ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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ひげ爺の独り言 放談 小噺 『山陰海岸国立公園』 ご近所便り
『但馬漁火(ライン)街道』
『御火の浦海岸』(みほのうら)
「但馬漁り火ライン」は山陰海岸国立公園に属し東西約50kmの但馬海岸は起伏に富むリアス式海岸となっており、山陰海岸の美しい自然景観を楽しみながらドライブやツーリングで走行することが出来る街道であり6月から10月にかけての夜にイカ釣り漁船の漁火(いさりび)が灯ることから名付けられた。
兵庫県豊岡市気比(京都府境)から但馬海岸道路、第二但馬海岸道路を通り、香美町香住区より国道178号、兵庫県道260号三尾浜坂線を経て、再び国道178号を走り、兵庫県新温泉町居組(鳥取県境)に至る但馬地域の海岸沿いをメインルートとしている。
『御火の浦』は兵庫県道260号三尾浜坂線(浜坂地区から餘部の鉄橋に貫けるルート)の大凡8kmの海岸線にあり海から眺める奇岩、洞窟は景観や良しの一語に尽きる。当編は『諸寄』を基点に始めた故、西方面より出発する。既に「居組、諸寄、浜坂の西部」紹介済み故に浜坂東部より進める。

浜坂海岸東端に位置する「鬼門崎」

龍の昇る「龍宮洞門」


田井の松島と海中公園

御火の浦記念碑;御火の浦(三尾の浦)とは,承久の変で流罪となった後鳥羽上皇が隠岐の島に流される途中 三尾の沖で遭難し、承久3年(西暦1221年)旧暦7月25日三尾の住民に救助され慰安を受けて3日後陸路を因幡(鳥取県)境港に向かって出発された。村人がここで火を焚いてお迎えした所以が「三尾の浦」を「御火の浦」に変名した由来である。

後鳥羽上皇の歌碑; 想いやれ 憂き身を 御火の浦
風に泣く泣絞る 袖のしずくを

三尾の大島と三尾港

三尾の大島と灯台。対岸に下荒洞門がある


『御崎(餘部崎)灯台』
兵庫県香美町餘部地区にあり日本で最も高所(灯火までの高さ)にある灯台である。1951年(昭和26)3月25日に設置、初点灯された。

標高284.1mの日本一高い所にある灯台

高所にあるため周囲の風景を見渡せる

御崎北灯台




灯台から見える風景


涼みがてらに眺める漁り火は一人で見るには「モッタイナイ!」
『平家落人の村・香住区御崎』
御崎灯台から約1kmの所にある香住区御崎は平家伝承の里(平家伝説の里)として知られている。1184年の壇の浦の戦いで破れた平家の武将門脇宰相教盛ら(門脇宰相平教盛を頭に侍大将の伊賀平内左右衛門家長と矢引六郎右衛門 )7人が、命からがら流れ着き住み着いたと伝えられている。
・門脇宰相平教盛;安時代末期の平家一門の武将。平忠盛の四男。平清盛の異母弟。邸宅が六波羅の総門の脇にあったことから門脇殿と云われた。壇ノ浦の戦いの敗戦の中で兄の経盛とともに入水いたとされているが・・・・。
・伊賀平内左右衛門家長;幼帝安徳天皇の衛士の大将。平氏譜代の家人(けにん)で平忠盛の郎等として海賊追捕などに活躍すた、筑後守 平家貞(いえさだ)の子。壇ノ浦の戦いで平氏一門が滅亡すると、知盛と共に入水したとされているが・・・・。
・矢引六郎右衛門;教盛の六男能登守教経が祖である。子孫は継がれて幕末の頃「俊龍和尚」と言う傑僧を産んでいる。(俊龍和尚に就いては後編で)
馬場ヶ平などの地名や、御崎平内神社で毎年1月28日に行われる百手の儀式(百手(ももて)行事)などが今もその名残をとどめています。また、この地にしか育たないと言う平家かぶら と呼ばれる特殊な蕪が自生している。
教盛と家長は共に歴史上では壇ノ浦の戦いで入水自殺した事に為っているがドッコイ二人は御崎の地に流れ着き800年以上も子孫を残している事実をみると歴史の真実とは何なのか判断に迷わざるを得ないがヒゲ爺は「御崎の平家伝説」を是としたい、夢があって良いではないか!!・・・・。




御崎平内神社には、「百手(ももて)」という行事が残っている。門脇、伊賀、矢引の3人の平家の武将に扮した少年が的を目がけ100本の矢を射る。平家の復興を願う行事だという。

昔の資料より
「平家鏑(かぶら)」;この土地でしか育たない野性の鏑。

平家の公達(きんだち)の勢揃い宜しく咲き誇る平家かぶの花


頑なに「他を寄せ付け無かった平家の落人」(現在は決してそんな事はありません)の様に頑固に「他の土地では育つもんかい!」と頑なな平家鏑達。

白かぶで葉が大きく、鮮緑色。根は長大でひげ根が多い。播種しなくても道端や土手などに自生してくるため、地元では天からふってくる「ふってかぶ」とも、生で味が苦いことから「にがかぶ」とも呼ばれる。寒さに強く、根は食べないが、若葉や抽苔した花茎・花蕾を塩漬けやお浸し浅漬け等にして食べる。
ほろ苦く柔らかく美味しい。現在も郷土の味として食べられている。
平家の末裔が産んだ幕末の快僧『俊龍和尚』・・・・
矢引俊龍和尚;1801年(享和元年)8月28日生まれ平家落人、矢引六朗佐衛門の子孫の1人としてこの地に誕生し幼名は弁之助。矢引家は平家の末孫門脇宰相教盛の六男能登守教経の変名である矢引六朗を始祖とする。壇ノ浦の合戦後この地にのがれて農業を営みながら御崎に住みついた。御崎に出るまで400年程山奥に棲んだとの説もある。和尚は九歳で「北但の鬼の禅道場」とまで言われた修行の厳しい地元龍満寺で得度(仏門に入る為剃髪する事)した。僧名を寂潭俊龍(じゃくたん・しゅんりゅう)と言う。

諸谷山龍満寺住職の系図:「九世・象山問厚和尚」「十二世・玄楼和尚」「風外本高和尚」三大和尚に就いては諸寄の編で帰している故割愛する。

俊龍が得度したのは十五世棟嶽和尚の頃である。後に棟嶽和尚が香積寺・二十四世住職に為った後も二十五世「風外本高」二十六世「寂潭俊龍」の三代、龍満寺で修行した和尚が高名な香積寺を継承している。
・香積寺(こうじゃくじ)は、:愛知県豊田市足助町にある曹洞宗の寺。1427年に創建された、曹洞宗の古刹です。この地の豪族・足助氏の菩提を弔うため、足助氏の居館(飯盛山城)後に建てらた。足助城主・鈴木氏五代のお墓もある。東海随一といわれる紅葉の名所として知られる香嵐渓。その中心に位置し、もみじで有名になるきっかけをつくったのが、香積寺の11世住職、三栄和尚です。
香嵐渓のもみじは、三栄和尚が、江戸時代初期に植えたのがはじまりと言われている。


紅葉に彩られた香積寺の山門と境内の紅葉
寂潭俊龍和尚は香積寺に次いで祥壽山 清涼寺(滋賀県彦根市)彦根藩主井伊家の菩提寺の住職と為った。
清涼寺は関ヶ原の戦い後、徳川四天王の一人井伊直政は、石田三成の居城であった佐和山城に18万石を与えられ1602年直政死後、佐和山の麓にあった三成の重臣島左近の屋敷跡に清涼寺を創建し、直政の墓所を設け、以後井伊家の菩提寺とした。

祥壽山 清涼寺 山門
江戸の時代に譜代の井伊家の菩提とも為ると寺の格式も最高の部類に入り曹洞宗に於いても大出世と言えるであろう。
第十五代城主 井伊直弼は寂潭俊龍和尚に心酔し教えを乞うたと伝えられたいる。
「太平の眠りを覚ます上喜撰たった4杯で夜も眠れず」と狂歌で唄われぺりーの来航で幕府が混乱した時
井伊大老は俊龍和尚に鎖国を続けるか?開国か?如何にすべきかと教えを請うている。
和尚は当時としては珍しく外国語を話せたし外国にも明るく開国論者であった。「小国日本が富むには貿易しか無い」と言った清盛の血が脈々と引き継がれていたのかも知れん。
俊龍和尚は「開国すべし」と答えた。井伊大老も、「開国と富国強兵こそ日本が生き残る道」と決意し「日米修好通商条約」に調印し、日本の開国近代化を断行した。
その会談の通詞の大役を果したのは寂潭俊龍和尚である。幕府の一大事と言うより日本の一大事の渦中の一人と言えよう。後に桜田門の変で暗殺された井伊大老を菩提寺清涼寺で引導を渡したのも寂潭俊龍和尚である。諸寄の龍満寺・江戸の豪徳寺・三河の香積寺・彦根の清涼寺と巡って1869年(明治2年)入寂された。
ヒゲ爺が子供の頃遊んだ龍満寺境内で多くの大和尚が若い頃修行に励み闊歩していた事実を想像すると奮立つ思いがする・・・・が・・・・もう遅いですかねぇ・・・・。
「御火の浦」の東端・餘部(あまるべ)地区に到着。
奇岩と景色の紹介:

釣鐘洞門;洞門は入り口が2ヶ所あり洞内で繋がっている。内部空間は最高部32m、直径30m、広さ320平方メートル、水深10mと海食洞として世界最大級である。





餘部湾近辺の奇岩と風景



「漁り火ライン」のメインルートR178号線を浜坂地区で左折兵庫県道260号線に入り「御火の浦」経由しR178号線に香美町餘部で再び合流した。
餘部鉄橋写真少々残しこの編を終了します。餘部鉄橋に就いては次編で詳しく・・・・・。
『完』
・本編と無関係ですが、ちば爺さんのコメントに応えて写真3枚掲載しました。


ハボタンは正月だけの花では有りません。こんなに綺麗な花が咲きます

昨年の正月の玄関(マンション)の飾りです(ヒゲ爺作)因みに下は今年です

「了」
『御火の浦海岸』(みほのうら)
「但馬漁り火ライン」は山陰海岸国立公園に属し東西約50kmの但馬海岸は起伏に富むリアス式海岸となっており、山陰海岸の美しい自然景観を楽しみながらドライブやツーリングで走行することが出来る街道であり6月から10月にかけての夜にイカ釣り漁船の漁火(いさりび)が灯ることから名付けられた。
兵庫県豊岡市気比(京都府境)から但馬海岸道路、第二但馬海岸道路を通り、香美町香住区より国道178号、兵庫県道260号三尾浜坂線を経て、再び国道178号を走り、兵庫県新温泉町居組(鳥取県境)に至る但馬地域の海岸沿いをメインルートとしている。
『御火の浦』は兵庫県道260号三尾浜坂線(浜坂地区から餘部の鉄橋に貫けるルート)の大凡8kmの海岸線にあり海から眺める奇岩、洞窟は景観や良しの一語に尽きる。当編は『諸寄』を基点に始めた故、西方面より出発する。既に「居組、諸寄、浜坂の西部」紹介済み故に浜坂東部より進める。

浜坂海岸東端に位置する「鬼門崎」

龍の昇る「龍宮洞門」


田井の松島と海中公園

御火の浦記念碑;御火の浦(三尾の浦)とは,承久の変で流罪となった後鳥羽上皇が隠岐の島に流される途中 三尾の沖で遭難し、承久3年(西暦1221年)旧暦7月25日三尾の住民に救助され慰安を受けて3日後陸路を因幡(鳥取県)境港に向かって出発された。村人がここで火を焚いてお迎えした所以が「三尾の浦」を「御火の浦」に変名した由来である。

後鳥羽上皇の歌碑; 想いやれ 憂き身を 御火の浦
風に泣く泣絞る 袖のしずくを

三尾の大島と三尾港

三尾の大島と灯台。対岸に下荒洞門がある


『御崎(餘部崎)灯台』
兵庫県香美町餘部地区にあり日本で最も高所(灯火までの高さ)にある灯台である。1951年(昭和26)3月25日に設置、初点灯された。

標高284.1mの日本一高い所にある灯台

高所にあるため周囲の風景を見渡せる

御崎北灯台




灯台から見える風景


涼みがてらに眺める漁り火は一人で見るには「モッタイナイ!」
『平家落人の村・香住区御崎』
御崎灯台から約1kmの所にある香住区御崎は平家伝承の里(平家伝説の里)として知られている。1184年の壇の浦の戦いで破れた平家の武将門脇宰相教盛ら(門脇宰相平教盛を頭に侍大将の伊賀平内左右衛門家長と矢引六郎右衛門 )7人が、命からがら流れ着き住み着いたと伝えられている。
・門脇宰相平教盛;安時代末期の平家一門の武将。平忠盛の四男。平清盛の異母弟。邸宅が六波羅の総門の脇にあったことから門脇殿と云われた。壇ノ浦の戦いの敗戦の中で兄の経盛とともに入水いたとされているが・・・・。
・伊賀平内左右衛門家長;幼帝安徳天皇の衛士の大将。平氏譜代の家人(けにん)で平忠盛の郎等として海賊追捕などに活躍すた、筑後守 平家貞(いえさだ)の子。壇ノ浦の戦いで平氏一門が滅亡すると、知盛と共に入水したとされているが・・・・。
・矢引六郎右衛門;教盛の六男能登守教経が祖である。子孫は継がれて幕末の頃「俊龍和尚」と言う傑僧を産んでいる。(俊龍和尚に就いては後編で)
馬場ヶ平などの地名や、御崎平内神社で毎年1月28日に行われる百手の儀式(百手(ももて)行事)などが今もその名残をとどめています。また、この地にしか育たないと言う平家かぶら と呼ばれる特殊な蕪が自生している。
教盛と家長は共に歴史上では壇ノ浦の戦いで入水自殺した事に為っているがドッコイ二人は御崎の地に流れ着き800年以上も子孫を残している事実をみると歴史の真実とは何なのか判断に迷わざるを得ないがヒゲ爺は「御崎の平家伝説」を是としたい、夢があって良いではないか!!・・・・。




御崎平内神社には、「百手(ももて)」という行事が残っている。門脇、伊賀、矢引の3人の平家の武将に扮した少年が的を目がけ100本の矢を射る。平家の復興を願う行事だという。

昔の資料より
「平家鏑(かぶら)」;この土地でしか育たない野性の鏑。

平家の公達(きんだち)の勢揃い宜しく咲き誇る平家かぶの花


頑なに「他を寄せ付け無かった平家の落人」(現在は決してそんな事はありません)の様に頑固に「他の土地では育つもんかい!」と頑なな平家鏑達。

白かぶで葉が大きく、鮮緑色。根は長大でひげ根が多い。播種しなくても道端や土手などに自生してくるため、地元では天からふってくる「ふってかぶ」とも、生で味が苦いことから「にがかぶ」とも呼ばれる。寒さに強く、根は食べないが、若葉や抽苔した花茎・花蕾を塩漬けやお浸し浅漬け等にして食べる。
ほろ苦く柔らかく美味しい。現在も郷土の味として食べられている。
平家の末裔が産んだ幕末の快僧『俊龍和尚』・・・・
矢引俊龍和尚;1801年(享和元年)8月28日生まれ平家落人、矢引六朗佐衛門の子孫の1人としてこの地に誕生し幼名は弁之助。矢引家は平家の末孫門脇宰相教盛の六男能登守教経の変名である矢引六朗を始祖とする。壇ノ浦の合戦後この地にのがれて農業を営みながら御崎に住みついた。御崎に出るまで400年程山奥に棲んだとの説もある。和尚は九歳で「北但の鬼の禅道場」とまで言われた修行の厳しい地元龍満寺で得度(仏門に入る為剃髪する事)した。僧名を寂潭俊龍(じゃくたん・しゅんりゅう)と言う。

諸谷山龍満寺住職の系図:「九世・象山問厚和尚」「十二世・玄楼和尚」「風外本高和尚」三大和尚に就いては諸寄の編で帰している故割愛する。

俊龍が得度したのは十五世棟嶽和尚の頃である。後に棟嶽和尚が香積寺・二十四世住職に為った後も二十五世「風外本高」二十六世「寂潭俊龍」の三代、龍満寺で修行した和尚が高名な香積寺を継承している。
・香積寺(こうじゃくじ)は、:愛知県豊田市足助町にある曹洞宗の寺。1427年に創建された、曹洞宗の古刹です。この地の豪族・足助氏の菩提を弔うため、足助氏の居館(飯盛山城)後に建てらた。足助城主・鈴木氏五代のお墓もある。東海随一といわれる紅葉の名所として知られる香嵐渓。その中心に位置し、もみじで有名になるきっかけをつくったのが、香積寺の11世住職、三栄和尚です。
香嵐渓のもみじは、三栄和尚が、江戸時代初期に植えたのがはじまりと言われている。


紅葉に彩られた香積寺の山門と境内の紅葉
寂潭俊龍和尚は香積寺に次いで祥壽山 清涼寺(滋賀県彦根市)彦根藩主井伊家の菩提寺の住職と為った。
清涼寺は関ヶ原の戦い後、徳川四天王の一人井伊直政は、石田三成の居城であった佐和山城に18万石を与えられ1602年直政死後、佐和山の麓にあった三成の重臣島左近の屋敷跡に清涼寺を創建し、直政の墓所を設け、以後井伊家の菩提寺とした。

祥壽山 清涼寺 山門
江戸の時代に譜代の井伊家の菩提とも為ると寺の格式も最高の部類に入り曹洞宗に於いても大出世と言えるであろう。
第十五代城主 井伊直弼は寂潭俊龍和尚に心酔し教えを乞うたと伝えられたいる。
「太平の眠りを覚ます上喜撰たった4杯で夜も眠れず」と狂歌で唄われぺりーの来航で幕府が混乱した時
井伊大老は俊龍和尚に鎖国を続けるか?開国か?如何にすべきかと教えを請うている。
和尚は当時としては珍しく外国語を話せたし外国にも明るく開国論者であった。「小国日本が富むには貿易しか無い」と言った清盛の血が脈々と引き継がれていたのかも知れん。
俊龍和尚は「開国すべし」と答えた。井伊大老も、「開国と富国強兵こそ日本が生き残る道」と決意し「日米修好通商条約」に調印し、日本の開国近代化を断行した。
その会談の通詞の大役を果したのは寂潭俊龍和尚である。幕府の一大事と言うより日本の一大事の渦中の一人と言えよう。後に桜田門の変で暗殺された井伊大老を菩提寺清涼寺で引導を渡したのも寂潭俊龍和尚である。諸寄の龍満寺・江戸の豪徳寺・三河の香積寺・彦根の清涼寺と巡って1869年(明治2年)入寂された。
ヒゲ爺が子供の頃遊んだ龍満寺境内で多くの大和尚が若い頃修行に励み闊歩していた事実を想像すると奮立つ思いがする・・・・が・・・・もう遅いですかねぇ・・・・。
「御火の浦」の東端・餘部(あまるべ)地区に到着。
奇岩と景色の紹介:

釣鐘洞門;洞門は入り口が2ヶ所あり洞内で繋がっている。内部空間は最高部32m、直径30m、広さ320平方メートル、水深10mと海食洞として世界最大級である。






餘部湾近辺の奇岩と風景



「漁り火ライン」のメインルートR178号線を浜坂地区で左折兵庫県道260号線に入り「御火の浦」経由しR178号線に香美町餘部で再び合流した。
餘部鉄橋写真少々残しこの編を終了します。餘部鉄橋に就いては次編で詳しく・・・・・。
『完』
・本編と無関係ですが、ちば爺さんのコメントに応えて写真3枚掲載しました。


ハボタンは正月だけの花では有りません。こんなに綺麗な花が咲きます

昨年の正月の玄関(マンション)の飾りです(ヒゲ爺作)因みに下は今年です

「了」
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