ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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昔むか~しの話 エジプト編 (2)
日露戦争の時バルチック艦隊がバルト海を出港したのが1904/10/15日地中海経由で大西洋アフリカ西岸を南下し喜望峰を迂回しインド洋を横断してマレー半島沖を通過し台湾沖を通り東シナ海に到達する迄に7ヶ月以上を費やし18000マイル(33,500K)の長期航海をしている訳である。対馬海峡での日本海海戦に完敗した一つの原因に、訓練されていると言え艦隊の大多数は大陸民族であり海に慣れない者もあろう、未開のアフリカ西岸では充分な食料と燃料の補給も万々ならなかったと聞く。
そんな状況で12月末から1月に掛けて喜望峰を迂回している。
僕も一度経験したがthe Cape of Good Hope と聞こえは良いが別名【嵐の岬】と呼ばれる程大荒れする海域である。インド洋経由ケープタウンで給油しアルゼンチンに向かったとき大時化に合い一週間以上苦しんだ経験がある。太平洋やインド洋の比ではない稚筆な僕では表現不能に付きやめる。
そんな状況での大航海をしその後日本艦隊に遭遇するまで凡そ8ヶ月間の閉塞状況で精魂使い果たし戦意喪失状態に陥っていたのではなかろうか?
勿論歴史的事実は東郷元帥率いる日本艦隊の戦略戦術による大勝利ではあったが、もしも
バルチック艦隊がスエズ運河を通過しより安全な航海をして4000マイル短縮していたとしたら、戦略上早期発見を危ぶみ通らなかったのか通れなかったのか定かでないが(現に艦隊の一部はスエズ運河経由でインド洋に入って合流している)艦隊の規模から推してあれ程簡単に敗北しなかったのではなかろうか? 逆転もあり得たかも?
歴史の事実にモシやタラは不謹慎であろうがモシタラの想像は中々面白い。
**当時はこんな様子であったが;
何はともあれその河口に位置するアレクサンドリア港に寄港した。

古都アレクサンドリアの海岸道路
エジプト~砂漠~暑いとのみ想像していた僕には驚きでもあった。エジプトも北面の地中海側特にナイル河が二股に分かれた三角州の河口等は地中海海洋性気候とナイル河の氾濫の恵による肥沃な土地に育まれ緑も豊富で農業も盛んだと後で知った。
アレクサンドリアはカイロに次ぐ大都市で産業、ヘレニズム(ギリシャ風)文化の中心地でもあり、農産物綿花、米等の輸出が盛んらしい。マスカット:オブ:アレクサンドリアは岡山原産と思われているが原産はエジプト。古都アレクサンドリア港に由来するものとの事である。
又かの有名なアレクサンダー大王がエジプトを征服し軍事拠点として古王朝、中王朝、新王朝と三千年に及ぶエジプトの最後の王朝となったプトレマイオス王朝を興しプトレマイオス2世の時紀元前331年に完成させた古都市中の古都市である。
予断ではあるがアレクサンダーが現在の西はエジプト東はアフガニスタンまで制圧した時軍事拠点として70ヶ所にもおよぶアレクサンドリアと命名した都市を造ったらしいが現存する都市はここアレクサンドリアのみである。
この思い出を書いているときNHKの番組を見て知った事であるが、アフガニスタンの元国王ダヒル;シャーが1961年に鹿狩りの途中に偶然ギリシャ風建築らしき遺跡をタジキスタン国境に近いアイハヌムの近郷で発見した。
ソ連のアフガニスタン侵攻、タリバンと北部同盟等の内戦アメリカ侵攻などで発掘は遅れ可也の破壊もあったが結果幻のアレクサンドリアであったことがほぼ証明されたとのことである。
古都とは言え明るい感じの町であった様にぼんやりと記憶の隅にある。当時の写真が一枚きりなので現在の写真を添える。

古都アレクサンドリアの海岸
当時は知る由も無かったがエリザベス=テーラー;レックス=ハリスンとリチャード=バートン共演の映画【クレオパテラ】を観て知った事では有るがアレクサンドリアは、クレオパトラの宮殿があった都としても有名である。クレオパトラ(正式にはクレオパトラ7世)は、紀元前69年にプトレマイオス12世の娘として生まれた。紀元前51年、18歳のクレオパトラは弟のプトレマイオス13世とともに王位を継承した。プトレマイオス13世との間で確執があり一時シリアに亡命していたクレオパトラはアレクサンドリアに戻り、そこに駐留していたカエサルと運命の出会いをし恋に落ちた。本当の恋なのか王朝を守る為の偽装なのか彼女しか知る由もないがカエサルは彼女エジプトの女王とした。 カエサルがローマに帰国した折彼の専横に反対する元老院の襲撃に合い【ブルータス!お前もか!!】と叫びつつカエサルが倒れた後、ブルータスとアントニーとのカエサルの後継者争いがあり勝利したアントニーがカエサルの後継者となる。クレオパトラはアントニーと出会い彼をも又恋の虜にしアレクサンドリアの宮殿で暮らした。

クレパトラ胸像
紀元前30年、アントニーがオクタヴィアヌスとの戦いに敗れて自ら命を絶つと、クレオパトラも毒蛇に胸をかませて後を追った。こうしてエジプトはローマの属領となりプトレマイオス王朝は終わりをつげたのである。
これがエリザベス=クレオパテラの大筋である。【もう少し鼻が低かったなら世界の歴史がどう変わったか?】など愚問はさて置き顔面像の写真から推してトビっきりの美人に異論を唱える者もそう有るまい。古都アレクサンドリアの大半は大地震で海中に沈んだそうでこの像は後年海中で発見されたと聞いたような気がするが外の事であったかも知れん。
閑話休題;
そんな状況で12月末から1月に掛けて喜望峰を迂回している。
僕も一度経験したがthe Cape of Good Hope と聞こえは良いが別名【嵐の岬】と呼ばれる程大荒れする海域である。インド洋経由ケープタウンで給油しアルゼンチンに向かったとき大時化に合い一週間以上苦しんだ経験がある。太平洋やインド洋の比ではない稚筆な僕では表現不能に付きやめる。
そんな状況での大航海をしその後日本艦隊に遭遇するまで凡そ8ヶ月間の閉塞状況で精魂使い果たし戦意喪失状態に陥っていたのではなかろうか?
勿論歴史的事実は東郷元帥率いる日本艦隊の戦略戦術による大勝利ではあったが、もしも
バルチック艦隊がスエズ運河を通過しより安全な航海をして4000マイル短縮していたとしたら、戦略上早期発見を危ぶみ通らなかったのか通れなかったのか定かでないが(現に艦隊の一部はスエズ運河経由でインド洋に入って合流している)艦隊の規模から推してあれ程簡単に敗北しなかったのではなかろうか? 逆転もあり得たかも?
歴史の事実にモシやタラは不謹慎であろうがモシタラの想像は中々面白い。
**当時はこんな様子であったが;
何はともあれその河口に位置するアレクサンドリア港に寄港した。

古都アレクサンドリアの海岸道路
エジプト~砂漠~暑いとのみ想像していた僕には驚きでもあった。エジプトも北面の地中海側特にナイル河が二股に分かれた三角州の河口等は地中海海洋性気候とナイル河の氾濫の恵による肥沃な土地に育まれ緑も豊富で農業も盛んだと後で知った。
アレクサンドリアはカイロに次ぐ大都市で産業、ヘレニズム(ギリシャ風)文化の中心地でもあり、農産物綿花、米等の輸出が盛んらしい。マスカット:オブ:アレクサンドリアは岡山原産と思われているが原産はエジプト。古都アレクサンドリア港に由来するものとの事である。
又かの有名なアレクサンダー大王がエジプトを征服し軍事拠点として古王朝、中王朝、新王朝と三千年に及ぶエジプトの最後の王朝となったプトレマイオス王朝を興しプトレマイオス2世の時紀元前331年に完成させた古都市中の古都市である。
予断ではあるがアレクサンダーが現在の西はエジプト東はアフガニスタンまで制圧した時軍事拠点として70ヶ所にもおよぶアレクサンドリアと命名した都市を造ったらしいが現存する都市はここアレクサンドリアのみである。
この思い出を書いているときNHKの番組を見て知った事であるが、アフガニスタンの元国王ダヒル;シャーが1961年に鹿狩りの途中に偶然ギリシャ風建築らしき遺跡をタジキスタン国境に近いアイハヌムの近郷で発見した。
ソ連のアフガニスタン侵攻、タリバンと北部同盟等の内戦アメリカ侵攻などで発掘は遅れ可也の破壊もあったが結果幻のアレクサンドリアであったことがほぼ証明されたとのことである。
古都とは言え明るい感じの町であった様にぼんやりと記憶の隅にある。当時の写真が一枚きりなので現在の写真を添える。

古都アレクサンドリアの海岸
当時は知る由も無かったがエリザベス=テーラー;レックス=ハリスンとリチャード=バートン共演の映画【クレオパテラ】を観て知った事では有るがアレクサンドリアは、クレオパトラの宮殿があった都としても有名である。クレオパトラ(正式にはクレオパトラ7世)は、紀元前69年にプトレマイオス12世の娘として生まれた。紀元前51年、18歳のクレオパトラは弟のプトレマイオス13世とともに王位を継承した。プトレマイオス13世との間で確執があり一時シリアに亡命していたクレオパトラはアレクサンドリアに戻り、そこに駐留していたカエサルと運命の出会いをし恋に落ちた。本当の恋なのか王朝を守る為の偽装なのか彼女しか知る由もないがカエサルは彼女エジプトの女王とした。 カエサルがローマに帰国した折彼の専横に反対する元老院の襲撃に合い【ブルータス!お前もか!!】と叫びつつカエサルが倒れた後、ブルータスとアントニーとのカエサルの後継者争いがあり勝利したアントニーがカエサルの後継者となる。クレオパトラはアントニーと出会い彼をも又恋の虜にしアレクサンドリアの宮殿で暮らした。

クレパトラ胸像
紀元前30年、アントニーがオクタヴィアヌスとの戦いに敗れて自ら命を絶つと、クレオパトラも毒蛇に胸をかませて後を追った。こうしてエジプトはローマの属領となりプトレマイオス王朝は終わりをつげたのである。
これがエリザベス=クレオパテラの大筋である。【もう少し鼻が低かったなら世界の歴史がどう変わったか?】など愚問はさて置き顔面像の写真から推してトビっきりの美人に異論を唱える者もそう有るまい。古都アレクサンドリアの大半は大地震で海中に沈んだそうでこの像は後年海中で発見されたと聞いたような気がするが外の事であったかも知れん。
閑話休題;
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