ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:阿波徳島編 第六番霊場
五番札所を発ちチョットしたトラブル発生。地図通り走った積もりが一向に六番札所が見あたらない。道に迷ったようだ。ウロウロ走るうち下の写真の場面に出くわした。

海軍飛行隊特攻隊訓練場が徳島に存在したことを初めて知った。新しい発見である。写真を撮りサテどうするか思案していると記念碑と道を隔てた饂飩屋の姐さんが『どうしました?』と聞く。『五番から六番に行きたいのですがどうも道を間違えたらしいですわ!』と言うと親切丁寧に教えて呉れた。後の行程でも何度も迷った時土地の皆さんが親切に教えて呉れた。法衣の『御利益』か『お接待』かどちらにしても『有難う御座います』と素直に言えた。第一回目の巡礼を終えて帰宅してから、この様に「道を教えられたり」「お接待」を受けた際には、本堂で納経後に納める「納め札」をお渡しするのが作法だと我が家の山の神“オッカナイ”に教えられた。
余談ではあるが:徳島海軍飛行隊特攻隊訓練場で、水戸黄門のはまり役「西村 晃」さんと茶道裏千家前家元15代「千 玄室」さんが同期で訓練に励んでいたことを知った。

徳島海軍航空隊時代。右から2人目が千玄室さん、右端が親交の深かった俳優の故西村晃さん(1944年、裏千家提供)
第六番札所;温泉寺 安楽寺は記念碑場所のすぐ近くにあった。

第六番札所 温泉山 安楽寺 瑠璃光院

山 門
竜宮門型の★鐘楼門を入ると右に手水鉢が置かれ、左側には回遊式日本庭園があって、池の奥に多宝塔が建つ。正面奥に本堂が建ち、その右手に大師堂、左側に観音堂がある。本堂付近に修行大師像と願い棒が、多宝塔の近くに逆松がある★鐘楼門(しょうろうもん)は、鐘楼が付いた門である。 二層で、下層が門、上層に梵鐘をさげる堂がある。

鐘 楼


金剛力士阿吽像
山門の二体の仁王像は一般的に金剛力士像と呼ばれている、執金剛神は金剛杵(最強の武器)を持つ者という意味で、金剛杵を持って仏教に害するものを撃退するといわれ、金剛力士はその分身、化身とも考えられている。
金剛力士は、その執金剛神が二体に分かれて寺門の左右に立ち、守っているのです。その姿は、口を開けている「阿形」と、口を閉じている「吽形」の二種があります。
「阿」と「吽」は、阿はア行の始まり、吽は「ん」を意味することから、万物の始まりと終わりを象徴していると言われており「阿吽の呼吸」という言葉の基になっているものである。


鐘楼門を入り右の手水鉢、左側には回遊式日本庭園があって、池の奥に多宝塔が建っている。


本 堂
正面奥の本堂:



薬師如来像が祀られた本堂内部


太 子 堂 と 空海行脚立像(左手前)

空 海 行 脚 立 像

観 音 堂

多 宝 塔

多宝塔とさかさ松(手前右・二代目):寺伝によると、境内の池のほとりにある樹齢1200年とも言われる松の木で、42歳の厄年の際にお大師様が巡錫された時、猟師の青年が間違えて射た矢の盾に為りお大師様を守ったと伝えられる松の木で「さかさ松」と言う。このさか松を拝むと厄除になると信仰を集めている。

納経所は本堂内の左側にある。

御 朱 印
★ 本尊:薬師如来 (伝 弘法大師作) ★ 開基:弘法大師
★ 本尊の真言:おん、こんころ、せんだり、まとうぎ、そわか
『略縁起』
境内はかって安楽寺谷という場所にあった。温泉山という山号からもわかるように、温泉のある寺として人々に親しまれていた。四国巡錫中にこの地を訪れた弘法大師も、この土地が病疫か人々を救う薬師如来と深い因縁で結ばれていると直感。坐像を刻み堂宇を建立し、この寺を札所と定めた。元禄時代の古記録によると、当時その安楽寺谷の周辺一帯は鉄サピ色の熱渇が涌き出、湯は諸病に特効あり、と記されている。行脚中の大師が当地に留錫、薬師如来(衆生の病いを治す意)と因縁浅からぬ地であると察し、安楽寺谷に堂宇を建立し薬師如来を刻んで本尊とされた。
さらに大師は山号、院号、寺号を本尊にちなんで名付けられたという。寺はその後、天正年間の長宗我部の兵火に焼かれたが、★万治年間(1658~1660年)に、駅路寺であった瑞運寺を併合して現在の地に移転再建された。
旧跡から平安期の瓦が出土し天治2年(1125年)作の弥勒菩薩や★支那の杭州の信者が奉納した額縁等が残っている。
★万治年間(1658~1660年)天皇は後西天皇。江戸幕府将軍は4代徳川家綱。父は第3代将軍徳川家光。
★支那の杭州:現代の中国杭州市、13世紀は世界最大の都市であり、『上に天国あり、下に蘇州・杭州あり』と言われた時代もある。
★ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)
▼瑠璃山日興院瑞運寺(六番)
板野郡引野村にある。昔から温泉があり、様々な病に効果があった。仏の大いなる慈悲のうち顕著なものだ。このため空海が高さ一尺三寸の薬師如来像を作り、美しい堂を建てて安置した。次々に参詣者が訪れ、医王の霊験にあやかろうとした。寺は繁栄し、十二の堂が所狭しと並んで、鈴や鐘の響きが絶えることはなかった。しかし戦争のために没落し、ほかの坊は再建することができずに、跡のみを残すことになった。鎮守の天照太神社がある。弥勒菩薩の霊像、空海の御影が、どうにか残っている。
昔温泉があったので、温泉山と号していた。今では瑠璃山と呼ばれている。中世、温泉に人や獣の死体が入ってしまい、それを嫌って使われなくなったという。
また、もとは安楽寺といっていたが、国の太守から寄進をうけたとき、瑞運寺と改名した。境内は二町四方だという。

海軍飛行隊特攻隊訓練場が徳島に存在したことを初めて知った。新しい発見である。写真を撮りサテどうするか思案していると記念碑と道を隔てた饂飩屋の姐さんが『どうしました?』と聞く。『五番から六番に行きたいのですがどうも道を間違えたらしいですわ!』と言うと親切丁寧に教えて呉れた。後の行程でも何度も迷った時土地の皆さんが親切に教えて呉れた。法衣の『御利益』か『お接待』かどちらにしても『有難う御座います』と素直に言えた。第一回目の巡礼を終えて帰宅してから、この様に「道を教えられたり」「お接待」を受けた際には、本堂で納経後に納める「納め札」をお渡しするのが作法だと我が家の山の神“オッカナイ”に教えられた。
余談ではあるが:徳島海軍飛行隊特攻隊訓練場で、水戸黄門のはまり役「西村 晃」さんと茶道裏千家前家元15代「千 玄室」さんが同期で訓練に励んでいたことを知った。

徳島海軍航空隊時代。右から2人目が千玄室さん、右端が親交の深かった俳優の故西村晃さん(1944年、裏千家提供)
第六番札所;温泉寺 安楽寺は記念碑場所のすぐ近くにあった。

第六番札所 温泉山 安楽寺 瑠璃光院

山 門
竜宮門型の★鐘楼門を入ると右に手水鉢が置かれ、左側には回遊式日本庭園があって、池の奥に多宝塔が建つ。正面奥に本堂が建ち、その右手に大師堂、左側に観音堂がある。本堂付近に修行大師像と願い棒が、多宝塔の近くに逆松がある★鐘楼門(しょうろうもん)は、鐘楼が付いた門である。 二層で、下層が門、上層に梵鐘をさげる堂がある。

鐘 楼


金剛力士阿吽像
山門の二体の仁王像は一般的に金剛力士像と呼ばれている、執金剛神は金剛杵(最強の武器)を持つ者という意味で、金剛杵を持って仏教に害するものを撃退するといわれ、金剛力士はその分身、化身とも考えられている。
金剛力士は、その執金剛神が二体に分かれて寺門の左右に立ち、守っているのです。その姿は、口を開けている「阿形」と、口を閉じている「吽形」の二種があります。
「阿」と「吽」は、阿はア行の始まり、吽は「ん」を意味することから、万物の始まりと終わりを象徴していると言われており「阿吽の呼吸」という言葉の基になっているものである。


鐘楼門を入り右の手水鉢、左側には回遊式日本庭園があって、池の奥に多宝塔が建っている。


本 堂
正面奥の本堂:



薬師如来像が祀られた本堂内部


太 子 堂 と 空海行脚立像(左手前)

空 海 行 脚 立 像

観 音 堂

多 宝 塔

多宝塔とさかさ松(手前右・二代目):寺伝によると、境内の池のほとりにある樹齢1200年とも言われる松の木で、42歳の厄年の際にお大師様が巡錫された時、猟師の青年が間違えて射た矢の盾に為りお大師様を守ったと伝えられる松の木で「さかさ松」と言う。このさか松を拝むと厄除になると信仰を集めている。

納経所は本堂内の左側にある。

御 朱 印
★ 本尊:薬師如来 (伝 弘法大師作) ★ 開基:弘法大師
★ 本尊の真言:おん、こんころ、せんだり、まとうぎ、そわか
『略縁起』
境内はかって安楽寺谷という場所にあった。温泉山という山号からもわかるように、温泉のある寺として人々に親しまれていた。四国巡錫中にこの地を訪れた弘法大師も、この土地が病疫か人々を救う薬師如来と深い因縁で結ばれていると直感。坐像を刻み堂宇を建立し、この寺を札所と定めた。元禄時代の古記録によると、当時その安楽寺谷の周辺一帯は鉄サピ色の熱渇が涌き出、湯は諸病に特効あり、と記されている。行脚中の大師が当地に留錫、薬師如来(衆生の病いを治す意)と因縁浅からぬ地であると察し、安楽寺谷に堂宇を建立し薬師如来を刻んで本尊とされた。
さらに大師は山号、院号、寺号を本尊にちなんで名付けられたという。寺はその後、天正年間の長宗我部の兵火に焼かれたが、★万治年間(1658~1660年)に、駅路寺であった瑞運寺を併合して現在の地に移転再建された。
旧跡から平安期の瓦が出土し天治2年(1125年)作の弥勒菩薩や★支那の杭州の信者が奉納した額縁等が残っている。
★万治年間(1658~1660年)天皇は後西天皇。江戸幕府将軍は4代徳川家綱。父は第3代将軍徳川家光。
★支那の杭州:現代の中国杭州市、13世紀は世界最大の都市であり、『上に天国あり、下に蘇州・杭州あり』と言われた時代もある。
★ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)
▼瑠璃山日興院瑞運寺(六番)

板野郡引野村にある。昔から温泉があり、様々な病に効果があった。仏の大いなる慈悲のうち顕著なものだ。このため空海が高さ一尺三寸の薬師如来像を作り、美しい堂を建てて安置した。次々に参詣者が訪れ、医王の霊験にあやかろうとした。寺は繁栄し、十二の堂が所狭しと並んで、鈴や鐘の響きが絶えることはなかった。しかし戦争のために没落し、ほかの坊は再建することができずに、跡のみを残すことになった。鎮守の天照太神社がある。弥勒菩薩の霊像、空海の御影が、どうにか残っている。
昔温泉があったので、温泉山と号していた。今では瑠璃山と呼ばれている。中世、温泉に人や獣の死体が入ってしまい、それを嫌って使われなくなったという。
また、もとは安楽寺といっていたが、国の太守から寄進をうけたとき、瑞運寺と改名した。境内は二町四方だという。
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