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ひげ爺の独り言 放談・小噺 『山陰海岸国立公園』     ご近所便り

 「丹後半島七姫伝説」を一編に纏めました。ご了承下さい。 
 
 丹後半島に入り網野町→丹後町にと進んできたが「丹後半島観光の隠れ目玉」の「丹後七姫伝説」を書き落としたので、通り過ぎた3姫・「静御前(しずかごぜん)」「間人皇(はしひとのひめみこ)」「川上摩須郎女 (かわかみのますのいらつめ)」を紹介する。
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 絵はねぶた絵伝統工芸士「雅号:橘鶴泉」氏の作品です。

 「丹後七姫伝説・静御前(しずかごぜん)」
 網野町の磯という小村の禅師(?)の娘として生まれた「静」は父の死後京に上り白拍子となる。
その後源義経に見初められ愛妾と為るが義経の兄・頼朝と義経の確執で引き離され宿していた義経の子も生後直ぐに殺されてしまう、傷心の静は、生まれ故郷の網野へ戻り、この地で20余歳の短い生涯を終えたのだと云い伝えられている。故郷・磯には、静御前をまつる静神社が悲恋の面影を残すかのようにひっそりとたたずんでいる。
★白拍子(しらびょうし)とは:平安時代末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞の一種でそれを演ずる芸人。遊女や子供が今様や朗詠を歌いながら舞ったものを言う。白拍子を舞う女性たちは遊女とはいえ貴族の屋敷に出入りすることも多かったため、見識の高い人が多く、平清盛の愛妾となった祇王や仏御前、源義経の愛妾となった静御前、後鳥羽上皇の愛妾となった亀菊など貴人に愛された白拍子も多い。
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             上村松園「静」(1944年)
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 「京丹後七姫・静御前」の絵はねぶた絵伝統工芸士「雅号:橘鶴泉」氏の作品です
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             静御前生誕の地の碑
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             静御前舞姿の碑
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             ひっそりとした佇まいの静御前神社
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             能舞台を模った展望台からの日本海の眺め
 「静御前」の終焉の地・菩提寺と称する場所、寺を数えると北は北海道、本州は基より四国九州各所に伝承され10指に余る、飽くまでも伝承、伝説であり全部信じると「静御前」10人以上存在した事に為ろう。
日本人大好き「判官贔屓」・義経ファンの為せる業に違いあるまい。
 この場では「丹後静御前」をそんな事も在ったのかと「コックリ」頷いて欲しいものである。


 「丹後七姫伝説・間人皇后」
 穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ、生年不詳 - 推古天皇29年12月21日(622年2月6日)は、飛鳥時代の皇族。欽明天皇の第三皇女。聖徳太子の生母として知られている。
 京都府京丹後市(旧丹後町)にある「間人(たいざ)」という地名は、穴穂部間人皇女に因むものと伝えられている。穴穂部間人皇女は蘇我氏と物部氏との争乱を避けて丹後に身を寄せ、宮に戻る際に自分の名を贈ったが、人々は「皇后の御名をそのままお呼びするのは畏れ多い」として、皇后が(その地を)退座したことに因み「たいざ」と読むことにしたと伝えられている。
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 「京丹後七姫・間人皇后」の絵はねぶた絵伝統工芸士「雅号:橘鶴泉」氏の作品です
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             間人皇后・聖徳太子 母子像
 お二人の目線の先には鬼退治伝説が残る「立岩」が聳える。丹後町の海水浴場「後ヶ浜海岸(のちがはまかいがん)」にある、大きな一枚岩。周囲は1km、高さは20mもあり、日本では珍しい巨大な自然石です。
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 立岩伝説鬼伝説:飛鳥時代 第31代 用明天皇の第三皇子磨子親王(聖徳太子の弟)が鰾古・軽足・土車という3匹の鬼を退治された時、二匹は殺し土車だけはみせしめのため、この大岩に封じ込めたそうな・・・今でも風の強い、波の高い夜などは鬼の号泣する声が聞こえるといわれている。
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             間人皇后ゆかりの碑

 「丹後七姫伝説・川上摩須郎女(かわかみのますのいらつめ)」
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 「川上摩須郎女」伝統工芸士「雅号:橘鶴泉」氏の作品
 丹後半島は大陸との交易があったことから、丹後王国の存在があったとも言われている。中国・周の時代の刀銭(紀元前5~6世紀)、王莽(おうもう)の貸銭(紀元14年)が発見され、古くから大陸との交流があったといわれている。5世紀頃盛んに造られた古墳が但馬から丹後に掛けて多く発見されている。
 大陸から船出して海洋学上から言っても直接大洋に向かわず陸地近くを東向すれば対馬海流に乗れば現存する大陸文化圏出雲地方島根半島から因幡・但馬・丹後半島・能登半島地方に漂着する。
この地方に大陸文化が浸透し豪族、王国が誕生しても何の不思議も無い。現に秦の始皇帝の家臣「除福」が最初に日本に到着した地は「紀元前219年、中国は秦の時代。方士「徐福」が、始皇帝の命令を受け、不老不死の仙薬を求めて、伊根町の新井崎に漂着した」と記述されており伝説と為っているが(除福伝説は後述予定)除福伝説は全国各地に散らばっている。
 「川上摩須郎女」は丹後半島の丹波の国(現丹後)の国王として君臨していた、四道将軍「丹波道主命」の妻・一男三女をもうけ息女「ヒバスヒメ」は垂仁天皇(第11代天皇)のお后となり「景行天皇」(第12代天皇)をはじめ「ヤマト姫」など四男一女を産む。丹波道主命と川上摩須郎女の孫娘が皇后になったことを喜び、兜山の山頂に建立したと伝えられるのが<熊野神社>である。この一大勢力の遺跡が久美浜町須田の伯耆谷に無数に存有している。
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 久美浜の兜山山頂にある熊野神社・鳥居と拝殿

  「丹後七姫伝説・乙姫」 
 言わずと知れた「浦島太郎伝説」である。「丹後風土記」に掲載されている。
 風土記とは:和銅六年(713年)元明天皇が諸国に地方の文化風土や地勢等を国ごとに記録編纂して、天皇に献上させた報告書を風土記と言う。
『丹後風土記』の中に『浦の島子』の物語、この話は養老四年(720年)に奏上された『日本書紀』にも、丹後地方に伝わる話『浦島子』として登場している。この話を基に室町時代から江戸時代にかけて成立した『御伽草子』に掲載され、それが今の『浦島太郎』の物語という訳である。
ここで「浦島太郎物語」を書く必要もありますまいが丹後地方には『水之江の島子』という口伝の民話が残っているそうだ。「江」は海や湖の入り組んだ地形の事を言い「海の入り江に住む島子さん」であろうか?
 
 ある日島子が釣りをしていると、美しい女人に変身した(乙姫ではなく亀姫)五色に光る亀の主が島子に懸想し「常世の国」に案内する。海の上をずーと西に進んで何日かの後にふわーと着いたそうな・・・。
その常世の国で「浦島太郎物語」の様に亀姫としばらく楽しく暮らして居たが里心が着いた島子は帰ってくると常世の国ではわずかな期間と思っていたのが、地上では、三百年経っていて途方にくれた島子が、亀姫からもらった玉手箱ならぬ『玉匣(たまくしげ)』という箱を開けると・・・。開けたとたんに島子は空にすぃ~っと呑まれてしまいましたとさ・・・・・・・。日本書紀では、白鳥になって空に飛んで行ったとある。
★常世の国(とこよのくに)とは、古代日本で信仰された、海の彼方にあるとされる異世界で一種の理想郷として観想され、永久不変や不老不死、若返りなどと結び付けられた日本神話の他界観をあらわす代表的な概念である。
当時の仏教では西方の阿弥陀浄土と南方にも浄土があるとされ、補陀落と呼ばれた。補陀落(ふだらく)は華厳経によれば、観自在菩薩(観音菩薩)の浄土であるとされる。補陀落(ふだらく)思想の概念では補陀落は観音菩薩の住む処で永久不変や不老不死の極楽浄土であるとされている。其処え行こうと決行されたのが補陀落渡海である。
 丹後地方の『水之江の島子』民話は説教僧が「観自在菩薩・西方の阿弥陀浄土と南方にも浄土・永久不変や不老不死の極楽浄土」等などを大衆に説く為創作された仏教説話であろうとヒゲ爺は想像している。

 「乙姫さんはこんな美女」
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 「乙姫」伝統工芸士「雅号:橘鶴泉」氏の作品
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        歌川国芳画浦島太郎
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              水江浦嶋子
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 嶋子をまつる神社が網野町浅茂川の海岸に鎮座する嶋児神社            
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              左遠方に見える福島
 風土記では、水江浦嶋子(みずのえうらしまこ)となっており、この嶋子をまつる神社が網野町浅茂川の海岸に鎮座する嶋児神社です。
また、嶋児神社から左遠方に見える福島は、浦島太郎と乙姫がはじめて出会った場所といわれ、ここには乙姫をまつった福島神社があります。

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              浦島太郎像(香川県三豊市)
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              金沢の浦島太郎
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              群馬伊勢崎の浦島太郎
 日本各地に浦島伝説は残っている;・愛知県武豊町の浦島太郎・鹿児島の浦島太郎・寝覚の床と浦島太郎
・岐阜県中津川市坂下町の乙姫岩・各務原市の浦島太郎・横浜の浦島太郎・沖縄の浦島太郎等などである。

 丹後半島の海岸線から少し遠ざかり内陸部に移るが・「丹後七姫伝説」の続きから始めます。

 「丹後七姫伝説・細川ガラシャ」
 
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 「京丹後七姫・細川ガラシャ」の絵はねぶた絵伝統工芸士「雅号:橘鶴泉」氏の作品です。「才色兼備の絶世の美女」と謳われていた。
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              細川玉の時代肖像画
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              細川ガラシャの時代肖像画
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 細川ガラシャは明智光秀の三女(命名;珠・玉)として産まれ16歳の時、織田信長の命により勝竜寺城(長岡京市)城主細川藤孝(幽斎)の長男忠興に嫁ぐ。新婚時代をこの勝竜寺城で過した後、丹後の宮津城に転封される。
 天正10年(1582年)6月、珠の父の光秀が織田信長を本能寺で謀反を起こし(本能寺の変)秀吉に「山崎の戦い」に破れ自らも滅んだため、珠は「逆臣の娘」となる。忠興は珠を愛していたがために離縁する気になれず、天正12年(1584年)まで彼女を丹後国の味土野(みどの)(現在の京都府京丹後市弥栄町)に隔離・幽閉する。
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              ガラシャの幽閉地の記念碑
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 新婚時代を過した長岡京市にある勝龍寺城・現在は勝龍寺公園と為っており忠興と一緒の記念像がある。 
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              「美男美女」ペアの記念碑
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 忠興の肖像画・戦国大名。丹後国宮津城主を経て、豊前国小倉藩初代藩主。肥後細川家初代藩主。現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また父・幽斎と同じく、教養人・茶人としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。第79代総理大臣細川 護熙(ほそかわ もりひろ)は細川家直系第18代当主である。

 細川珠は何時ガラシャに為ったか?
 信長の時代カトリックの宣教は1549(天文18)年8月15日、イエズス会員聖フランシスコ・ザビエルの鹿児島渡来によって始められた。イエズス会、フランシスコ会、ドミニコ 会、アウグスチノ会等の会員がインド・フィリピン等から相次いで来日し、各地 に教会、修道院、学校、病院等を設置して熱心に宣教に当ったので、教会は驚異 的発展を遂げ、1614(慶長19)年の統計によれば、聖職者150名、信徒数 65万を超え,信徒の中には公卿2家及び大名55名があったと言われる。
キリシタン大名には高山右近、大友義鎮(宗麟)、大村純忠、有馬晴信、小西行長、黒田孝高、蒲生氏郷、筒井定次などが有名である。大友義鎮(宗麟)が天正10年(1582年)に九州のキリシタン大名と計らいローマへ天正遣欧少年使節を伊東マンショを名代として派遣したのは有名な話である。 
 右近の信仰は厚く「荒木村重の乱」での迫害、秀吉によって施行された「バテレン追放令」慶長19年(1614年)徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて長崎から家族と共にマニラに送られたマニラに12月に到着し翌年1月逝去した、筋金入りのクリスチャンである。
 忠興も宣教師や親交の深い・利休七哲の一人でキリスト教に帰依している高山右近から教義を聞き同席した珠が興味を抱き入信したとの説もあるが信じ難い。
 本能寺の変の後、珠は弥栄町味土野(みどの)に2年間幽閉されるが、その間珠を助けたのは結婚する時に付けられた小侍従や、細川家の親戚筋にあたる清原家の清原マリア(公家清原枝賢の娘)らの侍女達だった。清原マリアは洗礼を受けたクリスチャンで彼女からキリスト教の話を聞き、信仰に救いを求めるようになりやがて洗礼を受け「ガラシャ」という名を授かったとの説が頷ける様だ。
 信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉の取り成しもあって、忠興が珠を細川家の大坂屋敷に戻したのは天正12年(1584年)3月の事である。
出家した舅・藤孝とともに禅宗を信仰していた珠だったが、忠興が高山右近から聞いたカトリックの話をすると既に清原マリアから教えられていたが益々その教えに心を魅かれていく。舅・藤孝の手前忠興の前ではそ知らぬ風を装っていた。
 天正15年(1587年)2月11日(3月19日)、夫の忠興が九州へ出陣すると(九州征伐)、彼女は彼岸の時期である事を利用し、侍女数人に囲まれて身を隠しつつ教会に行き日本人のコスメ修道士にいろいろな質問をした。コスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べている。
珠は洗礼を受けないまま、侍女たちを通じた教会とのやりとりや、教会から送られた書物を読むことによって信仰に励んでいた。この期間にマリアをはじめとした侍女たちを教会に行かせて洗礼を受けさせている。 秀吉がバテレン追放令を出したことを知ると大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、自邸でマリアから密かに洗礼を受け、ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵み)という洗礼名を受けた。バテレン追放令が発布されていたこともあり、彼女は夫・忠興にも改宗したことを告げていない。 

 秀吉の死に因って家康の横暴さは益々エスカレートし天下は豊臣方(西軍)徳川方(東軍)と二分される時代に入る。信義に篤い細川家は当然西軍に組する筈であったが「関が原の戦」では東軍に組したのは「ガラシャ事件」が原因であろうと考えられる。
 「関が原の戦」の直前西軍の大将石田三成は大阪に屋敷を持つ大名に人質を大阪城に差し出す様命じるがガラシャは拒絶する。その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませるとガラシャは屋敷に爆薬を仕掛け屋敷に火を放った後、キリスト教は自害を禁じられている為家老の小笠原少斎に胸を突かせて壮絶な死を遂げた。オルガンティノ神父が細川屋敷の焼け跡を訪れてガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬ったが忠興が後に彼女の骨を細川家の菩提寺である大坂の崇禅寺に改葬した。
この事件が発端で細川家は東軍に組した、後に熊本城の太守に為り平成の世までの18代営々と続いたのは「ガラシャの壮絶な死」のお陰と言っても過言ではあるまい。
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               崇禅寺とガラシャ塚
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 ガラシャ時世の和歌「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」


 「丹後半島七姫伝説・小野小町」
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 絵はねぶた絵伝統工芸士「雅号:橘鶴泉」氏の作品です
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       上村松園・画 ・「小野小町」
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       狩野探幽『三十六歌仙額』
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       小野小町(『前賢故実』菊池容斎画、明治時代)
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 「花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせし間に」 森村宜永・画
 上記の和歌は言わずと知れた小野小町(おののこまち 六歌仙、三十六歌仙の一人)の作で『古今集』春・113に記されており「百人一首」でも良く知られている。
 
 丹後半島の中程に位置する現在の京丹後市大宮町に小野小町伝説は残っている。
若い頃は絶世の美女と謳われた小町もやがて年老いて都を離れ丹後半島の「天橋立」を目指して旅にでる。
途中、三重の里「五十日(いかが)」に住む上田甚兵衛と会い甚兵衛宅に滞在する。小町の申すには「五十日(いかが)」の日は火に通じるから縁起が悪いと言い「日(が)」を「河」に改めさせたそうな・・・。すると、村に火事が亡くなり、女性は安産になったそうな・・・。
再び天橋立に向かおうとした小町は、長尾坂で腹痛を起こし、上田甚兵衛に背負われて村まで帰るが、上の辞世の和歌を残して亡くなったそうな・・・。村人達は小町を篤く弔い、村の一等地に葬った。後に彼女を慕って「深草の少将」までもが現れて、この地で亡くなったという。
★ 深草少将(ふかくさのしょうしょう)は、室町時代に世阿弥ら能作者が創作した、小野小町にまつわる「百夜通い」の伝説に登場する人物。欣浄寺(京都市伏見区)に屋敷があったともされる。
小野小町に想いを寄せる深草の少将が、求愛をしたところ、「百夜、通い続けたら晴れて契りを結ぶ」との約束をされた深草少将は、深草から小野小町の住む山科 小野の里まで約5kmを毎晩通い99日続けた。小町は深草少将が毎日運んできた榧(かや)の実で深草少将の通った日を数えていた。99日目の雪の朝深草少将は、99個目の榧の実を手にしたまま死んでしまう話である。
 
 大宮町には、小町辞世の句が伝わっている。 

   九重の 花の都に 住はせで
      はかなや我は 三重にかくるる
  
 五十河には、小町の墓と伝えられる小町塚や、小町が開基したといわれる妙性寺があり、一帯は小町公園として整備されている。
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              妙性寺
 小町には「小野妙性」の法号と墓が建立され、小町を開基として妙性寺が創建されたと伝えられている。その後、小町の追ってきた深草少将もこの地で亡くなった為、寺の鎮守として祀る事となり岡の宮と呼ばれるようになった。寺宝として小町の座像や位牌、妙性寺の由緒が記された巻物などが伝えられている。
 
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 「こまちの舎」には「丹後半島七姫伝説」ねぶた絵が展示されている
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              公園内の「こまちの舎」
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              「こまち舎」にある小町のブロンズ像
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              公園内にある小町の墓と記念碑
 小町の死後「深草の少将」がこの地に現われ此処で死んだ等合点のいかぬ事もあるが伝説は飽くまで伝説、「丹後七姫伝説」として此の儘そっとして置く事にします。                 

 「小町ゆかりの地」と称する処・場所は全国津々浦々に散らばっている。生誕の地・終焉の地は秋田県湯沢市雄勝町を筆頭に生誕の地は10ヶ所、終焉の地は10指に余る、他にゆかりの寺・墓・塚・歌碑・公園・逸話・在住の地等々形態は異なるが30~40ヶ所とも言われ、小町が10人は居た事になろうか・・・・・。

 「小町ゆかりの寺」と称する寺が京都市山科区小野御霊町にある。隨心院(ずいしんいん・ずいしんにん)である・真言宗善通寺派大本山の仏教寺院、弘法大師より8代目の弟子にあたる仁海(にんがい)僧正の開基。本尊は如意輪観音。当寺の位置する小野地区は、小野氏の根拠地とされ、隨心院は小野小町ゆかりの寺としても知られている。
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               隨心院山門
 小野小町の生涯は歴史的には明確に解っていないのが常識ではあるが、隨心院では小町は、勢力を誇った小野郷の小野氏の小野篁(たかむら)の子・良実の娘として産まれ、良実が出羽の国司を勤めた頃とも良実が流罪で肥後に流された時に産まれたとの説もある。これで生誕の地が秋田と熊本説が生まれた訳である。
 何はともあれ隨心院には「小町ゆかりの遺品」が数々残されている。
深草の少将「百夜通い」もその一つである。
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      室町時代に入り世阿弥など能楽・謡曲に携わる者が創作した話
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                    小町の歌碑
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              小町の恋文を埋めたとされる「文の塚」              
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              小町が朝な夕なに化粧したとされる「化粧井戸」
 以上の様に数々の「伝承・小町ゆかりの遺品」が残っているが、小町の産まれたのが数々の資料や諸説から生没年は天長2年(825年) - 昌泰3年(900年)の頃と考えられている。
隋心院の創建が正暦2年(991年)であることから鑑み年代的に「離れ過ぎ」の観は否めないが反論の資料も理由も無いので「そっと」して置きます。

  
 この編の冒頭小町の美人画を上村松園を筆頭に数点掲載したが、「絶世の美人」「世界三大美人の一人」等と評される小野小町が本当に美人であったのか否か疑問視される向きもあるがその由縁を探ってみる。
 小町が活躍したと言われている平安時代「(794年-1185年/1192年頃)延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間)」に入ると仏教の影響もあり彫刻(仏像)・絵画(仏画)文化も発展したにも関わらず小町の絵画や彫像は何一つ残っていない。
小町の古い記録は、紀貫之が中心で4人の選者により編纂された「古今和歌集」(延喜5年(905年)4月18日に奏上された)の2編の序文(仮名序・真名序(漢文))の仮名序(紀貫之執筆)の中に「小野小町は古の衣通姫の流なり。あはれなるやうにて、つよからず。いはば、よき女のなやめるところにあるに似たり。つよからぬ女の歌なればなるべし。」と紹介されたのが最初とされている。
 これでは小町が「絶世の美女」か否かの判断は到底出来はしない、唯一の拠り所は文中の「衣通姫(そとおりひめ)」であろう。「古事記」に記されている允恭天皇(いんぎょうてんのう ・第19代天皇。在位は5世紀中ごろ)の息女軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)が美しく「その美しさが衣を通してあらわれるようだという意味を込めて衣通姫と呼ばれた」とある。
「古事記」は初代天皇から第33代天皇までの名、天皇の后妃・皇子・皇女の名、及びその子孫の氏族など、このほか皇居の名・治世年数・崩年干支・寿命・陵墓所在地、及びその治世の主な出来事などを記している天皇家係累を記した書物なのだから登場の后妃・皇女は皆美人ばかり、これでは衣通姫も到底額面通りに受け取る訳にはいきはすまい。
 では何時の頃から「小町の美人説」が生まれたのかヒゲ爺流に考察してみた。
 小町の時代から下ること凡そ400年今まで物まねなどの雑芸が中心だった猿楽(さるがく)に変わり室町時代の初頭に入り観阿弥、世阿弥、金春禅竹等に因って「能」が発展していく、能舞の楽曲として「謡曲」が創られ観阿弥作と言われる「七小町」が誕生した。これが「小野小町美人説」の要因に為ったと考えている。
江戸期に入ると謡曲「七小町」が「歌舞伎」の題材になったり「浮世絵」の画題になり一般大衆を魅了し「小町美人説」が誕生したのでは無いかと思う。
「浮世絵小町」の一端を掲載する。

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  風流七小町 かよい
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 風流七小町 関寺
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 風流七小町
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 青樓七小町_扇屋内瀧川
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 青樓七小町_扇屋内瀧川
 何れも「風流七小町」と題する喜多川歌麿の浮世絵である
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 歌川豊国:「風流七小町 かよわひ町」
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 歌川豊国: 「今やう役者七小町 草紙洗小町」
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 歌川国芳 :七小町:関寺
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 細田栄之:「風流七小町雨乞」
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 鳥居清長:「浮世七小町」 「卒都婆」
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 鳥居清長:「浮世七小町」 「草紙洗」
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 北斎の小町

 これ程の有名浮世絵師が「七小町」を画題にして美人画を描き当時の江戸に流布すれば話題になるのは必然であり「美人の小町」が定着したのは江戸庶民から自然発生したとヒゲ爺流に結論付けて「小町の編」を閉じます。 

 「羽衣天女」
 「丹後七姫伝説」の七人目の姫を書くに当り色んな資料を漁っていて七人目を「羽衣天女説」と「安寿説」ある事に気付いた。「天女」が有ると「安寿」無く「安寿」が有ると「天女」が無い。
何故?「吉凶」を気にしているのかなと思い以下の考察をしてみた。
 
 中国で発生した「陰陽五行説」では奇数を「陽で吉」偶数を「陰で凶」と考え東洋医学の「鍼灸学」や「占術」に取り入れられ古来日本でも奇数を「吉」として朝廷の祭事の日取りを定めたとある。因みに;正月(一月一日)・★人日(じんじつ・1月7日)、★上巳(じょうし・3月3日)、端午(たんご・5月5日)、七夕(たなばた・7月7日)・★重陽(ちょうよう・9月9日)正月を除く5つを五節句といい、陰陽論を中心に考えられた行事で中国から伝わっている。

 ★人日の節句:旬の植物である七草を粥にして食べれば、自然界から新たな生命力が貰え、無病息災で長生きができるとされていた。「七草粥」を食べて祝う日。春の七草とは:「セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロこれぞ七草」と詩にもある。「七草なずな、唐土(とうど)の鳥が、日本の土地に、渡らぬ先に、七草たたけ~」と唄いながらきざんだそうな・・・・。
 ★上巳の節句:桃の花の咲く頃の節句で「桃の節句」とも言われ自然の生命力を貰い健やかに活きる為厄払いを目的にした。平安時代の貴族階級では宮中を模した人形を飾り宮中の真似事をする慣わしであった。
農村では草や藁で人形を作り其れを撫で擦り穢れを取って貰う行事として行われ後に紙で人形を作る様になり其れを海や川に流す(雛流し)の風習に変わってきた。然し、江戸期に入り海や川に流すのは河川を汚す理由から段々と廃れ現在に繋がる「雛飾り」の習慣が根付いていった。然し現在でも奈良県五條市南阿田町・鳥取市用瀬町(もちがせちょう)にはその風習が残っていて4月3日には「流し雛」の行事が行われている。
 ★重陽の節句:陽(吉・奇数)の一番大きな数字は9であり9月9日は大きな「吉の陽が重なっている」ので重陽と言い「菊の節句」とも言われている。菊に長寿を祈る慣わしである。

「流し雛の日」が何故4月3日なの?と思われる方もあろうが五節句を始め古来から伝わる伝統行事は旧暦(陰暦)で定められた行事で新暦に無理やり当てはめたので行事と自然の成り立ちとの辻褄が合わないのである。
「七草の生えていない人日の節句」「桃が咲かない桃の節句」「菖蒲が無い端午の節句」「梅雨期の七夕」「菊の無い重陽の節句」不思議な五節句である。
新暦・旧暦を比較すると旧暦の方が凡そ一ヶ月遅い、現行の五節句を一ヶ月遅くすると「七草は生え、桃も咲き、菖蒲も生えるし、梅雨も上り、菊も咲く」陰陽説に因る本来の五節句を踏襲するなら一ヶ月遅らすべきではでは有るまいか?如何ですか・・・・!
 「流し雛」ばかりで無く旧暦の行事を一月遅れの新暦に取り入れているのが盆(旧暦7月13~15日)である。関東は7月15日だそうだが関西以西は殆んどが8月13~15日であり何の違和感もない。
ヒゲ爺は、古来より伝わる行事や慣わしは自然界に沿うた時期にすべきと考えるが如何なものであろうか・・・。
 
 「閑話休題」;
 以上様に書くとヒゲ爺が陰陽に拘り「吉凶」を気にしている様に映るが全くその懸念はない。
 話を冒頭の「丹後半島の七姫」の戻すが、「七の数字」は「陽で吉」吉語は多く「七福神」に始まり・「色の白いは七難かくす」・「ラッキイセブン」・「七草粥」・「七夕」・「お七夜」・「北斗七星」・「人は七度蘇る」「五七五の俳句・七七と続けて和歌」等々と多い。
七姫も七の吉語に習い七姫に固執して要るのかな・・・?と思ったりもしている。でも吉凶合わせた「七転八起」「七曲八峠」「七転八倒」等ヒゲ爺流こじ付けをすると七+八=十五で奇数で吉か?・・・何とも言えません。八は偶数凶の字と言うが「八」は「末広がり」数字の8は横に倒せば永遠・永久の「メビウスの輪」決して凶の字ではない。七姫にするか八姫にするかは丹後の先人にお任せしよう。

 無駄話が長すぎたが、何はともあれ伝説の七姫目を書き終えねば為らぬ。ヒゲ爺は敢えて「羽衣乙女」を選ぶ事にした。「安寿姫」森鴎外先生にお任せする。興味のある方は鴎外著「山椒大夫」をお読み下さい。


 「羽衣天女」
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 「京丹後七姫・羽衣天女」・絵はねぶた絵伝統工芸士「雅号:橘鶴泉」氏の作品です
 羽衣天女伝説は「丹後風土記」に書かれた伝説である。風土記は、奈良時代の和銅(わどう) 6年(713)に元明天皇(げんめいてんのう)により詔(みことのり)が出され編さんされたものです。国内の産物や民俗、伝承などがその対象とされた。、『丹後国風土記』は完全な形で現存しておらず後世の史料に引用されて残る逸文として「奈具社(なぐしゃ)」「天橋立」「浦嶋子」が知られている。
 羽衣天女伝説は「奈具社」に残る伝承話である。

 比治山の真奈井(まない)という池で水浴する8人の天女の1人が羽衣を隠され、和奈佐(わなさ)という老夫婦の子となります。天女はどんな病をも治すという酒を造り、老夫婦は裕福になります。しばらくして和奈佐の老夫婦は天女に対して、自分たちの子供でなく家を出るように天女に告げます。天女は天を仰ぎ嘆き悲しみ、歌を詠みます。
  天あまの原 ふりさけみれば 霞立ち 家路まどいて 行方(ゆくえ)知しらずも
 天女は家を出て、★荒塩村、丹波里哭木村(どうきむら峰山町)を経て船木里奈具村(弥栄町船木)に移りり、わが心なぐしくなりぬとて、この村に住み着つくこととなります。そして最後に天女は奈具社に祭られる豊宇賀能売命(とようかのめみこと)であるといわれている。
 ★「遂に退り去きて荒塩の村に至りぬ。即ち村人らに謂りて云はく「老夫老 婦の意を思ふに、我が心は荒塩に異なることなし」といふ。仍ち比治の里 なる荒塩の村と云ふ。
また丹波の里なる哭木の村に至り、槻の木に拠りて 哭きき。故、哭木の村と云ふ。
また竹野の郡船木の里なる奈具の村に至りぬ。即ち村人らに謂りて云は く「此処に我が心なぐしく成りぬ。古事に平けく善きことを奈具志と曰 ふ」といふ。乃ちこの村に留まりつ。こは謂ゆる竹野の郡の奈具の社に坐 す豊宇加能売の命そ」

この最後の結びにより、この物語は丹後に伝わる伝説を超え、背後に潜む政治的な意味を類推させます。豊宇賀能売命(とようかのめみこと)は丹後地域の多くの神社に祭られる女神であるが伊勢神宮の外宮に祀られる神です。祭神が遷座されるということは、政治的な大きな変革を背景としていたものと容易に想像されるところで時の朝廷と深く関わっていたと想像される。
 そして羽衣天女が最後に暮らした奈具村は、弥生時代中期に玉作りが行われていた奈具岡遺跡の近くにあたり、興味深い伝説である。
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              乙女神社(京都府 京丹後市峰山町)
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              羽衣乙女伝説の由来 
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 磯砂山山頂の羽衣天女・丹後の羽衣天女は、朝鮮の民族衣装、チョゴリである。朝鮮半島からの渡来人で稲作と酒造りの話では無いかとの説もある。

ご多分に漏れず羽衣伝説は日本各地、北は北海道から沖縄に至るまで50ヶ所以上もに存在する伝承話である。その多くは説話として語り継がれている。最古の羽衣伝説とされるものは風土記逸文として残っており、滋賀県長浜市の余呉湖を舞台としたものが『近江国風土記』に伝承されている。
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 余呉湖の天女・余呉湖は、賤ヶ岳(標高422m)を一つ隔てた琵琶湖の北側にあり、面積約1.8平方キロメートル・周囲約6.4km、水深13m、三方を山で囲まれた盆地にあります。
 余呉湖天女伝説:余呉の郷の湖に、たくさんの天女が白鳥の姿となって天より降り、湖の南の岸辺で水遊びをした。それを見た伊香刀美は天女に恋心を抱き、白い犬に羽衣を一つ、盗み取らせた・・・・・・以下は立て札を参照されたい。
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 余呉湖伝説では天女が白鳥に変身して降りてくる。天人女房譚(てんにんにようぼうたん)ともいい、ヨーロッパでは白鳥処女伝説といわれる。天女が地上の川や湖に降りて水浴をすると、人間の男が天女の衣をひそかにとって隠し、天に帰れなくなった天女と結婚するというのが標準的な筋である。
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 天女の衣掛け柳の大木:樹齢130年、樹高12m、幹周り4m・現在の木は明治初期に枯れて倒れた後、その根から成長したもので、枯れる前の樹齢は1300年以上と推測されている。余呉湖以外の地域の天女伝説では羽衣をかけるのは松がほとんどで柳が登場するのは余呉湖だけである。
余呉湖の伝説は、古代朝鮮の新羅の渡来人が農耕・養蚕・機織り・陶器作り等の技術を教え大陸文化を広めたと伝えている。新羅は朝鮮半島で7世紀の中頃栄えたが北は高句麗・西に百済が控え外敵に挟まれている状況下にあり新天地を求め国外脱出を図った人達が多く居ても不思議ではない。
 新羅は朝鮮半島の最南端に位置し船を沖に出せば対馬海流に乗り必然的に日本海側海岸山陰地方を中心に各地方に流れ着く筈である。
発展途上の地方に新しい文化と技術が加われば急激に発展し「丹後半島王国」が創られたのも、天女衣装が「チョゴリ」なのも頷ける話である。丹後地域の多くの神社に祭られる女神である豊宇賀能売命(とようかのめみこと)を時の朝廷が伊勢神宮の外宮に祀ったのはその新勢力を取り込むためと容易に想像できる。
 但馬地方。丹後地方にも大陸文化を想像させる古墳群が沢山見つかっている。この地方は大陸文化発祥の地と言っても過言では有るまい。
 余呉湖・丹後の奈具・三保の松原が日本3大天女伝説と言われるが、三保の松原天女は余りに有名なのでご承知と思い此処では写真数枚残し割愛し「天女の編」を閉じます。
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 御穂神社(みほじんじゃ)は静岡県静岡市清水区三保にある
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                謡曲「羽衣」の高札
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                羽衣の松
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                三保の松原
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                三保の松原遠望
 
    
                       「この編 

 
                    

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