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四国撮り歩記  霊場八十八ヶ所巡礼の旅:阿波徳島編  第一番霊場

 この四国霊場の旅の話は10年前に書いた『四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅』に加筆・構成を新たにした旅行記です。そのお積りでお読み下さい。

【プロローグ】
 二年余り掛けて四国八十八ヶ所の巡礼を終え高野山へのお礼参りから帰ったオッカナイが『お父さんも65年の垢を流しにお参りしたらどう:::?』と宣うた。『それ程汚れちゃあおりゃせんわいや!!』とその日は簡単な会話で終わった。
 可成りの後、暇を持てあましていたある日、パソコンの『デジカメ同時プリント』に入れていたオッカナイ撮影四国巡礼コーナーを観て驚いた。
最近のデジカメは性能も良くピントも露出もお任せで其れなりの撮影が出来る筈なのにピントも露出も不思議なほどにいい加減である、人物の足は無い、霊場山門、本堂の屋根は飛び大師像の台座は欠ける等々真艫な写真は1/3も無い。不思議な迷作揃いである。
『これじゃあお大師さんと霊場に申し訳ないじゃん!』と思い写真の撮り直しをしたろうと思い立ち、『オッカァよ!お前さんの写真があんまり凄いので写真の撮り直しをしに八十八ヶ所廻って来るわ』とオッカナイに告げた。『何時?』『今度の連休』『シッカリ垢を流してくれば;;お姉さんの10年ももうすぐだし供養もしてくれば!!』会話は其れだけ。
オッカナイの言うとおり阪神淡路震災で亡くなった姉の10年目も近いし供養を兼ねても良いいか?でも彼女は洗礼受けた熱心なクリスチャンである。黄泉の国で迷うんじゃあないかな~等々考えながら、先ず行動を起こす事にした。
第一番霊場より行ける所まで行き仕事の前までに帰宅する。
行程も計画予定も無し、無計画の計画である。
撮影が主でお参りが従の不真面目な遍路旅の始まりである。
 04/10/10日いよいよ出発、用意したのは着替え少々と最近買い増ししたカメラ、四国の道路地図、数枚の諭吉さんと賽銭用小銭(オッカナイの指摘により)だけ。
早朝AM7;00家を出発、最寄りのスタンドで給油汚れた車の洗車し阪神高速道路に乗ったのは8;00前、垂水インター迄凡そ70kmをひた走り明石大橋を渡り休憩所で一休み、連休の所為か可成りの観光客が居る。出発に先立ちカメラの一枚目に姉の遺影を撮り、二枚目から旅の始まりを記念して明石大橋の風景を数枚撮影。
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            阪神大震災で亡くなった2歳上の姉の遺影
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            淡路島休憩所から望む明石大橋の遠望

 淡路高速道路は頗る快適で車線は広いし車も少なく何しろ直線コースが多い。鳴門海峡を渡り徳島県まで凡そ90Kmの行程である。中国縦貫道の最高速度は80Kmであるが此処は100Kmである。殆どの車が120~130Kmで飛ばしている。
徳島に入ったのがAM10;00、徳島~松山道に入り板野インターで降り一般道を西に向かいAM10;30に第一番札所;竺和山霊山寺に着いた。
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 県道12号線沿いの霊山寺駐車場・四国遍路旅のスタート地点の所為か観光バスや自家用車、爺ちゃん婆ちゃんで可成りの混み具合である。案内人に聞くと遍路用具は土産物店に有ると言う。
そこで①法衣②杖(同行二人と書いてある)③納経帳④線香⑤蝋燭⑥納経札⑦数珠⑧遍路行程地図等々を購入。〆て1万4千弱円也。『カードで御願い』したら現金意外ダメと言う。商売気タップリである。坊主が現金のみを信用し、人もカードも信用しないのか?と些か不快さを憶える。


         第一番札所 竺和山 霊山寺 一乗院
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               山         門                
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               山 門 前で記念に一枚
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          山門を潜り抜けると左手に水屋(手洗い・漱ぎ場)
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               水屋の傍らの観音像
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               鐘         楼 
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               本         堂
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               本   堂  内  部
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               大    子    堂
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               多    宝    塔
 用具を揃えて山門を入ると俗物坊主と異なり本堂・大子堂・多宝塔・鐘楼等成る程御利益のありそうな塔中が並び荘厳な景色を醸し出していたし観光遍路旅の団体の般若心経があちこちで聞こえるのんびりとした世界があった。
 形通りに先ず本堂で蝋燭と線香を灯し賽銭を入れる。お経も般若心経も解らんので唯『家内安全交通安全』と三度唱えて終える。太子堂でも同じことを行う。『納経帳は何処で書いて貰うのか?』と聞くと『一番札所だから此処で買った納経帳には書き込んであります』とのこと。手回しの良い事である。またまた俗が鼻につく。

 後ほど見知った事ではあるが参拝の順序は下記の通り;
 【参拝方法】
基本的な決まりであるが水屋や鐘楼がなかったり利用できないこともあるので合掌の心を持っていれば実践しなくても良い。
1.山門で一礼合掌
2.鐘楼にて鐘を打つ(参拝後には「戻り鐘」といって縁起が悪いので打たない)
3.水屋で手と口を清める
4.本堂で納札・写経等を納める
5.お明灯・線香・賽銭を納める
6.ご本尊に合掌し、読経や本尊名号を唱える
7.納経所にて納経料金を納めて御朱印をいただく
8.退出寺も山門で一礼合掌
 
 ★ 本尊: 釈迦如来(伝 弘法大師作)     ★ 開基: ★行基菩薩
 ★ 本尊の真言:のうまく さんまんだ ぼたなん ばく
 
 【略縁起】:
 奈良時代、天平年間(729年 - 749年)聖武天皇の勅願により、行基菩薩が開基した寺である。発願の寺として『一番さん(山)』と呼ばれている。大師が21日間修行され釈迦如来を彫り本尊とされた。
 天正10年(1582)、★長宗我部元親の兵火により堂塔は全焼した。その後、★阿波藩主・蜂須賀光隆公によってようやく復興したが、明治24年(1891)には出火により本堂と多宝塔以外の堂宇を再び焼失している。以来、100年の努力で往時の姿となっているが、おおかたが近年の建物である。別格本山。地の利を生かした寺観の配置は妙で美しく、お遍路さんに彩りを添えている。

【註】
★行基菩薩:奈良時代の高僧で百済系渡来人の子孫で和泉の人。民間布教に専念し、全国を巡遊し寺、堤、道路、橋等を造った。のち聖武天皇の帰依をうけ、東大寺大仏の建立に協力。日本最初の大僧正に任ぜられる。生没年;668(天智7年)~749(天平21年)。
四国八十八ヶ寺の内28ヶ寺が行基の開基と為っている。畿内だけでも寺34、尼寺15、橋7、池15、★布施屋など沢山造っている。彼は偉大な僧であると同時に偉大な土木建築家でもあった。弟子や協力者は数百とも千とも言われその力が四国にも及んだのであろう。

★ 布施屋:旅行者に食料等を施して休息させる宿舎。行基が畿内に造った布施屋が有名。


★ 長宗我部元親は戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐の戦国大名。天正13年(1585年)には四国全土をほぼ統一することに成功したとされている。信長、秀吉に反抗。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家と手を結んで豊臣秀吉と対抗する。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでも、織田信雄や徳川家康らと結んで秀吉に対抗したが小牧の戦いは秀吉と信雄が和睦するという形で終結した。天正13年(1585年)春、秀吉が紀州を平定すると弟秀長を総大将とする10万を超える軍を派遣、元親は阿波白地城を本拠に阿・讃・予の海岸線沿いに防備を固め抗戦するが阿波戦線が尽く崩壊した。元親は反戦派の家臣谷忠澄の言を容れて降伏し、阿波・讃岐・伊予を没収されて土佐一国のみを安堵された。
土佐藩の領域は戦国時代末期まで長宗我部氏が統治していたが、長宗我部盛親は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて西軍に与して改易され長宗我部家は断絶した。この合戦で徳川氏に味方した遠江掛川城主・山内一豊が、新たに土佐国9万8000石を与えられた。以降、明治時代初頭まで山内氏が治めた。
江戸末期まで土佐藩は上士(山内家の家臣)の武士と下士の武士(長宗我部家家臣;郷士→下士の中の上級武士)とに身分制度が差別された。かの坂本龍馬は郷士に当たる。

★ 蜂須賀光隆は太平記で有名な蜂須賀小六(正勝)の玄孫に当たる。
小六(正勝)→家正まで豊臣家の家臣で徳島藩主であったが家正の長男至鎮(よししげ)が秀吉の死   後、家康の養女を娶った経緯から、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、至鎮は東軍に与して関ヶ  原本戦に参加した。秀吉の股肱の臣であった父・家政は病を理由に在国した。戦後その功績により家康  から所領を安堵されると共に、剃髪した父から家督を譲られ、阿波国徳島藩の初代藩主となった。
 初代①至鎮→②忠英→③光隆(1652~1666)→④綱道と廃藩置県まで続く。



                           ( 霊山寺編  完 )


 ★ 四国遍路の歴史
 古代末期から中世初頭の時代に聖(ひじり)といわれる民間宗教者の活動が原点ではないか?言われている。彼らは、人里離れた山や洞窟などで修行した。
聖地としての四国遍路の一部が文献に現れるのは平安時代初期である。弘法大師・空海が24歳の時の書『三教指帰(さんごうしいき)』に、大滝の獄(現21番札所・太龍寺)、室戸の岬(現24番札所・最御崎寺)などで山岳修行したことが記されている。
平安末期の文献『今昔物語』・『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』には、四国の海岸沿いを歩む「四国辺地」の修行をする者の記述があり、室戸岬や志度の道場などの修業地が記載されている。
既に平安時代には四国の海辺や辺路を巡り修行する僧侶・修験者が居たこと、山岳宗教の修行地として役行者 小角(えんのぎょうじゃ おづの)の開基とされる12番焼山寺・47番八坂寺・60番横峰寺・64番前神寺など山岳宗教の道場として確立されていたと想像される。
中世以降になると真言宗の開祖・弘法大師信仰がさかんになる。空海が讃岐出身だったことや、若き日に四国で修行した事実から、信仰の中では四国は重要な位置を占めた。現在の札所でもある太龍寺、金剛頂寺、曼荼羅寺、善通寺などは、この頃、大師信仰の霊場として地位を固めていった。
山伏と同様の旅の宗教者である僧侶・聖が四国遍路の形成に関わっていたと考えられる。
 以上のことから、「四国辺地(辺路)」をベースに、さまざまな聖たちの活動や弘法大師信仰が連鎖的に複合し、四国遍路が成立したのだろう。これが四国遍路の原型であると思われる。
 四国巡礼が弘法大師ゆかりの八十八カ所の寺を巡拝する形が確立されたのは室町時代末期から江戸初期と言われている。戦国の時代も終わり世の中が安定し始めた江戸時代・元禄時代になると日本各地の庶民の間で巡礼ブームが起き四国遍路も盛んに為った。
四国遍路の大衆化に貢献したのが真言宗の僧・真念の書いた四国遍路の案内書『四国遍路道指南』(1687年・貞享4年)である。八十八カ所の札所紹介、札所間の情報などが記されている。
高野山の学僧寂本の協力を得て、四国遍路の案内書として、『四國邊路道指南(しこくへんろみちしるべ』一巻、『四國徧禮霊場記(へんろれいじょうき)』七巻、『四國徧禮功徳記(へんろくどくき)』二巻を出版。これらの案内書は四国内だけではなく、大坂や高野山にも販売所を指定して、関西からの遍路の誘致を図っている。なかでも道中記にあたる『四國邊路道指南』は、明治期まで再編しながら出版され続けた。
上記の出版本により四国巡礼は大衆化され盛んに為ったと言われている。
明治期に入り神仏分離令・廃仏毀釈政策で一時混乱し衰退し10ヶ寺余り廃寺と為ったが徐々に復興し現在に至っている。(参考資料;「四国遍路の歴史」星野英紀氏)

 ★ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)

 ▼竺和山霊山寺一乗院(一番)
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 板野郡板東村にある。聖武天皇の勅願寺ともいわれ、また空海の開基ともされており、確かなことは分からない。本尊は釈迦如来で、霊山寺と号す。天竺の霊山を擬して和国(日本)に建てたため、竺和山と呼ぶ。霊験あらたかな場所のようだ。空海が訪れ、釈迦如来・大日如来・阿弥陀如来の三尊像を自ら作り、三堂にそれぞれの像を安置して、国家鎮護の押さえとした。
 昔は壮大な伽藍で、仏教談義に明け暮れる僧侶が多く集まっていた。数回の戦争を経て、堂舎はことごとく壊され建て替えられた。多く集まっていた僧侶は、どこかえと去っていった。供養する香の煙も途絶え、ひっそりと霧の中へ閉ざされてしまった。
万治年中に阿波・淡路両国太守・蜂須賀光隆が、名刹の興廃を慨嘆し再興した。先代の住持・栄心は寺の復興を志し、大師堂・鎮守社・二金剛像を作った。垣を隔てて右に配置した。竹林がサラサラと音を立て、窓から入る風が涼やかだ。
 大麻彦権現を、奥の院とする。阿波一宮で、霊威があることで有名だ。寺から八町ほど北にある。伴社・中宮明神・西宮を備える。神社の後には、求聞持堂がある。また背後の山は大麻山を名とする高い険山で、頂上に登れば隣り合う八国を見渡せる。この神社は太守が造営したという。
この寺が八十八カ所の最初だと言われている。道場寺や井戸寺から始めることもある。どうやら、道順の都合によるものだ。

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