ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:阿波徳島編 第二番霊場
第二番札所: 極楽寺に向かう。距離大凡1,1Km。

第二番札所 日照山 極楽寺 無量寿院

仁 王 門 :(山門)
山門前で一礼して入り手洗い場で手を清め嗽ぎ本堂より太子堂にお参りするのが法だと教えられた。

手洗い・漱ぎ場;仕来り通りに手を清め嗽ぎ本堂に向かう。


境 内 風 景

本 堂 に続く石段


本 堂
寺の中心となるお堂でその寺のご本尊が祀られている。納め札を納め読経するが仕来りである。霊山寺では「家内安全、交通安全」としか唱えられなかったがここで初めて経本を見ながら到底唱えるまでには至らず、恥かしながら「読んでみた」。
★天正年間(1573〜92年)に長宗我部元親の兵火で焼失したが、万治2年(1659年)本堂は蜂須賀光隆公の援助によって再建されている。

太 子 堂
弘法大師が祀られているお堂で太子像が安置されている。本堂と同じようにお参りする。

大 子 堂 前で記念撮影:当時は髭無し

観 音 堂

薬 師 堂


薬師堂前の境内風景


樹齢1200年あまり、高さが約31メートル、周囲約6メートルもある霊木である。触れれば家内安全ばかりか、病気平癒、長寿も授かるといわれる。鳴門市の天然記念物に指定されている。

鐘 楼

納経所:納経帳に墨痕鮮やかに何やら読めぬ梵字?で極楽寺と署名してくれた。三百円也。

極 楽 寺 納 経
四国霊場の参拝は一ヶ寺毎にお経を納めるのが仕来りだそうである。お経を唱えることで写経一巻を奉納した代わりとみなされ、お経を納めて礼拝した印として納経所で墨書・朱印を戴ける。
★ 本尊:阿弥陀如来 ★ 開基:行基菩薩
★ 本尊の真言: おん あみりた ていせい からうん
★『略縁起』
行基菩薩の開基と伝えられる。弘法大師は弘仁6年(815年)、この地で37日間無量寿の秘法を厳修し、その結願の日に阿弥陀如来を感得し、本尊(無量寿光仏)として刻んだと言われる。ところが、その本尊の後光が鳴門の長原沖まで達し、漁業の妨げとなったため漁民たちはこの光をさえぎろうと本堂の前に小山を築いた、との故事から日照山と号したとされる。室町末期には三好氏の保護を受けたが、本堂は天正年間の長曽我部元親の兵火で焼失し、万治2年(1659年)に藩主蜂須賀家により再建。
★ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)
四国遍礼霊場記
▼日照山極楽寺(二番)

板野郡檜村にある。行基菩薩の草創で、昔は立派な伽藍であったらしい。事物が変わることは世の常、今では荒廃してしまっている。本尊の阿弥陀如来座像は高さ四尺五寸で、行基の作。左に薬師如来像、右に空海像を置く。いつの頃からか、禅宗の住持が住むようになった。

第二番札所 日照山 極楽寺 無量寿院

仁 王 門 :(山門)
山門前で一礼して入り手洗い場で手を清め嗽ぎ本堂より太子堂にお参りするのが法だと教えられた。

手洗い・漱ぎ場;仕来り通りに手を清め嗽ぎ本堂に向かう。


境 内 風 景

本 堂 に続く石段


本 堂
寺の中心となるお堂でその寺のご本尊が祀られている。納め札を納め読経するが仕来りである。霊山寺では「家内安全、交通安全」としか唱えられなかったがここで初めて経本を見ながら到底唱えるまでには至らず、恥かしながら「読んでみた」。
★天正年間(1573〜92年)に長宗我部元親の兵火で焼失したが、万治2年(1659年)本堂は蜂須賀光隆公の援助によって再建されている。

太 子 堂
弘法大師が祀られているお堂で太子像が安置されている。本堂と同じようにお参りする。

大 子 堂 前で記念撮影:当時は髭無し

観 音 堂

薬 師 堂


薬師堂前の境内風景


樹齢1200年あまり、高さが約31メートル、周囲約6メートルもある霊木である。触れれば家内安全ばかりか、病気平癒、長寿も授かるといわれる。鳴門市の天然記念物に指定されている。

鐘 楼

納経所:納経帳に墨痕鮮やかに何やら読めぬ梵字?で極楽寺と署名してくれた。三百円也。

極 楽 寺 納 経
四国霊場の参拝は一ヶ寺毎にお経を納めるのが仕来りだそうである。お経を唱えることで写経一巻を奉納した代わりとみなされ、お経を納めて礼拝した印として納経所で墨書・朱印を戴ける。
★ 本尊:阿弥陀如来 ★ 開基:行基菩薩
★ 本尊の真言: おん あみりた ていせい からうん
★『略縁起』
行基菩薩の開基と伝えられる。弘法大師は弘仁6年(815年)、この地で37日間無量寿の秘法を厳修し、その結願の日に阿弥陀如来を感得し、本尊(無量寿光仏)として刻んだと言われる。ところが、その本尊の後光が鳴門の長原沖まで達し、漁業の妨げとなったため漁民たちはこの光をさえぎろうと本堂の前に小山を築いた、との故事から日照山と号したとされる。室町末期には三好氏の保護を受けたが、本堂は天正年間の長曽我部元親の兵火で焼失し、万治2年(1659年)に藩主蜂須賀家により再建。
★ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)
四国遍礼霊場記
▼日照山極楽寺(二番)

板野郡檜村にある。行基菩薩の草創で、昔は立派な伽藍であったらしい。事物が変わることは世の常、今では荒廃してしまっている。本尊の阿弥陀如来座像は高さ四尺五寸で、行基の作。左に薬師如来像、右に空海像を置く。いつの頃からか、禅宗の住持が住むようになった。
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