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ひげ爺の独り言 放談 小噺   『山陰海岸国立公園』のご近所便り

 『諸寄の庚申堂』
 
 左の山は芦屋城址公園の知り山、手前が庚申山右側に178号線が走る。
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国道178号線が海沿いから山間の峠にかかる手前から左側に入りと50m程の絶壁の下に塩谷海水浴場に通ずる道路がある。その絶壁の頂上に庚申堂はある。

 どの様な経緯でそう為ったか定かでないがヒゲ爺の実家が代々「庚申堂の守り役」をしていた。
ヒゲ爺の記憶にあるのは子供時代から「おふじばあちゃん」と二人でお籠もりしたこと。終戦までは戦勝祈願と家族の無事を祈ってお籠もりする人も多かったそうだが大抵二人きりが殆んどで有ったように記憶している。
当時は20人はお籠もり出来そうな真ん中に囲炉裏のある「お籠もり部屋」もあり冬の暖と明かりは囲炉裏とご神体のろうそくだけの静寂の夜である。
庚申さんの日は60日毎にありお籠もりでは翌朝まで絶対眠っては駄目の決りがあり、語り明かすのが慣例に為っている。
 その折、先祖のこと、諸寄のこと、先人達の話等々お伽噺の様に語って呉れた事を覚えている。
先人達の話を綴る所存です。

 四天王寺(大阪)の『庚申縁起』には、以下のように説かれている。
「庚申日」の夜、人々が眠っている間に体を抜け出た三匹の虫が天に昇り、その人の善悪を天帝に告げる。そして、報告を聞いた天帝は、罪の軽重に応じて寿命を縮め、時には命をも奪うとされる。その災いから逃れるためには、「善をなし悪をやめ、庚申の夜には、香華や百味の飲食を供え、真言を唱えて仏を念じて眠らない。さらに、六度の庚申の夜を無事に勤めれば、願いが成就する。」と。 庚申(かのえさる)の夜、無病息災を願いながら眠らないで過ごすという平安時代の貴族社会の風習が鎌倉時代の武家社会をて、少しずつ民衆の間に浸透し始めた。
 さらに江戸時代には、その風習は全国規模で広まり各地に庚申を祀る集団「庚申講」が結成され、やがて民間信仰の中心的な存在のひとつとなった。とある。

 「おふじばあちゃん」から親父→兄と継続したが諸事情により継続不能となり一時期衰退し「籠もり堂」など台風で壊れ、村中で再建に努めたそうである。
 「2010/5月9日諸寄の八山庚申堂の本尊「青面金剛尊」像の修復が終わり、庚申まつりで開眼法要が営まれる。」
 この記事が新聞に載ったのは2年半前。今後は村全体で管理し、61年に一度しかしなかったご開帳を毎年5月の第二日曜日に行いお祝いすることにしたそうである。修復はご神体の祠のみ。
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           再建なった祠と修復されたご神体(2011/5/8撮影)
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仏師が修復の為解体したご本尊を撮影した写真;制作年や作は不明であるが色彩は可也鮮やかに残っていたそうだ。
 ご開帳は61年目と定まっており「おふじばあちゃん」はご神体を見たのは子供の頃と話していたが次のご開帳が何時あったか記憶に無いが初めて見るご神体である。

 去年の5月の初め実家の跡取りの甥から庚申さんのご開帳は5月の8日との知らせを受け当日200ンkmを直走りに帰郷した。庚申山に隣接する村の集合墓苑に立ち寄りお参りをし供養の経を納めて後庚申山に向かった。230ン段の石段をを登り頂上の平地に到着し周囲の景色を眺めると防砂堤や防波堤が増えてはいるものの諸寄湾の景色は55年前の儘であった。然し子供の頃は一息に登れた石段で何度か休みながら登ったにも関わらず息を切らしている自分に気付き55年の歳月を感じざるを得なかった次第である。
 こじんまりとした祠の前でお経を納め終わると55年の時空を越えて「おふじばあちゃん」とお籠もりをしながら眠気覚ましに聞かされた「ばあちゃん話」が鮮明に思い起こされた。
★曰く;落城の話、当時は城山の外れに一本松の巨木が有ったが、其処で姫君と若侍が自刃したと伝えられているが、敵を欺く為の嘘で実は落ち延びた話等々。
★曰く;「うらげはなあ いまは貧乏しとるけど 先祖は 富士山のある辺の 殿さんのけりゃあで あったが さるのとのさんとの たたきゃあに負けておち なんきゃあも さるといくさするとのさんに味方したがたんびに負けて もろえそまでながれ、えんや(塩冶)のとのさんにつきゃあて、またさると戦しとる、因幡に落ちてもまたさるにまかされ、ころあいをみて、もれえそに帰り住み着いたげな、よう負けるがしぶとういきとる しんだあなあ~んも ならん 生きとってなぼじゃ」こんな話を思い出した。
 
 現代の言葉に要約すると「私の家は、今は貧乏しているが先祖は富士山のある辺りの殿様(今川家と推側)の家来であった 猿(秀吉のことであろう)の殿さま(信長)との戦い(桶狭間の戦いと推測)に負けて逃走し、信長と敵対する側に見方したがその度毎に負け戦で(姉川の戦、小谷城攻め辺りではないかと推測)敗れ諸寄まで流れて来た。塩冶の殿様(芦屋城主)に仕えたがまた秀吉と戦いをし敗北、落ちた先の鳥取城でも秀吉に敗れ、時期を見計らい諸寄に帰り住み着いたそうだ。良く負けるがしぶとくいきている死んだら何にも為らん、生き延びてなんぼだ!」この様な話であろう。
 因みに実家の紋所は丸に二の字の引両紋で今川家の紋所と類似している。今後物語り風に書く予定に就きこの話はこの辺で終わる。

『諸寄に纏わる先人達』 『Ⅰ』
★「うらげの前の寺(龍満寺)にゃあ、牛、狼、蛸ちゅう三人のえりゃあぼんさんがいたげな」
 「うちの家の前の寺には牛問厚、狼玄楼、蛸風外と云う偉い三人の和尚がいたそうだ」
 龍満寺とはこんな寺;
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            龍満寺山門(玄楼の設計と伝えられている)
 「おふじばあちゃん」の話では、此処に寺が出来るまでに諸寄の奥の山間に奥諸寄→京屋と云う全戸が百姓の村落があり、その京屋に出来た小さな庵が発祥で後奥諸寄に移り後に現在の山門のある寺が完成したそうだが今のところでは、開基の何某も年代も定かではない(後日調査予定)。
推測の域を脱しないが子供の頃「開基400年記念の祭事」があった記憶があるので450年以上経っているであろう。戦国時代華やかな時代室町時代の中~末期時代では無いかと推測される。
 山陰線諸寄駅を出てトロトロ50m程降ると短いガード(鉄橋)があり山門の前に出る、山門の前には三角形の広場があり子供の頃は其処でガード下をホームベースにした三角ベース野球モドキをした記憶は懐かしい思い出の一つである。ライト方向は広い空き地だったのでライト方向狙いで打った所為か中学の部活の野球部では「ライト打ちの良兵衛」と云われたのはその所為では無かろうか・・ナ。 
 ホームベースのガードは村の門であり入り口でもある、海に続く道の右側一軒目がヒゲ爺の産まれ育った実家がある。
目と鼻の先にある所為もあり姉の同級生の息子が居た為か、遊びにも行き、年中行事の盆暮れの本堂大掃除、除夜の鐘撞きなど良く手伝わされたものである。思い出深い寺である。

『諸寄の先人達』
 「おふじばあちゃん」の云う「えりゃあ 三人のぼんさん(偉い三人の和尚)」とは;
十一代住職 象山門厚和尚、十二代 玄楼奥龍和尚 その弟子 風外本高和尚の事である。

『象山問厚和尚』
 江戸時代後期に「馬北(但馬の北)の龍満寺に優れた禅道場あり」と世間に知らしめた和尚である。
「おふじばあちゃんの逸話話」では;問厚さんがある時こぼんさん(小坊主)を因幡(鳥取)の天徳寺の和尚宛ての手紙を託し使いに出した。翌日夕方帰った小坊主に「ご苦労じゃったな!疲れたろう早くお休み!ところでお前帰り道岩井(温泉)の茶店で串団子3本食べたじゃろ、良しよし!」「はい、岩井の茶店で串団子3本食べました、和尚さん!如何して解ったんですか?」「よい良い、はようお休み」翌日この話が小坊主仲間に広がり「和尚さんには神通力がある、悪いことをしたら全部お見通しだ、善行を積まにゃあいけんなぁ」この話は檀家にも伝わり「神通力の問厚和尚」が出来上がってしまった。
 当時の寺の役割は葬儀を司るに留まらず、宗門改め帳(現行の戸籍謄本のような物)の作成、通行手形の発行、結婚時の身分証明の発行等を司り現在の役場の役割も果していた。
檀家の老若男女を問わず教えを諭す説法会から寺子屋を起こし檀家の団結の拠り所でなければ為らなかったのである。その為住職である僧侶はその地方の最も優れた人格者で無ければ檀家の信頼を得られず、荒行をを積み自分を磨いたそうである。
「和尚の神通力」が余り有名に為り過ぎたので案じた檀家の一人が「和尚!神通力の話は本当か?」と尋ねたら「本当も嘘の無い!ただ否定しなかっただけ。小坊主が天徳寺に着いたのは子供の脚では夕方になろう、寺では一晩泊まっていけと云うに違いない、一晩泊まり朝発ちすると岩井辺りで腹が減る、天徳寺の方丈は小坊主に途中腹が減ったら串団子でもお食べとお駄賃を持たせたに違いなしと思い、あのように云ったまでよ!内緒にナ」と云ったそうだ。その檀家がばあちゃんの話では先祖の8代目藤助だそうだが真偽の程は定かでない。
禅道場では弟子や雲水には厳しい修行をしたがこの様な人間味のある和尚であったため檀家には尊敬され人望も厚く多くの修行僧が集まり名僧を多く輩出したそうである。
「おふじばあちゃん」の話では、和尚は大酒呑み藤助も大酒呑み同士、和尚と檀家の垣根を越えて呑み仲間で有ったそうだ。8代藤助の当時には山や田んぼ持ちの小さな庄屋であったそうだ。
問厚和尚は普段は温厚で物静かな人柄であったがイザ禅道場に立つと火の出る様に容赦なく弟子や高名を慕って集まった雲水達を鍛えた和尚であると伝えられている。
然し精錬潔白な僧侶の顔と人間的な要素を併せ持つ「今東光」風の和尚の様に想像される。
大酒を飲みで一度暴れ出したら猛牛の如くで手が付けられなくなり、恐れと尊敬を込めて「牛門厚」と読んだそうだ。
大酒と檀家や弟子雲水えの大判振る舞いで寺の金を使い果たし大庄屋の土蔵に閉じ込められる事件が起こった。
事件の発端に責任を感じた藤助は金作りに奔走し親戚縁者に持ち山田畑を担保に金策し和尚を解放させた。
藤助は借金を返済することが出来ず一小作農となり落ちぶれてしまった。「おふじばあちゃん」の代まで貧乏が続いたそうだ。
 和尚が入寂したのは宝暦13年(1763年)で十二代住職に玄楼奥龍和尚がなり二十六年弟子の指導に当たった。
 
 余談ではあるが;山、田畑を失った藤助の代から「おふじばあちゃん」の代まで貧乏が続いたそうだ。
屋号が「とうふや」であったから「豆腐屋」を遣っていた時代もあったのかも知れないが「おふじばあちゃん」の時代は魚の行商を遣っていた。
代々の語り告がれた先祖語りであると思われるが、あの山もあそこの田畑もうちの持ちものだった、うらの代で買い戻したいものだと口癖のように云っていた事を書きながら思い出している。
山の一部で梨山に開墾された山と畑を「おふじばあちゃん」の生存中に買戻し、親父が梨作りに励んでいたがお婆の死去と長男が教員の世界を選んだのを皮切りに跡継ぎ無しと判断した親父は300本近くあった梨の木伐採し檜を植林してしてしまった。山より長男を選んだ親父の目は狂い無かった様である。
長男の息子は2人小学校の校長と教員をしており孫2人も教育畑の大学に行っているそうだ。山では充分根を張ることは出来なかった様だが、教育の畑で充分根付き値を広げているので泉下の「おふじばあちゃん」は満足しているに違いあるまい。

 『玄楼奥龍和尚』

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             玄楼奥龍和尚肖像画
 1720-1813 江戸時代中期-後期の僧。享保5年生まれ。曹洞宗。但馬(兵庫県)諸寄の龍満寺の象山問厚の禅の法を継承した。問厚和尚の次代を継ぎ12世住職となり26年間在籍し檀家に尊敬され、「龍満寺禅道場」は諸国に有名となり多くの雲水も集い多くの名僧を送り出した。禅風がきびしく狼玄楼と呼ばれるが尊敬されると同時に恐れられたとも伝えられている。
 「おふじばあちゃん昔語り」に因る門厚和尚と玄楼の出会いは;
 玄楼さんがわきゃあて雲水しとんなった頃、門厚おっさんの噂あ聞いて龍満寺に来なったげな、「おっさん、ここん来る途中の春木峠で死んだ蛇におうたんで底のにゃあ籠に入れて持ってきやんした。活ききゃあらしてくんなれ・・・」。
現代語風に要約すると;玄奥さんが若く雲水をしておられた頃、門厚和尚の噂を聞いて龍満寺に来られたそうだ、「和尚さん、ここに来る途中の春木峠で死んだ蛇に会いましたので、底の無い籠に入れて持ってきました。活き返らせて下さい・・・」。禅問答の「作麼生(そもさん)」であろうか?すると和尚は、其処に活きた蛇が居る様に怖がった様子で後すざりしたそうだ、玄楼もまたその所作を真似怖がって恐れる様子をし二人して大笑いしたとの話が伝えられている。二人の呼吸がピッタリと合い師弟の関係がこの時結ばれたそうだ。
 玄楼と風外の間でもこの話と同じ説話が残っている。
 風外が庭に死んでいた蝶を拾い玄楼和尚に差し出し「和尚様この死んだ蝶を活き返らせて下さい」と申し出ると「活き返らせるのは簡単な事だ!」と玄楼和尚は法衣の袖を広げ蝶が飛んでいる様な所作をした、それを見た風外はハッと気付き蝶を庭に置いた、玄楼はそれを見て「それで良い」と云って風外を弟子として認めたと伝えられている。
 難解な問答ではあるが、「生と死は二つに分けるものではなく、生命は自然界そのものであり、たまたま
蛇や蝶や人間であったりするに過ぎない、宇宙に同化すれば生命は不滅、形あるものは抜け殻に過ぎないと云った意味であろう(玄楼伝より)」。
 この二つの説話は後年檀家の老若男女に説く説話に取り入れられ語り告がれて「おふじばあちゃん」も何度も聞き覚えたものに相違あるまい。
 ヒゲ爺は仏壇に曹洞宗の朝の勤行をしたり、座禅を組んだり四国巡礼、小豆島巡礼、寺院詣でをしているが先述二話からずーと離れた世界に住んでいる、修業が必要な様だ。
 玄楼と風外の間でもこの話と同じ説話が残っている。
 風外が庭に死んでいた蝶を拾い玄楼和尚に差し出し「和尚様この死んだ蝶を活き返らせて下さい」と申し出ると「活き返らせるのは簡単な事だ!」と玄楼和尚は法衣の袖を広げ蝶が飛んでいる様な所作をした、それを見た風外はハッと気付き蝶を庭に置いた、玄楼はそれを見て「それで良い」と云って風外を弟子として認めたと伝えられている。
 難解な問答ではあるが、「生と死は二つに分けるものではなく、生命は自然界そのものであり、たまたま
蛇や蝶や人間であったりするに過ぎない、宇宙に同化すれば生命は不滅、形あるものは抜け殻に過ぎないと云った意味であろう(玄楼伝より)」。
 この二つの説話は後年檀家の老若男女に説く説話に取り入れられ語り告がれて「おふじばあちゃん」も何度も聞き覚えたものに相違あるまい。
 ヒゲ爺は仏壇に曹洞宗の朝の勤行をしたり、座禅を組んだり四国巡礼、小豆島巡礼、寺院詣でをしているが先述二話からずーと離れた世界に住んでいる、修業が必要な様だ。 
 ★ 「作麼生(そもさん)、「説破(せっぱ)」とは禅問答の諸方で、「作麼生(そもさん)は「さあ、どうじゃ?」「どうしてじゃ?」「答えてみよ」といった問いかけであり「説破(せっぱ)」は「その謎、解けたぞ」「論破したぞ」という応答である。
「閑話休題」
 玄楼は後世に名を残した高僧であるが墨書の世界でも名を為し多くの名書を残している。以下に検索した結果の玄楼書を挙げた。「おふじばあちゃん」の話では玄楼の書や風外の絵画が数点在ったそうだが火事で全部消失したそうである。
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          ヤフーオークションで偶然見付けた玄楼和尚の書 
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             一口に吸尽す西江の水 九十一翁玄楼書
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     無事是貴人 九十老衲前興聖寺龍玄楼書(気品堂 販売価格 ¥500,000)
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       鳥置字 啼山更幽(気品堂 販売価格 ¥500,000)
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        子々孫々代々昌(気品堂 販売価格 ¥700,000)

 玄楼和尚は墨書に留まらず「禅」に関する著書も数多く残している、中でも「鉄笛倒吹(てつてきとうすい)」は禅の解説書として英訳され多くの外国人に読まれているそうだ。
 パーソナルコンピュータのアップル社設立者のスティーブ・ジョブズ氏が「曹洞宗の禅の信奉者」で在った事は余り知られていないが玄楼和尚の「鉄笛倒吹(てつてきとうすい)」を読んだに違いないと思っている。
 彼はこんな言葉を残している;
ブッダは「独立自由の教え」を説きました。それは、現状の世界の捉え方、価値観、会社の仕組み、社会の諸制度など(これらを総称して仏教では「色(しき)」といいます)に決して執着してはならない。自ら感じ、考え、行動することで、新しい「色(しき)」を作り続けていこうとする教えです。
 またこんな言葉も;
インドの田舎で7ヶ月間を過ごしたおかげで、僕は、西洋世界と合理的思考の親和性も、そして西洋世界のおかしなところも見えるようになった。じっと座って観察すると、自分の心に落ち着きがないことがよくわかる。静めようとするともっと落ちつかなくなるんだけど、じっくりと時間をかければ落ちつかせ、とらえにくいものの声が聞けるようになる。このとき直感が花ひらく。物事がクリアに見え、現状が把握できるんだ。ゆったりした心で、いまこの瞬間が隅々まで知覚できるようになる。いままで見えなかったものがたくさん見えるようになる。これが修養であり、そのためには修行が必要だ。と・・・・・。
 是を読み氏の禅に対する理解度の深さに頭の下がる思いがしたものである。
あっ!今朝は書くことに感けて勤行を忘れている。経を納めに行こうっと!(勤行の為中断)

「北但の禅道場」として龍満寺が栄えたのは勿論、問厚和尚、玄楼和尚の禅指導に因るところ大である事は云うべくも無いが、時代背景も良い時期で、江戸の中期から盛んになった北前船廻船の但馬の寄港地になり諸寄村は是を支える経済力も充分あったと考えられる。玄楼和尚の次代に山門も造られている。
寛政十二年(1800年)の宗門改め帳に記載されている諸寄村の戸数は約400戸人口約2,000人、廻船業、漁業、農業、酒造業等が盛んで村の檀家の経済力が寺を支えていたのであろう事が伺える。
因みに2005年の調査では戸数400戸人口1300人足らずとの事、日本の人口が減るのは止む無しだ。
 小規模の村ながら可也裕福であったが天保時代になって様変わりする。
天保元年(1830年)から全国的に飢饉が続き、天保7年頃(1836年)には、この地方は殆ど食べるものがなく、木の皮や藁、草の茎や根など、口に入るものは何でも食べ無ければ生きられぬ程の大飢饉で在ったと伝えられている、海があり、山があり田畑のある村にしてその様な悲惨な状況なのだからそれらの無い街衆はどの様に生き抜いたのか想像の他である。
 村の墓苑の入り口に飢饉に因る死者を弔った萬霊塔がある。
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 2m近い大石に「萬霊塔」と刻まれ左脇に「天保飢饉死者六百有余名」とある。(盆の墓参りで)
六百有余と云えば村人口の3割、大変な数字である、其処を生き抜いた藤助が生き「おふじばあちゃん」に繫がり親父お袋を受け継いだヒゲ爺、ばあちゃんの口癖「にゃあても一生わらあても一生 生きてなんぼじゃ」(泣いて生きても一生 笑って生きても一生 生きることに価値がある・・とでも訳しますか)の気持ちで飄々と是からは過そうと思いおる次第である。
 
  『風外本高和尚』

 風外和尚は玄楼の下で修行を重ね大悟(悟りの境地に至ること)の後も龍満寺の住職はしていない。 
 玄楼和尚が寛政5年(1793年)駿河の静居寺(じょうこじ)の座首として迎えられ、龍満寺を離れた時心酔していた風外は同行している。後に京都府宇治市の興聖寺の22世住職となり隠居後は大阪北野の当陽軒で入寂(にゅうじゃく僧が死ぬこと)されたのが94歳、風外和尚35歳であるからそれまで師弟関係は続いていたと想像される。
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 静居寺(じょうこじ)とはこの様な寺;16世紀に建てられた曹洞宗の古名刹である

 風外和尚は禅僧として高名であるのみ為らず「山水画」の大家としても有名である。虎を描かせば右に出る者無しのの評価であるらしい。
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                      暴 風 猛 虎 図
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                      達 磨 大 師
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                      高士観月之図
 玄楼和尚の死後雲州(松江地方)に旅し禅修行と画技を磨きかの地に疎密山水花鳥等佳作を多く残している。40歳の頃大阪天満の円通院住持に為った。

 「おふじばあちゃん」が説法で聞き覚えた風外和尚の逸話を話してくれたことを思い出しながら書いている。
 「おふじばあちゃん」の話;「ふうぎゃあさんが 龍満寺から帰んなって 大阪の円通寺ちゅう寺のおっさんになってからの話だげな」「この寺は ごっついあれほうだぁの寺だったげな、風外さんはひとっつも
とんじゃくせんと 座禅と習字やえぇきゃあたり しとんなったげな」
 読むに苦労されると思われるので要約すると;風外和尚が、龍満寺から去られ大阪の円通院と言う和尚に為ってからの話であるが、この寺はすごい荒れ放題の寺であったそうだが風外和尚は全く無頓着で座禅と墨書、絵画に余念が無かったそうだ。
ある時、川勝太兵衛と言う大阪でも屈指の豪商が大きな悩みを抱えて、和尚に教えを請いに遣って来た。
太兵衛が悩みを縷々説明するが和尚は一向に真面目に聞いてくれずあらぬ方をぼんやりと見つめている。
 其処には一匹の「虻アブ」が障子に当たっては落ちまた飛び立ち桟に当たってまた落ちを繰り返してい居た。
たまりかねた太兵衛が「和尚さんは虻がすきですか?」と尋ねると「おお是は失礼」と言いつつ「太兵衛さんよく御覧なさい、このあれ寺は何処にでも逃げる処は有るのに、あの虻は自分の逃げ道は此処にしか無いとと思い込み、障子にぶつかっては落ちまた飛んではブツカッテイル。此の儘ではこの虻はしんでしいます。これと同じ事をやる人間も多いのでのう・・・」和尚の話を聞いて太兵衛は「私はこの虻と同じだったんだ!」と気付き愕然としたそうだ。和尚の教えを身にしみて感じとりお礼を述べると「お礼はあの虻に言いなさい、これが本当の南無アブ陀佛だよ!」・・・・。
 問厚和尚と玄楼和尚の蛇の話、風外和尚との蝶の話に相通ずる内容が有る様に思えるが是が禅道の入り口なのかも知れない!

                    
                        「完」

 次編は;前田純孝、篠原無然、山田風太郎他を予定しています。
 

 



 
 



                  



 





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ひげ爺の独り言 放談 小噺  『山陰海岸国立公園』の ご近所便り

 『山陰海岸国立公園』は但馬地方(兵庫県)を中心に西は鳥取砂丘(鳥取県)東は丹後半島の首元の網野(京都府)に至る日本海に面する海岸線を中心とする75kmの国立公園である。
海岸線は京都府;海岸線約12km、兵庫県;海岸線約50km、鳥取県 ;海岸線約13kmであり、
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 関係市町村は;京都府 - 京丹後市
          ;兵庫県 - 豊岡市、香美町、新温泉町
          ;鳥取県 - 鳥取市、岩美町
 見所、名所旧跡等々は町の紹介毎に書いていきます。先ずはヒゲ爺の故郷から始める所存です。

『ヒゲ爺の故郷諸寄(もろよせ)』 (新温泉町)
 ヒゲ爺は山陰の海っ子生まれで海育ち、image[2]
ホタテ貝を伏せたような入り口が狭く海岸線は円く真っ白い砂浜が広がり波の打ち寄せる砂浜は「雪の白浜」と称され自然の良港と言われた小さな漁村である。
村の港を望む崖の上にある為世永神社(いよながじんじゃ)境内には
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「見渡せば 沖に絹巻 千歳松 波諸寄の 雪の白浜」  伝西行法師歌碑がある。寄進者は「馬関吉津新兵衛」明治十八年建立と刻まれている、馬関は今の下関のこと、如何なる人物か調べてみたが定かでない。この地が近世から近代初頭まで北前船寄港地であった事実からして恐らく下関の北前船の船持ちではなかろうか?
村にある他の「春日神社」にも多くの絵馬が奉納されている。
 西行歌碑については、子供の頃から「新古今集」に掲載と聞いていたので調べてみた、西行歌は95首あるがこの歌は無い。
そこで、YAHOOの「知恵袋」に「『見渡せば 沖に絹巻き 千歳松 波諸寄の 雪の白浜』の歌碑が兵庫県温泉町諸寄の為世永神社にあります。西行法師の和歌と言われているが、新古今集95首にも有りません。
何歌集に掲載されているか教えて下さい。」と投稿した結果西行の研究者であろう方から以下の回答があった。「残念ながら、西行の歌と確認できませんでした。
また、山家集、西行法師歌集、聞書集、残集にもこの歌はありませんでした。
degital西行庵 樣
http://www.saigyo.org/saigyo/html/index.html
以上の点から、伝西行歌のものかと存じます。」
 残念ながら今だ真偽の程は分かっていない。伝西行歌としてそっとして置いた方が良いかも知れんとの思いもある。(『子供時代の泳ぎの訓練法』の一部を原文のまま掲載)
 
 
  「見渡せば 沖に絹巻 千歳松 波諸寄に雪の白浜」の歌碑の件:作者が解りました。・・・豊岡藩 第二代藩主京極高住の作と解りました。新温泉町浜坂在住で「以命亭」にお勤めの岡部良一さんに教えて戴きました。
 長年に亘り、喉に刺さった小骨が取れたの感があります。有難う御座いました!
 
 

 
 古い記述としては、清少納言枕草子に; 

百八十九 清げなすがた; 浜は、そとの浜。吹上(ふきあげ)の浜。長浜(ながはま)。打出(うちで)の浜。諸寄(もろよせ)の浜。千里(ちさと)の浜こそ広う思ひやらるれ。 と紹介されている。
何時の頃から村として成立したのか定かでは無いが可也古くから諸寄村が存在していたのは確かなようだ。
 諸寄湾の東側に芦屋城があり西側に為世永神社(いよながじんじゃ)がある。
芦屋城は北は日本海、東に浜坂の平野、西は諸寄(もろよせ)の港、南から幾重にも重なって迫る山脈の端、海抜200mのこんもりとした山の頂に築かれたのが芦屋城である。
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                諸寄湾の朝焼け風景 
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                 湾内と沖合い風景
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                 夕日が沈む沖合い
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 芦屋城のあった山;山頂に天守閣があり井戸の跡も残っている。芦屋城は標高200mメートルの山城で、日本海を眼前に断崖絶壁に囲まれた天然の要害堅固な城であったそうだ。
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               町史跡表示と略史の看板ひょうじ内容
 築城年代は不明であるが、南北朝のころ、因幡(鳥取県)の守護職として布施城にいた山名勝豊(宗全の第三子)から、塩冶周防守が二方郡をもらい受けたと伝えられており城は、本丸と二の丸からなり、典型的な山城である。
天正八年(1580)、羽柴秀吉(実働隊は秀長)が但馬平定したととき、宮部善祥房を大将として芦屋城攻めがあり、大軍を持って押し寄せたが、塩冶周防守は山の急斜面を利用し投石、糞尿攻撃等で反撃し守りはかたく城はなかなか落城しなかった。正に楠正成流戦法で防戦したそうだ、痛快な話であるまあいか。
 寄せ手の大将宮部善祥房は正面突破を諦め長期戦の水、兵糧攻めの策を採るが忍びの報告でも一向に気勢の衰える気配も無い。
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 城山公園地案内図;芦屋城は三方は断崖絶壁に囲まれ一方は北に向かった半島で日本海に突き出ている、現在は先端まで歩くことが出来る。

 塩冶周防守はこの要害堅固な自然を巧みに利用し城山から先端近い矢城ヶ鼻まで間道を造り途中の萌の浜には岩盤を刳り貫いた食料倉庫も造られ、水汲み場も造られていたそうである。
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朋の浜の洞窟;芦屋城の抜け穴、兵糧倉庫とも伝えられているが子供時代に探検した事があるが奥は可也広くなっているものの砂に埋もれ抜け穴、兵糧倉庫説の確認出来なかった記憶がある。以外にも何ヶ所か洞窟がある。

 塩冶周防守は良政を敷き領民に親しまれてていたので、村人は「殿の一大事」と競って夜陰に混じり沖まで水食料を運こび城主を助けたと伝えられている。浜坂地方には郷村の幹部らからなる六軒衆と呼ばれる組織があり彼らは村の治安、入会地や灌漑用水の確保、領主への牽制などの役割を担っていた。また領主から命令があれば兵士の募集、船の準備、見張り、斥候、運搬等も請け負っていたとも考えられている。
彼らが援助したのであろうが何時までも続くわけも無い、ある時旅人を装った忍びが城山の南側の芦屋村の婆さんから聞いた話「この城は昔亀ヶ城と云って首が延びるんじゃそうな、首を切ったら城も落ちるじゃろう」を聞き込んで大将宮部に報告した。報告を聞いた宮部は「首が延びる」とは城の沖合いで兵糧の受け渡しがあるに違い無しと察し、受け渡し現場を奇襲し「延びた首」断ち切ってしまった。
兵糧を断たれたら小城のこと一溜りも無く落城、城主と数人の武将、志願の兵卒と半島の先端から船で敗走し因幡の鳥取城に逃れた。翌年の豊臣秀吉との鳥取城の戦いに参加、雁金山城を守った。鳥取城落城後に切腹した。
 塩冶周防守は良政を敷き領民に親しまれてていたと前述したが、ヒゲ爺の子供の時代まで「地引網漁」が盛んに行われていた、その引き手の掛け声は「エンヤソウ、エンヤソウ」であり「塩冶周防、塩冶周防」と聞こえるが領民の慕う気持ちがその掛け声を産んだのでは無いだろうかと推測している。
また近郷では有名な塩谷海水浴場があるが塩谷は「エンヤ」と読める、秀吉の但馬因幡平定後諸寄は豊岡藩の領地に組み入れられたが、豊岡藩に遠慮して「塩冶」を「塩谷エンヤ」に改名したのでは無いだろうか?反骨精神の現れ?と思うと歴史を辿るのも中々面白い。

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 港の奥の小山の中腹に為世永神社(いよながじんじゃ)がある

祭神は、★塩土老翁神(シオツチオジノカミ)を祀る。諸寄港を見下ろす高台に鎮座する。諸寄港は、北前船の風待港として栄え、境内には、全国の船主などから寄進された玉垣が残っている。航海の安全・商売の繁盛を祈願して奉納された船絵馬は、現在は同じ諸寄にある八坂神社社務所に保管されている。
★日本神話に出てくる神で別名塩竈明神とも塩筒老翁神とも云う、塩土は海潮の霊のことで海の神であり、別称の塩筒は海路の神を意味している。
 
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 奉納された5枚の船絵馬 (現在は八坂神社の社務所に保存されている)奉納者を調べたが何れも不明であった。
 北前船(きたまえぶね)とは、江戸時代から明治時代にかけて活躍した主に買積み廻船の名称航行する船主自体が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のことである。北陸以北の日本海沿岸諸港から下関を経由して瀬戸内海の大坂に向かう航路を上り廻船と言い逆航路を下り廻船と呼んだ、この航路を行きかう船のことである。西廻り航路の通称でも知られ、航路は後に蝦夷地(北海道・樺太)にまで延長された。
 諸寄では良質の砥石が生産され荷積された。また加賀藩の米奉行所の与力が常駐していたそうである。
廻船には、上方灘の酒を江戸に運ぶ樽廻船とか菱垣廻船があるが何れも貨物船であり北前船とは区別される。
関東平野の水は硬質で江戸では旨い酒が造れなかったので上方特に灘の酒を江戸に運んだのはご存知の通りである。
北前船、廻船については高田嘉兵衛の生涯を書いた司馬良太郎の「菜の花の沖」に詳しく記されている中々面白い、一読に値する。

 『諸寄で建造された古代船』

 豊岡市出石町の袴狭(はかざ)遺跡遺跡から出土した古墳時代前期(四世紀初頭)の線刻画を基に、復元された古代船「ひぼこ」(長さ十一メートル、幅一・五メートル、重さ約三トン)の進水式が平成19年4月29日に諸寄港で行われた。
古代邪馬台国の頃大陸に行き来していた古代船、全長11Mの立派な手造船で手斧で大木を刳り貫き造ったそうだ。「兵庫県立考古博物館」播磨町)に展示されている。
ヒゲ爺の子供の頃から在った尾崎造船所(尾崎昌道代表)で建造された。近年はグラスファイバーのボートばかりに為ったが近郷の漁港には木造船の造船所在った記憶がある。今でもこれ程の技術が残って居るのは嬉しいことだ。
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 『諸寄の麒麟獅子舞』
 「ひぼこ」の進水式のお祝いに麒麟獅子舞が奉納された。県指定無形民俗文化財
獅子舞は諸寄の夏祭り(7月13~15日)に為世永神社に奉納される、新温泉町にはその他7地区に「麒麟獅子舞」がある。
 新温泉町の麒麟獅子舞;
•浜坂麒麟獅子舞 新温泉町浜坂宇都野神社(7月第三土日)
•諸寄麒麟獅子舞 新温泉町諸寄為世永神社(7月14日、15日)
•居組麒麟獅子舞 新温泉町居組大歳神社 (10月9日)
•三尾麒麟獅子舞 新温泉町三尾八柱神社・三井神社(10月9日)
•栃谷田君麒麟獅子舞 新温泉町栃谷厳島神社.長田神社(10月13日)
•七釜麒麟獅子舞 新温泉町七釜山宮神社(9月29日)
•福富麒麟獅子舞 新温泉町福富三柱神社(9月28日)
•和田麒麟獅子舞 新温泉町和田八柱神社(10月3日)
•千谷麒麟獅子舞 新温泉町千谷秋葉神社(4月17日)、三宝荒神(9月19日)
何れも県指定無形民俗文化財 と為っている。
「起源は?」
 麒麟獅子舞の起源については定かではないが、江戸初期、鳥取県鳥取市の樗谿神社(おうちだにじんじゃ)に日光東照宮を象徴する麒麟を頭にした麒麟獅子舞を、因幡東照宮の奉納芸能として舞ったのが始まりとされている。いつの頃からか、鳥取に広まった麒麟獅子舞が但馬にも伝えられたのではないかといわれているが、それを示す資料は残っていない。現在の保存分布は、鳥取県東部地域から新温泉町、香美町のみで、本州の他の地域では見ることができない。
麒麟獅子舞の麒麟は、空想上の動物で、大きな口と鼻の穴、目の上に太いまゆ、立った耳、そして金色の一本角とユーモラスな表情をしている。背の中央に黒のビロードを縫い合わせた真っ赤な胴幕を着用し、お囃子のリズムに合わせて舞い踊る。それぞれに舞い方、囃子のリズムなどが微妙に異なり、特に二頭舞(雌雄の舞)が行われているのは、但馬では浜坂宇都野神社と諸寄為世永神社の2ヶ所だけである。子どもの頭を獅子頭に噛んでもらうと、健康に育つと言われている。(但馬事典から)
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                麒麟獅子の舞姿と獅子頭

 『諸寄湾沖合い、近隣の風景と奇岩奇石』
 諸寄基点に西側より・・・・・・。
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 国道178号線沿いの穴見海岸;浅場でリュウグウノツカイが撮影された有名な海岸である
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1990/07/26 撮影された。撮影者 梶並政晴氏(津山マリンサービス)、当時釜屋の定置網(大敷き網漁)で計6匹リュウグウノツカイが捕獲された。
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                   千 貫 松 
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                千貫松から釜屋を望む
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          釜屋の港;古くから追う大敷き網漁をしている 
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甌穴(おうけつ)
 釜屋の池ノ島には、ポットホールといわれる円形の甌穴が3カ所できており、最大のものは直径5m、深さ5mもあります。数千年の歳月をかけて、波が岩棚の石を回転させて掘り下げていったものである
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                  西の洞門
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     海金剛;前述写真「湾内と沖合い風景」の一文字波止の前方に見える
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              竹の子様の島の後ろに洞窟がある 
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         芦屋城跡公園の下の塩谷海岸(海水浴場)に奇岩がある
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 諸寄近辺の岩石の殆んどが写真の様に赤黒くブツブツ状の岩である。太古の昔日本列島が大陸の南端の一部であった頃火山活動に因って噴出した安山岩や火砕流が海水で冷却された事を彷彿させるような岩石、島等が至る所ある。兵庫県を境に鳥取側は赤みが強い岩肌の島が多い。
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  萌の浜海水浴場;芦屋城の兵糧蔵とも間道とも伝えられる洞窟のある海岸
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 大振島と東洞門のある断崖;此処までが諸寄湾の内海で北は外洋大振島までの内海がヒゲ爺の少年時代の泳ぎの場(漁場)であった
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                      東 洞 門 
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               千 賊 断 崖;矢城ヶ鼻灯台の下
 灯台の近くに「こうも洞」と言う奥行き80mの洞窟がある。芦屋城の抜け道だと伝えられている。城を放棄して鳥取城に落ちる時この抜け道を通ったに違いない。
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矢城ヶ鼻灯台;此処より東は浜坂町芦屋地区となる

 

『諸寄の庚申堂』 は次編に移動しました。

  

 
                 
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