ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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昔むか~しの話 エジプト編 (1)
生来の無精の所為か整理音痴の故か僕のPC部屋は正に雑然の極みである。二方の壁際の本箱には漱石が司馬遼や京太郎と時には山頭火や放哉とが同居していたりする。
時には釣りバカ日誌、美味しんぼ等々も紛れ込むこともある。そればかりかもう一方にはPC用品から釣り道具まで詰め込めるだけ押し込まれPC台までの僅かな通り路?を残し雑然その物が積み重ねられている感がある。
然し僕にはその状況でこそ物の所在が解るのである。僕の山の神;オッカナイの整理整頓は僕には雑然と映り僕流整然はオッカナイには雑然と映るらしい。所詮はネガとポジ、整理魔とマニアの親戚ときているオッカナイが片付けたりすると途端に何が何処に有るやら全くちんぷんかんぷんである。『此の部屋の物は触るな!物が見えん』『これじゃ物置古屋だよ!少しは整理整頓してよ!』の会話を40ウン年の間に何度したか知れんし是からも何度するのか不明である。まあどちらかが灰に成るるまで続くに違いない。
大体本箱には一家の歴史を刻んだアルバムの一冊や2冊あるものらしいが我が本箱には無い。決して写真が無い訳でなく、思い出の量から推し量り寧ろ普通以上に持っている筈ではあるが鳥取二十世紀梨の10K段ボール箱に放り込み本箱の重しにしている所為である。 『註』我が家の女族共(オッカナイと3姉妹)はそれぞれ持っている。
最近オッカナイが『もうそろそろ写真の整理をしたら?』と言い出したので『身の整理てえもんは死期が近ずいてからするもんだ!早く死ねてぇことかい!べらぼうめ!!』と悪口雑言を吐きつつも二十世紀梨箱の思い出を二十一世紀に整理するのも一興かとも思いPCでCDに雑然と取り込んでやろうと思い立った次第である。
最初に目に付き手掛けたのがギザのピラミットで撮った4枚の写真である。これを見た途端二十世紀梨箱に籠められた思い出を少しづつ綴ってみたい衝動にかられ【昔むか~しのお話】を手掛ける事にした次第である。
大学受験に2度失敗しのんびり屋の僕も多少嫌世的になり足掛け5年と少々外国航路の貨物船に乗っていた頃の話から始めよう。
但し、40年以上前のこと思い出も曇りガラスを透かして見るようで時にはくっきり多くはぼんやりで満足のいくか否かは解かりませぇ~ん。
左膳流左袈裟掛けにでもお読み戴ければ幸甚!。
エジプト編
エジプトに行ったのは何年頃であったか定かでは無いがポートサイド(スエズ運河の最寄の港)に居た時ジェット機が低空を飛び交っていたことを薄ぼんやりと覚えているから恐らく1966~7年のスエズ動乱の頃だと思う。
写真をみるとスーツを着ているしそんなに暑い頃でもなさそうである。

エジプトの知識なんぞ、クレオパトラとピラミッドとスフィンクスの名前程度の知識しかない僕がなにはともあれ『その時歴史は動かない』がエジプトにチョコット存在したことは確かである。
ペルシャ湾で積み荷を降ろし(確かドバイ港、岸壁など無く沖合に停泊;アラビア石油のプラント材を運んだ)アラビア半島の沖合を西行、紅海のアデンを経由しスエズ運河を通過すると地中海である。
ペルシャ湾は言うに及ばずアラビア半島の砂漠地帯の沿岸を航行する時なんぞその熱さは正に暑さでは無く熱さであり、吹く風は熱風である。身体は汗しない、唯塩が吹くのみ。
発汗しても即乾燥するわけである。
何はともあれ両サイド砂漠のスエズ運河を越えて地中海に入ると地中海独特の海洋性気候の所為か一週間前が信じられないような温暖さに変身する。
閑話休題;
スエズ運河は紅海側(南側)のスエズ港より地中海側(北側)のポートサイド港までの凡そ168Kにもおよぶ砂漠の中の大運河である。時には両サイドに家並みや緑も見える所もあるが基本的には砂漠である。時には広く時には舷側の直ぐ側まで砂漠が突き出たと感じるほど狭い場所もある。

北上する船は南下する船団が通過し終わるまでスエズ港で待機、南下の船団が終わると待機の船が船団を組み一定の間隔をおき;明確な速さは記憶に無いが恐らく4~5ノットでは無かったろうか?長さが100~150M前後もある巨大な船が何十隻も連なり北上する訳である。運河の途中ピター湖とチサム湖(人造湖?)が有り地中海側から南下の船団と此処で入れ替わり(チサム湖であった様な気もするが定かでない)更に北上し地中海に至る訳である。**

フランスの外交官レセップスがエジプト領事になり運河建設に初鍬を入れたのが1859年約12万人の犠牲者を出しながら10年の歳月を費やし完成させた当時の規模は全長168K、幅22M、深さ8Mと記録にある。
スエズ運河が完成する迄ヨーロッパからインド、アジアに航海するにはアフリカ大陸の西岸を南下し喜望峰を廻りインド洋に入るコース航行したわけであるが凡そ4000カイリ(7400K)の節約になるそうだ。
当時の船は10ノット前後、時速約18~20Kで計算すると一日430~480K航行することになり17~15日程航海日数が短縮される計算となる。
莫大な費用と犠牲を支払ったとは言え後世に素晴らしい贈り物をしたといえる。
後で知った事であるが1961年(昭和36年)スエズ運河改修プロジェクトの入札があり日本の企業(旧水野組現五洋建設)が落札、改修に当たったそうである。
僕の通過当時すでに日本人の手に以って改修されつつあった訳であるが途中第3次中東戦争で8年のブランクがあるものの現在は幅160~200M水深19,5Mの大運河に変身し10万トン以上の船舶の航行が可能となり対面航行もOK、年間1万4000隻もの船が通過するそうである。

エジプト全図
夢野旅人(奈良市 黒川 賢成)氏提供
時には釣りバカ日誌、美味しんぼ等々も紛れ込むこともある。そればかりかもう一方にはPC用品から釣り道具まで詰め込めるだけ押し込まれPC台までの僅かな通り路?を残し雑然その物が積み重ねられている感がある。
然し僕にはその状況でこそ物の所在が解るのである。僕の山の神;オッカナイの整理整頓は僕には雑然と映り僕流整然はオッカナイには雑然と映るらしい。所詮はネガとポジ、整理魔とマニアの親戚ときているオッカナイが片付けたりすると途端に何が何処に有るやら全くちんぷんかんぷんである。『此の部屋の物は触るな!物が見えん』『これじゃ物置古屋だよ!少しは整理整頓してよ!』の会話を40ウン年の間に何度したか知れんし是からも何度するのか不明である。まあどちらかが灰に成るるまで続くに違いない。
大体本箱には一家の歴史を刻んだアルバムの一冊や2冊あるものらしいが我が本箱には無い。決して写真が無い訳でなく、思い出の量から推し量り寧ろ普通以上に持っている筈ではあるが鳥取二十世紀梨の10K段ボール箱に放り込み本箱の重しにしている所為である。 『註』我が家の女族共(オッカナイと3姉妹)はそれぞれ持っている。
最近オッカナイが『もうそろそろ写真の整理をしたら?』と言い出したので『身の整理てえもんは死期が近ずいてからするもんだ!早く死ねてぇことかい!べらぼうめ!!』と悪口雑言を吐きつつも二十世紀梨箱の思い出を二十一世紀に整理するのも一興かとも思いPCでCDに雑然と取り込んでやろうと思い立った次第である。
最初に目に付き手掛けたのがギザのピラミットで撮った4枚の写真である。これを見た途端二十世紀梨箱に籠められた思い出を少しづつ綴ってみたい衝動にかられ【昔むか~しのお話】を手掛ける事にした次第である。
大学受験に2度失敗しのんびり屋の僕も多少嫌世的になり足掛け5年と少々外国航路の貨物船に乗っていた頃の話から始めよう。
但し、40年以上前のこと思い出も曇りガラスを透かして見るようで時にはくっきり多くはぼんやりで満足のいくか否かは解かりませぇ~ん。
左膳流左袈裟掛けにでもお読み戴ければ幸甚!。
エジプト編
エジプトに行ったのは何年頃であったか定かでは無いがポートサイド(スエズ運河の最寄の港)に居た時ジェット機が低空を飛び交っていたことを薄ぼんやりと覚えているから恐らく1966~7年のスエズ動乱の頃だと思う。
写真をみるとスーツを着ているしそんなに暑い頃でもなさそうである。

エジプトの知識なんぞ、クレオパトラとピラミッドとスフィンクスの名前程度の知識しかない僕がなにはともあれ『その時歴史は動かない』がエジプトにチョコット存在したことは確かである。
ペルシャ湾で積み荷を降ろし(確かドバイ港、岸壁など無く沖合に停泊;アラビア石油のプラント材を運んだ)アラビア半島の沖合を西行、紅海のアデンを経由しスエズ運河を通過すると地中海である。
ペルシャ湾は言うに及ばずアラビア半島の砂漠地帯の沿岸を航行する時なんぞその熱さは正に暑さでは無く熱さであり、吹く風は熱風である。身体は汗しない、唯塩が吹くのみ。
発汗しても即乾燥するわけである。
何はともあれ両サイド砂漠のスエズ運河を越えて地中海に入ると地中海独特の海洋性気候の所為か一週間前が信じられないような温暖さに変身する。
閑話休題;
スエズ運河は紅海側(南側)のスエズ港より地中海側(北側)のポートサイド港までの凡そ168Kにもおよぶ砂漠の中の大運河である。時には両サイドに家並みや緑も見える所もあるが基本的には砂漠である。時には広く時には舷側の直ぐ側まで砂漠が突き出たと感じるほど狭い場所もある。

北上する船は南下する船団が通過し終わるまでスエズ港で待機、南下の船団が終わると待機の船が船団を組み一定の間隔をおき;明確な速さは記憶に無いが恐らく4~5ノットでは無かったろうか?長さが100~150M前後もある巨大な船が何十隻も連なり北上する訳である。運河の途中ピター湖とチサム湖(人造湖?)が有り地中海側から南下の船団と此処で入れ替わり(チサム湖であった様な気もするが定かでない)更に北上し地中海に至る訳である。**

フランスの外交官レセップスがエジプト領事になり運河建設に初鍬を入れたのが1859年約12万人の犠牲者を出しながら10年の歳月を費やし完成させた当時の規模は全長168K、幅22M、深さ8Mと記録にある。
スエズ運河が完成する迄ヨーロッパからインド、アジアに航海するにはアフリカ大陸の西岸を南下し喜望峰を廻りインド洋に入るコース航行したわけであるが凡そ4000カイリ(7400K)の節約になるそうだ。
当時の船は10ノット前後、時速約18~20Kで計算すると一日430~480K航行することになり17~15日程航海日数が短縮される計算となる。
莫大な費用と犠牲を支払ったとは言え後世に素晴らしい贈り物をしたといえる。
後で知った事であるが1961年(昭和36年)スエズ運河改修プロジェクトの入札があり日本の企業(旧水野組現五洋建設)が落札、改修に当たったそうである。
僕の通過当時すでに日本人の手に以って改修されつつあった訳であるが途中第3次中東戦争で8年のブランクがあるものの現在は幅160~200M水深19,5Mの大運河に変身し10万トン以上の船舶の航行が可能となり対面航行もOK、年間1万4000隻もの船が通過するそうである。

エジプト全図
夢野旅人(奈良市 黒川 賢成)氏提供
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