つに分かれ、雲が木々の緑を取り巻いている。七百余丈と高く、夏さえ雪霜が残っている。奇怪な形の樹木が茂り、竹葦が鬱蒼としている。空海が登ったときに、金剛蔵王権現が現れ、神託を告げた。この山は仏教道場としての要件を備えている。空海は偉大な宗教者である。ここに伽藍を建立すれば、自分が守護する。空海は思いを凝らして七日間、虚空蔵聞持法を修した。明星が出現した。二十一日目に五柄の剣が天から降った。この剣を岩の頭に埋めたことから、五剣山と呼ぶようになった。空海は千手観音像を彫刻して、建てた堂に安置した。千手院と号した。
この山に登れば、八国を一望に見渡せるため、「八国寺」とも呼ぶ。空海が塔への留学で成果を挙げられるか試してみようと、栗八枝を焼いて、この地に植えた。忽ちのうちに、生長した。八栗寺と名を改めた。
三十余丈も峙つ中央の峰に蔵王権現を祀っている。北には弁財天、南に天照太神を配置している。麗気記に、天照太神はここにいますと記す箇所がある。恐らく、この記述に基づいて祀ったものであろう。また、ここに七つの仙窟がある。窟の中には仙人の木像を納めている。また五智如来を五カ所に分けて置いている。中央には、空海が岩面に彫り込んだ高さ一丈六尺の大日如来像、阿シク・宝生・阿弥陀・釈迦の四仏は、四方に配置されている。中央の地区には、空海が求聞持法を修した岩屋がある。ここを奥の院としている。寺から四町ばかり登った場所だ。また、この窟中に空海の御影を安置している。前の大岩に穴が開いており、明星影向の場所だと言い伝えられている。本堂傍らの岩洞に、空海が作った不動明王の石像がある。ここで空海が護摩を修したともいう。岩窟の中は一丈四方に切り抜き、三方に九重の五輪塔などが数多く彫り込まれている。寺の後には阿伽井があり、独鈷水と呼ばれている。空海が、独鈷杵で加持すると、岩が開き水が迸ったのだと伝えられている。また、寺の後には、蓬莱岩と呼ばれるものがある。宝珠のような形をしている。そのまた後の峰には、明星穴と称する岩穴が二つある。円周三尺ほどだ。
昔の堂は、戦争のため焼失した。現在の堂は、松平頼章公が建立したものだ。かなり立派なものだ。一月・五月・九月の十七日から七日間、開帳する。堂の脇には鐘楼がある。
門には高さ五尺の多聞天・持国天像を安置している。
宝物は戦争で失われてしまった。ただ、空海が岩窟を掘ったときに使った鑿が二枚残っている。
山の東と北は海が豊かに広がり、波が荒立っている。西と北には平野が開け、民家や林や泉が並んでいる。寺の勢いが盛んな頃は、牟礼大町に末院四十八カ寺を従えていたという。今では衰え、ただ一二の寺を残すのみだという。
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