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ひげ爺の独り言 放談 小噺  『山陰海岸国立公園』の ご近所便り

 2013・7・4日PCがパンクし「突然の書き込み中止」を余儀なくされましたが漸くnew-PCが出来上がりましたので再開させて戴きます。先にも増してお越し戴きます様お願い致します。   ひげ爺 良兵衛 

 「鴨ヶ磯」
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 山陰海岸国立公園内「鳥取版岩美編」田後港⇒網代港までの絶景海岸の位置の図
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 「鴨ヶ磯」展望台駐車場案内・此処より磯への遊歩道あり
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 上記の写真二枚は「観音浦」・「観音浦編」と重複する
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            鴨ヶ磯遊歩道を降る手前の展望台よりの眺望
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 遊歩道を降ると水尻洞門・此処を基点に彼方此方の磯を探訪出来る
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               小鴨ヶ磯入り江
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               小鴨ヶ磯入り江の遊歩道
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 小鴨ヶ磯遊歩道は椿谷入り江に続いている・この浜に「露軍将校遺体 漂着記念碑」が建立されている(後述)
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               酒宴洞(しゅえんどう)
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          椿谷入り江と遊歩道・展望台より磯伝いで行ける
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              「露軍将校遺体 漂着記念碑」
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 「露軍将校遺体 漂着記念碑」と「慰霊祭」・町史に由ると、田後村(現、岩美郡岩美町田後)の漁師が浦富(うらどめ)海岸の鴨ヶ磯の沖合で漂着した2名の遺体を発見。引き揚げてはみたが、敵国であるロシア兵の遺体をどうすればよいか村人の間で意見が分かれ、話し合った結果、「敵国といえども亡くなれば同じ仏ではないか」と意見が一致し、遺体を同地に手厚く弔ったと伝えています。
 その後、このエピソードを聞き知っていて、村人たちの寛大な心に心打たれた同町出身で初代国連大使の澤田廉三氏(奥様は児童養護施設「エリザベス・サンダースホーム」(神奈川県中郡大磯町)創設者の澤田美喜さんですね)が、ロシア兵の慰霊と村人たちの人類愛を顕彰する目的で昭和37年(1962)に「露軍将校遺体漂着記念碑」が建立され、以後、5年毎にロシア外交官が来県して献花を行う「露国将兵慰霊祭」が催されています。(原文の儘)

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 遊歩道に沿った入り江には小さなビーチがある、余り知られていない所為か海水浴客は少なく、家族、恋人同士で楽しむには「マイ・ビーチ」感覚が味わえ案外穴場かも知れない。この辺りの海域は水深25mを誇る海水は飽くまでも澄み、比較的浅いのでシュノーケリングや磯遊びに最適なビーチである。
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 シュノーケリングに最適な比較的浅い海・得とご覧下さい。


 「観音浦」 
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               「観音浦」位置図 
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                展望台よりの「観音浦」の眺望 
 観音浦は大小数々の島が点在する入り江・平城天皇の御世大同元年3月頃この入り江の西蓬莱島近辺の水底で黄金の「観音像」が発見された。その由来に因み「観音浦」と名付けられたとされている。
 突端にある島が西蓬莱島である。蓬莱島とは伝説・架空の島で現存する島ではない。因って「似ているから名付けた」は些か眉唾っぽいし仏教説話の類のようだ。
 「蓬莱山・島」:中国古代の戦国時代(前5~前3世紀)の燕(えん)、斉(せい)の国の方士(ほうし)(神仙術を行う人)によって説かれた神仙境の一つ。普通、渤海(ぼっかい)湾中にあるといわれる蓬莱山、方丈(ほうじょう)山、瀛洲(えいしゅう)山の三山(島)を三神山と総称し、ここに仙人が住み、不老不死の神薬があると信じられた。この薬を手に入れようとして、燕、斉の諸王は海上にこの神山を探させた。秦(しん)の始皇帝(しこうてい)が方士の徐福(じょふく)を遣わしたことは有名な話である。日本各地に徐福伝説があるが大体に於いて蓬莱山・島の名前が付けられている。
徐福ゆかりの地としては佐賀県佐賀市、三重県熊野市波田須町、和歌山県新宮市、鹿児島県いちき串木野市、山梨県富士吉田市、東京都八丈島、宮崎県延岡市などが有名である。
 丹後半島の徐福伝説では:紀元前219年、中国は秦の時代。方士「徐福」が、始皇帝の命令を受け、不老不死の仙薬を求めて、伊根町の新井崎に漂着した。その後、徐福は、村長となり、氏神として祭られ、末長く、 崇拝された。新井崎神社に祀られている。 徐福の求めた仙薬は、「九節しょうぶ」と「黒茎のよもぎ」 であったといわれている。「よもぎ」は「蓬」辻褄合わせの様な気もするが得てして「伝承・伝説」とはそんなものかも知れない。
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              リアス式海岸特有の荒波に浸食された奇岩の風景
 
 観音浦伝説 ①;平安時代の初期の頃、旅の老人が網代の村に遣って来て村人に「仏の事を説き、魚ばかり捕っていては村は貧乏するばかりじゃ!」と農業を教えながら村に住むように為ったそうだ。漁をしながら農業をするので村はだんだん豊かに為った。そんな頃網代のすぐそばの海底が怪しく光ることがあった。村人は仏の教えに詳しい老人に訳を尋ねようとしたが、その姿がどこにも見えません。光は増すばかりで、何やら像のようなものまで見え始めた。思い切って網を投げ入れてみると、それは黄金の千手観音像でした。「これはあの老人の化身に間違いない」と村人は信じ、庵を建て大切に祀ることにした。これが網代寺観照院の始まりでるそうな。
 仏教説話の一つであろう。
 仏教も全国に普及していた時代でもある。遣唐使船も十数回派遣されており朝鮮半島の百済や新羅等の渡来人の往来も盛んな時代から想像すると、「千手観世音菩薩」像を積んだ船が入り江の近くで難破したのでは無いかなぁ?等と想像しているが真偽の程は知らない。
 網代寺観照院の御本尊・「千手観世音菩薩」岩本の網代寺観照院では、「千手観世音菩薩」像の12年に一度の御開扉供養が行われる。

 観音浦伝説 ②;網代の漁師が漁をしていると、急に海が時化はじめた。波に激しく揉まれ「もはやこれまで」と思った時、彼方の小島に輝くものが見える、これを頼りに懸命に小島にたどり着くとそれは黄金の千手観音像でした。命を救われたことに感謝して、漁師はこれを大切に祀りそれからは、この小島を「観音島」、辺りの浦を「観音浦」と呼ぶように為ったとさ!。


 「山陰松島」
 日本三景の一つ「宮城の松島」の風景は女性的なのに比べ鳥取・浦富海岸は日本海特有のリアス式海岸は,「波が荒いこと」と「断層や割れ目が多いこと」に因り「海蝕洞」や「崖・絶壁」も多く男性的な景観を呈している。
 「宮城の松島」の景観に似ている事から田後から網代までの県道R155線沿いの海岸線を総称して「山陰松島」と名付けている。丹後半島にも「丹後松島」がある。
 
 「千貫松島」:鳥取城二代目藩主の「池田綱清公」が船で島巡りをした際に,「我が庭に、この岩つきの松を移し得た者に銀千貫を与えようぞ」と言われたことが「千貫松島」という名称の由来である。
 多方向から見た「千貫松島」をご覧下さい。
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                     「千貫松島」のあれこれ
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 「千貫松島」の洞門・洞門は通り抜け出来る洞穴で、洞窟は行き止まりの洞穴である。
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 「千貫松島」の対岸に白い断崖がある・「白粉断崖」
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 白く塗られているので「白粉断崖」と呼ばれているが、白いのは「海鵜」の糞だそうだ。
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 「白粉断崖」の西側にある「海賊穴」・網代寄りに虚空蔵山があり、 虚空蔵山には海賊穴の洞門がある奥行50mほどあり、奥へ向かうにつれ広くなり奥の方は白浜になっている。その昔、この洞窟をねぐらとした但馬の海賊が、この一帯を荒らし回ったことから、この名が付けられたと言われている。この海賊穴は典型的な「海食洞」・「海食洞」とは、強い波で崖の下が削られてできた洞窟のことである。
虚空蔵山には、500年程前に創立された海の守り神虚空蔵菩薩が山頂に祀られており、沖を通る千石船も、その帆を下ろして礼拝したほど、漁民などの信仰が厚かったと伝えられているそうな・・・・。

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 岩燕洞門;小さな船なら入れる程度の大きさの洞門・今はイワツバメはいないそうだ。
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 クロサギ洞穴:毎年クロサギが産まれ育つとの事・巣立ちの跡(拡大図)これ等の洞門・洞穴は沖合でしか見ることは出来ない。山陰海岸の眺望は展望台(陸)から眺める眺望と沖合から見る眺めでは全く異なる顔を見せて呉れる。「山陰海岸国立公園」に観光で来られた際には必ず観光船に乗られる事を勧めます。
 
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                 「千貫松島」沖合からの遠望
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                 夕景の「千貫松島」

  





 
 


 




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ひげ爺の独り言 放談 小噺  『山陰海岸国立公園』の ご近所便り

 『山陰海岸国立公園』ご近所便り最後の「鳥取編」を残すのみと為りました。
ヒゲ爺の故郷「諸寄」を基点に東方にR178号線を進み「丹後半島経ヶ岬」を終点・完了したのでこの編では諸寄から西方「鳥取砂丘」迄紹介します。R178は「鳥取砂丘の喉下」までの区間であるが近年彼方此方にバイパスが出来て海岸線から山手へと移りトンネル道路と為り美しい海岸線が観える場所が少なくなって居る。
ヒゲ爺の紹介写真は総て旧R178号線海岸沿いの物ばかりです。観光でお出での時は旧R178を通られることをお奨めする。

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               基点とした「諸寄湾」
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               海水浴場と家屋の間にR178号線がはしる               
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 居組の手前「穴見海岸」・活きた「りゅうぐうのつかい」が撮影されたことで有名です。少し進むとバイパスに入る。
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 兵庫・鳥取両県の境にある「七曲八峠」途中で「居組港」を望む。バイパスに入るとこの景観は見れない。
 ヒゲ爺に取ってR178号線は親しみ慣れた箱庭の様なもの、高校時代(鳥取東高校)には3年間汽車通学し、当時鳥取まで歩いた経験もある。陸に上がって(船乗りを辞めること)鳥取市で就職・結婚後の10年間海水浴・盆の墓参り等など年に数回は必ず通った道でもある。就職先の「河合楽器鳥取店」でも数年間岩美地区担当の経験もあり熟知しているのはその所為でもある。鳥取を後に阪神地区に出た後も海水浴と墓参りは殆んど欠かしていないが72歳で車の運転を断念したので2年空白。田舎に帰ると鳥取の悪友によく会いに行くので通算100度以上は通ったであろうR178号線である。今も海岸線の景色を鮮明に覚えている。
  
 「東浜海岸」
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 兵庫・鳥取県境を過ぎると東浜展望台がある:陸上展望台から東浜湾と海水浴場を望む、バイパスに入るとこの景色は観えない。バイパスは山の手を通る。
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                  東浜海水浴場(山側が東寄り)
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                  東浜海水浴場(西寄り・羽尾方面)
 海水浴場は引き搾った弓の弦の様な半円形で長さは1km以上もあり波打ちぎわの水は飽くまでも澄みきり砂も白くまさに「白砂青松」のビーチと言っても過言では有るまい。
 「臨海学校」の盛んな昭和時代には、駅からビーチまで近い(2~3分で浜)所為か多くの小・中・高の生徒で賑わった様である。ヒゲ爺も昭和29年高校一年の時クラス全員で民宿で過した思い出があるが一泊か二泊かは定かでない。
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 ビーチの沖合いには島影は無いが東の山裾には奇岩や多くの荒磯もあり結構磯遊びも楽しめる。西方の「小羽尾(こばねお)」寄りにも綺麗な磯がある。

 「羽尾海岸」 
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 東浜(陸上)地区を通過すると「羽尾海岸」に出る。バイパスを通ると「地磯群」を見落とす事になる。
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                地 磯 風 景
 暫しR178号線を離れ県道R225号線に向かうと「竜神洞」「羽尾鼻」に至る、但し車は途中まで。
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 誰ぁ~れも居ないビーチ・前方のまぁるい島(山)は太古の昔には左の山並みと繋がって居たと言われている。形の通り「円山」喉下に集落と小さな港が有り防波堤も見える。此方は羽尾岬の東側に当たり大羽尾地区の勧学寺からなら先端まで険しい山道が続くが「竜神洞」迄大凡15~20分程。 
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               「羽尾岬」最先端の荒磯
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               「羽尾岬灯台」
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               「竜 神 洞」
 羽尾岬突端の50mを越える絶壁が削られてできた海食洞。東側の海竜神と西側の丘竜神の2つを併せて呼ぶ。海竜神は入り口の高さ10m,幅8m,奥行き150m,途中まで小舟が入れる。丘竜神は崩落物によって海とは切り離されている。入り口は崩落物で覆われて1mほどの隙間しかないが,内部は奥行き80mまで達する。いずれも第三紀の角礫凝灰岩の節理に沿って形成されたもので,洞窟内の岩壁には数cmの溶岩鍾乳石がみられる。かつては,長さ20cm位の大きな鍾乳石があったという。洞窟のある岩壁には安山岩の柱状節理もみられる。
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 「竜神洞展望台」岬の東側は未整備であるが岬先端部から西側は整備された遊歩道が「熊井浜」経由で牧谷浜の「山陰海岸学習館」の裏手まで続いている。
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 岬先端部の断崖と荒磯・最近はダイビングスポットに為っているそうだ。
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 展望台から「田後港(たじりこう)」方面の遠望・日本海の夕景 
 
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            「熊 井 海 岸」
 「熊井海岸」は「エリザベス・サンダースホーム」の子供達が臨海学校で夏を過した海岸として有名なビーチである。過っては「鴎鳴荘」と言う沢田家の別荘があった。現在の「鴎鳴荘」は1964年(昭和39年)に焼失した跡地に立てられたものである。

 「澤田美喜とエリザベス・サンダース・ホーム」

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               現在の「エリザベス・サンダース・ホーム」            
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               沢田美喜の写真・レリーフ
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               沢田美喜・孤児達と共に
 澤田廉三の外交官時代、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の孫娘である妻の美喜は廉三の赴任先へ同行し イギリスの孤児院 ドクター・バナードス・ホーム に大きな影響を受け、戦後 神奈川県大磯の 岩崎家別荘を募金を集めて400万円で買い戻して、孤児のための孤児院昭和二十三年エリザベスサンダースホームを設立しました。
ホームは、戦後日本占領のためにやってきたアメリカ軍兵士を中心とした連合国軍兵士と日本人女性の間に強姦や売春、あるいは自由恋愛の結果生まれたものの、両親はおろか周囲からも見捨てられた混血孤児たちのための施設であった。施設の名前は、ホーム設立後に最初の寄付をしてくれた聖公会の信者エリザベス・サンダースにちなみ、「エリザベス・サンダース・ホーム」と名付け2000人近くの混血孤児を育て上げた。
 聖ステパノ学園小学校・中学校「1953年(昭和28年小学校)1959年(昭和34年中学校)」も学校法人と為り1993年(平成5年)よりは、外部の一般家庭の子弟も募集するように為った。聖ステパノは戦死した三男・晃の洗礼名から名付けられた。
 沢田美喜記念館も併設・隠れキリシタンの遺物の収集家でもあった。 日本全国から集められた貴重な資料851点のうち、370点あまりが沢田美喜記念館に展示されている。沢田美喜記念館は1階が展示室と受付、2階に礼拝堂といった構成である。

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 現在の「鴎鳴荘」・カモメの鳴く海岸の別荘と言う意味であろうと推測する。
 「エリザベス・サンダース・ホーム」と「熊井浜・鴎鳴荘」との繋がりは1922年(大正11年)7月:クリスチャンの外交官・沢田廉三と結婚してキリスト教に改宗したことから始まったと言えよう。
 澤田廉三の外交官時代、妻の美喜は廉三の赴任先へ同行し イギリスの孤児院 ドクター・バナードス・ホーム に大きな影響を受け、戦後 神奈川県大磯の 岩崎家別荘を買い取り、昭和二十三年エリザベスサンダースホームを設立しました。
沢田廉三は終戦後の初代国連大使であり当地浦富の出身で「鴎鳴荘」は沢田家の別荘であった。
昭和28年小学校が設立した当時は学校の「臨海学校」の盛んな頃であり、ホームは海岸の近い大磯にあるにも関わらず沢田美喜が「臨海学校」の地に選んだのは「熊井海岸の鴎鳴荘」であった。当時はまだ混血児に対する偏見と好奇の目でみる時代でもあり民衆から遠ざけたかったに違いない。斯くして熊井浜臨海学校は始まったのである。
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               焼失前の鴎鳴荘
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               砂浜で遊ぶ子供達 
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               夕暮れのビーチ
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               沢田廉三・美喜夫妻
 高二(昭和30年)の時であった様に思うが、沢田廉三国連大使が講演にこられ講堂に座って聞いた事を思い出した。「講演内容」はさっぱり思い出せぬが、唯一記憶にあるのは、外国語を勉強する心得として自分の勉強方法は英語・フランス語で芝居を演じながら台詞を大きな声で語ること・・云々と語り「ハムレット」か何かを身振り手振りで演じられたのを思い出した。遠い半世紀も前の話である。

 「牧谷海水浴場・キャンプ場」 
 羽尾岬の西側の根元に牧谷海水浴場・キャンプ場がある。浦富海岸の東端である。
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 ビーチの外れに「山陰海岸海洋学習館」・山陰海岸ジオパークについて・海洋生物等について学べます。
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               ビーチとキャンプ場
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               「田後港(たじり)」方面に沈む落日
 「浦富海水浴場」 
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 R178号線は「浦富海水浴場」の中央部から左折し海岸線から離れる。⇒の方向に県道R155号線が「田後」・「網代」方面に走る。この間には山陰海岸特有のリアス式の奇岩・美島が連なり大パロラマを魅せる。鳥取県随一の風景と言っても決して過言では有りますまい。
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              浦富海水浴場風景
 
 「田後(たじり)港・海岸」
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 田後(たじり)港全景・左方の砂浜は浦富海水浴場
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               田 後 集 落
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               田 後 港
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               田後港で水揚げされた「松葉ガニ」
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               田後港と展望台
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               展望台西方の遠望
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 田後港から網代(あじろ)港まで・赤丸の地点が絶景の場所・山陰松島と呼ばれている。

  「城原(しらわら)海岸・菜種五島」
 田後集落を抜けると城原海岸の全望が右手に開けてくる。
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 城原海岸・海水浴場として整備されてはいないが海岸では磯遊びを楽しめる。透明度が高い為水深25mの深さまで見ることができる。
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 海岸のの北側には陸に連なる島々「菜種五島」があり、沖合の一番大きな「菜種島」は、春になると断崖に菜の花が咲き乱れます。
 城原海岸から鴨ヶ磯を経て網代まで続く散策路はリアス式海岸に沿って約2.7kmの遊歩道が整備されています。各ポイントに設けられた展望台からの眺めは見事!。
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               菜種五島に沈む夕日

 「鴨ヶ磯」
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 山陰海岸国立公園内「鳥取版岩美編」田後港⇒網代港までの絶景海岸の位置の図
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 「鴨ヶ磯」展望台駐車場案内・此処より磯への遊歩道あり
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 上記の写真二枚は「観音浦」・「観音浦編」と重複する
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            鴨ヶ磯遊歩道を降る手前の展望台よりの眺望
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 遊歩道を降ると水尻洞門・此処を基点に彼方此方の磯を探訪出来る
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               小鴨ヶ磯入り江
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               小鴨ヶ磯入り江の遊歩道
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 小鴨ヶ磯遊歩道は椿谷入り江に続いている・この浜に「露軍将校遺体 漂着記念碑」が建立されている(後述)
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               酒宴洞(しゅえんどう)
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          椿谷入り江と遊歩道・展望台より磯伝いで行ける
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              「露軍将校遺体 漂着記念碑」
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 「露軍将校遺体 漂着記念碑」と「慰霊祭」・町史に由ると、田後村(現、岩美郡岩美町田後)の漁師が浦富(うらどめ)海岸の鴨ヶ磯の沖合で漂着した2名の遺体を発見。引き揚げてはみたが、敵国であるロシア兵の遺体をどうすればよいか村人の間で意見が分かれ、話し合った結果、「敵国といえども亡くなれば同じ仏ではないか」と意見が一致し、遺体を同地に手厚く弔ったと伝えています。
 その後、このエピソードを聞き知っていて、村人たちの寛大な心に心打たれた同町出身で初代国連大使の澤田廉三氏(奥様は児童養護施設「エリザベス・サンダースホーム」(神奈川県中郡大磯町)創設者の澤田美喜さんですね)が、ロシア兵の慰霊と村人たちの人類愛を顕彰する目的で昭和37年(1962)に「露軍将校遺体漂着記念碑」が建立され、以後、5年毎にロシア外交官が来県して献花を行う「露国将兵慰霊祭」が催されています。(原文の儘)

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 遊歩道に沿った入り江には小さなビーチがある、余り知られていない所為か海水浴客は少なく、家族、恋人同士で楽しむには「マイ・ビーチ」感覚が味わえ案外穴場かも知れない。この辺りの海域は水深25mを誇る海水は飽くまでも澄み、比較的浅いのでシュノーケリングや磯遊びに最適なビーチである。
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 シュノーケリングに最適な比較的浅い海・得とご覧下さい。

 「観音浦」へ続く             

              

                      

 

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