ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:阿波徳島編 第三番霊場
第三番札所:金泉寺に向う。距離大凡2,7Km。

第三番札所 亀光山 金泉寺 釈迦院
仁 王 門

仁王像(開口の阿形(あぎょう)像)

仁王像(口を結んだ吽形(うんぎょう)像)
山門の二体の仁王像は一般的に金剛力士像と呼ばれている、執金剛神は金剛杵(最強の武器)を持つ者という意味で、金剛杵を持って仏教に害するものを撃退するといわれ、金剛力士はその分身、化身とも考えられている。
金剛力士は、その執金剛神が二体に分かれて寺門の左右に立ち、守っているのです。その姿は、口を開けている「阿形」と、口を閉じている「吽形」の二種があります。
「阿」と「吽」は、阿はア行の始まり、吽は「ん」を意味することから、万物の始まりと終わりを象徴していると言われており「阿吽の呼吸」という言葉の基になっているものである。
山門(仁王門)を入ると左手に手洗い場・鐘楼がある。

手 洗 場

鐘 楼


本 堂


太 子 堂

阿 弥 陀 堂
本堂の背後にある。仁王門同様の朱色鮮やかなお堂。

慈 母 観 音 像
本堂を通り過ぎてすぐ右に見えるのは、たくさんの小さな像に囲まれた慈母観音像と子安大師像。

観 音 堂
八角形の観音堂は末広がりで縁起が良くなるように、とこのような形をしている。源義経が屋島に向かう途中この寺に立ち寄り、「戦勝開運」を聖観音さまに祈願したと「源平盛衰記」に伝えられていることから、大変運の強い観音さま、別名「勝運観音」と呼ばれている。

弁 慶 の 力 石
源義経がこの寺に立ち寄った時 家来の弁慶が自らの力量を披露するために、この巨石を持上げたと伝えられている。

黄 金 の 井戸
弘法大師がこの地を訪れた時、水不足で困っていた村人のために井戸を掘ったら霊水が湧き出した。それで、寺の名を「金泉寺」と改めたとのこと。

納 経 所

御 朱 印
★ 本尊:釈迦如来(伝 弘法大師作) ★ 開基:行基菩薩
★ 本尊の真言:のうまく さんまんだ ぼだなん ばく
三ヶ寺を巡って漸く気付いた。三ヶ寺共行基菩薩の開基である。巡礼に当たり全く不勉強の所為で、四国八十八ヶ所の寺院仏閣の総ては弘法大師の開基に依るものと信じて居たので些か驚きである。
漸くお参りの作法が身に就いたようだが未だ般若心経の声が小さい!
★『略縁起』
★聖武天皇の勅願で天平年間に行基菩薩が開基した寺で当時は金剛明寺と呼ばれたそうだ。
弘法大師が巡錫された時、黄金の霊水がわき出たので、寺名を金泉寺に改めたという。
後年、★亀山天皇がこの寺を信仰され、三十三間堂を建立、観世音菩薩を安置して山号の亀光山を賜号された。勅願道場として栄えた。
天正十年(一五八二)には長宗我部元親の兵火によって大師堂を除く大半の建物を焼失し、現在の建物はその後再建されたものである。
源平の戦いで壇ノ浦に向う義経が戦勝祈願したとの伝説もあり弁慶が持ち上げた力石も現存するが真偽の程は知らない。
★聖武天皇:奈良時代第45代天皇で在位は724~749年42代文武天皇の第一皇子。仏教に深く帰依した天皇で、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出している。東大寺大仏の開眼法要が行われたのは天平勝宝4年(752年)である。
★亀山天皇:第90代天皇。在位は1259~79年第88代後嵯峨天皇の第七皇子。
★ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)
四国遍礼霊場記
▼亀光山釈迦院金泉寺(三番)

板野郡大寺村にある。空海の開基。高さ三尺の釈迦如来像を作り、七間四方の堂を建てて安置した。この堂は板東・板西の間にあり、扉の板の東西で両村を分けている。ゆえに板東・板西の名がある。宝塔には五仏を納めていたが、今は礎石だけが残っている。牛頭天王・天神堂も再建できていない。どうにか鎮守・春日明神の祠と弁財天の祠が建っている。
中世、亀山法皇の御願として堂宇を再興したことがあった。唐・洛陽の蓮華院に倣い、三十三間堂を建て千手観音像を安置した。このとき経蔵も置いたので、寺を経処坊とも号した。今でも当地では、口達者な者を、経処坊の所化、と呼んでいる。
金泉の跡というものがあるが、由来は聞かない。
亀山法皇の廟があったが、今では痕跡が残っているのみだという。

第三番札所 亀光山 金泉寺 釈迦院

仁 王 門

仁王像(開口の阿形(あぎょう)像)

仁王像(口を結んだ吽形(うんぎょう)像)
山門の二体の仁王像は一般的に金剛力士像と呼ばれている、執金剛神は金剛杵(最強の武器)を持つ者という意味で、金剛杵を持って仏教に害するものを撃退するといわれ、金剛力士はその分身、化身とも考えられている。
金剛力士は、その執金剛神が二体に分かれて寺門の左右に立ち、守っているのです。その姿は、口を開けている「阿形」と、口を閉じている「吽形」の二種があります。
「阿」と「吽」は、阿はア行の始まり、吽は「ん」を意味することから、万物の始まりと終わりを象徴していると言われており「阿吽の呼吸」という言葉の基になっているものである。
山門(仁王門)を入ると左手に手洗い場・鐘楼がある。

手 洗 場

鐘 楼


本 堂


太 子 堂

阿 弥 陀 堂
本堂の背後にある。仁王門同様の朱色鮮やかなお堂。

慈 母 観 音 像
本堂を通り過ぎてすぐ右に見えるのは、たくさんの小さな像に囲まれた慈母観音像と子安大師像。

観 音 堂
八角形の観音堂は末広がりで縁起が良くなるように、とこのような形をしている。源義経が屋島に向かう途中この寺に立ち寄り、「戦勝開運」を聖観音さまに祈願したと「源平盛衰記」に伝えられていることから、大変運の強い観音さま、別名「勝運観音」と呼ばれている。

弁 慶 の 力 石
源義経がこの寺に立ち寄った時 家来の弁慶が自らの力量を披露するために、この巨石を持上げたと伝えられている。

黄 金 の 井戸
弘法大師がこの地を訪れた時、水不足で困っていた村人のために井戸を掘ったら霊水が湧き出した。それで、寺の名を「金泉寺」と改めたとのこと。

納 経 所

御 朱 印
★ 本尊:釈迦如来(伝 弘法大師作) ★ 開基:行基菩薩
★ 本尊の真言:のうまく さんまんだ ぼだなん ばく
三ヶ寺を巡って漸く気付いた。三ヶ寺共行基菩薩の開基である。巡礼に当たり全く不勉強の所為で、四国八十八ヶ所の寺院仏閣の総ては弘法大師の開基に依るものと信じて居たので些か驚きである。
漸くお参りの作法が身に就いたようだが未だ般若心経の声が小さい!
★『略縁起』
★聖武天皇の勅願で天平年間に行基菩薩が開基した寺で当時は金剛明寺と呼ばれたそうだ。
弘法大師が巡錫された時、黄金の霊水がわき出たので、寺名を金泉寺に改めたという。
後年、★亀山天皇がこの寺を信仰され、三十三間堂を建立、観世音菩薩を安置して山号の亀光山を賜号された。勅願道場として栄えた。
天正十年(一五八二)には長宗我部元親の兵火によって大師堂を除く大半の建物を焼失し、現在の建物はその後再建されたものである。
源平の戦いで壇ノ浦に向う義経が戦勝祈願したとの伝説もあり弁慶が持ち上げた力石も現存するが真偽の程は知らない。
★聖武天皇:奈良時代第45代天皇で在位は724~749年42代文武天皇の第一皇子。仏教に深く帰依した天皇で、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出している。東大寺大仏の開眼法要が行われたのは天平勝宝4年(752年)である。
★亀山天皇:第90代天皇。在位は1259~79年第88代後嵯峨天皇の第七皇子。
★ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)
四国遍礼霊場記
▼亀光山釈迦院金泉寺(三番)

板野郡大寺村にある。空海の開基。高さ三尺の釈迦如来像を作り、七間四方の堂を建てて安置した。この堂は板東・板西の間にあり、扉の板の東西で両村を分けている。ゆえに板東・板西の名がある。宝塔には五仏を納めていたが、今は礎石だけが残っている。牛頭天王・天神堂も再建できていない。どうにか鎮守・春日明神の祠と弁財天の祠が建っている。
中世、亀山法皇の御願として堂宇を再興したことがあった。唐・洛陽の蓮華院に倣い、三十三間堂を建て千手観音像を安置した。このとき経蔵も置いたので、寺を経処坊とも号した。今でも当地では、口達者な者を、経処坊の所化、と呼んでいる。
金泉の跡というものがあるが、由来は聞かない。
亀山法皇の廟があったが、今では痕跡が残っているのみだという。
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