ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:阿波徳島編 第十番霊場
第十番札所:切幡寺に向う。距離大凡4,4Km。

第十番札所 得度山 切幡寺 潅頂院

山 門
第九番札所までの霊場は平地や街内に在ったが切幡寺は山の中腹にあった、標高は155mとのこと。山門から凡そ800m、333段の可也険しい石段を登った処に本堂・境内がある。山門を潜り参道を進むと・・・・・

「是より333段」と書かれた石柱と最初の石段に出る。途中に手洗い場がある。

手 水 場


三十三段の女厄除け坂、四十二段の男厄除け坂


2枚の写真は参拝を終えて帰りに撮ったもの、石段の険しさが解るでしょう。
石段を登り切ると境内の正面に本堂、右に太子堂と鐘楼があり左に寺坊と納経所があり高台に大塔がそびえ手前に不動堂がある。

本 堂

太 子 堂

大 塔 遠 望 と 不 動 堂 (手前)

大 塔
大塔:徳川家康の勧めにより豊臣秀頼が父・秀吉の菩提を弔うため慶長12年(1607年)大坂住吉大社の神宮寺に建立した。明治初年の廃仏毀釈により廃寺となったため明治6年(1874年)に移築され重要文化財に指定されている。移築には10年の歳月がかかったそうである。

大坂住吉大社の神宮寺当寺の写真:「東京国立博物館蔵 幕末明治期写真資料目録Ⅰ」に残っている。

不 動 堂
境内には:はたきり観音、鐘楼等が点在する。

はたきり観音:空海(弘法太子)が機織りの乙女を得度させると乙女が即身成仏して観音様に化身したと伝えられる銅像。右手にハサミ、左手に長い布を持っている。

はたきり観音像

鐘 楼(太子堂の横)

寺 坊 と 納 経 所

御 朱 印
階段の多い寺である。10ヶ寺目とも為ると足はパンパン万歩計を見ると2万歩を越えている。納経の時間はAM7;00~PM5;00であるとのこと。PM4;00を大きく廻っているが、道に迷わねば間に合いそうだと些か疲れているが第十一番札所に向かう。 合掌
★ 本尊:千手観世音菩薩 (伝 弘法大師作) ☆ 開基:弘法大師
★ 本尊の真言:おん、 ばざら、 たらま、 きりく
★『略縁起』
弘仁6年(815年)、大師が四国巡錫中に機を織る娘に出逢い衣の破れを繕う布切れを所望、娘は織り掛けの布を差し出した。感謝した大師は娘の願いで千手観世音菩薩像を刻み、娘を得度させたところその娘の身から七色の光明が放たれ、千手観音に化身したという。そこで大師は嵯峨天皇に奉請して一寺を建立したのが切幡寺の開基となった。そのため本堂には本尊が二体あり、大師作の千手観世音菩薩を南向きに、もう一体の娘が化身した女人即身成仏の観音菩薩を北向きに安置している。境内にはその他、大師堂、はたきり観音の銅像、鐘楼、大塔、不動堂が建っている。
★ 『四国遍礼霊場記』 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)
四国遍礼霊場記

阿波郡切幡村にある。伝承によると、空海が始めて来たとき、空から五色の幡一流が降り、上半分は西へと飛び去り、千切れた下半分が、この山に舞い落ちた。怪異を伝えようと空海は寺を建て、切幡寺と名付けた。本尊の千手観音は秘仏で、開帳することがない。両脇に不動明王と毘沙門天を配置している。これら三尊は、空海の作。
堂の右には大日堂、隣に鎮守と御影堂がある。ここから眺める海は、絶景である。傍らに冷泉がある。汚れた人の心も浄化されるという。空海時代のものだとして、花形の壇が崩れながらも堂内に残っており、人々を驚かせている。古仏が多い。
本堂の左方に鐘楼。前にある中門の多聞天・持国天は、運慶の作。
左の岩山に龍王の祠がある。空海が阿伽井を加持すると、清水の様子が尋常ではなかった。このため龍王を祀った。
西の山の尾に、以前の寺跡がある。二町四方で周囲に築垣が巡っている。ほかにも寺の跡は多く残っている。今の寺は、昔の寺の塔が建っていた場所だ。
暦応年中、参議三位源朝臣直義が納めた願文が残っている。導師は宥範阿闍梨。直義は、足利尊氏の弟である。

第十番札所 得度山 切幡寺 潅頂院

山 門
第九番札所までの霊場は平地や街内に在ったが切幡寺は山の中腹にあった、標高は155mとのこと。山門から凡そ800m、333段の可也険しい石段を登った処に本堂・境内がある。山門を潜り参道を進むと・・・・・

「是より333段」と書かれた石柱と最初の石段に出る。途中に手洗い場がある。

手 水 場


三十三段の女厄除け坂、四十二段の男厄除け坂


2枚の写真は参拝を終えて帰りに撮ったもの、石段の険しさが解るでしょう。
石段を登り切ると境内の正面に本堂、右に太子堂と鐘楼があり左に寺坊と納経所があり高台に大塔がそびえ手前に不動堂がある。

本 堂

太 子 堂

大 塔 遠 望 と 不 動 堂 (手前)

大 塔
大塔:徳川家康の勧めにより豊臣秀頼が父・秀吉の菩提を弔うため慶長12年(1607年)大坂住吉大社の神宮寺に建立した。明治初年の廃仏毀釈により廃寺となったため明治6年(1874年)に移築され重要文化財に指定されている。移築には10年の歳月がかかったそうである。

大坂住吉大社の神宮寺当寺の写真:「東京国立博物館蔵 幕末明治期写真資料目録Ⅰ」に残っている。

不 動 堂
境内には:はたきり観音、鐘楼等が点在する。

はたきり観音:空海(弘法太子)が機織りの乙女を得度させると乙女が即身成仏して観音様に化身したと伝えられる銅像。右手にハサミ、左手に長い布を持っている。

はたきり観音像

鐘 楼(太子堂の横)

寺 坊 と 納 経 所

御 朱 印
階段の多い寺である。10ヶ寺目とも為ると足はパンパン万歩計を見ると2万歩を越えている。納経の時間はAM7;00~PM5;00であるとのこと。PM4;00を大きく廻っているが、道に迷わねば間に合いそうだと些か疲れているが第十一番札所に向かう。 合掌
★ 本尊:千手観世音菩薩 (伝 弘法大師作) ☆ 開基:弘法大師
★ 本尊の真言:おん、 ばざら、 たらま、 きりく
★『略縁起』
弘仁6年(815年)、大師が四国巡錫中に機を織る娘に出逢い衣の破れを繕う布切れを所望、娘は織り掛けの布を差し出した。感謝した大師は娘の願いで千手観世音菩薩像を刻み、娘を得度させたところその娘の身から七色の光明が放たれ、千手観音に化身したという。そこで大師は嵯峨天皇に奉請して一寺を建立したのが切幡寺の開基となった。そのため本堂には本尊が二体あり、大師作の千手観世音菩薩を南向きに、もう一体の娘が化身した女人即身成仏の観音菩薩を北向きに安置している。境内にはその他、大師堂、はたきり観音の銅像、鐘楼、大塔、不動堂が建っている。
★ 『四国遍礼霊場記』 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)
四国遍礼霊場記

阿波郡切幡村にある。伝承によると、空海が始めて来たとき、空から五色の幡一流が降り、上半分は西へと飛び去り、千切れた下半分が、この山に舞い落ちた。怪異を伝えようと空海は寺を建て、切幡寺と名付けた。本尊の千手観音は秘仏で、開帳することがない。両脇に不動明王と毘沙門天を配置している。これら三尊は、空海の作。
堂の右には大日堂、隣に鎮守と御影堂がある。ここから眺める海は、絶景である。傍らに冷泉がある。汚れた人の心も浄化されるという。空海時代のものだとして、花形の壇が崩れながらも堂内に残っており、人々を驚かせている。古仏が多い。
本堂の左方に鐘楼。前にある中門の多聞天・持国天は、運慶の作。
左の岩山に龍王の祠がある。空海が阿伽井を加持すると、清水の様子が尋常ではなかった。このため龍王を祀った。
西の山の尾に、以前の寺跡がある。二町四方で周囲に築垣が巡っている。ほかにも寺の跡は多く残っている。今の寺は、昔の寺の塔が建っていた場所だ。
暦応年中、参議三位源朝臣直義が納めた願文が残っている。導師は宥範阿闍梨。直義は、足利尊氏の弟である。
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