ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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ひげ爺の独り言 放談 小噺 『山陰海岸国立公園』 ご近所便り
『大乗寺と円山応挙』
亀居山 大乗寺(かめいさん だいじょうじ);兵庫県美方郡香美町にある高野山真言宗の寺院。西国薬師四十九霊場第二十八番札所。香住地区の兵庫県道R4号線を南下すると道路左側に位置する、凡そ21k南下すると国道R9号線と交差する。関西方面からは此方が便利・村岡地区より右折。
・ 創建年 伝・天平17年(745年)
・ 開基 伝・行基 【註】
★行基菩薩:奈良時代の高僧で百済系渡来人の子孫で和泉の人。民間布教に専念し、全国を巡遊し寺、堤、道路、橋等を造った。のち聖武天皇の帰依をうけ、東大寺大仏の建立に協力。日本最初の大僧正に任ぜられる。生没年;668(天智7年)~749(天平21年)
四国八十八ヶ寺の内28ヶ寺が行基の開基と為っている。畿内だけでも寺34、尼寺15、橋7、池15、★布施屋など沢山造っている。彼は偉大な僧であると同時に偉大な土木建築家でもあった。弟子や協力者は数百とも千とも言われその力が四国にも及んだのであろう。
★ 布施屋:旅行者に食料等を施して休息させる宿舎。行基が畿内に造った布施屋が有名。
(上記はヒゲ爺の四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:徳島編 1番霊場に記載した儘を転載)

幾度もの戦乱を受け寺勢は衰退するが、江戸時代後期の寛政年間(1789年 - 1800年)に当時の住職、密蔵和尚らにより再興された。
密蔵和尚は京都訪問の際に苦学中の円山応挙に銀三貫目を与え援助した。これを学資に応挙は江戸で3年間修行をし京都に戻り大成し円山派を確立し京都画壇の重鎮と為った。のちに密蔵和尚の恩に報いようと再興中の大乗寺に協力し、弟子12名とともに客殿襖絵・屏風などに取り組み多数の作品を残した。このうち165点は国の重要文化財に指定されている。
ヒゲ爺も小?中?学校の遠足を皮切りに5回?は行っている。ある時「以前来た時(見る位置で変わる鯉の絵・虎の絵・雪舟の絵)を見た記憶があるがと案内人尋ねたら・・・」「絵画数が多いので?月か置きに展示を変えている」との返事であった。全部見終えるには何度も脚を運ばねばならぬらしい。

石段を登り亀居山 大乗寺山門へ


山門に有る「奇ッ怪な動物?2体」


客殿と客殿の入り口で「鎮座する応挙翁」



『亀居山 大乗寺』但馬の誇る名古刹であると同時に寺には写生画の巨匠、円山応挙や息子の応瑞、与謝蕪村の弟子の呉春、蘆雪らが描いた襖絵や障壁画が数多く残されており、国の重要文化財に指定されているものだけでも165点もあり、円山四条派の美術館としても知られ『円山応挙博物館』とも云えるであろう。
『円山応挙』
近現代の京都画壇にまでその系統が続く「円山派」の祖であり、写生を重視した親しみやすい画風が特色である。
享保18年(1733年)、丹波国桑田郡穴太(あのお)村(現・京都府亀岡市)に農家の次男として生まれ15歳で京都の玩具商「尾張屋」に奉公する。尾張屋での仕事の内容は人形制作や彩色、眼鏡絵などを描くことであり、この頃に多く技術を身につけ、後に絵師として確立するに基点となる要因になった。応挙の画才を見いだした尾張屋の中島勘兵衛の計らいにより、1749年、応挙17歳の頃から狩野派の絵師、石田幽汀に入門し狩野派様式や花鳥画などを学んだ。、当時流行した眼鏡絵の制作に携わったことにより、西欧の遠近法の基礎を身につけたともいわれています。その後自然の写生に専念し、従来の日本画にはなかった遠近法などを取り入れた写生画を創出していき西欧の遠近法の基礎を身につけたともいわれています。その後自然の写生に専念し、従来の日本画にはなかった遠近法などを取り入れた写生画を完成させた。(参考資料 無量寺HP)
その画風は当時の京都画壇を風靡し、門人千名といわれ、呉春の四条派と京都画壇を二分する流派円山派となっ国宝、国の重要文化財クラスの各品を数多く残している。
『応挙博物館 客殿』
『孔 雀 の 間』(国の重要文化財に指定)


『孔 雀 の 間』




襖の部分絵・4枚

(A)面に在る仏間・十一面観音立像
「郭子儀の間」(国 重要文化財)



郭子儀は八方にらみで孫たちを見守っている。見る人がどの角度からみても郭子儀と視線があう不思議な技法である。
郭子儀(かく しぎ、697年 - 781年)は、中国、唐朝に仕えた軍人・政治家。玄宗、粛宗、代宗、徳宗の4代に仕えた。客家人[要出典]。安史の乱で大功を立て、以後よく異民族の侵入を防いだ。盛唐〜中唐期を代表する名将。憲宗(在位805年 - 820年)の皇后郭氏は子儀の孫である。(参考ウィキベキア)




[山水の間](国 重要文化財)




「山水の間」4点
「大乗寺以外の応挙作品」

国宝の「雪松図屏風」・6曲1双・紙本金地着色 | 三井記念美術館 2面;応挙作品の中でも傑作中の傑作として名高い名作である。


京都、大阪、江戸で大規模な呉服屋兼両替店を営んでいた新興豪商の三井家の依頼により制作された。三井家は応挙の大スポンサーでもあった。

「保津川屏風絵」は応挙最晩年の作で遺作とも言われる。


応挙は「虎」の絵を数多く残しているが何れも猛々しさに欠け猫の様な顔付に為っている。当時日本には活きた虎は存在せず置物や敷物の虎をみて描いたそうである。それ故獰猛な虎面は描けなかったそうだ。
虎と云えば阪神タイガース・ヒゲ爺も「トラキチ」まではいかぬがファンの一人。ファン必見の催しを紹介します。
とら・虎・トラ展
~甲子園の歴史と日本画における虎の表現~
『内容』
・前半説明文省略・・・・・。
甲子園をホームグランドとする阪神タイガースにちなみ「虎」に関する作品に焦点を当てた展覧会を開催いたします。
江戸時代を代表する絵師・伊藤若冲、円山応挙、長沢芦雪らが描いた虎、長崎派による独特の表現で描かれた虎、自他共に認めるほどの迫力のある虎を描いた岸駒や、動物表現を得意とした近代の画家・竹内栖鳳、虎を描かせれば日本一の呼び名も高い大橋翠石など多くの画家達が描いた虎の絵画を展示致します。
日本画約60点で様々な虎の表現の面白さにせまります。
『会場』
・ 西宮大谷記念美術館
・ 〒662-0952兵庫県西宮市中浜町4-38
『会期』
・ 2013年4月6日(土)~2013年5月19日(日)・水曜日休み
『料金』
・ 一般 800円 高・大生 600円 小・中生 400円
『閑話休題』:
「大乗寺以外の応挙作品・外」と続く・・・・・。

円山応挙の肖像画(作者は解らず)・ご存知の方は教えてください。

“狗子図”子犬の絵は多い・犬好きであったかも?

俳人与謝蕪村との合筆:蕪村に就いては後で書きます。

眼鏡絵とは、45度傾けた鏡に映した絵をレンズを通して覗いてみる風景画の一種である。それにより原画は絵や文字が左右反対に描かれている。

米国カリフォルニア州のカリフォルニア大学バークレー美術館の所蔵
「足のない幽霊」無き妻の幻「お雪」を描いたと云われている。以後「幽霊には足が無い」と云われる様になったとか・・・。
絵師円山応挙は余りにも多くの名画を残している。列挙すれば際限が無いのでこの辺で止めます。
『村松呉春』へと続く
・応挙は12人の弟子を連れて大乗寺に絵画を描きに行く・・・とあるがあれは間違い?
呉春は弟子では無い。
・ 蕪村の歿後は応挙の画を好み弟子にと請うが応挙は固く辞し,親友として画学を研究し写生を勉強。
詳しくは後で・・・・・・・・・・・・。


二隻八扇(八曲)の大きな屏風で蕪村没後十年後頃に完成したと言われている。
「白梅にあくる夜ばかりとなりにけり」・呉春の南画、俳諧、俳画の師である蕪村(与謝・谷口)の辞世の句である。師匠の辞世の句を絵画で表現したのが松村呉春作『白梅図屏風(一部)』だと言われている。
呉春の作品は国宝、重文クラスの絵画、俳画など数多く残されているがヒゲ爺はこの絵を格別な思いで見ている、蕪村の大ファンである所為かもしれん。

呉春の肖像画
呉春:宝暦2年(1752年)から文化8年(1811年)江戸中期の画家。四条風の開祖。
名豊昌・春・月渓,字伯望。称嘉右衛門・文蔵。
京都の金座年寄役の家に長男として京都堺町通四条下ルで生まれる。はじめは家業を継ぎ金座の平役を務めた。子供の時から指先が器用で金座時代小判を右手から左に投げる間に偽金を見分けたとの逸話があるそうだ。何時の頃から絵画の道に向かったか定かではないが明和7年(1770年)頃は大西酔月(京の画家)の門を叩いたとされる。数年後に酔月が亡くなると、安永2年(1773年)には与謝蕪村の内弟子として入門、俳諧や南画(文人画)を学ぶ。
天明元年(1781年)3月、妻を、8月には父を相次いで失う。傷心を癒す為か剃髪し、蕪村の勧めで、パトロンであった蕪村門下の商人を頼り、しばらく現在の大阪府池田市に転地療養する。(ウイキベキア参考)当時の呉服の里(くれはのさと)の古名をもつ村の酒造家に寄宿し翌年春を迎えたのに因み雅号を「呉春」とした。池田時代多くの傑作を残している。
・田舎清閑図 (石川県立美術館蔵) 二曲一隻 紙本淡彩
・柳陰帰漁図 (静岡県立美術館蔵) 二曲一隻 紙本墨画淡彩
・山樵漁夫図屏風 (ニューヨーク・バーク・コレクション) 六曲一双 紙本墨画淡彩
・山水図屏風 (東京国立博物館蔵、重要美術品) 六曲一双 紙本金地墨画
等々数多数・・・。




池田時代の作品は蕪村の画風の影響を強く感じるのはヒゲ爺ばかりかな・・・・。


絹本淡彩柳鷺群禽図・京都国立博物館・国宝・重要文化財(美術品)

蕪村の肖像画・呉春作
いろんな文章を読むと呉春が如何に師匠・蕪村を尊敬しつつ心酔していたかが偲ばれる。
天明3年(1783年)蕪村が重病に伏せると、呉春は京に戻る、同年末に蕪村は亡くなる。師の死後も、自ら挿図を描いて遺作句集『新花摘』を出版し、池田と京を往復し蕪村の家族の世話をする。
蕪村の歿後は応挙の写生画を好み弟子にと請うが応挙は固く辞し、親友として画学を研究しようと申し出る。呉春は写生を勉強して終に四条派の開祖となった。
四条派時代に為ってからの大作は呉春の項の冒頭の「白梅図屏風 (逸翁美術館蔵、重要文化財) 六曲一双 絹本墨画淡彩」・「大乗寺障壁画「農業之間」 (大乗寺蔵、重要文化財)」等々を筆頭に数多く残っているが今編では2点のみを紹介する。



「大乗寺障壁画「農業之間」



「春・夏・秋の部分画」
その他の作品:
・桜花游鯉図 (逸翁美術館蔵) 大幅 絹本著色 光格天皇の御下命により揮毫
・妙法院襖絵
・西本願寺耕作図襖絵 寛政7年(1795年)頃
・醍醐寺三宝院泊舟図襖
・蔬菜図巻 (泉屋博古館蔵) 1巻 紙本著色
四条派の時代になると天皇から揮毫(きごう)されるほどに絵師の頂点を極め多くの名刹に襖絵等を残している。
文化8年(1811年)7月自宅で病没する。享年60。法名は釈春譲。洛南の大通寺に葬られたが、大通寺が荒廃したため明治22年(1889年)9月、四条派の絵師たちによって金福寺の蕪村の墓隣に改葬された。
★編外ではあるが俳人・文人画家 与謝蕪村について書かせて下さい。何しろヒゲ爺は「蕪村ファン!」
★ 以下の絵画の絵師は誰でしょうか?









銀閣寺方丈の襖絵(一部)

「奥の細道」挿絵
次編「番外編 蕪村」で回答致します。
「完」
亀居山 大乗寺(かめいさん だいじょうじ);兵庫県美方郡香美町にある高野山真言宗の寺院。西国薬師四十九霊場第二十八番札所。香住地区の兵庫県道R4号線を南下すると道路左側に位置する、凡そ21k南下すると国道R9号線と交差する。関西方面からは此方が便利・村岡地区より右折。
・ 創建年 伝・天平17年(745年)
・ 開基 伝・行基 【註】
★行基菩薩:奈良時代の高僧で百済系渡来人の子孫で和泉の人。民間布教に専念し、全国を巡遊し寺、堤、道路、橋等を造った。のち聖武天皇の帰依をうけ、東大寺大仏の建立に協力。日本最初の大僧正に任ぜられる。生没年;668(天智7年)~749(天平21年)
四国八十八ヶ寺の内28ヶ寺が行基の開基と為っている。畿内だけでも寺34、尼寺15、橋7、池15、★布施屋など沢山造っている。彼は偉大な僧であると同時に偉大な土木建築家でもあった。弟子や協力者は数百とも千とも言われその力が四国にも及んだのであろう。
★ 布施屋:旅行者に食料等を施して休息させる宿舎。行基が畿内に造った布施屋が有名。
(上記はヒゲ爺の四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:徳島編 1番霊場に記載した儘を転載)

幾度もの戦乱を受け寺勢は衰退するが、江戸時代後期の寛政年間(1789年 - 1800年)に当時の住職、密蔵和尚らにより再興された。
密蔵和尚は京都訪問の際に苦学中の円山応挙に銀三貫目を与え援助した。これを学資に応挙は江戸で3年間修行をし京都に戻り大成し円山派を確立し京都画壇の重鎮と為った。のちに密蔵和尚の恩に報いようと再興中の大乗寺に協力し、弟子12名とともに客殿襖絵・屏風などに取り組み多数の作品を残した。このうち165点は国の重要文化財に指定されている。
ヒゲ爺も小?中?学校の遠足を皮切りに5回?は行っている。ある時「以前来た時(見る位置で変わる鯉の絵・虎の絵・雪舟の絵)を見た記憶があるがと案内人尋ねたら・・・」「絵画数が多いので?月か置きに展示を変えている」との返事であった。全部見終えるには何度も脚を運ばねばならぬらしい。

石段を登り亀居山 大乗寺山門へ


山門に有る「奇ッ怪な動物?2体」


客殿と客殿の入り口で「鎮座する応挙翁」



『亀居山 大乗寺』但馬の誇る名古刹であると同時に寺には写生画の巨匠、円山応挙や息子の応瑞、与謝蕪村の弟子の呉春、蘆雪らが描いた襖絵や障壁画が数多く残されており、国の重要文化財に指定されているものだけでも165点もあり、円山四条派の美術館としても知られ『円山応挙博物館』とも云えるであろう。
『円山応挙』
近現代の京都画壇にまでその系統が続く「円山派」の祖であり、写生を重視した親しみやすい画風が特色である。
享保18年(1733年)、丹波国桑田郡穴太(あのお)村(現・京都府亀岡市)に農家の次男として生まれ15歳で京都の玩具商「尾張屋」に奉公する。尾張屋での仕事の内容は人形制作や彩色、眼鏡絵などを描くことであり、この頃に多く技術を身につけ、後に絵師として確立するに基点となる要因になった。応挙の画才を見いだした尾張屋の中島勘兵衛の計らいにより、1749年、応挙17歳の頃から狩野派の絵師、石田幽汀に入門し狩野派様式や花鳥画などを学んだ。、当時流行した眼鏡絵の制作に携わったことにより、西欧の遠近法の基礎を身につけたともいわれています。その後自然の写生に専念し、従来の日本画にはなかった遠近法などを取り入れた写生画を創出していき西欧の遠近法の基礎を身につけたともいわれています。その後自然の写生に専念し、従来の日本画にはなかった遠近法などを取り入れた写生画を完成させた。(参考資料 無量寺HP)
その画風は当時の京都画壇を風靡し、門人千名といわれ、呉春の四条派と京都画壇を二分する流派円山派となっ国宝、国の重要文化財クラスの各品を数多く残している。
『応挙博物館 客殿』
『孔 雀 の 間』(国の重要文化財に指定)



『孔 雀 の 間』




襖の部分絵・4枚

(A)面に在る仏間・十一面観音立像
「郭子儀の間」(国 重要文化財)



郭子儀は八方にらみで孫たちを見守っている。見る人がどの角度からみても郭子儀と視線があう不思議な技法である。
郭子儀(かく しぎ、697年 - 781年)は、中国、唐朝に仕えた軍人・政治家。玄宗、粛宗、代宗、徳宗の4代に仕えた。客家人[要出典]。安史の乱で大功を立て、以後よく異民族の侵入を防いだ。盛唐〜中唐期を代表する名将。憲宗(在位805年 - 820年)の皇后郭氏は子儀の孫である。(参考ウィキベキア)




[山水の間](国 重要文化財)




「山水の間」4点
「大乗寺以外の応挙作品」

国宝の「雪松図屏風」・6曲1双・紙本金地着色 | 三井記念美術館 2面;応挙作品の中でも傑作中の傑作として名高い名作である。


京都、大阪、江戸で大規模な呉服屋兼両替店を営んでいた新興豪商の三井家の依頼により制作された。三井家は応挙の大スポンサーでもあった。

「保津川屏風絵」は応挙最晩年の作で遺作とも言われる。


応挙は「虎」の絵を数多く残しているが何れも猛々しさに欠け猫の様な顔付に為っている。当時日本には活きた虎は存在せず置物や敷物の虎をみて描いたそうである。それ故獰猛な虎面は描けなかったそうだ。
虎と云えば阪神タイガース・ヒゲ爺も「トラキチ」まではいかぬがファンの一人。ファン必見の催しを紹介します。
とら・虎・トラ展
~甲子園の歴史と日本画における虎の表現~
『内容』
・前半説明文省略・・・・・。
甲子園をホームグランドとする阪神タイガースにちなみ「虎」に関する作品に焦点を当てた展覧会を開催いたします。
江戸時代を代表する絵師・伊藤若冲、円山応挙、長沢芦雪らが描いた虎、長崎派による独特の表現で描かれた虎、自他共に認めるほどの迫力のある虎を描いた岸駒や、動物表現を得意とした近代の画家・竹内栖鳳、虎を描かせれば日本一の呼び名も高い大橋翠石など多くの画家達が描いた虎の絵画を展示致します。
日本画約60点で様々な虎の表現の面白さにせまります。
『会場』
・ 西宮大谷記念美術館
・ 〒662-0952兵庫県西宮市中浜町4-38
『会期』
・ 2013年4月6日(土)~2013年5月19日(日)・水曜日休み
『料金』
・ 一般 800円 高・大生 600円 小・中生 400円
『閑話休題』:
「大乗寺以外の応挙作品・外」と続く・・・・・。

円山応挙の肖像画(作者は解らず)・ご存知の方は教えてください。

“狗子図”子犬の絵は多い・犬好きであったかも?

俳人与謝蕪村との合筆:蕪村に就いては後で書きます。

眼鏡絵とは、45度傾けた鏡に映した絵をレンズを通して覗いてみる風景画の一種である。それにより原画は絵や文字が左右反対に描かれている。

米国カリフォルニア州のカリフォルニア大学バークレー美術館の所蔵
「足のない幽霊」無き妻の幻「お雪」を描いたと云われている。以後「幽霊には足が無い」と云われる様になったとか・・・。
絵師円山応挙は余りにも多くの名画を残している。列挙すれば際限が無いのでこの辺で止めます。
『村松呉春』へと続く
・応挙は12人の弟子を連れて大乗寺に絵画を描きに行く・・・とあるがあれは間違い?
呉春は弟子では無い。
・ 蕪村の歿後は応挙の画を好み弟子にと請うが応挙は固く辞し,親友として画学を研究し写生を勉強。
詳しくは後で・・・・・・・・・・・・。


二隻八扇(八曲)の大きな屏風で蕪村没後十年後頃に完成したと言われている。
「白梅にあくる夜ばかりとなりにけり」・呉春の南画、俳諧、俳画の師である蕪村(与謝・谷口)の辞世の句である。師匠の辞世の句を絵画で表現したのが松村呉春作『白梅図屏風(一部)』だと言われている。
呉春の作品は国宝、重文クラスの絵画、俳画など数多く残されているがヒゲ爺はこの絵を格別な思いで見ている、蕪村の大ファンである所為かもしれん。

呉春の肖像画
呉春:宝暦2年(1752年)から文化8年(1811年)江戸中期の画家。四条風の開祖。
名豊昌・春・月渓,字伯望。称嘉右衛門・文蔵。
京都の金座年寄役の家に長男として京都堺町通四条下ルで生まれる。はじめは家業を継ぎ金座の平役を務めた。子供の時から指先が器用で金座時代小判を右手から左に投げる間に偽金を見分けたとの逸話があるそうだ。何時の頃から絵画の道に向かったか定かではないが明和7年(1770年)頃は大西酔月(京の画家)の門を叩いたとされる。数年後に酔月が亡くなると、安永2年(1773年)には与謝蕪村の内弟子として入門、俳諧や南画(文人画)を学ぶ。
天明元年(1781年)3月、妻を、8月には父を相次いで失う。傷心を癒す為か剃髪し、蕪村の勧めで、パトロンであった蕪村門下の商人を頼り、しばらく現在の大阪府池田市に転地療養する。(ウイキベキア参考)当時の呉服の里(くれはのさと)の古名をもつ村の酒造家に寄宿し翌年春を迎えたのに因み雅号を「呉春」とした。池田時代多くの傑作を残している。
・田舎清閑図 (石川県立美術館蔵) 二曲一隻 紙本淡彩
・柳陰帰漁図 (静岡県立美術館蔵) 二曲一隻 紙本墨画淡彩
・山樵漁夫図屏風 (ニューヨーク・バーク・コレクション) 六曲一双 紙本墨画淡彩
・山水図屏風 (東京国立博物館蔵、重要美術品) 六曲一双 紙本金地墨画
等々数多数・・・。




池田時代の作品は蕪村の画風の影響を強く感じるのはヒゲ爺ばかりかな・・・・。


絹本淡彩柳鷺群禽図・京都国立博物館・国宝・重要文化財(美術品)

蕪村の肖像画・呉春作
いろんな文章を読むと呉春が如何に師匠・蕪村を尊敬しつつ心酔していたかが偲ばれる。
天明3年(1783年)蕪村が重病に伏せると、呉春は京に戻る、同年末に蕪村は亡くなる。師の死後も、自ら挿図を描いて遺作句集『新花摘』を出版し、池田と京を往復し蕪村の家族の世話をする。
蕪村の歿後は応挙の写生画を好み弟子にと請うが応挙は固く辞し、親友として画学を研究しようと申し出る。呉春は写生を勉強して終に四条派の開祖となった。
四条派時代に為ってからの大作は呉春の項の冒頭の「白梅図屏風 (逸翁美術館蔵、重要文化財) 六曲一双 絹本墨画淡彩」・「大乗寺障壁画「農業之間」 (大乗寺蔵、重要文化財)」等々を筆頭に数多く残っているが今編では2点のみを紹介する。



「大乗寺障壁画「農業之間」



「春・夏・秋の部分画」
その他の作品:
・桜花游鯉図 (逸翁美術館蔵) 大幅 絹本著色 光格天皇の御下命により揮毫
・妙法院襖絵
・西本願寺耕作図襖絵 寛政7年(1795年)頃
・醍醐寺三宝院泊舟図襖
・蔬菜図巻 (泉屋博古館蔵) 1巻 紙本著色
四条派の時代になると天皇から揮毫(きごう)されるほどに絵師の頂点を極め多くの名刹に襖絵等を残している。
文化8年(1811年)7月自宅で病没する。享年60。法名は釈春譲。洛南の大通寺に葬られたが、大通寺が荒廃したため明治22年(1889年)9月、四条派の絵師たちによって金福寺の蕪村の墓隣に改葬された。
★編外ではあるが俳人・文人画家 与謝蕪村について書かせて下さい。何しろヒゲ爺は「蕪村ファン!」
★ 以下の絵画の絵師は誰でしょうか?









銀閣寺方丈の襖絵(一部)

「奥の細道」挿絵
次編「番外編 蕪村」で回答致します。
「完」
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