ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:阿波徳島編 第十三番霊場
第十三番札所:大日寺 に向かう 大凡 27km。
羊腸の小径は函谷関もものならずの唱歌其の儘曲がりくねった路を下ると県道21号線に出た。第十三番大日寺方面の看板に従い走る。
40分(大凡27km)も走った頃県道沿いに山門が見えた。大日寺の山門と思いきや、それは神社の鳥居で道路を挟んだ正面の宿坊の端に大日寺山門はあった。

第十三番札所 大栗山 大日寺 花蔵院

山 門
一礼して山門を入るとこじんまりとした境内に本堂・太子堂・しあわせ観音像・地蔵尊・手水場・鐘楼・寺坊(納経所)等々が整然と配置され落ち着ける境内である。

本 堂

本堂前で参拝記念

大 子 堂


し あ わ せ 観 音

地 蔵 尊


手 水 場

鐘 楼

寺 坊 (納経所)

御 朱 印
御朱印を授かり参詣を終え十四札所へ向かう・・・合掌


山門と間違えた神社 阿波国一ノ宮神社
神仏習合の時代には、一ノ宮神社と大日寺は一体化していたそうだ。
★ 本尊:十一面観世音菩薩 (伝 行基菩薩作) ☆ 開基:弘法大師
★ 本尊の真言: おん まか きゃろにきゃ そわか
『略縁起』
開基は弘法大師、本尊彫刻は行基菩薩と伝えられている。
開基は弘法大師。本尊彫刻は行基菩薩。弘仁六年(815年)この地を巡錫中の弘法大師が「大師が森」で護摩修法をされていると、空中に紫雲と共に大日如来が出現し「この地は霊域なり、心あらば一宇を建立せよ」と告げられた。感得した大師は尊影の大日如来を刻んで本尊とし、堂宇を建立して安置した。
大日如来像が本尊となっていたが、明治初年の神仏分離令により、一宮の本地仏だった十一面観音が大日寺へ移された。そのため、もともとこの寺にあった大日如来が脇仏となり、十一面観音が本尊になったという。またこの寺も天正の兵火に焼かれて、興亡を重ねている。現在の堂宇は明治の再建である。
門を入ると、左手に本堂が本堂の正面に大師堂がある本堂のすぐそばには、合掌をしている観音像がある。合掌しているその両手の上に、小さい観音像がいる。これは「しあわせ観音」と呼ばれているとか。
★ 『四国遍礼霊場記』 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)
四国遍礼霊場記

名東郡。一の宮寺とも呼ぶ。空海以前の開基か。空海が訪れ、大日如来像を作ったため、大日寺と呼ぶ。今の本尊・十一面観音は、一宮の本地仏だという。
一ノ宮記に拠れば、阿波の一宮は板野郡にある大麻彦神だ。どこが一宮か争うことは、昔からある。時代によって変わるものなのだろう。
奥の院だとされる場所が、寺から十八町西にある。本尊は、空海作の薬師如来像。聞持堂の跡もあるが、女人禁制である。山上には、不動明王の石像を本地とする瀧権現います。
この山には、花の谷・花の蔵と呼ばれる場所がある。このゆえに、花蔵院と号する。
羊腸の小径は函谷関もものならずの唱歌其の儘曲がりくねった路を下ると県道21号線に出た。第十三番大日寺方面の看板に従い走る。
40分(大凡27km)も走った頃県道沿いに山門が見えた。大日寺の山門と思いきや、それは神社の鳥居で道路を挟んだ正面の宿坊の端に大日寺山門はあった。

第十三番札所 大栗山 大日寺 花蔵院

山 門
一礼して山門を入るとこじんまりとした境内に本堂・太子堂・しあわせ観音像・地蔵尊・手水場・鐘楼・寺坊(納経所)等々が整然と配置され落ち着ける境内である。

本 堂

本堂前で参拝記念

大 子 堂


し あ わ せ 観 音

地 蔵 尊


手 水 場

鐘 楼

寺 坊 (納経所)

御 朱 印
御朱印を授かり参詣を終え十四札所へ向かう・・・合掌


山門と間違えた神社 阿波国一ノ宮神社
神仏習合の時代には、一ノ宮神社と大日寺は一体化していたそうだ。
★ 本尊:十一面観世音菩薩 (伝 行基菩薩作) ☆ 開基:弘法大師
★ 本尊の真言: おん まか きゃろにきゃ そわか
『略縁起』
開基は弘法大師、本尊彫刻は行基菩薩と伝えられている。
開基は弘法大師。本尊彫刻は行基菩薩。弘仁六年(815年)この地を巡錫中の弘法大師が「大師が森」で護摩修法をされていると、空中に紫雲と共に大日如来が出現し「この地は霊域なり、心あらば一宇を建立せよ」と告げられた。感得した大師は尊影の大日如来を刻んで本尊とし、堂宇を建立して安置した。
大日如来像が本尊となっていたが、明治初年の神仏分離令により、一宮の本地仏だった十一面観音が大日寺へ移された。そのため、もともとこの寺にあった大日如来が脇仏となり、十一面観音が本尊になったという。またこの寺も天正の兵火に焼かれて、興亡を重ねている。現在の堂宇は明治の再建である。
門を入ると、左手に本堂が本堂の正面に大師堂がある本堂のすぐそばには、合掌をしている観音像がある。合掌しているその両手の上に、小さい観音像がいる。これは「しあわせ観音」と呼ばれているとか。
★ 『四国遍礼霊場記』 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)
四国遍礼霊場記

名東郡。一の宮寺とも呼ぶ。空海以前の開基か。空海が訪れ、大日如来像を作ったため、大日寺と呼ぶ。今の本尊・十一面観音は、一宮の本地仏だという。
一ノ宮記に拠れば、阿波の一宮は板野郡にある大麻彦神だ。どこが一宮か争うことは、昔からある。時代によって変わるものなのだろう。
奥の院だとされる場所が、寺から十八町西にある。本尊は、空海作の薬師如来像。聞持堂の跡もあるが、女人禁制である。山上には、不動明王の石像を本地とする瀧権現います。
この山には、花の谷・花の蔵と呼ばれる場所がある。このゆえに、花蔵院と号する。
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