ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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ひげ爺の独り言 放談 小噺 『山陰海岸国立公園』の ご近所便り
「湖山池」

「湖山池」とコカ・コーラウエストスポーツパーク(元々は鳥取市布勢総合運動公園と呼ばれていたが、コカコーラウエストジャパン社が命名権を取得し、2008年4月から「コカ・コーラ ウェスト スポーツパーク」と改称された。なお、命名権は総合公園全体なので、各施設もコカコーラウエスト社の名前が入る)

「湖山池」は鳥取市街の西方に位置する湖山砂丘の中央部にあり「池」と名の付く湖沼の中では日本最大の池である。面積17平方km・周囲凡そ18km・水深6,5m。数本の河川が流入した淡水と日本海に流れる湖山川から為る汽水湖である。
5万年前と2、2万年前に大山火山の大噴火の火山灰で鳥取平野の原型が出来上がったが5~6千年ほど前の縄文時代に地球が温暖化し,海水面が上昇して現在の湖山池まで海が拡大し内湾が形成された。下って2千年ほど前の弥生時代には反対に地球全体が冷却化し海水面が2m ほど低下した。このため,海岸付近の砂浜が拡大して激しい飛砂が生じ,砂丘が高まり,拡大した。そして,縄文時代の内湾は千代川の搬出する砂礫により埋め立てられて,海と分離されて湖山池が出来た、所謂海跡湖である。
★海跡湖 【かいせきこ】
かつて海だった所が砂丘,砂嘴(さし),砂州の発達により海岸の湖沼となったもの。一般には潟湖(かたこ)である。北海道のサロマ湖,静岡県の浜名湖等。

「湖山川」・「湖山池」は湖山川と日本海に繋がっている。元々湖山川の河口は千代川に合流していたが、水害防止のため湖山川は日本海に直接につなげられた。 このため海水が逆流して湖山池の塩分濃度が上昇し、その水を利用した周辺農地で塩害が発生してしまった。


「水門」・湖山川の途中に水門を造り「開閉操作」をして吃水漁業者と農業者の調整を図るため塩分濃度調整を行っているが周辺開発等により水質の悪化が進んでいるとの事。水質の悪化により酸素濃度が低く為る傾向にあり昭和24年度より塩分濃度を高める様にと水門を開ける頻度が高くなっているそうである。
その所為か定かでないが湖山池に今年3月8日「アザラシ」が現れた。


3月7日に湖山池に姿を見せたアザラシ「コヤマみどり」


「コヤマみどり」の報道記事と鳥取市長発行の「特別住民票」・3月26日以降は姿を見せていない。
湖山池周辺の環境整備は進み、観光施設も整ってきたが裏腹に湖山池の水質はかなり悪くなり特に平成2(1992)年頃から急速に水質が悪くなっている。その原因は,湖山池周辺が急速に都市化が進んで生活排水が増えたり,農薬や肥料の農畜産にかかる汚染物質の蓄積などで,水質が悪くなり,リンや窒素などの増大で富栄養化している。植物プランクトンが大量に発生して「アオコ」が発生したり,ヒシの繁茂,酸素欠乏による多くの魚介類の死滅など,湖山池の生態の破壊が進んでいる。
アザラシの出現で塩分濃度を上げる方針は成功したかに見えたが梅雨明けの7/8日には強烈な日光が降り注ぎ温度も上がったので、日中に植物プランクトンやそれを餌とする微生物が爆発的に増えた為水中が酸欠状態に為り湖山川や湖山池で鯉・鮒・汽水域に棲むボラ・コノシロ・セイゴ・貝類等の大量死があった。
★酸欠の理由;植物プランクトンやそれを餌とする微生物は日中は光合成により酸素を排出するが夜間は反対に酸素を吸収し水中を酸欠状態にする。


酸欠死した魚・清掃する人達;回収した魚は35トンにも為ったそうである。
近代文明はそれまで考えられなかった豊かさ、便利さを人類にもたらしてきた。環境整備・観光施設の開発は人間界に採っては大いに利する事に違い有るまいが自然の摂理(ルール)を歪め破壊して仕舞っては「自然への冒涜」でしか無い。大自然を人間の思惑の儘変更(水路の変更)したり制御したり(塩水化)することは「人間の烏滸がましさ」でもあり難しいものである。
此処で梅原氏の一言を添えて置きます。
「人間中心主義の近代文明が今や限界にぶつかり、このままでは人類そのものの存続が危うくなってきました。この文明の危機を乗り越えるには、人間も太陽・空気・水といった自然のめぐみによって命を与えられ生かされている一つの生き物であるから大自然の摂理(ルール)にもとづいた、人間として望ましい生き方を心がける事である。(梅原 猛)」
「湖山池」に纏わる「湖山長者」の昔ばなしが残っているが「自然の摂理(ルール)」犯し「報いを受けた長者の話」である、仏教説話の一つと思われる。
むかし、因幡(いなば)の国(くに)、今の鳥取県に湖山長者という大層欲深かな長者がおったと。
長者の田んぼは千町もあって、その田んぼを一日で植えるしきたりだったと。
今日が田植えという日、夜も明けぬうちから、広々とした田んぼに数えきれんほどの早乙女(さおとめ)たちがずらぁっと並んで、いっせいに植えはじめる。そりゃぁ見事なながめだったと。
ところが、ある年の田植えの日のこと。
昼時(ひるどき)に、一匹の猿が子猿をさかさまに背負うて、山から下りて来た。
それを見つけた早乙女たちが、
「あれ、猿が赤ん坊を逆さに」
「ほんに、今にも落っこちそうな」
「あれ、落ちた」
「可愛いいなぁ」
と、口々にキャー、キャーはやしたてはじめた。
すると、近くの田、遠くの田、どの田の早乙女たちも、どの田の早乙女たちも、
「何だ、何だ」
と、田植えの手をやすめて、猿を見ようとした。
このありさまに、おどろいたのは湖山長者だ。
長者屋敷の高殿(たかどの)から、
「なにをしているのや、手を休めるな」
と大声でどなった。
早乙女たちは、あわてて田に戻ったが、大勢が一せいに手を休めたもので、その日は日暮れになっても千町の田んぼを植えおわることは出来そうになかった。
日は、はや、西の山に沈もうとしていた。
長者は、赤くなったり、青くなったりしてどなり散らした。
が、どうしても日の暮れるまでに終わらないと分かると、
「ようし、こうなればお天道(てんと)さんに戻ってもらうよりしょうないわい。なんの、日の出の勢いのこの湖山長者に出けんことあるかい」
そういうと、高殿に立って、さっと金の扇をひらき、お天道さんを三度(みたび)、大きく招きかえしたそうな。
するとどうだ、西の山に沈もうとしていたお天道さんが、つっつっと糸にひかれるように、もういちど、天に戻ったそうな。
「それ、この間(ま)に苗を植えろ。一枚の田も残すな」
長者は叫びたてたと。
早乙女たちは、わき目もせずに植えていった。
そうして、ようやく田植えが終わったとき、それに合わせるように日が沈んだと。
さあ、近郷(きんごう)はもとより遠国(おんごく)にまでこの話は伝わった。
「入り日も招きかえす勢いとは、このことやで」
と、長者は大きな盃(さかずき)をかたむけて、上機嫌だったと。
次の朝、
長者は目を覚ますと、一面に緑の苗にうまった我が田を見ようと、高殿へのぼった。
のぼってみて驚ろいた。
「あっ」
と叫んだまま、言葉が出ない。
なんと、一夜のうちに、見渡すかぎりの田んぼは、池になっておった。
そして、やがて長者屋敷も湖山長者も池の中へ沈んでしもうたそうな。
この池を湖山池という。
(民話・湖山長者 原文のまま)
日本海から切り離された湖山池には海の入り江と同様に島が点在している。

「湖山池のひょっこり・ひょうたん島」と呼ばれている一番大きな青島・弁財天が祀られている猫島・津生島・鳥島・団子島の5島がある。図の△印は世界でも珍しい「石釜漁」の伝統が残る三津地区である。本編では観光地化された青島・猫島・石釜漁の紹介に留めます。
*三津地区に残る「石がま(石釜、石竈)漁」:

(写真①)


「石がま」と「石がま漁・石がま揚げ風景」・鳥取県の無形民俗文化財に指定されている。
「石がま漁」とは、湖山池西側にある三津地区だけに残る湖山池独特の漁法で江戸初期頃から冬期に行われていた伝統漁法である。越冬中のコイやフナの習性(水温が下がると魚は岩や石の間に集まる習性がある)を利用した巧妙な漁法で石釜は魚を獲るための「人工漁礁」である。そのメカニズムは次のようなものです。
まずは、石釜の前方には「捨石」と呼ぶ石群を沈ませておきます。魚はこれを見て、その先に憩いの場所があるように思うらしく、石をつたってやがて石釜の底(入口)に突き当たります。さらに、魚は石組みの隙間から見え
る奥の方が安全な場所だと思って、さらに中に入っていく寸法である。岸の近くの水深2m程の浅場の湖底から大小の石を積み上げ最奥部に造る木製の胴函(どうかん)という捕獲装置方向に向けて魚道と魚道を突く突き穴を造りながら水面上50cm程まで積み上げて石造りの「人工漁礁・魚の棲みか」を造るこれを「石釜」と呼んでいる。(写真①参照)
一月下旬~二月上旬の頃波の穏やかな日に家族近所総出の漁が行われるが「石がま揚げ」と呼ばれている。
まず「石釜」にむしろ(筵)を掛け「石釜」内部を暗くし、外側から順に石の間に集まった魚を丸太の突き棒で突き穴から突く、魚は暗い方へ逃げる習性を利用しむしろを少し開けては突きを繰り返しながら胴函へ魚を追い込む、突き棒を休めると魚が逃げるので絶え間なく突き続けるそうで、胴函に追い込むまで数時間掛るそうである。最後に胴函の落とし戸を落とし胴函に追い込んだ魚を網で掬い揚げる漁法である。鯉・鮒・ナマズ・ウナギ・ワカサギ等が主な魚である。
以前は一度に200kg程度の漁獲高があり、冬場の貴重な収入源になっていた。石釜を長い棒でつっついている漁労風景は、湖山池の冬の風物詩だったのです。
石がまは1877年(明治10年)の最高時には86基を数えたが、老朽化や1943年(昭和18年)の鳥取地震による被害で、多くの石がまが損壊した。2002年から2003年にかけて被害の少ない石がまが修復されたが、それでも現在操業できるものは4基となっている。(参考資料フリー百科辞典・石がま漁研修会)
*一番大きく、観光開発も進んだ「ひょっこりひょうたん島こと青島」:

青島は湖山池の南側に位置し周囲1,8㎞程の島で南東平坦部で縄文から古墳期に至る複合遺跡が発見され大正12年山陰で初めて縄文土器が発見されている。

昭和44年に大橋が架橋され以来開発が進み島全体が湖山池青島公園と為っている。湖岸と島は、歩行者専用の橋で結ばれており、渡ることができる。1周約2キロの島の遊歩道は、遊戯広場・フィールドアスレチックやキャンプ場などがある。桜は、ソメイヨシノを中心に31種類、478本が咲き競う。花壇には四季の花が植えられて鳥取市民の憩いの場と為っている。

青島公園案内図:先端部の小山は凡そ60mあり展望台に為っており湖山池を全貌出来るし砂丘の一部と日本海も望むことが出来る。


遊歩道沿いの桜並木:

ライトアップされた青島大橋:
一般の自動車は大橋を渡れないので車事故の心配も無く子供連れには最適な公園である。
*信仰の島・猫島:

猫島は、一枚岩で出来ており一見浮島のようにも見える。弁財天・千手観音が祀られており、島の上に建つ建物は篭り堂で信者や修験者が祈願・修行するお堂である。また祭事のある時は、村の役方が食事をしたり、酒盛りをしたりする場所でもある。
島の鳥居と東屋は、昔付近の長者が琵琶湖の【竹生島】の弁天宮を分社して建立したらしいが真偽は定かではない。

明治44年鳥取市発行「鳥取名所絵葉書」より:湖山池では無く湖山湖と印刷されている:

田植えの風景 左には湖山池の水をくみ上げる水車が見える・昭和初期撮影:

猫島の神社に渡る湖山村の人々・昭和30年代中頃撮影:

現在は公園になっているが以前は高住の水田だった・昭和40年代中頃撮影:


高住の水田跡地に出来た公園・平成19年撮影:
猫島には「湖山長者」続きの伝説が残っている:
〈湖山の猫薬師伝説〉
昔、湖山長者の祈願所が賀露(かろ)町にあったが、長者の没落したあと祈願所の薬師如来が湖山町の「そら山」に飛来し、湖山町に薬師堂ができた。
この時はまだ「湖山の薬師さん」と呼ばれていたが、「湖山の猫薬師」と呼ばれるようになったのは、次のような伝説があるからである。
「湖山薬師」の坊主が淨西坊だった頃の話。
お勤め中、仏壇の下に何やら光る物があるのに気付く。
調べてみると、赤毛の猫のミイラであった。
その夜淨西坊が眠っていると、この猫が夢の中に現れ、「自分は湖山長者に飼われていた
猫で、長者の田んぼが一夜のうちに池になってしまった時に流されて溺死した猫である」と言う。
また猫は、「湖山池の小さな島に「猫島」と呼ばれる島があるが、それは自分の
死体が打ち上げられ、そこで干からびたからそのような名前がついたのだ」とも言った。
そして猫の「自分は長者さまに信心を教えられ、それを心がけたので、動物の身を離れ
仏になる事を許された。自分は今後もここのお薬師さまにお仕えし、世の人々に
ご利益を授けたいと思っているので、住職にも力を貸して欲しい」という言葉まで聞いた所で、
淨西坊は目が覚めた。
ふと、淨西坊は、5~6年前にふらりとやって来て棲みついた赤毛の猫が人間のように
薬師を拝んでいたかと思うといつの間にやら姿を消した、という事を思い出し、
あの時の猫は湖山長者に飼われていた猫が化けて出たもので、今度はミイラになって
現れたのに違いない、と淨西坊は考え、猫のミイラを厨子(ずし)に納め、
ご本尊であるお薬師さまの右側のところに祀った。
この時から「湖山の猫薬師」と呼ばれるようになったと言う。
鼠のいる家では、この猫薬師の護符を授かると効果があり、お礼に鼠の玩具を
差し上げるという慣わしがあるそうだ。
また、失せ物がある時、このお堂で祈祷してもらうと、すぐに場所がわかるとも伝えられてる。
*湖山池の旭日と夕陽風景:






湖山池の旭日:




湖山池の夕日:
「末恒砂丘」
末恒砂丘は湖山砂丘の西側に位置し「鳥取砂丘」の最西端の砂丘で白兎海岸がその中心と為る。また「山陰海岸国立公園(山陰ジオパーク)」の西端でもある。
「白兎海岸」
童謡・「大きな ふくろをかたにかけ・・」で知られる大黒さんと白兎の話、古事記神話の「因幡の白兎」で有名な白兎海岸は「渚百選」に選ばれている水も砂も綺麗な海岸で夏は海水浴客で賑わう、海岸線沿いに国道R9線が走る便利さもあり白兎神社等古を偲ぶ事も出来て観光客も可也多い。
『註』古事記では「稲羽の素兎(いなばのしろうさぎ)」と表記されている。


白兎海岸の西方側・「稲羽の素兎(いなばのしろうさぎ)」の現場とされる「淤岐ノ島(おきのしま)」遠望・

ハマヒルガオ(浜昼顔)・

白兎海岸東方風景・

海岸線に沿うように国道R9号線が走っている。


国道R9号線沿い(山の手)に建つ「大国主命と因幡の白兎」石像・

田村虎蔵歌唱碑 (『大黒さん』を作曲)
『註』作曲家、音楽教育家。鳥取県(現在の岩美(いわみ)町馬場)に生まれる。1895年(明治28)東京音楽学校を卒業し、その後25年間、東京高等師範学校で教鞭をとる。言文一致唱歌を提唱し、『尋常小学唱歌』(1905)、『高等小学唱歌』(1906)などを編纂。彼の作曲による『花咲爺』『金太郎』『一寸法師』『浦島太郎』『大黒さま』などは広く愛唱され、大正時代の童謡歌曲の先駆となった。

「大国主命と因幡の白兎」石像の山手に「白兎神社」の大鳥居がある。

白兎神社拝殿・


白兎神社立札に書かれた「稲羽の素兎(いなばのしろうさぎ)」の話・

本殿・白兎海岸を見下ろすように丘に建っている。「大国主命と八上姫」との縁を取もった縁結びの神様(白兎神)を祀り、大国主命が白うさぎの傷を治したことから医療や動物医療の発祥地とも言われている。
白兎神社の西方に天然記念物「ハマナス自生南限地帯」がある。
ハマナス(浜茄子)は、バラ科バラ属の落葉低木。夏に赤い花(まれに白花)を咲かせる。根は染料などに、花はお茶などに、果実はローズヒップとして食用になる。皇太子徳仁親王妃雅子殿下のお印でもある。



「ハマナス」の花と実・
白兎海水浴場;


海水浴場西側風景・


海水浴場東側風景・
白兎海岸の夕日・





漁火は真夏の山陰沖を彩る風物詩である。




漁火さまざま・

白兎海岸の「気多ノ前」といわれる岬の先端から、海を渡った沖にある淤岐ノ島まで、海を渡り一筋の光が灯された。毎年8月1日、白兎海岸にある「川下神社」の祭礼で行われるもので「神燈流し」と言われ、この灯は一夜限りです。
「末恒砂丘(白兎海岸)編 完了」
ご挨拶;
昨年12月初旬より書き始めました「ひげ爺の独り言:『山陰海岸国立公園』ご近所便り」を(白兎海岸編)完と共に終了致します。足掛け11ヶ月に渉りご訪問下さいました皆様に感謝致します。途中より訪問下さいました皆様は最初から見直して戴ければ幸甚。
ひげ爺自身は「山陰海岸国立公園」東は丹後半島経ヶ岬から鳥取砂丘まで景勝地・名所・観光地等々総て網羅して紹介したつもりでおりますが、多少ひげ爺好みに進めた感も否めなく、手抜かりが有りましたら何卒ご勘弁下さい!今後共宜しくお願い致します。 ひげ爺 良兵衛

「湖山池」とコカ・コーラウエストスポーツパーク(元々は鳥取市布勢総合運動公園と呼ばれていたが、コカコーラウエストジャパン社が命名権を取得し、2008年4月から「コカ・コーラ ウェスト スポーツパーク」と改称された。なお、命名権は総合公園全体なので、各施設もコカコーラウエスト社の名前が入る)

「湖山池」は鳥取市街の西方に位置する湖山砂丘の中央部にあり「池」と名の付く湖沼の中では日本最大の池である。面積17平方km・周囲凡そ18km・水深6,5m。数本の河川が流入した淡水と日本海に流れる湖山川から為る汽水湖である。
5万年前と2、2万年前に大山火山の大噴火の火山灰で鳥取平野の原型が出来上がったが5~6千年ほど前の縄文時代に地球が温暖化し,海水面が上昇して現在の湖山池まで海が拡大し内湾が形成された。下って2千年ほど前の弥生時代には反対に地球全体が冷却化し海水面が2m ほど低下した。このため,海岸付近の砂浜が拡大して激しい飛砂が生じ,砂丘が高まり,拡大した。そして,縄文時代の内湾は千代川の搬出する砂礫により埋め立てられて,海と分離されて湖山池が出来た、所謂海跡湖である。
★海跡湖 【かいせきこ】
かつて海だった所が砂丘,砂嘴(さし),砂州の発達により海岸の湖沼となったもの。一般には潟湖(かたこ)である。北海道のサロマ湖,静岡県の浜名湖等。

「湖山川」・「湖山池」は湖山川と日本海に繋がっている。元々湖山川の河口は千代川に合流していたが、水害防止のため湖山川は日本海に直接につなげられた。 このため海水が逆流して湖山池の塩分濃度が上昇し、その水を利用した周辺農地で塩害が発生してしまった。


「水門」・湖山川の途中に水門を造り「開閉操作」をして吃水漁業者と農業者の調整を図るため塩分濃度調整を行っているが周辺開発等により水質の悪化が進んでいるとの事。水質の悪化により酸素濃度が低く為る傾向にあり昭和24年度より塩分濃度を高める様にと水門を開ける頻度が高くなっているそうである。
その所為か定かでないが湖山池に今年3月8日「アザラシ」が現れた。


3月7日に湖山池に姿を見せたアザラシ「コヤマみどり」


「コヤマみどり」の報道記事と鳥取市長発行の「特別住民票」・3月26日以降は姿を見せていない。
湖山池周辺の環境整備は進み、観光施設も整ってきたが裏腹に湖山池の水質はかなり悪くなり特に平成2(1992)年頃から急速に水質が悪くなっている。その原因は,湖山池周辺が急速に都市化が進んで生活排水が増えたり,農薬や肥料の農畜産にかかる汚染物質の蓄積などで,水質が悪くなり,リンや窒素などの増大で富栄養化している。植物プランクトンが大量に発生して「アオコ」が発生したり,ヒシの繁茂,酸素欠乏による多くの魚介類の死滅など,湖山池の生態の破壊が進んでいる。
アザラシの出現で塩分濃度を上げる方針は成功したかに見えたが梅雨明けの7/8日には強烈な日光が降り注ぎ温度も上がったので、日中に植物プランクトンやそれを餌とする微生物が爆発的に増えた為水中が酸欠状態に為り湖山川や湖山池で鯉・鮒・汽水域に棲むボラ・コノシロ・セイゴ・貝類等の大量死があった。
★酸欠の理由;植物プランクトンやそれを餌とする微生物は日中は光合成により酸素を排出するが夜間は反対に酸素を吸収し水中を酸欠状態にする。


酸欠死した魚・清掃する人達;回収した魚は35トンにも為ったそうである。
近代文明はそれまで考えられなかった豊かさ、便利さを人類にもたらしてきた。環境整備・観光施設の開発は人間界に採っては大いに利する事に違い有るまいが自然の摂理(ルール)を歪め破壊して仕舞っては「自然への冒涜」でしか無い。大自然を人間の思惑の儘変更(水路の変更)したり制御したり(塩水化)することは「人間の烏滸がましさ」でもあり難しいものである。
此処で梅原氏の一言を添えて置きます。
「人間中心主義の近代文明が今や限界にぶつかり、このままでは人類そのものの存続が危うくなってきました。この文明の危機を乗り越えるには、人間も太陽・空気・水といった自然のめぐみによって命を与えられ生かされている一つの生き物であるから大自然の摂理(ルール)にもとづいた、人間として望ましい生き方を心がける事である。(梅原 猛)」
「湖山池」に纏わる「湖山長者」の昔ばなしが残っているが「自然の摂理(ルール)」犯し「報いを受けた長者の話」である、仏教説話の一つと思われる。
むかし、因幡(いなば)の国(くに)、今の鳥取県に湖山長者という大層欲深かな長者がおったと。
長者の田んぼは千町もあって、その田んぼを一日で植えるしきたりだったと。
今日が田植えという日、夜も明けぬうちから、広々とした田んぼに数えきれんほどの早乙女(さおとめ)たちがずらぁっと並んで、いっせいに植えはじめる。そりゃぁ見事なながめだったと。
ところが、ある年の田植えの日のこと。
昼時(ひるどき)に、一匹の猿が子猿をさかさまに背負うて、山から下りて来た。
それを見つけた早乙女たちが、
「あれ、猿が赤ん坊を逆さに」
「ほんに、今にも落っこちそうな」
「あれ、落ちた」
「可愛いいなぁ」
と、口々にキャー、キャーはやしたてはじめた。
すると、近くの田、遠くの田、どの田の早乙女たちも、どの田の早乙女たちも、
「何だ、何だ」
と、田植えの手をやすめて、猿を見ようとした。
このありさまに、おどろいたのは湖山長者だ。
長者屋敷の高殿(たかどの)から、
「なにをしているのや、手を休めるな」
と大声でどなった。
早乙女たちは、あわてて田に戻ったが、大勢が一せいに手を休めたもので、その日は日暮れになっても千町の田んぼを植えおわることは出来そうになかった。
日は、はや、西の山に沈もうとしていた。
長者は、赤くなったり、青くなったりしてどなり散らした。
が、どうしても日の暮れるまでに終わらないと分かると、
「ようし、こうなればお天道(てんと)さんに戻ってもらうよりしょうないわい。なんの、日の出の勢いのこの湖山長者に出けんことあるかい」
そういうと、高殿に立って、さっと金の扇をひらき、お天道さんを三度(みたび)、大きく招きかえしたそうな。
するとどうだ、西の山に沈もうとしていたお天道さんが、つっつっと糸にひかれるように、もういちど、天に戻ったそうな。
「それ、この間(ま)に苗を植えろ。一枚の田も残すな」
長者は叫びたてたと。
早乙女たちは、わき目もせずに植えていった。
そうして、ようやく田植えが終わったとき、それに合わせるように日が沈んだと。
さあ、近郷(きんごう)はもとより遠国(おんごく)にまでこの話は伝わった。
「入り日も招きかえす勢いとは、このことやで」
と、長者は大きな盃(さかずき)をかたむけて、上機嫌だったと。
次の朝、
長者は目を覚ますと、一面に緑の苗にうまった我が田を見ようと、高殿へのぼった。
のぼってみて驚ろいた。
「あっ」
と叫んだまま、言葉が出ない。
なんと、一夜のうちに、見渡すかぎりの田んぼは、池になっておった。
そして、やがて長者屋敷も湖山長者も池の中へ沈んでしもうたそうな。
この池を湖山池という。
(民話・湖山長者 原文のまま)
日本海から切り離された湖山池には海の入り江と同様に島が点在している。

「湖山池のひょっこり・ひょうたん島」と呼ばれている一番大きな青島・弁財天が祀られている猫島・津生島・鳥島・団子島の5島がある。図の△印は世界でも珍しい「石釜漁」の伝統が残る三津地区である。本編では観光地化された青島・猫島・石釜漁の紹介に留めます。
*三津地区に残る「石がま(石釜、石竈)漁」:

(写真①)


「石がま」と「石がま漁・石がま揚げ風景」・鳥取県の無形民俗文化財に指定されている。
「石がま漁」とは、湖山池西側にある三津地区だけに残る湖山池独特の漁法で江戸初期頃から冬期に行われていた伝統漁法である。越冬中のコイやフナの習性(水温が下がると魚は岩や石の間に集まる習性がある)を利用した巧妙な漁法で石釜は魚を獲るための「人工漁礁」である。そのメカニズムは次のようなものです。
まずは、石釜の前方には「捨石」と呼ぶ石群を沈ませておきます。魚はこれを見て、その先に憩いの場所があるように思うらしく、石をつたってやがて石釜の底(入口)に突き当たります。さらに、魚は石組みの隙間から見え
る奥の方が安全な場所だと思って、さらに中に入っていく寸法である。岸の近くの水深2m程の浅場の湖底から大小の石を積み上げ最奥部に造る木製の胴函(どうかん)という捕獲装置方向に向けて魚道と魚道を突く突き穴を造りながら水面上50cm程まで積み上げて石造りの「人工漁礁・魚の棲みか」を造るこれを「石釜」と呼んでいる。(写真①参照)
一月下旬~二月上旬の頃波の穏やかな日に家族近所総出の漁が行われるが「石がま揚げ」と呼ばれている。
まず「石釜」にむしろ(筵)を掛け「石釜」内部を暗くし、外側から順に石の間に集まった魚を丸太の突き棒で突き穴から突く、魚は暗い方へ逃げる習性を利用しむしろを少し開けては突きを繰り返しながら胴函へ魚を追い込む、突き棒を休めると魚が逃げるので絶え間なく突き続けるそうで、胴函に追い込むまで数時間掛るそうである。最後に胴函の落とし戸を落とし胴函に追い込んだ魚を網で掬い揚げる漁法である。鯉・鮒・ナマズ・ウナギ・ワカサギ等が主な魚である。
以前は一度に200kg程度の漁獲高があり、冬場の貴重な収入源になっていた。石釜を長い棒でつっついている漁労風景は、湖山池の冬の風物詩だったのです。
石がまは1877年(明治10年)の最高時には86基を数えたが、老朽化や1943年(昭和18年)の鳥取地震による被害で、多くの石がまが損壊した。2002年から2003年にかけて被害の少ない石がまが修復されたが、それでも現在操業できるものは4基となっている。(参考資料フリー百科辞典・石がま漁研修会)
*一番大きく、観光開発も進んだ「ひょっこりひょうたん島こと青島」:

青島は湖山池の南側に位置し周囲1,8㎞程の島で南東平坦部で縄文から古墳期に至る複合遺跡が発見され大正12年山陰で初めて縄文土器が発見されている。

昭和44年に大橋が架橋され以来開発が進み島全体が湖山池青島公園と為っている。湖岸と島は、歩行者専用の橋で結ばれており、渡ることができる。1周約2キロの島の遊歩道は、遊戯広場・フィールドアスレチックやキャンプ場などがある。桜は、ソメイヨシノを中心に31種類、478本が咲き競う。花壇には四季の花が植えられて鳥取市民の憩いの場と為っている。

青島公園案内図:先端部の小山は凡そ60mあり展望台に為っており湖山池を全貌出来るし砂丘の一部と日本海も望むことが出来る。


遊歩道沿いの桜並木:

ライトアップされた青島大橋:
一般の自動車は大橋を渡れないので車事故の心配も無く子供連れには最適な公園である。
*信仰の島・猫島:

猫島は、一枚岩で出来ており一見浮島のようにも見える。弁財天・千手観音が祀られており、島の上に建つ建物は篭り堂で信者や修験者が祈願・修行するお堂である。また祭事のある時は、村の役方が食事をしたり、酒盛りをしたりする場所でもある。
島の鳥居と東屋は、昔付近の長者が琵琶湖の【竹生島】の弁天宮を分社して建立したらしいが真偽は定かではない。

明治44年鳥取市発行「鳥取名所絵葉書」より:湖山池では無く湖山湖と印刷されている:

田植えの風景 左には湖山池の水をくみ上げる水車が見える・昭和初期撮影:

猫島の神社に渡る湖山村の人々・昭和30年代中頃撮影:

現在は公園になっているが以前は高住の水田だった・昭和40年代中頃撮影:


高住の水田跡地に出来た公園・平成19年撮影:
猫島には「湖山長者」続きの伝説が残っている:
〈湖山の猫薬師伝説〉
昔、湖山長者の祈願所が賀露(かろ)町にあったが、長者の没落したあと祈願所の薬師如来が湖山町の「そら山」に飛来し、湖山町に薬師堂ができた。
この時はまだ「湖山の薬師さん」と呼ばれていたが、「湖山の猫薬師」と呼ばれるようになったのは、次のような伝説があるからである。
「湖山薬師」の坊主が淨西坊だった頃の話。
お勤め中、仏壇の下に何やら光る物があるのに気付く。
調べてみると、赤毛の猫のミイラであった。
その夜淨西坊が眠っていると、この猫が夢の中に現れ、「自分は湖山長者に飼われていた
猫で、長者の田んぼが一夜のうちに池になってしまった時に流されて溺死した猫である」と言う。
また猫は、「湖山池の小さな島に「猫島」と呼ばれる島があるが、それは自分の
死体が打ち上げられ、そこで干からびたからそのような名前がついたのだ」とも言った。
そして猫の「自分は長者さまに信心を教えられ、それを心がけたので、動物の身を離れ
仏になる事を許された。自分は今後もここのお薬師さまにお仕えし、世の人々に
ご利益を授けたいと思っているので、住職にも力を貸して欲しい」という言葉まで聞いた所で、
淨西坊は目が覚めた。
ふと、淨西坊は、5~6年前にふらりとやって来て棲みついた赤毛の猫が人間のように
薬師を拝んでいたかと思うといつの間にやら姿を消した、という事を思い出し、
あの時の猫は湖山長者に飼われていた猫が化けて出たもので、今度はミイラになって
現れたのに違いない、と淨西坊は考え、猫のミイラを厨子(ずし)に納め、
ご本尊であるお薬師さまの右側のところに祀った。
この時から「湖山の猫薬師」と呼ばれるようになったと言う。
鼠のいる家では、この猫薬師の護符を授かると効果があり、お礼に鼠の玩具を
差し上げるという慣わしがあるそうだ。
また、失せ物がある時、このお堂で祈祷してもらうと、すぐに場所がわかるとも伝えられてる。
*湖山池の旭日と夕陽風景:






湖山池の旭日:




湖山池の夕日:
「末恒砂丘」
末恒砂丘は湖山砂丘の西側に位置し「鳥取砂丘」の最西端の砂丘で白兎海岸がその中心と為る。また「山陰海岸国立公園(山陰ジオパーク)」の西端でもある。
「白兎海岸」
童謡・「大きな ふくろをかたにかけ・・」で知られる大黒さんと白兎の話、古事記神話の「因幡の白兎」で有名な白兎海岸は「渚百選」に選ばれている水も砂も綺麗な海岸で夏は海水浴客で賑わう、海岸線沿いに国道R9線が走る便利さもあり白兎神社等古を偲ぶ事も出来て観光客も可也多い。
『註』古事記では「稲羽の素兎(いなばのしろうさぎ)」と表記されている。


白兎海岸の西方側・「稲羽の素兎(いなばのしろうさぎ)」の現場とされる「淤岐ノ島(おきのしま)」遠望・

ハマヒルガオ(浜昼顔)・

白兎海岸東方風景・

海岸線に沿うように国道R9号線が走っている。


国道R9号線沿い(山の手)に建つ「大国主命と因幡の白兎」石像・

田村虎蔵歌唱碑 (『大黒さん』を作曲)
『註』作曲家、音楽教育家。鳥取県(現在の岩美(いわみ)町馬場)に生まれる。1895年(明治28)東京音楽学校を卒業し、その後25年間、東京高等師範学校で教鞭をとる。言文一致唱歌を提唱し、『尋常小学唱歌』(1905)、『高等小学唱歌』(1906)などを編纂。彼の作曲による『花咲爺』『金太郎』『一寸法師』『浦島太郎』『大黒さま』などは広く愛唱され、大正時代の童謡歌曲の先駆となった。

「大国主命と因幡の白兎」石像の山手に「白兎神社」の大鳥居がある。

白兎神社拝殿・


白兎神社立札に書かれた「稲羽の素兎(いなばのしろうさぎ)」の話・

本殿・白兎海岸を見下ろすように丘に建っている。「大国主命と八上姫」との縁を取もった縁結びの神様(白兎神)を祀り、大国主命が白うさぎの傷を治したことから医療や動物医療の発祥地とも言われている。
白兎神社の西方に天然記念物「ハマナス自生南限地帯」がある。
ハマナス(浜茄子)は、バラ科バラ属の落葉低木。夏に赤い花(まれに白花)を咲かせる。根は染料などに、花はお茶などに、果実はローズヒップとして食用になる。皇太子徳仁親王妃雅子殿下のお印でもある。



「ハマナス」の花と実・
白兎海水浴場;


海水浴場西側風景・


海水浴場東側風景・
白兎海岸の夕日・





漁火は真夏の山陰沖を彩る風物詩である。




漁火さまざま・

白兎海岸の「気多ノ前」といわれる岬の先端から、海を渡った沖にある淤岐ノ島まで、海を渡り一筋の光が灯された。毎年8月1日、白兎海岸にある「川下神社」の祭礼で行われるもので「神燈流し」と言われ、この灯は一夜限りです。
「末恒砂丘(白兎海岸)編 完了」
ご挨拶;
昨年12月初旬より書き始めました「ひげ爺の独り言:『山陰海岸国立公園』ご近所便り」を(白兎海岸編)完と共に終了致します。足掛け11ヶ月に渉りご訪問下さいました皆様に感謝致します。途中より訪問下さいました皆様は最初から見直して戴ければ幸甚。
ひげ爺自身は「山陰海岸国立公園」東は丹後半島経ヶ岬から鳥取砂丘まで景勝地・名所・観光地等々総て網羅して紹介したつもりでおりますが、多少ひげ爺好みに進めた感も否めなく、手抜かりが有りましたら何卒ご勘弁下さい!今後共宜しくお願い致します。 ひげ爺 良兵衛
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ひげ爺の独り言 放談 小噺 『山陰海岸国立公園』の ご近所便り
「湖山砂丘」
湖山砂丘は鳥取平野の中央を流れる千代川の左岸に位置し鳥取港(旧賀露港)・鳥取空港・湖山池・池の近くに鳥取大学等々がある。

「鳥取平野」・鳥取平野は千代(せんだい)川下流域に広がる平野。溺れ谷に千代川の流砂が埋め残した沖積平野で、鳥取砂丘と潟湖(せきこ)の湖山池がある。古くから開け周辺の丘陵には古墳が多く、奈良時代の条里制遺構(水田を同じ大きさにする制度)も残っている。
★溺れ谷・・陸上で谷であった所が陸地の沈降や海面の上昇によって海水が浸入し、入り江となったもの。
★沖積平野(ちゅうせきへいや)・・主に河川による堆積作用によって形成される平野の一種。海浜堆積物によって形成される海岸平野と区別される。河川の流速が減じて運搬された土砂が氾濫原や河口、さらに沖合にかけて堆積して平野となる。
★潟湖・・湾口に発達した砂州によって外海と切り離されてできた 湖。潟(かた)。

千代川河口右岸(東側)には浜坂砂丘・福部砂丘が広がり左岸(西側)には鳥取港(前賀露港)・鳥取空港・湖山池がある。

砂丘は終戦まで四十連隊の演習地(国有地)だったが戦後昭和25年8月浜坂、賀露、湖山の砂丘(約567ヘクタール)を国から払い下げられ植林と開墾する事に為った。写真の「乾燥地研究センター」の地は地元では「浜坂の十六本松」と呼ばれ畑の開墾が盛んであったが塩害が酷く畑毎に井戸を掘らねばならぬ状況で「嫁殺し」と云われる程過酷であったそうである。

緑地化された浜坂十六本松と鳥取大学乾燥地研究センター・センターは乾燥や塩害に強い作物の研究開発を行なうことを目標に計画したものであり世界各国の乾燥地での農業技術や生活環境を向上させるための研究を行っている。
「左岸の鳥取港(旧賀露港)」
鳥取港は鳥取市街地の北西6km、一級河川千代川の河口に位置している。かつては賀露港として知られ、戦国時代には毛利氏の因幡への進出の際に使用されたり、秀吉の鳥取攻めにも重要な拠点として登場している古くからの魚港である。沿岸漁業を主とし「沖合底引き漁」も盛んで「松葉ガニ」の漁獲量は前述の「網代港」と鳥取県内では一二を争う主要漁港である。

上図の通りズワイカニの漁獲量は鳥取県と兵庫県但馬地区で56%に及ぶ・丹後地区(漁獲量?)を加えるとズワイカニの70%近くを山陰海岸国立公園内で漁することに為るのでは無かろうか・・・。
ズワイカニの地方名;鳥取・兵庫但馬「松葉ガニ」・丹後地区「間人ガニ等」・石川「越前ガニ」。
現在は漁港としてだけで無く平成2年には10,000トン岸壁1バース、5,000トン岸壁3バースが完成及び危険物用地を有する千代地区が全面供用開始した。鳥取港は、対岸貿易を行うのに極めて有利な位置にあり、山陰地方東部経済圏の物流拠点としてはもとより、兵庫県北部、岡山県北部圏域も背後圏とした環日本海交流の海の玄関として今後さらなる発展が期待されている。

鳥取港全景(空撮)

久松山(鳥取城の有った山)から鳥取港を遠望風景・


漁船専用港内の風景・沿岸漁専門の中・小型船群

第二岸壁から見た浜坂砂丘の朝焼け:
新設の一万トン・五千トン岸壁には年に一度海上自衛隊の護衛艦が寄港し一般公開している。


一般公開された護衛艦「くらま」・2012年7月29日


一般公開された護衛艦「ちくま」・2013年08月06日
以前にも護衛艦の「はまゆき」「やまゆき」等が寄港、一般公開されている。
漁港の近くには鳥取市や近郷の「夕餉の食材」を賄う「かろいち」と云う大きな鮮魚市場が立ち並んでいる・地元の人々のみならず観光バスも立ち寄り観光客にも人気で賑わっている。


鳥取港鮮魚市場「かろいち」の佇まい



鳥取港鮮魚市場「かろいち」賑わいの様子





新鮮な魚が一杯・「松葉ガニ」シーズンには「松葉ガニ」売り場が増えて温泉客の観光バスが倍増する程の人気スポットである。
★「松葉ガニ」一口メモ:松葉ガニに限らずカニ類・エビ類を茹でると赤く為るわけ?


活きている松葉ガニは茶褐色のこんな色・・・・

茹でると鮮やかな赤色を帯びてくる・・・・その訳は:
カニの殻には、「アスタキサンチン」という特殊な成分が入っており、このアスタキサンチンは、常にたんぱく質と密着している。密着している状態の場合は、茶色のままで色に変化は起こらないがカニを茹でることによってアスタキサンチンがたんぱく質と離れるため、殻が真っ赤になるという現象が起こる訳である。
★アスタキサンチンは、ビタミンEの約1000倍以上、βカロチンの10倍以上の強力な抗酸化力を持ち、血中脂質の活性酸素を抑え、血管を若々しく保ったり、免疫細胞を活性酸素から守ることで免疫力を高める物質である。
身体に良く強い抗酸化作用のあるアスタキサンチンではあるが家庭料理で硬い松葉カニからの摂取は無理な話であるが小型のカニ・エビでは可能である。
アスタキサンチンは油に溶けやすい性質を持っているので小カニ・小エビのの唐揚げや桜えびのかき揚げ等殻の儘食べられる家庭料理に最適であろう。ひげ爺宅では桜えびを常備しており野菜炒めには必ず入れる、彩にも為るし旨い。
もう一つの人気スポット「かにっこ館」
名称鳥取県立とっとり賀露かにっこ館 [とっとりけんりつとっとりかろかにっこかん]
所在地 :鳥取市賀露町西3-27-2
タイトル:「見て」「ふれて」「体験できる」カニが主役の水族館。
概要 : 生きたカニを主役とし、さまざまな水生生物の生態を楽しみながら知ることができる小さな水族館。
松葉がにが住む深海を体験したり、世界一大きくなるタカアシガニなど多くの生きたカニなどの展示のほか、水槽で海の生き物とのふれあいができます。
“青い松葉ガニ” 鳥取で見つかる (NHKニュース2012年11月18日)

発見された青い松葉カニは鳥取県の境港で水揚げされ島根県水産技術センターを通じて鳥取市にあるカニの資料館「とっとり賀露かにっこ館」に提供されました。
全身が薄い青色をしていて、重さは550グラム、甲羅の幅は11センチ余りで足を広げた全長はおよそ60センチです。
資料館によりますと、カニの色はカロテノイドと呼ばれる色素の量で決まっていて、このカニはその量が少ないため、青く見えるのではないかということです。
資料館の丸山将士さんは「何百匹とカニを見ているが、大変珍しいと思う。大事に育てて多くの人に見てもらいたい」と話しています。(NHKニュースより)

鳥取県立とっとり賀露かにっこ館 [とっとりけんりつとっとりかろかにっこかん]

海の生き物に触れて遊ぶ子供達

鳥取近海に棲む魚の水槽

タカアシガニ


変わった松葉ガニ

親指の爪が4本のカニ

部分的に体色が白くなったカニ
多種の海洋生物の展示もある、子供さんと一緒に見学される事をお勧めする。
営業時間:9:00~17:00(閉館)
料金 :入館料 無料
休業日 :火曜(祝日の場合は翌日休、7・8月は無休、1月1・2日休)
駐車場 :あり(無料)
交通 電車:JR鳥取駅から日ノ丸バス賀露行きで35分、かにっこ館前下車すぐ
「賀露みなと海水浴場」
鳥取港(旧賀露港)の西側から鳥取空港の間に賀露みなと海水浴場はある。


海水浴シーズンを前に賀露時自治会のボランティアで海水浴場の清掃をして海水浴客を迎えるそうである。

綺麗になった浜辺・究極の「お・も・て・な・し」である!



賑わう海水浴場と「地引網漁」に興じる子供たち


海水浴場から見た日本海に沈む「夕陽と漁火」:海水浴場の西側に「鳥取空港」ある。
「鳥取空港」

鳥取空港上空写真:空港は湖山砂丘の東部に有り千代川・湖山池と日本海に囲まれ海岸線に寄り添うように造られている。空港は鳥取市内より約7km(バスで約20分)の日本海に面した砂丘地域に位置し、主に鳥取県東部の空運を担っている。年間の利用客数は、近年は33万人前後を推移している。2000mの滑走路を持つ。滑走路に平行誘導路はなく、滑走路の両端にはターニングパッドが設置されている。着陸帯の幅は300mである。
1957年 に現在地の南側500mの位置に市営鳥取飛行場を設置されたのが原点である。滑走路は延長960m、幅30m。幾度かの変遷を経て現在の運航に至る。1979年に東京便の運航を再開・1990年に滑走路を2,000mに延長・2006年1月1日に運用時間が延長され、7時から21時となる等々。
★ターニングパッドとは、滑走路上で航空機が方向転換(Uターン)を行うために、滑走路の幅が広がっている部分。主に平行誘導路がなく、末端部から直接出入りできない滑走路の末端部に設けられている。

ターニングパッド・

鳥取空港ターミナル・

ターニングパッドで方向転換中の飛行機・

海上の誘導灯・

着陸態勢に入った飛行機と釣り一人・キス釣りの絶好ポイント・


鳥取空港の誘導塔と朝焼け・浜坂砂丘方面を望む


誘導灯と飛行機・夕焼け

滑走路と落日・
「湖山池」に続く

「湖山川」・湖山池は汽水湖で「湖山川」で繋がっている。

湖山池の朝焼け・
(工事中に付 中断)
湖山砂丘は鳥取平野の中央を流れる千代川の左岸に位置し鳥取港(旧賀露港)・鳥取空港・湖山池・池の近くに鳥取大学等々がある。

「鳥取平野」・鳥取平野は千代(せんだい)川下流域に広がる平野。溺れ谷に千代川の流砂が埋め残した沖積平野で、鳥取砂丘と潟湖(せきこ)の湖山池がある。古くから開け周辺の丘陵には古墳が多く、奈良時代の条里制遺構(水田を同じ大きさにする制度)も残っている。
★溺れ谷・・陸上で谷であった所が陸地の沈降や海面の上昇によって海水が浸入し、入り江となったもの。
★沖積平野(ちゅうせきへいや)・・主に河川による堆積作用によって形成される平野の一種。海浜堆積物によって形成される海岸平野と区別される。河川の流速が減じて運搬された土砂が氾濫原や河口、さらに沖合にかけて堆積して平野となる。
★潟湖・・湾口に発達した砂州によって外海と切り離されてできた 湖。潟(かた)。

千代川河口右岸(東側)には浜坂砂丘・福部砂丘が広がり左岸(西側)には鳥取港(前賀露港)・鳥取空港・湖山池がある。

砂丘は終戦まで四十連隊の演習地(国有地)だったが戦後昭和25年8月浜坂、賀露、湖山の砂丘(約567ヘクタール)を国から払い下げられ植林と開墾する事に為った。写真の「乾燥地研究センター」の地は地元では「浜坂の十六本松」と呼ばれ畑の開墾が盛んであったが塩害が酷く畑毎に井戸を掘らねばならぬ状況で「嫁殺し」と云われる程過酷であったそうである。

緑地化された浜坂十六本松と鳥取大学乾燥地研究センター・センターは乾燥や塩害に強い作物の研究開発を行なうことを目標に計画したものであり世界各国の乾燥地での農業技術や生活環境を向上させるための研究を行っている。
「左岸の鳥取港(旧賀露港)」
鳥取港は鳥取市街地の北西6km、一級河川千代川の河口に位置している。かつては賀露港として知られ、戦国時代には毛利氏の因幡への進出の際に使用されたり、秀吉の鳥取攻めにも重要な拠点として登場している古くからの魚港である。沿岸漁業を主とし「沖合底引き漁」も盛んで「松葉ガニ」の漁獲量は前述の「網代港」と鳥取県内では一二を争う主要漁港である。

上図の通りズワイカニの漁獲量は鳥取県と兵庫県但馬地区で56%に及ぶ・丹後地区(漁獲量?)を加えるとズワイカニの70%近くを山陰海岸国立公園内で漁することに為るのでは無かろうか・・・。
ズワイカニの地方名;鳥取・兵庫但馬「松葉ガニ」・丹後地区「間人ガニ等」・石川「越前ガニ」。
現在は漁港としてだけで無く平成2年には10,000トン岸壁1バース、5,000トン岸壁3バースが完成及び危険物用地を有する千代地区が全面供用開始した。鳥取港は、対岸貿易を行うのに極めて有利な位置にあり、山陰地方東部経済圏の物流拠点としてはもとより、兵庫県北部、岡山県北部圏域も背後圏とした環日本海交流の海の玄関として今後さらなる発展が期待されている。

鳥取港全景(空撮)

久松山(鳥取城の有った山)から鳥取港を遠望風景・


漁船専用港内の風景・沿岸漁専門の中・小型船群

第二岸壁から見た浜坂砂丘の朝焼け:
新設の一万トン・五千トン岸壁には年に一度海上自衛隊の護衛艦が寄港し一般公開している。


一般公開された護衛艦「くらま」・2012年7月29日


一般公開された護衛艦「ちくま」・2013年08月06日
以前にも護衛艦の「はまゆき」「やまゆき」等が寄港、一般公開されている。
漁港の近くには鳥取市や近郷の「夕餉の食材」を賄う「かろいち」と云う大きな鮮魚市場が立ち並んでいる・地元の人々のみならず観光バスも立ち寄り観光客にも人気で賑わっている。


鳥取港鮮魚市場「かろいち」の佇まい



鳥取港鮮魚市場「かろいち」賑わいの様子





新鮮な魚が一杯・「松葉ガニ」シーズンには「松葉ガニ」売り場が増えて温泉客の観光バスが倍増する程の人気スポットである。
★「松葉ガニ」一口メモ:松葉ガニに限らずカニ類・エビ類を茹でると赤く為るわけ?


活きている松葉ガニは茶褐色のこんな色・・・・

茹でると鮮やかな赤色を帯びてくる・・・・その訳は:
カニの殻には、「アスタキサンチン」という特殊な成分が入っており、このアスタキサンチンは、常にたんぱく質と密着している。密着している状態の場合は、茶色のままで色に変化は起こらないがカニを茹でることによってアスタキサンチンがたんぱく質と離れるため、殻が真っ赤になるという現象が起こる訳である。
★アスタキサンチンは、ビタミンEの約1000倍以上、βカロチンの10倍以上の強力な抗酸化力を持ち、血中脂質の活性酸素を抑え、血管を若々しく保ったり、免疫細胞を活性酸素から守ることで免疫力を高める物質である。
身体に良く強い抗酸化作用のあるアスタキサンチンではあるが家庭料理で硬い松葉カニからの摂取は無理な話であるが小型のカニ・エビでは可能である。
アスタキサンチンは油に溶けやすい性質を持っているので小カニ・小エビのの唐揚げや桜えびのかき揚げ等殻の儘食べられる家庭料理に最適であろう。ひげ爺宅では桜えびを常備しており野菜炒めには必ず入れる、彩にも為るし旨い。
もう一つの人気スポット「かにっこ館」
名称鳥取県立とっとり賀露かにっこ館 [とっとりけんりつとっとりかろかにっこかん]
所在地 :鳥取市賀露町西3-27-2
タイトル:「見て」「ふれて」「体験できる」カニが主役の水族館。
概要 : 生きたカニを主役とし、さまざまな水生生物の生態を楽しみながら知ることができる小さな水族館。
松葉がにが住む深海を体験したり、世界一大きくなるタカアシガニなど多くの生きたカニなどの展示のほか、水槽で海の生き物とのふれあいができます。
“青い松葉ガニ” 鳥取で見つかる (NHKニュース2012年11月18日)

発見された青い松葉カニは鳥取県の境港で水揚げされ島根県水産技術センターを通じて鳥取市にあるカニの資料館「とっとり賀露かにっこ館」に提供されました。
全身が薄い青色をしていて、重さは550グラム、甲羅の幅は11センチ余りで足を広げた全長はおよそ60センチです。
資料館によりますと、カニの色はカロテノイドと呼ばれる色素の量で決まっていて、このカニはその量が少ないため、青く見えるのではないかということです。
資料館の丸山将士さんは「何百匹とカニを見ているが、大変珍しいと思う。大事に育てて多くの人に見てもらいたい」と話しています。(NHKニュースより)

鳥取県立とっとり賀露かにっこ館 [とっとりけんりつとっとりかろかにっこかん]

海の生き物に触れて遊ぶ子供達

鳥取近海に棲む魚の水槽

タカアシガニ


変わった松葉ガニ

親指の爪が4本のカニ

部分的に体色が白くなったカニ
多種の海洋生物の展示もある、子供さんと一緒に見学される事をお勧めする。
営業時間:9:00~17:00(閉館)
料金 :入館料 無料
休業日 :火曜(祝日の場合は翌日休、7・8月は無休、1月1・2日休)
駐車場 :あり(無料)
交通 電車:JR鳥取駅から日ノ丸バス賀露行きで35分、かにっこ館前下車すぐ
「賀露みなと海水浴場」
鳥取港(旧賀露港)の西側から鳥取空港の間に賀露みなと海水浴場はある。


海水浴シーズンを前に賀露時自治会のボランティアで海水浴場の清掃をして海水浴客を迎えるそうである。

綺麗になった浜辺・究極の「お・も・て・な・し」である!



賑わう海水浴場と「地引網漁」に興じる子供たち


海水浴場から見た日本海に沈む「夕陽と漁火」:海水浴場の西側に「鳥取空港」ある。
「鳥取空港」

鳥取空港上空写真:空港は湖山砂丘の東部に有り千代川・湖山池と日本海に囲まれ海岸線に寄り添うように造られている。空港は鳥取市内より約7km(バスで約20分)の日本海に面した砂丘地域に位置し、主に鳥取県東部の空運を担っている。年間の利用客数は、近年は33万人前後を推移している。2000mの滑走路を持つ。滑走路に平行誘導路はなく、滑走路の両端にはターニングパッドが設置されている。着陸帯の幅は300mである。
1957年 に現在地の南側500mの位置に市営鳥取飛行場を設置されたのが原点である。滑走路は延長960m、幅30m。幾度かの変遷を経て現在の運航に至る。1979年に東京便の運航を再開・1990年に滑走路を2,000mに延長・2006年1月1日に運用時間が延長され、7時から21時となる等々。
★ターニングパッドとは、滑走路上で航空機が方向転換(Uターン)を行うために、滑走路の幅が広がっている部分。主に平行誘導路がなく、末端部から直接出入りできない滑走路の末端部に設けられている。

ターニングパッド・

鳥取空港ターミナル・

ターニングパッドで方向転換中の飛行機・

海上の誘導灯・

着陸態勢に入った飛行機と釣り一人・キス釣りの絶好ポイント・


鳥取空港の誘導塔と朝焼け・浜坂砂丘方面を望む


誘導灯と飛行機・夕焼け

滑走路と落日・
「湖山池」に続く

「湖山川」・湖山池は汽水湖で「湖山川」で繋がっている。

湖山池の朝焼け・
(工事中に付 中断)
ひげ爺の独り言 放談 小噺 『山陰海岸国立公園』の ご近所便り
前編で紹介した「鳥取砂丘」には正鵠を射ていない点がありました。訂正しお詫び申し上げます。「鳥取砂丘の中の浜坂砂丘」と訂正しました。

「鳥取砂丘全図」・鳥取砂丘は東西16km南北2.4kmの砂丘で東側から①福部砂丘②浜坂砂丘③湖山砂丘④末恒砂丘に大別され構成しています。観光案内やパンフレット等では②浜坂砂丘を鳥取砂丘と呼んで宣伝しており観光の目玉がこの地区に「馬の背」「風紋」「オアシス」等々が集中している故に浜坂地区だけが「鳥取砂丘」であると認識されがちであるが正確には福部から末恒地区までの16kmの砂丘が「鳥取砂丘」であると再認されたい。
昭和30年代「浜坂砂丘」の一部が「天然記念物」・「特別保護地区」に指定されさらに昭和38年7月(1963年7月15日)には山陰海岸国立公園に指定される事により「特別保護地区の浜坂砂丘中心の観光開発」が進み注目される様になり浜坂砂丘⇒鳥取砂丘と認識される様に為ったと推測される。

浜坂砂丘概要・有名な場所の配置図
前編は表題「鳥取砂丘」は「浜坂砂丘」変更させて戴きました。このシリーズは東側から順に紹介してきたので本来なら「福部砂丘」⇒「浜坂砂丘」の順であるべきであろうが逆順に為りましたがご承知下さい。
「福部砂丘」
福部砂丘は「鳥取砂丘の東端」に位置し国道R9号線上の鳥取市福部町細川から右折し鳥取県道319号線に入り「岩戸」「海士」地区から始まる。R319号線は砂丘の海岸部と丘陵の中間を走り砂丘観光の中心地・砂の博物館・売店・リフト・駐車場等々の有る湯山地区に至り再び国道R9号線に交差する。此処が砂丘の西側入り口と為る。距離5.3m。


右折の「砂丘細川線」・砂丘えの東側入り口

県道319号線に入ると小さな集落があり「岩戸港」に続く・緑色枠内が「福部砂丘」

前載写真8/6日撮影の岩戸港・


港に居るのは小型船ばかり・磯漁専門のようだ

岩戸港から見た夕日・
丘陵の「ラッキョウ畑」を左に見て進むと「砂丘海水浴場」がある

前載写真8/6日撮影の海水浴場の遠望・この辺りが「砂丘の花」の群生地である


前載写真8/6日撮影・ハマゴウ(浜栲)はクマツヅラ科ハマゴウ属の常緑小低木で砂浜などに生育する海浜植物・花期は7~9月・果実は蔓荊子(マンケイシ)と呼ばれる生薬で鎮痛、鎮静、消炎作用がある。蔓荊子散などの漢方薬に配合される。




賑わう「砂丘海水浴場」風景


「砂丘海水浴場」から見る落日風景
「鳥取砂丘」には多くの花が咲くが、何と言っても「ラッキョウの花」が圧巻である。


10月下旬~11月上旬に掛けて「ラッキョウ畑」は薄紫を帯びた赤い花の絨毯に染まる・海に見えるのは砂丘沖の「海士島(あもうじま)」

花の開花前には緑の絨毯が敷き詰められる・「海士島(あもうじま)」


「ラッキョウの花」とはこんな花。
「ラッキョウ」の栽培;ユリ科の野菜で中国原産といわれ非常に丈夫で、やせ地でも十分育つため、砂丘や開墾地でも栽培されている。球根を植えさえすれば、数回追肥するだけで、ほとんど手をかけずに栽培することができます。8月下旬~9月中旬に植えつけると、秋に成長。翌年3~4月に若どりしたものは、エシャレットとして利用され一般的な中間地での収穫期は5~6月で、甘酢に漬けてラッキョウ漬けにする。

収穫時の「砂丘ラッキョウ」・鳥取県でのらっきょうの栽培は古く、江戸時代までさかのぼり参勤交代のとき小石川薬園より持ち帰ったと云われている。
収穫が終わると次作の用意が始まる。

収穫の終わった場所順に畑起こしと畝造りを始め植え付けの準備を始める。

「植え付け風景」・真夏の炎天下7月中下旬から盆を挟んで8月下旬までが植え付けの時期・苗を15~20cm間隔で手植えする、ベテランに為ると一日一万球程度は植え付けするそうである。一球が10~15球に増えて収穫される。

「ラッキョウ苗」6月に収穫した物を陰干した苗。これを植え付けする。ラッキョウは種ができないため、もっぱら地下の球で増やす。


ラッキョウは生命力も強く成長も早い、9月も近づくと新芽を出し畑は緑が多くなりやがて写真の様に緑の絨毯を敷き詰めたような風景と為っていく。
昔のラッキョウ作りは「嫁殺し」と云われる程過酷であったそうだが、収穫・開墾・畝造り・炎天下の水遣り等農機具の発達とスプリングクーラーの普及で「嫁殺し」の言葉は死語と為ったそうである。但し「植え付け作業」だけは「手作業」で行うしか無いとのこと・・・・。





「花盛りの砂丘ラッキョウの花」・盛りは10月下旬から11月上旬。
ラッキョウはタマネギやにんにくの仲間(ユリ科の多年草)で、古くから漢方薬の主成分として用いられてきまた。ラッキョウには、血液サラサラ効果、疲労回復、筋肉痛および腰痛の解消、利尿発汗作用、整腸殺菌効果、カルシウムの吸収促進、骨粗しょう症の予防、心臓の負担を取り除く等多くの効果があると云われている、一日4~5粒で充分にOKだそうだ、ラッキョウはカレーライスの時だけと云わず上記の病に心配の御仁は「ラッキョウ食い」に為っては如何であろうか・・・・・。
県道319号線の終点が「浜坂砂丘」でその一部が観光砂丘として、多くの観光客が訪れるスポットとなっています。

砂丘土産の売店・食堂等が立ち並んでいる・砂丘行バスの終点・


近くにある「砂の博物館」
少し進むと国道9号線に交差する・県道319号線の終点地で右折すると鳥取市街方面に向かう。
「福部砂丘 完」
★ 初めて訪問して戴きました皆様は必ず前編「浜坂砂丘編」を御覧下さいます様お願いします。
ひげ爺 良兵衛

「鳥取砂丘全図」・鳥取砂丘は東西16km南北2.4kmの砂丘で東側から①福部砂丘②浜坂砂丘③湖山砂丘④末恒砂丘に大別され構成しています。観光案内やパンフレット等では②浜坂砂丘を鳥取砂丘と呼んで宣伝しており観光の目玉がこの地区に「馬の背」「風紋」「オアシス」等々が集中している故に浜坂地区だけが「鳥取砂丘」であると認識されがちであるが正確には福部から末恒地区までの16kmの砂丘が「鳥取砂丘」であると再認されたい。
昭和30年代「浜坂砂丘」の一部が「天然記念物」・「特別保護地区」に指定されさらに昭和38年7月(1963年7月15日)には山陰海岸国立公園に指定される事により「特別保護地区の浜坂砂丘中心の観光開発」が進み注目される様になり浜坂砂丘⇒鳥取砂丘と認識される様に為ったと推測される。

浜坂砂丘概要・有名な場所の配置図
前編は表題「鳥取砂丘」は「浜坂砂丘」変更させて戴きました。このシリーズは東側から順に紹介してきたので本来なら「福部砂丘」⇒「浜坂砂丘」の順であるべきであろうが逆順に為りましたがご承知下さい。
「福部砂丘」
福部砂丘は「鳥取砂丘の東端」に位置し国道R9号線上の鳥取市福部町細川から右折し鳥取県道319号線に入り「岩戸」「海士」地区から始まる。R319号線は砂丘の海岸部と丘陵の中間を走り砂丘観光の中心地・砂の博物館・売店・リフト・駐車場等々の有る湯山地区に至り再び国道R9号線に交差する。此処が砂丘の西側入り口と為る。距離5.3m。


右折の「砂丘細川線」・砂丘えの東側入り口

県道319号線に入ると小さな集落があり「岩戸港」に続く・緑色枠内が「福部砂丘」

前載写真8/6日撮影の岩戸港・


港に居るのは小型船ばかり・磯漁専門のようだ

岩戸港から見た夕日・
丘陵の「ラッキョウ畑」を左に見て進むと「砂丘海水浴場」がある

前載写真8/6日撮影の海水浴場の遠望・この辺りが「砂丘の花」の群生地である


前載写真8/6日撮影・ハマゴウ(浜栲)はクマツヅラ科ハマゴウ属の常緑小低木で砂浜などに生育する海浜植物・花期は7~9月・果実は蔓荊子(マンケイシ)と呼ばれる生薬で鎮痛、鎮静、消炎作用がある。蔓荊子散などの漢方薬に配合される。




賑わう「砂丘海水浴場」風景


「砂丘海水浴場」から見る落日風景
「鳥取砂丘」には多くの花が咲くが、何と言っても「ラッキョウの花」が圧巻である。


10月下旬~11月上旬に掛けて「ラッキョウ畑」は薄紫を帯びた赤い花の絨毯に染まる・海に見えるのは砂丘沖の「海士島(あもうじま)」

花の開花前には緑の絨毯が敷き詰められる・「海士島(あもうじま)」


「ラッキョウの花」とはこんな花。
「ラッキョウ」の栽培;ユリ科の野菜で中国原産といわれ非常に丈夫で、やせ地でも十分育つため、砂丘や開墾地でも栽培されている。球根を植えさえすれば、数回追肥するだけで、ほとんど手をかけずに栽培することができます。8月下旬~9月中旬に植えつけると、秋に成長。翌年3~4月に若どりしたものは、エシャレットとして利用され一般的な中間地での収穫期は5~6月で、甘酢に漬けてラッキョウ漬けにする。

収穫時の「砂丘ラッキョウ」・鳥取県でのらっきょうの栽培は古く、江戸時代までさかのぼり参勤交代のとき小石川薬園より持ち帰ったと云われている。
収穫が終わると次作の用意が始まる。

収穫の終わった場所順に畑起こしと畝造りを始め植え付けの準備を始める。

「植え付け風景」・真夏の炎天下7月中下旬から盆を挟んで8月下旬までが植え付けの時期・苗を15~20cm間隔で手植えする、ベテランに為ると一日一万球程度は植え付けするそうである。一球が10~15球に増えて収穫される。

「ラッキョウ苗」6月に収穫した物を陰干した苗。これを植え付けする。ラッキョウは種ができないため、もっぱら地下の球で増やす。


ラッキョウは生命力も強く成長も早い、9月も近づくと新芽を出し畑は緑が多くなりやがて写真の様に緑の絨毯を敷き詰めたような風景と為っていく。
昔のラッキョウ作りは「嫁殺し」と云われる程過酷であったそうだが、収穫・開墾・畝造り・炎天下の水遣り等農機具の発達とスプリングクーラーの普及で「嫁殺し」の言葉は死語と為ったそうである。但し「植え付け作業」だけは「手作業」で行うしか無いとのこと・・・・。





「花盛りの砂丘ラッキョウの花」・盛りは10月下旬から11月上旬。
ラッキョウはタマネギやにんにくの仲間(ユリ科の多年草)で、古くから漢方薬の主成分として用いられてきまた。ラッキョウには、血液サラサラ効果、疲労回復、筋肉痛および腰痛の解消、利尿発汗作用、整腸殺菌効果、カルシウムの吸収促進、骨粗しょう症の予防、心臓の負担を取り除く等多くの効果があると云われている、一日4~5粒で充分にOKだそうだ、ラッキョウはカレーライスの時だけと云わず上記の病に心配の御仁は「ラッキョウ食い」に為っては如何であろうか・・・・・。
県道319号線の終点が「浜坂砂丘」でその一部が観光砂丘として、多くの観光客が訪れるスポットとなっています。

砂丘土産の売店・食堂等が立ち並んでいる・砂丘行バスの終点・


近くにある「砂の博物館」
少し進むと国道9号線に交差する・県道319号線の終点地で右折すると鳥取市街方面に向かう。
「福部砂丘 完」
★ 初めて訪問して戴きました皆様は必ず前編「浜坂砂丘編」を御覧下さいます様お願いします。
ひげ爺 良兵衛
ひげ爺の独り言 放談 小噺 『山陰海岸国立公園』の ご近所便り
永らく更新も出来ず申し訳ありませんでした!その間訪問して下さいました皆様に深くお詫び申し上げます。
「鳥取砂丘の中の浜坂砂丘」
「盆の墓参り」の序に「砂丘の夕日」を撮ろうとなどと言う「心根」が災いしたのであろうか8月6日夕方5時前「鳥取砂丘」の東端の「岩戸港」に着いた頃には、酷暑と晴天続きであったのに薄曇りとなり風も出てきた。

薄曇りの「岩戸港」・小舟しかない「磯漁」専門の港の様である。

「砂丘海水浴場」を遠望する・波も高くなり海水浴客もちらほら見えるだけ。撮影日を間違えた様である。

撮影場所に紫がかった可憐な花が群生していた。


ハマゴウ(浜栲)はクマツヅラ科ハマゴウ属の常緑小低木で砂浜などに生育する海浜植物・花期は7~9月・果実は蔓荊子(マンケイシ)と呼ばれる生薬で鎮痛、鎮静、消炎作用がある。蔓荊子散などの漢方薬に配合される。
可憐な「ハマゴウ(浜栲)」の写真は撮れたもののこの空模様では「砂丘の夕日」は到底無理と諦めろ事にした。
2006年から砂丘に「砂の美術館」なる物が出来た事は聞き知っていたので「砂の美術館」を見学する事に決定。

第6期展示テーマ
「砂で世界旅行・東南アジア編」
~王朝の栄華とよみがえる神秘の国々~
展示期間 2013年4月20日(土)~2014年1月5日(日)
開館時間 9:00~20:00(最終入館19:30まで)
休館日
展示期間中:無休
(展示期間終了後、次回展示作品の制作のため、休館します。)
観覧料
一般600円、小中高校生300円
※ 団体20名以上で、一般500円、小中高校生200円
※ 障害者手帳等を所持している方は、無料

「パゴタ」・パゴタは仏塔の意味でお釈迦様の化身であると云われている。ミャンマーのヤンゴンにあるセダゴン・パゴタは約2500年前に建造されたと伝えられる。日本の仏塔と同様、仏舎利(釈迦仏の遺骨等)または法舎利(仏舎利の代用としての経文)を安置するための施設である。「釈迦の住む家」であるパゴダに入るときは履物を脱ぐことが求められ、靴や靴下(ストッキングを含む)を履いて入ることは許されない。

バガンのダンマ・ヤザカパゴダマ

「世界平和パゴダ」日本唯一の正統なミャンマー式パゴダ(北九州市門司区和布刈公園)


「アンコールワット」・12世紀前半カンボジアのクメール王朝によってヒンズー教寺院として建造された。その後仏教寺院として改修されるが1772年内戦により仏像は首をはねられ破壊された。1992年世界遺産に登録された。今でもアンコールワットはカンボジアの象徴である。


正面奥「カンボジアのアンコールワット」・ 正面手前「ミャンマーのバコダ」

9世紀~15世紀にかけて東南アジアに覇を唱え栄華を誇った。遠征に勝利しアンコールトムの勝利の門を通り凱旋する兵士達。

「熱帯雨林に棲む動物たち」



多方向から見た「パゴタ」

「バリヒンドゥーの守り神」

「守り神ナーガ」頭部に沢山の蛇を飾る蛇神でインドの神話に起源をもつ守護神ナーガ。アンコールワットの入り口に鎮座し今でも寺院を守護している。

「バンコクの王宮とプラナコーンの街並み」
入館前までは、「砂で如何程のものが出来ようか?」と多寡を括っていたが見て驚いた!先ず巨大である!緻密・精密さに驚く!素晴らしい建造物や人物・動物・守護神等々である。2006年以降も何度か砂丘まで写真撮りに来ていたのに博物館に立ち寄らなかったのは残念至極である。鳥取砂丘観光の際には必ず立ち寄られることをお勧めする。
「過去の作品から」・・・・・。
第5期: 2012年4月14日(土) 〜 2013年1月6日(日)
テーマ「砂で世界旅行・イギリス 〜語り継がれる大英帝国の繁栄と王室の誇り〜」

「エリザベス1世と絶対王政」

ウェストミンスター。ロンドン中心部を流れるテムズ河畔に位置し、時計塔として世界中で知られるビッグベンをはじめ、現在英国国会議事堂として使用されているウェストミンスター宮殿、ウィリアム王子とケイト妃の挙式が行われたウェストミンスター寺院等の世界文化遺産が隣立する。
第4期: 2010年4月29日(木) 〜 2011年1月10日(月)
テーマ「砂で世界旅行・アフリカ 〜偉大なる大陸の歩みを訪ねて〜」

「ネルソン・マンデラ ~新しいヒーロー誕生」

アフリカの動物達
第3期: 2009年9月18日(金) 〜 2010年1月3日(日)
テーマ「砂で世界旅行・オーストリア編〜貴族文化と音楽の都を訪ねて

ベルヴェデーレ宮殿
ウィーンにあるバロック建築最高傑作に数えられる宮殿。17世紀のハプスブルク軍の総司令官で、ナポレオンが「世界が生んだ7人の軍事的天才の1人」と呼んだプリンツ・オイゲン公の夏の離宮。プリンツ・オイゲン公の死後、1752年にハプスブルク家のマリア・テレジアに売却されました。

シュテファン大聖堂
ウィーンにあるゴシック様式の大聖堂。ウィーンのシンボルで、「ウィーンの魂」とも言われ、人々はシュッテフル(Steffl)という愛称で呼んでいます。この聖堂を含むウィーン歴史地区は2001年にユネスコの世界遺産に登録されました。モーツァルトとその妻ウェーバー・コンスタンツェの結婚式と葬儀が行われた聖堂としても知られています。
第2期: 2008年4月26日(土) 〜 2009年1月3日(土)
テーマ「世界遺産・アジア編〜アジアの風にのって〜」

タージマハル
1631年から1648年にかけて、ムガール帝国皇帝シャー・ジャハーンが、自身の王妃を追慕するために建造した、巨大な大理石のモスク。インド・イスラム芸術の結晶で、世界遺産の最高傑作のひとつ。

万里の長城
紀元前220年ごろ、秦の始皇帝が北方民族の進入を防ぐために建造し、明代(17世紀)に完成した要塞で、世界最大の軍事施設。歴史的、戦略的重要性と建築物としての価値をあわせ持つ。
第1期: 2006年11月18日(土) 〜 2007年1月3日(水)
テーマ「イタリア・ルネサンス」

サンピエトロ大聖堂
ローマのバチカン市国南東端にあるカトリック協会の総本山。サン・ピエトロは「聖ペトロ」の意で、キリスト教の使徒ペトロ(ペテロ)のイタリア語読みに由来する。カトリック教会の伝承によれば、サン・ピエトロ大聖堂はもともと使徒ペトロの墓所があったところに建立されたとされ、キリスト教の教会建築としては世界最大級の大きさを誇る。

受胎告知
キリスト教の聖典でもある新約聖書に書かれているエピソードの1つ。「聖告」、「お告げ」とも言う。一般に、マリアに天使のガブリエルが降り、聖霊によってキリストを身ごもったことを告げる出来事。サン・マルコ修道院にフラ・アンジェリコが描いた壁画、レオナルド・ダ・ヴィンチによる絵画などが傑作として知られる

天使の像2体(右)
「砂の美術館」見学を終え駐車場に戻ると海の方角が多少色図いていたので待つこと暫し。

「馬の背」と云う場所で夕日を撮るアングルとしては最高なのだが・・・・。ただ今6時44分


待つこと15分・辛うじて2枚撮れました・通称「馬の背」と呼ばれる砂丘一番人気の丘陵である。

7時5分太陽雲間に消える・不本意な写真で掲載を止めようかとも思ったが失敗作として敢えて掲載した。
一番人気の「馬の背」には遠く前方に大きな松を中心の雑木林が有る。写真を撮るには雑木林を超えて砂丘に降立つのが賢明であろう。

「浜坂砂丘全景」:鳥取砂丘は東西16km南北2.4km、90mもの高低差のある丘陵を誇る鳥取砂丘の成り立ちは10万年前に遡ると云われている。中国山地から流れ出た千代川(砂丘の西側)が運ぶ砂と日本海の沿岸流が運んだ砂が風と波の力によって集められ、日本海からの荒波と北風に因って陸に押し上げ堆積して出来たのが「鳥取砂丘」だと云われている。「砂の博物館」は人工の造形美であるが砂丘自体は自然の造った造形の最高傑作と云っても過言ではあるまい。

「浜坂砂丘」で有名な「馬の背」「オアシス」「すり鉢」「風紋」等々の配置図

ひげ爺お気に入りの「馬の背」観光客も一番多いかも・・・

「馬の背」頂上・海側は急斜面・サンド・スキーも出来る

サンド・スキー

頂上から眺める日本海岸



色んな「砂丘馬の背」を掲載したが「鳥取砂丘」は同じ姿を続けることはありません。少しづつ、場所ごとにほんの少しづつ時には大きく顔を変えながら成長し10万年掛けて現在に至り千年万年と変化し続ける事を想像するとロマンを感ずること頻りである。

「馬の背」の急斜面を登るだけ・サンド・スキーで斜面の景色は変化するし観光客の足跡も然りである。来る度に新しい物を見たように感じるのはその所為かも知れない。
四季折々に、自然現象・風(強弱、方向)雨に因って忽ち姿形を変えて新たな砂丘を表現することが度々起こる。



「風紋(ふうもん)」・「砂のさざ波」とも例えられる。風速5~6mの風によって砂一面に波の模様が描かれる。観光客に踏み荒らされた砂も見事修復。夜中に頃合いの風が吹いた翌早朝の砂丘は真新しい砂丘に為っている。
鳥取在住の頃(昭和40年代)サンド・ウエッジだけ持って早朝の砂丘に良く通った、ヴァンカーだけは人並みだった様に記憶している。



「砂簾(されん)」・雨の降った翌日などに、見ることができる。これは、砂丘の急斜面を砂粒が滑り落ち、遠くから見るとまるで、すだれのように見えるので、この名前がついた。


「砂柱(さちゅう)」・嵐の翌日に見られる屹立する砂の群れで、雨風で砂の表面が侵食されて出来る。海に近い砂丘で見られる。
鳥取砂丘は一時も留まらず刻々と変化し、描いては消し新しく描いては消すことの出来る「巨大なキャンバス」なので在る。
「馬の背」に落ちる夕陽;


山陰海岸の落日に欠かせないのが「烏賊(いか)釣り漁船の漁火」である・今年は烏賊(シマメイカ(スルメイカ)が近年に無い絶不漁の上ガソリンの値上げで採算に合わず例年の3分の1程度しか出船が無いので美しい漁火風景は見られないのは残念である。(過去の写真)







「馬の背」に落ちる夕陽の数々・5月頃から始まり夏の終わりまでが撮り頃の時期である。
「砂丘に出来るオアシス」





梅雨の長雨・秋から初冬に掛けての長雨・雪解けの頃砂丘の彼方此方にオアシスが誕生する。大雪の年など推進1mを超すこともあるそうだ。
「馬の背」を中心とする砂丘の一大パノラマは冬季に為るとこの様に新しい姿を見せて呉れる。



「馬の背」近辺の積雪風景・昭和40年代前半には良く練習に行った。障害物も無く人もまばらで初心者向けにモッテコイの練習場であった。可也滑れる様に為った頃同僚のベテランスキー・ヤー2人に(一人は伯耆大山出身で国体経験者)誘われ氷ノ山に行った。現在山陰では大山スキー場に次いで有名な氷ノ山ではあるがリフト設備も無い頃の話である。頂上まで登り第一滑走で下まで滑り降りたものの止まりきれず最後に転倒し捻挫、山小屋で待機。手持ち無沙汰の為酒を飲んだ・これが悪かった様で「疼きと腫れ」が酷く結局ソリ?フネ?で可也遠い駐車場まで運んで貰う「破目」に為ってしまった。それ以来スキーは止めた。矢張りひげ爺は海人なのである。


積雪の後晴天が続くと砂丘の窪みに「オアシス状」水溜りが出来る事がある・春の兆しが近づく頃に多く見られる現象である。

積雪が緩み始めると「砂簾(されん)」と同じように急斜面で雪が崩れ「雪が簾(すだれ)状に落ちる」事がある。まれに見る現象なので「砂簾」の様に正式名称は無いが「雪ののれん」と云ったところで在ろうか。

雪解けの頃には日本海から吹く北風に煽られた「露出した砂」が四方に飛び散り汚れた顔を見せ始める。春の訪れの前触れでなのである。

この写真は「馬の背」の東側であるが約40m程の高さの急斜面で海岸線に繋がっている。北風に煽られて斜面の雪と砂が吹き上げられた姿である。「気の遠くなるような年月を掛けて集められた砂が日本海の荒波や風に因って砂丘は造られた」と云う知識を得ても中々実感として納得しえないのも仕方あるまいが写真が示す通り海側斜面の砂が舞い上がり翌春の新しい「馬の背」を形造っているのである、「巨大な砂丘キャンバスの馬の背」に絵筆の一毛を加えたに過ぎないかも知れないが・・・・。将に「砂丘は活きている!」のである。
雪が終わると砂丘にも春が・・・・・。「砂丘キャンバス」の片隅に砂地植物が咲き乱れ始める季節の到来である。



「こうぼうむぎ・弘法麦」4月中旬・鳥取砂丘を代表する植物で特徴は、雌雄異株で「雄の穂」と「雌の穂」がある。茶色の穂はオスで、緑の穂はメスで小さな白い花をつける。雄の穂は枯れてしまい、メスの穂には実を結びます。5月中、雌雄異株で「雄の穂」と「雌の穂」が同時に見られるのはこの時期のみです。穂が麦と筆に似ていることから「弘法」の名がついた。(三筆の一人弘法大師)


「はま‐うつぼ・浜靫」
ハマウツボ科の一年生の寄生植物。海岸の砂地でカワラヨモギの根に寄生し、高さ10~20センチ。太い黄褐色の茎にうろこ状の葉がまばらにつく。5、6月ごろ、茎の上部に、淡紫色の唇形の花を密につける。


ハマヒルガオ(ヒルガオ科)【花期】6~7月・砂丘の中でも砂の移動がはげしい不安定帯に分布し地下茎を横に伸ばし広がるため、大きな群落となって生育する。初夏の日中に朝顔のような花をつけます。


「ハマボウフウ(浜防風)」;花期5~7月・被子植物のセリ科ハマボウフウ属の一種。 海岸の砂地に自生する海岸性の多年草。 山菜として食用にするほか、漢方薬・民間療法薬として利用される、根は、漢方薬として使われ「北沙参」と呼ばれ、去痰、解熱、鎮咳薬などとして利用される。

前掲載の「ハマゴウの花」


ハマゴウ(浜栲)はクマツヅラ科ハマゴウ属の常緑小低木で砂浜などに生育する海浜植物・花期は7~9月・果実は蔓荊子(マンケイシ)と呼ばれる生薬で鎮痛、鎮静、消炎作用がある。蔓荊子散などの漢方薬に配合される。


「ニセアカシアの花」北米原産のマメ科ハリエンジュ属の落葉高木。和名はハリエンジュ(針槐)。日本には1873年に渡来した。用途は街路樹、公園樹、砂防・土止めに植栽、材は器具用等に用いられる。


「ウンラン・海蘭 (ゴマノハグサ科 ウンラン属)」
ウンランは、北海道と本州(太平洋側は千葉県以北、日本海側は鳥取県以北)、四国北部に分布する、極小さな多年草。高さは10から25センチで、主に海岸の砂地に生育し、防風林であるクロマツ植林の林床にも見られる。茎や葉は粉白色を帯びた緑色で、砂地を這うように生育する。葉は対生または3から4枚輪生で、長さ2センチ前後、柄は無く、無毛で質厚くて楕円形。夏の終わり頃、枝先に植物体には不似合いなほど大きな黄白色の花を咲かせる。花の形は同じ科の栽培植物であるキンギョソウによく似ている。近年の自然海岸の減少に伴い、ウンランの自生地も少なくなっている。花が蘭に似ている事から「海蘭」。


【ハマニガナ(浜苦菜)】:キク科タカサゴソウ属・花期:4月~10月・別名:ハマ イチョウ
海岸の砂地に生える多年草で、地下茎を横に長く伸ばして殖えていく。葉は厚く、長い柄があるが柄の部分の多くは砂の中に埋もれています。葉の形はキクの葉状から切れ込みのないものまで変化がある。名はニガナに似て海岸に生えることでその名がついた。葉がややイチョウに似ているということで、ハマイチョウの別名がある。

「ニガナ(苦菜)」は、キク科の多年草である。
ハマニガナの花柄はニガナに酷似している事からその名がついたが葉柄は違うし生育場所は異なる。
路傍・田畑・山野に生育するが環境により花柄は多形を示し、日本全土、東アジアの温〜亜熱帯に分布する。
沖縄では食用にする・琉球王朝の時代から滋養食とされた薬草の一種で、葉、茎、根に苦みがあり、栽培ものより自生しているもの、とくに海辺に近いところに自生しているものは苦みが強いという。この独特の苦味で昔から健胃剤の薬草として重宝されてきた。油分を加えると苦味が和らぐ。ビタミンCやカロテン、カルシウム、カリウムが豊富。


「ハマベノギク・浜辺野菊」浜辺野菊はキク科ハマベノギク属の越年草である。
本州の富山県から九州にかけて日本海側に分布し、海岸の砂地に生える。分類上は、山路野菊(ヤマジノギク)の亜種とされている。草丈は20~30センチくらいである。茎は根際から倒れて地を這い、先で直立する。
根際から生える葉は幅の狭い倒卵形で、開花時期には枯れる。
茎につく葉は線形で、互い違いに生える(互生)。
葉の質は分厚い。開花時期は7~11月くらいである。花径は3~4センチくらいである。
舌状花の色は白ないし淡い青紫色である。


「ネコノシタ(ハマグルマ)(キク科 ハマグルマ属)」
ネコノシタは関東および北陸以西の本州から琉球・小笠原、朝鮮・中国・ベトナムなどの暖帯から熱帯の海岸砂地に生育する多年草。土中あるいは地表に長い茎を這わせ、節から根と茎・葉を出す。葉は対生し、縁に数個の鋸歯がある。両面に短い剛毛があり、さわると非常にざらつき、和名の由来は猫の舌の似ている事からその名が付いた。葉の表面は全体緑であるが、裏面は脈が目立って網目状。花は7月から10月にかけて茎の先端に1つ咲き、黄色。

「ネコノシタ」の葉っぱの拡大写真・表面がザラザラして葉縁にトゲトゲ「猫の舌」とは云い得て妙!
「鳥取砂丘」には多くの花が咲くが、何と言っても「ラッキョウの花」が圧巻である。


10月下旬~11月上旬に掛けて「ラッキョウ畑」は薄紫を帯びた赤い花の絨毯に染まる・海に見えるのは砂丘沖の「海士島(あもうじま)」・次編「福部砂丘」で詳しく紹介します。
「鳥取砂丘の中の浜坂砂丘 完」
「鳥取砂丘の中の浜坂砂丘」
「盆の墓参り」の序に「砂丘の夕日」を撮ろうとなどと言う「心根」が災いしたのであろうか8月6日夕方5時前「鳥取砂丘」の東端の「岩戸港」に着いた頃には、酷暑と晴天続きであったのに薄曇りとなり風も出てきた。

薄曇りの「岩戸港」・小舟しかない「磯漁」専門の港の様である。

「砂丘海水浴場」を遠望する・波も高くなり海水浴客もちらほら見えるだけ。撮影日を間違えた様である。

撮影場所に紫がかった可憐な花が群生していた。


ハマゴウ(浜栲)はクマツヅラ科ハマゴウ属の常緑小低木で砂浜などに生育する海浜植物・花期は7~9月・果実は蔓荊子(マンケイシ)と呼ばれる生薬で鎮痛、鎮静、消炎作用がある。蔓荊子散などの漢方薬に配合される。
可憐な「ハマゴウ(浜栲)」の写真は撮れたもののこの空模様では「砂丘の夕日」は到底無理と諦めろ事にした。
2006年から砂丘に「砂の美術館」なる物が出来た事は聞き知っていたので「砂の美術館」を見学する事に決定。

第6期展示テーマ
「砂で世界旅行・東南アジア編」
~王朝の栄華とよみがえる神秘の国々~
展示期間 2013年4月20日(土)~2014年1月5日(日)
開館時間 9:00~20:00(最終入館19:30まで)
休館日
展示期間中:無休
(展示期間終了後、次回展示作品の制作のため、休館します。)
観覧料
一般600円、小中高校生300円
※ 団体20名以上で、一般500円、小中高校生200円
※ 障害者手帳等を所持している方は、無料

「パゴタ」・パゴタは仏塔の意味でお釈迦様の化身であると云われている。ミャンマーのヤンゴンにあるセダゴン・パゴタは約2500年前に建造されたと伝えられる。日本の仏塔と同様、仏舎利(釈迦仏の遺骨等)または法舎利(仏舎利の代用としての経文)を安置するための施設である。「釈迦の住む家」であるパゴダに入るときは履物を脱ぐことが求められ、靴や靴下(ストッキングを含む)を履いて入ることは許されない。

バガンのダンマ・ヤザカパゴダマ

「世界平和パゴダ」日本唯一の正統なミャンマー式パゴダ(北九州市門司区和布刈公園)


「アンコールワット」・12世紀前半カンボジアのクメール王朝によってヒンズー教寺院として建造された。その後仏教寺院として改修されるが1772年内戦により仏像は首をはねられ破壊された。1992年世界遺産に登録された。今でもアンコールワットはカンボジアの象徴である。


正面奥「カンボジアのアンコールワット」・ 正面手前「ミャンマーのバコダ」

9世紀~15世紀にかけて東南アジアに覇を唱え栄華を誇った。遠征に勝利しアンコールトムの勝利の門を通り凱旋する兵士達。

「熱帯雨林に棲む動物たち」



多方向から見た「パゴタ」

「バリヒンドゥーの守り神」

「守り神ナーガ」頭部に沢山の蛇を飾る蛇神でインドの神話に起源をもつ守護神ナーガ。アンコールワットの入り口に鎮座し今でも寺院を守護している。

「バンコクの王宮とプラナコーンの街並み」
入館前までは、「砂で如何程のものが出来ようか?」と多寡を括っていたが見て驚いた!先ず巨大である!緻密・精密さに驚く!素晴らしい建造物や人物・動物・守護神等々である。2006年以降も何度か砂丘まで写真撮りに来ていたのに博物館に立ち寄らなかったのは残念至極である。鳥取砂丘観光の際には必ず立ち寄られることをお勧めする。
「過去の作品から」・・・・・。
第5期: 2012年4月14日(土) 〜 2013年1月6日(日)
テーマ「砂で世界旅行・イギリス 〜語り継がれる大英帝国の繁栄と王室の誇り〜」

「エリザベス1世と絶対王政」

ウェストミンスター。ロンドン中心部を流れるテムズ河畔に位置し、時計塔として世界中で知られるビッグベンをはじめ、現在英国国会議事堂として使用されているウェストミンスター宮殿、ウィリアム王子とケイト妃の挙式が行われたウェストミンスター寺院等の世界文化遺産が隣立する。
第4期: 2010年4月29日(木) 〜 2011年1月10日(月)
テーマ「砂で世界旅行・アフリカ 〜偉大なる大陸の歩みを訪ねて〜」

「ネルソン・マンデラ ~新しいヒーロー誕生」

アフリカの動物達
第3期: 2009年9月18日(金) 〜 2010年1月3日(日)
テーマ「砂で世界旅行・オーストリア編〜貴族文化と音楽の都を訪ねて

ベルヴェデーレ宮殿
ウィーンにあるバロック建築最高傑作に数えられる宮殿。17世紀のハプスブルク軍の総司令官で、ナポレオンが「世界が生んだ7人の軍事的天才の1人」と呼んだプリンツ・オイゲン公の夏の離宮。プリンツ・オイゲン公の死後、1752年にハプスブルク家のマリア・テレジアに売却されました。

シュテファン大聖堂
ウィーンにあるゴシック様式の大聖堂。ウィーンのシンボルで、「ウィーンの魂」とも言われ、人々はシュッテフル(Steffl)という愛称で呼んでいます。この聖堂を含むウィーン歴史地区は2001年にユネスコの世界遺産に登録されました。モーツァルトとその妻ウェーバー・コンスタンツェの結婚式と葬儀が行われた聖堂としても知られています。
第2期: 2008年4月26日(土) 〜 2009年1月3日(土)
テーマ「世界遺産・アジア編〜アジアの風にのって〜」

タージマハル
1631年から1648年にかけて、ムガール帝国皇帝シャー・ジャハーンが、自身の王妃を追慕するために建造した、巨大な大理石のモスク。インド・イスラム芸術の結晶で、世界遺産の最高傑作のひとつ。

万里の長城
紀元前220年ごろ、秦の始皇帝が北方民族の進入を防ぐために建造し、明代(17世紀)に完成した要塞で、世界最大の軍事施設。歴史的、戦略的重要性と建築物としての価値をあわせ持つ。
第1期: 2006年11月18日(土) 〜 2007年1月3日(水)
テーマ「イタリア・ルネサンス」

サンピエトロ大聖堂
ローマのバチカン市国南東端にあるカトリック協会の総本山。サン・ピエトロは「聖ペトロ」の意で、キリスト教の使徒ペトロ(ペテロ)のイタリア語読みに由来する。カトリック教会の伝承によれば、サン・ピエトロ大聖堂はもともと使徒ペトロの墓所があったところに建立されたとされ、キリスト教の教会建築としては世界最大級の大きさを誇る。

受胎告知
キリスト教の聖典でもある新約聖書に書かれているエピソードの1つ。「聖告」、「お告げ」とも言う。一般に、マリアに天使のガブリエルが降り、聖霊によってキリストを身ごもったことを告げる出来事。サン・マルコ修道院にフラ・アンジェリコが描いた壁画、レオナルド・ダ・ヴィンチによる絵画などが傑作として知られる

天使の像2体(右)
「砂の美術館」見学を終え駐車場に戻ると海の方角が多少色図いていたので待つこと暫し。

「馬の背」と云う場所で夕日を撮るアングルとしては最高なのだが・・・・。ただ今6時44分


待つこと15分・辛うじて2枚撮れました・通称「馬の背」と呼ばれる砂丘一番人気の丘陵である。

7時5分太陽雲間に消える・不本意な写真で掲載を止めようかとも思ったが失敗作として敢えて掲載した。
一番人気の「馬の背」には遠く前方に大きな松を中心の雑木林が有る。写真を撮るには雑木林を超えて砂丘に降立つのが賢明であろう。

「浜坂砂丘全景」:鳥取砂丘は東西16km南北2.4km、90mもの高低差のある丘陵を誇る鳥取砂丘の成り立ちは10万年前に遡ると云われている。中国山地から流れ出た千代川(砂丘の西側)が運ぶ砂と日本海の沿岸流が運んだ砂が風と波の力によって集められ、日本海からの荒波と北風に因って陸に押し上げ堆積して出来たのが「鳥取砂丘」だと云われている。「砂の博物館」は人工の造形美であるが砂丘自体は自然の造った造形の最高傑作と云っても過言ではあるまい。

「浜坂砂丘」で有名な「馬の背」「オアシス」「すり鉢」「風紋」等々の配置図

ひげ爺お気に入りの「馬の背」観光客も一番多いかも・・・

「馬の背」頂上・海側は急斜面・サンド・スキーも出来る

サンド・スキー

頂上から眺める日本海岸



色んな「砂丘馬の背」を掲載したが「鳥取砂丘」は同じ姿を続けることはありません。少しづつ、場所ごとにほんの少しづつ時には大きく顔を変えながら成長し10万年掛けて現在に至り千年万年と変化し続ける事を想像するとロマンを感ずること頻りである。

「馬の背」の急斜面を登るだけ・サンド・スキーで斜面の景色は変化するし観光客の足跡も然りである。来る度に新しい物を見たように感じるのはその所為かも知れない。
四季折々に、自然現象・風(強弱、方向)雨に因って忽ち姿形を変えて新たな砂丘を表現することが度々起こる。



「風紋(ふうもん)」・「砂のさざ波」とも例えられる。風速5~6mの風によって砂一面に波の模様が描かれる。観光客に踏み荒らされた砂も見事修復。夜中に頃合いの風が吹いた翌早朝の砂丘は真新しい砂丘に為っている。
鳥取在住の頃(昭和40年代)サンド・ウエッジだけ持って早朝の砂丘に良く通った、ヴァンカーだけは人並みだった様に記憶している。



「砂簾(されん)」・雨の降った翌日などに、見ることができる。これは、砂丘の急斜面を砂粒が滑り落ち、遠くから見るとまるで、すだれのように見えるので、この名前がついた。


「砂柱(さちゅう)」・嵐の翌日に見られる屹立する砂の群れで、雨風で砂の表面が侵食されて出来る。海に近い砂丘で見られる。
鳥取砂丘は一時も留まらず刻々と変化し、描いては消し新しく描いては消すことの出来る「巨大なキャンバス」なので在る。
「馬の背」に落ちる夕陽;


山陰海岸の落日に欠かせないのが「烏賊(いか)釣り漁船の漁火」である・今年は烏賊(シマメイカ(スルメイカ)が近年に無い絶不漁の上ガソリンの値上げで採算に合わず例年の3分の1程度しか出船が無いので美しい漁火風景は見られないのは残念である。(過去の写真)







「馬の背」に落ちる夕陽の数々・5月頃から始まり夏の終わりまでが撮り頃の時期である。
「砂丘に出来るオアシス」





梅雨の長雨・秋から初冬に掛けての長雨・雪解けの頃砂丘の彼方此方にオアシスが誕生する。大雪の年など推進1mを超すこともあるそうだ。
「馬の背」を中心とする砂丘の一大パノラマは冬季に為るとこの様に新しい姿を見せて呉れる。



「馬の背」近辺の積雪風景・昭和40年代前半には良く練習に行った。障害物も無く人もまばらで初心者向けにモッテコイの練習場であった。可也滑れる様に為った頃同僚のベテランスキー・ヤー2人に(一人は伯耆大山出身で国体経験者)誘われ氷ノ山に行った。現在山陰では大山スキー場に次いで有名な氷ノ山ではあるがリフト設備も無い頃の話である。頂上まで登り第一滑走で下まで滑り降りたものの止まりきれず最後に転倒し捻挫、山小屋で待機。手持ち無沙汰の為酒を飲んだ・これが悪かった様で「疼きと腫れ」が酷く結局ソリ?フネ?で可也遠い駐車場まで運んで貰う「破目」に為ってしまった。それ以来スキーは止めた。矢張りひげ爺は海人なのである。


積雪の後晴天が続くと砂丘の窪みに「オアシス状」水溜りが出来る事がある・春の兆しが近づく頃に多く見られる現象である。

積雪が緩み始めると「砂簾(されん)」と同じように急斜面で雪が崩れ「雪が簾(すだれ)状に落ちる」事がある。まれに見る現象なので「砂簾」の様に正式名称は無いが「雪ののれん」と云ったところで在ろうか。

雪解けの頃には日本海から吹く北風に煽られた「露出した砂」が四方に飛び散り汚れた顔を見せ始める。春の訪れの前触れでなのである。

この写真は「馬の背」の東側であるが約40m程の高さの急斜面で海岸線に繋がっている。北風に煽られて斜面の雪と砂が吹き上げられた姿である。「気の遠くなるような年月を掛けて集められた砂が日本海の荒波や風に因って砂丘は造られた」と云う知識を得ても中々実感として納得しえないのも仕方あるまいが写真が示す通り海側斜面の砂が舞い上がり翌春の新しい「馬の背」を形造っているのである、「巨大な砂丘キャンバスの馬の背」に絵筆の一毛を加えたに過ぎないかも知れないが・・・・。将に「砂丘は活きている!」のである。
雪が終わると砂丘にも春が・・・・・。「砂丘キャンバス」の片隅に砂地植物が咲き乱れ始める季節の到来である。



「こうぼうむぎ・弘法麦」4月中旬・鳥取砂丘を代表する植物で特徴は、雌雄異株で「雄の穂」と「雌の穂」がある。茶色の穂はオスで、緑の穂はメスで小さな白い花をつける。雄の穂は枯れてしまい、メスの穂には実を結びます。5月中、雌雄異株で「雄の穂」と「雌の穂」が同時に見られるのはこの時期のみです。穂が麦と筆に似ていることから「弘法」の名がついた。(三筆の一人弘法大師)


「はま‐うつぼ・浜靫」
ハマウツボ科の一年生の寄生植物。海岸の砂地でカワラヨモギの根に寄生し、高さ10~20センチ。太い黄褐色の茎にうろこ状の葉がまばらにつく。5、6月ごろ、茎の上部に、淡紫色の唇形の花を密につける。


ハマヒルガオ(ヒルガオ科)【花期】6~7月・砂丘の中でも砂の移動がはげしい不安定帯に分布し地下茎を横に伸ばし広がるため、大きな群落となって生育する。初夏の日中に朝顔のような花をつけます。


「ハマボウフウ(浜防風)」;花期5~7月・被子植物のセリ科ハマボウフウ属の一種。 海岸の砂地に自生する海岸性の多年草。 山菜として食用にするほか、漢方薬・民間療法薬として利用される、根は、漢方薬として使われ「北沙参」と呼ばれ、去痰、解熱、鎮咳薬などとして利用される。

前掲載の「ハマゴウの花」


ハマゴウ(浜栲)はクマツヅラ科ハマゴウ属の常緑小低木で砂浜などに生育する海浜植物・花期は7~9月・果実は蔓荊子(マンケイシ)と呼ばれる生薬で鎮痛、鎮静、消炎作用がある。蔓荊子散などの漢方薬に配合される。


「ニセアカシアの花」北米原産のマメ科ハリエンジュ属の落葉高木。和名はハリエンジュ(針槐)。日本には1873年に渡来した。用途は街路樹、公園樹、砂防・土止めに植栽、材は器具用等に用いられる。


「ウンラン・海蘭 (ゴマノハグサ科 ウンラン属)」
ウンランは、北海道と本州(太平洋側は千葉県以北、日本海側は鳥取県以北)、四国北部に分布する、極小さな多年草。高さは10から25センチで、主に海岸の砂地に生育し、防風林であるクロマツ植林の林床にも見られる。茎や葉は粉白色を帯びた緑色で、砂地を這うように生育する。葉は対生または3から4枚輪生で、長さ2センチ前後、柄は無く、無毛で質厚くて楕円形。夏の終わり頃、枝先に植物体には不似合いなほど大きな黄白色の花を咲かせる。花の形は同じ科の栽培植物であるキンギョソウによく似ている。近年の自然海岸の減少に伴い、ウンランの自生地も少なくなっている。花が蘭に似ている事から「海蘭」。


【ハマニガナ(浜苦菜)】:キク科タカサゴソウ属・花期:4月~10月・別名:ハマ イチョウ
海岸の砂地に生える多年草で、地下茎を横に長く伸ばして殖えていく。葉は厚く、長い柄があるが柄の部分の多くは砂の中に埋もれています。葉の形はキクの葉状から切れ込みのないものまで変化がある。名はニガナに似て海岸に生えることでその名がついた。葉がややイチョウに似ているということで、ハマイチョウの別名がある。

「ニガナ(苦菜)」は、キク科の多年草である。
ハマニガナの花柄はニガナに酷似している事からその名がついたが葉柄は違うし生育場所は異なる。
路傍・田畑・山野に生育するが環境により花柄は多形を示し、日本全土、東アジアの温〜亜熱帯に分布する。
沖縄では食用にする・琉球王朝の時代から滋養食とされた薬草の一種で、葉、茎、根に苦みがあり、栽培ものより自生しているもの、とくに海辺に近いところに自生しているものは苦みが強いという。この独特の苦味で昔から健胃剤の薬草として重宝されてきた。油分を加えると苦味が和らぐ。ビタミンCやカロテン、カルシウム、カリウムが豊富。


「ハマベノギク・浜辺野菊」浜辺野菊はキク科ハマベノギク属の越年草である。
本州の富山県から九州にかけて日本海側に分布し、海岸の砂地に生える。分類上は、山路野菊(ヤマジノギク)の亜種とされている。草丈は20~30センチくらいである。茎は根際から倒れて地を這い、先で直立する。
根際から生える葉は幅の狭い倒卵形で、開花時期には枯れる。
茎につく葉は線形で、互い違いに生える(互生)。
葉の質は分厚い。開花時期は7~11月くらいである。花径は3~4センチくらいである。
舌状花の色は白ないし淡い青紫色である。


「ネコノシタ(ハマグルマ)(キク科 ハマグルマ属)」
ネコノシタは関東および北陸以西の本州から琉球・小笠原、朝鮮・中国・ベトナムなどの暖帯から熱帯の海岸砂地に生育する多年草。土中あるいは地表に長い茎を這わせ、節から根と茎・葉を出す。葉は対生し、縁に数個の鋸歯がある。両面に短い剛毛があり、さわると非常にざらつき、和名の由来は猫の舌の似ている事からその名が付いた。葉の表面は全体緑であるが、裏面は脈が目立って網目状。花は7月から10月にかけて茎の先端に1つ咲き、黄色。

「ネコノシタ」の葉っぱの拡大写真・表面がザラザラして葉縁にトゲトゲ「猫の舌」とは云い得て妙!
「鳥取砂丘」には多くの花が咲くが、何と言っても「ラッキョウの花」が圧巻である。


10月下旬~11月上旬に掛けて「ラッキョウ畑」は薄紫を帯びた赤い花の絨毯に染まる・海に見えるのは砂丘沖の「海士島(あもうじま)」・次編「福部砂丘」で詳しく紹介します。
「鳥取砂丘の中の浜坂砂丘 完」