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ひげ爺の独り言 放談 小噺 『山陰海岸国立公園』のご近所便り

  『諸寄に纏わる先人達』

 『前田純孝じゅんこう、すみたか(翠渓すいけい)』

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                  前 田  純 孝 写真
 おふじばあちゃん」の昔話;「じゅんこうさんはかぇえそうなこじゃったなぁ、うらげとあんねはつながりがあったけえ、ようおぼえとるけぇなぁ」「まえぁだはんちは、さけつくっとんなって、むかしゃぁぶげんしゃだったけんど、てておやがははおやをおいでゃあて、よめをとるまぁのめかけをいえにひきこんでよめにしたんだがや、みっつぐりゃぁのころだったかなぁ、てておやがきゃあしょうがにゃあんでいえはかたむいてくるし、それかりゃぁままははそだちでよう・・ままははとはおりえやぁがわるうてかわいそげだったなぁ」
「じゅんこうさんは小学校をしまうまでまえだはんちにおんなったけんど鳥取のうえの学校に行きなさったんでそん頃のこたあしらんなあ、そんうちにゃあいっちょうもきゃあらんかったなあ」「3~4年あとにかえってこんなって、もれえその小学校の先生を一年ほどしなったかなぁ、龍満寺の庫裏にすんどってこのあゃあだもいっぺんもまえぁだのいえにゃあかえらんだったげな、よっぽどおりえやぁがわるかったんじゃろうて・・またうえの学校に行きなった。それからんこたあ、ようわからん・・・」
「つぎにかえんなったのは10年ぐりゃあたっとったかなあ・・そんときゃあひゃあびょうになっとんなって、まえぁだにもいけりゃあせんし、ひゃあびょうはうつるときらわれて、だあれもよりつかんかったがてらのははれに住まわしてもらった。うらあ、あんまりかわぁそうでチョコチョコ食うもんもっていったげたが、うつるのがすかんけえはやばやけえったがようかきもんしとんなったなあ・・ようようわるうなってから後はうぼのいえにいったがそんとしなくなんなった・・かわぇそうだったなあ」「おみゃあらはぎゃあにしてなぎゃいきせいや、ながいきしてなんぼじゃ!」「おふじばあちゃん」の口癖である。

 前文を要約、補足するとこうなる;「純孝さんは可哀想な子供だったなあ、うちの家とあの家(前田家)は繋がりが有った(姻戚関係なのか定かでない)ので良く覚えている」
「前田家は酒造りをしていて昔は分限者(金持ち)で在ったが、父親が純孝の母親を離婚し、嫁取りする前の妾を家に引き込んで嫁にした三歳位の頃だったろうか、父親が甲斐性無しで家は傾いてくるし其れからは継母育ちでなあ・・継母とは折り合いが悪くて可哀想だった」 
「純孝さんは小学校を卒業するまで前田の家に居たが卒業後は鳥取の上の学校(鳥取師範学校付属小学校高等科)に行ったのでその頃の事は知らん、その間一度も帰らなかった」
「3~4年後帰ってきて諸寄の小学校の先生(準訓導)していたかなあ、龍満寺の庫裏に住んでいてこの間一度も前田の家に帰ら無かったそうだ、余程折り合いが悪かったんであろう・・・また上の学校に行った(兵庫県尋常師範学校)其れからの事は解らない」
「次に帰って来たのは10年後ぐらいだったろうかな、その時は病気(肺結核)に為っていて前田の家にも行けず、肺病はうつると嫌われ誰も寄り付こうとしなかったが寺の離れに住まわして貰った。うらぁ(私)余り可哀想なので度々食べ物を持って行ったが、うつるのを嫌って早々に引き上げたが、良く書き物をしていたなあ、・・よくよく病状が悪く為ってからは昔の乳母の家に引き取られその年に亡くなった・・・可哀想だったなあ」「お前等は元気にして長生きせいよ!長生きしてナンボジャ!」「おふじばあちゃんの口癖であった」
 
 この話は二つ上の姉が中二の頃「おふじばあちゃん」に「純孝さん」について尋ねた時聞きかじった話である。近年になって但馬の彼方此方に「前田純孝歌碑」は建っているが昭和40年頃には見かけなかった(ヒゲ爺が知らなかっただけかも知れ無いが)。
姉が中学二年の頃担任として赴任してきた西村忠義先生が短歌を生徒に教え、「前田純孝の短歌」を教材に取り入れ「諸寄に純孝あり」(東の啄木西の純孝)とこの地方に知らしめた(後に姉の弁)そうだ。
中央歌壇で知られていた程には、以前には地元の一部の人にしか知られて居なかったのは事実であろう。近年の短歌ブームもあり西村氏達の効果もあってか沢山歌碑が立てられたのも事実であろう。
因みに純孝歌碑を数点挙げる。

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                諸寄海岸に建つ歌碑
  いくとせの 前の落ち葉の その上に 落ち葉かさなり 落ち葉かさなる
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               諸寄郵便局のスタンプに
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            諸寄集落センター前の与謝野鉄幹との歌碑

   鶏のこ恵朗に比久春の日に光のとけき桃の一村        翠渓
   まごころの光れる歌をなほよめバ伝へて久しわかき純孝    与謝野寛

 この集落センターはヒゲ爺の思い出の小学校である。通う途中に純孝の生誕のが有り、現在は其れを示す木の碑が建てられている。
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               道を隔てた側に前田の家がある
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              以命亭(旧浜坂町)近くの歌碑
   磁石の針 振り乱さんは 無力なり 磁石はついに 北をさす針
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               七坂八峠(居組)の歌碑
  風吹けば まつの枝鳴る 枝なれば 明石を思う 妹と子を思う
         (明石に妻子を残し諸寄に療養にきている)
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               春来峠(旧温泉町)の歌碑
  牛の背に 我も乗せずや 草刈女 春来三里は 会う人もなし
          (療養の為諸寄に帰郷の途中に春来峠で喀血した)

 
 純孝(翠渓)の歌集に『翠渓歌集』がある。その序文に与謝野寛(鉄幹)が下記の様に書いている。
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                前田翠渓(純孝)歌集

 鉄幹序文;明治の終末に、予と詩社を同じくした二人の友が共に肺を病むで亡くなった。前田翠渓君と石川啄木君。二人はその資性も職業も違っていたが、その短い生涯の経過は大略似ていた。理想主義の憧憬から現代主義の苦悶へ、その上病を得てからの境遇が同じように悲惨を極めていたのは、之を云うに忍びない云々・・・・・・。
 また鉄幹はこうも評している「東の啄木西の純孝」と。
石川啄木は早くにして有名に為ったが純孝の場合は遅く、昭和の後半で漸く世に知られる様に為ったと思われる。大きく寄与したのが以下の評論本であろうと思う。
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前述した赴任してきた姉の担任の先生、二年後退職し神戸新聞社?と聞いているがヒゲ爺は余り知らない。新聞社でも純孝紹介に尽力されたそうだ。
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 この編を書くに当り勉強中に、純孝を世に売り出した要因の一つに但馬の古湯、湯村温泉を舞台にした主演 吉永小百合の「夢千代日記」(NHK放映)が有るのを始めて知った。ヒゲ爺は見ていないので知らなかったが映像に純孝の短歌の流れ、「純孝って誰?」と評判になり多くの人達に感心を持たれる様になったとの説である。
 因みに放映された短歌は下記の14首である。

・病めるもの世に用はなしかくのごと我は思へり汝も思ふや      

・継母にいぢめられたる一列の子のゆくごとし木枯はなく     

・明治4わが病癒やす薬の新薬のありとも書かぬ新聞をよむ      

・大あらし村の漁師の生き死にの解決もなく夜の幕は垂る      

・女等のおらぶののしる泣く声すあらしまだ止まぬ漁村のあした      

・草の上に我れ血をはけば忽ちにひなげしの花芍薬の花    

・かりそめの睫毛合ふ間ぞ恋なりし開く眼は涙なりしよ    

・磁石の針ふり乱さんは無益なり磁石はつひに北を指す針     

・ただひとり寂しき国にのこされて小指かみても染むる名のなき      

・何物か追ひくるけはひ足音は枕にせまるいよよますます      

・我が為に汽笛は声を上げて泣く故郷の山もいでて又泣く     

・わが胸に眠る獅子あり目をさましたてがみたてて咆ゆる日あれど     

・悲しみは悲しみを呼び悲しみは悲しみを訪ひ吾れに集まる      

・人のため流るる涕のこるかや我もたふとし尚生きてあらむ      
                           (1981~1984年20話放映)
 純孝の出るシーンも有ったそうだ。(松田優作)

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              吉永小百合モデル夢千代の銅像

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             観光客で賑わう湯村温泉(荒湯付近)

 前田純孝年賦 

・明治13年 1880 兵庫県二方郡諸寄村にて,父純正,母うたの長男として生まれるが,そのとき,父の愛  人ゆきとの間に義兄貞雄がいた
・明治17年 1884 両親の離婚,母うたは実家の村岡へ帰る
・明治20年 1887 鳥取県師範学校付属小学校入学
・明治28年 1895 高等科4年を卒業.帰郷し,龍満寺で寺子屋式課外授業を始める
・明治30年 1897 諸寄小学校代用教員となる
・明治31年 1898 兵庫県師範学校(後の御影師範学校)入学このころから作歌活動を始める
・明治33年 1900 与謝野鉄幹雑誌「明星」創刊11月,明星に短歌二首掲載される
・明治35年 1902 東京高等師範学校入学
・明治39年 1906 東京高等師範学校卒業,大阪府立島之内高等女学校教頭として赴任.学校経営に多忙を  極める夏休み,諸寄への帰郷の際,春来峠にて発熱,路傍に倒れる
・明治40年 1907 3月,親族の反対を押して秋庭信子と結婚 前田純孝(東京高師時代) 明治41年 1908   10月,長女美津子誕生
・明治42年 1909 2月校長室の一隅で倒れて吐血.信子も病のため母子ともに明石に帰す.10月,小康を得  て,妻の実家にて療養生活に入る
・明治43年 1910 5月,妻子と別れ,独り諸寄に帰る
・明治44年 1911 大晦日から連日喀血し,病状悪化する
 1月19日深夜,父の家を出,かっての乳母の家に移る(「おふじばあちゃん」の記憶と違う)
 2月やや小康を得て,唱歌の作詞,短歌など創作活動を続ける
 9月25日誰にも看取られることなく死去(享年31)

 前田純孝に関する資料

No. 書 名 著 者 名 出 版 者

1) 前田純孝の音楽世界         井上 小恵子 編著  前田純孝の会
2) 葛原しげる青春日記 前田純孝との友情 有本 倶子 編     
神戸新聞総合出版
3) 前田純孝年譜書誌資料集成      西村 忠義 編  むなぐるま草紙社
4) 評伝前田純孝 永遠なる序章    西村 忠義 著          健友社
5) 虱のうた 但馬の啄木前田純孝の生涯とその歌集 弓削 豊紀 著
神戸新聞事業社
6) 前田純孝歌集              前田 純孝 著    むなぐるま草紙社
7) 落葉の賦 前田純孝の生涯 有本 倶子 著      砂子屋書房
8) 異母妹の見た前田純孝とその周辺    岡村 てい 著 〔中井寿孝〕
9) 春来峠-小説前田純孝         吉村 康 著        まろうど社
10) つひに北を指す針 前田純孝の世界    有本 倶子 著      河出書房新社
11) 海は夕焼け 前田純孝と但馬の四季    喜尚 晃子 著         手鞠文庫
12) 翠渓歌集              前田 純孝 著       前田純孝の会
13) 前田純孝と葛原茲         有本 倶子 著        短歌新聞社

                             (兵庫県図書館資料を参考)
 
平成7年に「前田純孝賞」を制定、第10回目までの前田純孝賞を受賞した作品は、歌碑として町内の公共施設に設置されています。
 第11回目からは、次代を担う若者に郷土の生んだ歌人前田純孝を知っていただくとともに、短歌に関心を持っていただくため、「『前田純孝賞』学生短歌コンクール」として募集している。募集要項は下記の通り。
 前田純孝賞
【主催】 神戸新聞社,新温泉町
【応募資格】 中・高校生、高等専門学校生、大学生、短期大学生、大学院生、専修学校生、各種学校生(予備校生も含む)であればどなたでも応募可
【募集内容】 短歌 テーマ→「人を愛する歌」、「学校生活をうたう」、「新温泉町の四季をうたう」のいずれか
【賞】 <中高校生の部> 前田純孝賞 2点 賞状と副賞(図書カード<5,000円>)
準前田純孝賞 4点 賞状と副賞(図書カード<3,000円>)、新温泉町長賞 10点 賞状、新温泉町教育長賞 10点 賞状、神戸新聞社賞 10点 賞状と副賞(盾)、佳 作 30点 賞状、<大学生の部> 前田純孝賞 1点 賞状と副賞(賞金 10,000円)、準前田純孝賞 2点 賞状と副賞(賞金 5,000円)、新温泉町長賞 5点 賞状、新温泉町教育長賞 5点 賞状、神戸新聞社賞 5点 賞状と副賞(盾) 佳 作 20点 賞状、<学校表彰の部> 学校特別賞 2校 賞状
【基本記入事項】 住所、氏名、年齢、電話番号
【その他応募要項・
注意事項等】 所定の応募用紙か、A4版400字詰原稿用紙を使用 学校名・学年・担当教諭名を記入
【応募宛先】 〒669-6702 兵庫県美方郡新温泉町浜坂1208 浜坂先人記念館内「前田純孝賞」係
【問合せ先電話番号】 (0796)82-4490
                            (情報提供者:りんたんサン)

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         峠越す また峠越す その度に 峰より高し但馬の海は
    第1回 受賞作品井上真一さん歌碑;浜坂町芦屋(城山公園遊歩道)に在る。

 純孝が生きた時代鳥取に行くにも関西に出るにも双方に三里~四里とも言われる大きな峠がある。
その双方に純孝歌碑が建てられている、双方を検証してみた。
当時諸寄から関西に出るには、東南の方向に10km程歩き湯村温泉街を経て標高390mの春来峠の九十九折れの街道を村岡に抜ける道しか無かった。現在のR9号線である、今は春来トンネル(延長, 1,696.0m. 幅員, 8.50m. 竣工, 1975(昭和50)年 )が出来て峠を越す人も車も殆んど無いが以前は最大の難所であった。
 明治31年 (1898年)諸寄小学校の代用教員を辞して兵庫県師範学校(後の御影師範学校現神戸大学教育学部)に入学する為この峠を越した時は17歳、将来を夢みて意気揚々と歩んだに違いないが、峠の裾野の村は
3歳で別れた母親の郷である、実の母親に会ったのか否かその記述は無い、想像するに忍びがたい気がする。後にこんな短歌を残している。
 
・骨は父に肉は母にと返すときそこにのこれる何物ありや

村岡を過ぎて;

・但馬なる生野に金をほらむとて帰るにあらず塚をほらんため

後に下記の和歌を残しているから現R9号線を和田山まで歩き現R312号線で姫路に向けて進み神戸に向かったと想像出来る。(生野は日本最大の銀鉱山で大同2年(807年)に開坑したと伝えられている。 織田、豊臣、徳川の幕府 直轄鉱山として栄え、明治元(1868)年には政府直轄となり、その後は皇室財産にもなった大鉱山です。 昭和48(1973)年に閉山しました。R312号線沿いにある)
 明治39年 (1906年) 東京高等師範学校卒業,大阪府立島之内高等女学校教頭として赴任.夏休み,諸寄への帰郷の際,春来峠にて発熱,路傍に倒れる。
 明治39年4月に播但線(姫路~福知山間)が全面開通したのでこの時は福知山まで汽車で帰ったか否かは定かでは無い。
以来諸寄には帰っていない。その間、秋庭信子と結婚 、長女美津子誕生等があり、明治42年労咳(結核)が再発し妻の実家で療養するが43年5月妻子を明石に残し療養の為諸寄せに帰郷し四度めの春来峠越えの途中で喀血する。
 明治42年9月に城崎温泉まで現山陰本線が延長されたので城崎までは汽車を利用したかも知れ無いが諸寄迄は50k近くあり春来峠越さねばならぬ、その峠で喀血し後に詠んだ短歌、

 ・ 牛の背に 我も乗せずや 草刈女 春来三里は 会う人もなし

が「春来峠の歌碑」と為っている。
因みに山陰本線が全面開通し諸寄から関西に一本の道で繋がったのは純孝の死の翌年明治45年の3月の事である。

 ・ 継母に いぢめられたる 一列の 子のゆくごとし木枯はなく
 ・ 半風子ども まだわくほどの 血のかをり 我にあるかと心うれしき
 ・ 干からびし 我が血を吸いて いきてある 虱はさらにあわれなるもの
 *半風子(はんぷうし)・・・しらみ
 
 純孝の短歌は悲しい・・・・・合掌・・・・・。

 西に6kmほど向かうと居組(現新温泉町)から東浜(鳥取県)に抜ける九十九折れの七坂八峠がある。東浜側の下りにかかる場所が鳥取県との県境で過っては樹齢350年で幹廻り5,5mの松の巨木があり目印と為っていたが昭和55年に枯れて仕舞い今は無い。その峠に、先述の純孝の歌碑が有るが何故この地に建てられたのか、内容も明石に残した妻子を思う和歌なのか不思議に思っている。

 ・ 風吹けば まつの枝鳴る 枝なれば 明石を思う 妹と古を思う

 明治43年病状が悪化して諸寄に療養の為帰郷したのであるから、到底此処まで散策や散歩して創った短歌とも考え辛い。確かに純孝は鳥取師範学校付属高等小学校に入学しているから何度も通った道であろう、其れだけの理由では説得力に欠ける、ヒゲ爺流調の必要が有りそうだ。
 
 その外峠には歌碑が建っている。
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        つづら折りおりては登る七坂も道ひらけ行く御代ぞ楽しき
                             福井久造
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        居組なる不動の山の蝉しぐれ結びが浦に船つきにけり
                             岡垣徹治
* 福井久蔵:
 明治・大正・昭和期の国文学者(1867(慶応3)~ 1951(昭和26))
兵庫県美方郡新温泉町熊谷(旧温泉町)に生まれる。号は白陽子・楽山・小松園。神戸師範学校卒業後、山口中学、東京府立中学、学習院、駒沢大、早大などで教鞭をとった。この間、1936(S11)「連歌の史的研究」で文学博士。連歌の歴史的研究とともに、国語法史、国語学史、歌学史にも豊富な資料を駆使して精緻な研究を残した。主な著書に『大日本歌学史』(1926)、『本歌書綜覧』全5巻(1926)、『連歌の史的研究』全2巻(1930)などがある。 (諸寄より10k温泉町より)

* 岡垣徹治:
 アララギ派歌人、文学者。(明治23年(1890年)~昭和43年(1968年))  
明治23年(1890)兵庫県美方郡新温泉町(旧浜坂町)用土に生まる。明治42年(1909年)豊岡中学校卒業後2年ほど代用教員をして、明治44年(1911年)東京高等師範学校に入学、鳥取市岡垣家の養子となる。
大正4年(1915年)東京高等師範学校卒業後、鳥取・和歌山・愛知・広島などの女学校・中学校の教師・校長をつとめ、兵庫県に帰って北条高女・加古川高女の校長を経て、母校豊岡中学校の校長となり、豊岡高校の校長を最後に三十年間の教師生活を引退した。         
諸寄小学校の校歌も創る。(諸寄の隣り村)
              諸寄小学校の校歌

          (一) 朝びらき わが諸寄は
              山青く 水澄みわたる
              一つ波 心たぐひて
              むつみあふ 雪の白浜

          (二) 夕光に 映ゆる海原
              水底の 輝く珠は
              たゆみなく いそしみ学ぶ
              われらこそ きほひ拾はめ

 卒業した小学校校歌にも関らず残念ながらうたえませ~ん!!
中々、歌人、文人の多く出た土地柄のヒゲ爺の故郷である。
七坂八峠の「純孝の歌碑」に少し疑念を抱きつつ 『前田純孝じゅんこう、すみたか(翠渓すいけい)』編を閉じます。




                 

             

 


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