ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:香川編 87番霊場
第八十七番札所 長尾寺 に向かう 大凡 7,3km。

第八十七番札所 補陀落山 長尾寺 観音院

山 門 (仁王門・鐘楼門)
三大名門の1つと言われている。寛文10年1670年)建立とされ、三つ棟木という珍しい工法で知られる。

奉 納 さ れ た 大 草 鞋

山門に吊るされた 鐘 楼
扁額には補陀落山(ふだらくさん、ほだらくさん)と書かれてある。補陀落とは観音菩薩が住んでいる、または降り立つ山のこと。


「阿・吽」 仁 王 像
山門を潜ると右側に大楠木・手水場、左側にお休み処「静」一郭に納経所があり正面に本堂・太子堂・護摩堂がな並び建つ・・・

樹齢800年とも言われる大楠木の巨木と手水場・山門がならぶ・・・

手 水 場
手水場で身を清め本堂へ向かう・・・

本堂を中心に左・護摩堂右・太子堂


本 堂

本 堂 向 拝

本 堂 内 陣

太 子 堂

太 子 堂 内 陣

護 摩 堂

静 御 前 剃 髪 塚
護摩堂の前にあり静御前が母の磯禅尼とともに得度した後、髪を埋めたと言われる塚。静御前が源義経と別れた後、母の磯禅尼と共に当寺を訪れ、得度したとの言い伝えもあり、静御前の位牌が本堂の左脇陣にある。

薬 師 堂

長 尾 寺 東 門
「この門は、高松市栗林公園の北側にあった正門として、廷享年間に建築され、かいノ口御門と名付けられた。
かいノロとは、中国語で幽谷への入口を意味する。
大正2年この門が改築されることになった時、当時の長尾寺村岡俊嶽僧正が門の原型をそこなわないという約束で払下げをうけ、忠実に再現したもので昔は長尾寺の正門であった。」(さぬき市教育委員会・さぬき市文化財保護協会)
本堂・太子堂の参詣を終え境内の大方の散策も終わり納経所で御朱印を戴く・・・

納 経 所

御 朱 印
無事参詣を終えて第88番札所 大窪寺に向かう・・・・・・・合掌 10月10日午後2時50分
『略縁起』
★聖徳太子の開創と伝えられ、後の天平10年(738年)、行基菩薩が巡錫の折に道端にある楊柳をもって聖観世音菩薩を刻み、小堂を建てて尊像を安置したといわれる。弘法大師は入唐するにあたり、ご本尊に祈願して護摩秘法を修法し、国家安泰・五穀豊穣を祈願した。このとき人々に護摩符を授け、それ以来「大会陽福奪い」の行事が今日まで続いている。大師は唐より帰朝し、大日経を一字一石に書写して入唐の大願を成就したことを謝し、万霊の供養塔を建てて修法した。この供養塔は現在護摩堂の前にある。後に天長2年(825年)には伽藍が整備され、永仁6年(1298年)には★伏見天皇の勅により開扉法要が営まれた。その後、戦乱のため焼失するも、天和元年(1681年)に高松藩主松平頼重塔堂を建立、田畑を寄進し★讃岐七観音の一つに定めると共に再建され、真言宗から天台宗に改宗させている。
★聖徳太子:聖徳太子(57年~622年))飛鳥時代の皇族。政治家。用明天皇の第二皇子。母は欽明天皇の皇女。
推古天皇のもと、摂政として蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで★遣隋使(小野妹子)を派遣するなど大陸の進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った。また、仏教を厚く信仰し興隆につとめた。
日本書紀等の聖徳太子像の伝説や逸話は多数あり、虚構とする説もあるが一般論としては受け入れられていない。
★遣隋使(小野妹子):遣隋使(けんずいし)とは、推古朝の倭国(俀國)が隋に派遣した朝貢使のことをいう。600年(推古8年)~618年(推古26年)の18年間に5回以上派遣されている。
2回目(607年)小野妹子が派遣され、託された倭王から隋皇帝煬帝に宛てた国書『隋書』の書き出しが「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)と書き出されていた。煬帝は大激怒した話は有名である。
★伏見天皇:第92代天皇(在位:弘安10(1287年~永仁6年1298年))。書道の伏見院流の祖、京極派の有力歌人としても知られる。
★讃岐七観音:(80番)国分寺・(81番)白峰寺・(82番)根香寺・(84番)屋島寺・(85番)八栗寺・ (86番)志度寺・(87番)長尾寺
★ 本尊:聖観世音菩薩 (伝 行基菩薩作) ★ 開基:行菩薩
★ 本尊の真言:おん、あろりきゃ、そわか
◎ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護) (参考資料として))

聖徳太子が開いた寺を、空海が再興したという。本尊は、高さ三尺二寸の観音立像で、空海作。また同じく自作の阿弥陀像を傍らに安置した。鎮守は天照太神。仁王門がある。寺の前には、遍路の宿がある。昔の堂宇は壮麗であったが、遠く時は移り、寂寥として香や蝋燭にさえ事欠くようになった。慶長の初め頃、名刹が廃れていることを惜しんだ国持ち大名・生駒氏が、再興した。
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