ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:阿波徳島編 第十五番霊場
第十五番札所:国分寺に向う。距離大凡700m。

第十五番札所 薬王山 国分寺 金色院

山 門

山門幹側には『聖武天皇勅願所』の石柱が建つ

山門には『菊の御紋章』・天皇家勅願所の証しか?
奈良朝廷時代全国を統治する為、律令に基づいて日本の地方行政区分を制定した。令制国(りょうせいこく)・律令国(りつりょうこく)ともいう。所謂「国府」である。
仏教を規範として行政を統治しようと試みた聖武天皇は天平13年(741年)「国分寺建立の詔」が出した。その内容は、各国に七重塔を建て、金光明最勝王経と妙法蓮華経(法華経)を写経すること、自らも金字の金光明最勝王経を写し、塔ごとに納めること、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、僧寺の名は金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺とすることなどである。寺の財源として、僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施すこと、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められた。(一部はウィキペディア参照)
現在の残る『国分寺』の前身であろうと思われる。
四国八十八箇所霊場には4ヶ所の『国分寺』がある。
① 阿波・第十五番札所 ② 土佐・第二十九番札所 ③ 伊予・第五十九番札所 ④ 讃岐・第八十番札所.

「立札の文書」:
国分寺(金剛明四天王護国寺)は741年(天平13年)の聖武天皇の
勅使により、尼寺と共に全国に建立された官立寺院である。
阿波国分寺跡は、昭和53年度以降の発掘調査で金堂が延びると想定
される回廊跡や築地跡・寺域を画する溝などが確認されたことから、かって
は西に塔を配置し,金堂・講堂などが一直線に並ぶ東大寺式伽欄配置を有し
現国分寺を中心とした2町(約218m四方)に及ぶ範囲に存在していた
と考えられる。
現在境内の隅に残る、塔心礎は、寺の南西側の「塔ノ本」の字名が残る水田
の中から出土したと伝えられるものであり、また周辺地域には東門・西門・
北門・坊などの字名が現在でも残っている。
出土遺物の一部は、徳島市立考古資料館で収蔵・展示公開している。
平成14年11月15日設置 徳島県教育委員会・徳島市教育委員会


境 内 風 景
山門を入ると右手に手水場が、左手には地蔵堂、七重塔礎石、鐘楼堂と並び、正面奥に本堂がある。

地蔵堂、七重塔礎石、鐘楼堂

塔の心柱(しんばしら)の礎石。中心に柱を受ける座や孔のあるものが多く、奈良前期以前のものでは舎利(しゃり・釈迦の遺骨)を納める孔をもつものもある。

鐘 楼 堂

手 水 場

本 堂

烏瑟沙摩明王堂・仮の太子堂である。石柱には『泰唱常光明真言一切三寶供養塔』とある。
各所のお参りを終えて納経所へ・・・・

納 経 所

御 朱 印
御朱印を戴き第16番札所 観音寺に向かう・・・合掌
★ 本尊:薬師如来 (伝 行基菩薩作) ☆ 開基:★行基菩薩
★ 本尊の真言:おん こんころ せんだり まとうぎ そわか
『略縁起』
天平13年(741年)★聖武天皇が天下泰平を祈願して建立した全国66国分寺中の一つ。天皇の勅命を受けた行基が四国へ下向し建立し寺号はその由来による。天正年間(1573~1591年)、長宗我部の兵火に遭い鳥志沙摩明王堂(うすさまみょうおうどう)だけを残し焼失。その後長く廃寺となっていたが長年月をかけて再建された。まず寛保年間(1741-1743年)に本堂が建ち、さらに年月を経た天保年間(1830~1843年)に大師堂が完成している。境内にある鳥瑟沙摩明王堂は、不浄除けの仏様であり、弘法大師が十七日間にわたって修せられたのち刻んだもので、一つの願いは必ず叶えてくれるということで信仰されている。また、本堂には聖武天皇、光明皇后の位牌を祀っている。
★行基菩薩:第一番札所霊山寺の項で説明済でした。
★聖武天皇:(701-756年) 第四五代天皇(在位 724-749年)。名は首(おびと)。文武天皇の第一皇子。光明皇后とともに仏教を厚く信仰。741年全国に国分寺・国分尼寺の建立を発布し、743年には★「墾田永年私財法」を発布して墾田の開発を公認してその促進をはかった。745年に東大寺を建立して大仏を造立した。その書「雑集」は、繊細な筆致の名筆。正倉院に聖武天皇の遺品が残されている。
第八十番札所 国分寺も聖武天皇勅願による行基菩薩の開基である。
★墾田永世私財法:(こんでんえいねんしざいほう)天平15年5月27日(743年6月23日)に発布された勅(天皇の名による命令)で、墾田(自分で新しく開墾した耕地)の永年私財化を認める法令である。墾田永世私有法と呼称した。荘園発生の基礎となった。
★ 『四国遍礼霊場記』 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)
四国遍礼霊場記

国分寺は、聖武天皇が天平九年に詔勅を発して諸国に建てたものだ。高さ一丈六尺の釈迦如来像・四天王像を置き、大般若経を写させて、頒布した。各国の税を割いて納めさせた。吉祥懺を修し金剛般若経を転じ、豊饒を願い厄を払うものである。代々、国家から費用の給付を受けていたことは史書に明示されている。しかし、その権威が失われる前に、官吏や豪族たちに収入を横取りされ、荒廃するところもでてきた。廃帝天皇の時代、宝字の末年、諸国司に命じて実態を調査させた。その後、延暦・大同年中にも寺領・寺田を侵し仏教を蔑ろにする者があったので、再び禁令を発した。昔でさえ、このような状態であったから、千年を経た現在の荒廃は、仕方のないことだ。阿波の国分寺も廃れてしまい、名を残すのみとなっている。小さな堂に薬師如来像を安置している。一人の腹を空かせた旅の僧侶が、竹窓から通う風に曝されながら、横になっている。嗚呼。

第十五番札所 薬王山 国分寺 金色院

山 門

山門幹側には『聖武天皇勅願所』の石柱が建つ

山門には『菊の御紋章』・天皇家勅願所の証しか?
奈良朝廷時代全国を統治する為、律令に基づいて日本の地方行政区分を制定した。令制国(りょうせいこく)・律令国(りつりょうこく)ともいう。所謂「国府」である。
仏教を規範として行政を統治しようと試みた聖武天皇は天平13年(741年)「国分寺建立の詔」が出した。その内容は、各国に七重塔を建て、金光明最勝王経と妙法蓮華経(法華経)を写経すること、自らも金字の金光明最勝王経を写し、塔ごとに納めること、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、僧寺の名は金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺とすることなどである。寺の財源として、僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施すこと、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められた。(一部はウィキペディア参照)
現在の残る『国分寺』の前身であろうと思われる。
四国八十八箇所霊場には4ヶ所の『国分寺』がある。
① 阿波・第十五番札所 ② 土佐・第二十九番札所 ③ 伊予・第五十九番札所 ④ 讃岐・第八十番札所.

「立札の文書」:
国分寺(金剛明四天王護国寺)は741年(天平13年)の聖武天皇の
勅使により、尼寺と共に全国に建立された官立寺院である。
阿波国分寺跡は、昭和53年度以降の発掘調査で金堂が延びると想定
される回廊跡や築地跡・寺域を画する溝などが確認されたことから、かって
は西に塔を配置し,金堂・講堂などが一直線に並ぶ東大寺式伽欄配置を有し
現国分寺を中心とした2町(約218m四方)に及ぶ範囲に存在していた
と考えられる。
現在境内の隅に残る、塔心礎は、寺の南西側の「塔ノ本」の字名が残る水田
の中から出土したと伝えられるものであり、また周辺地域には東門・西門・
北門・坊などの字名が現在でも残っている。
出土遺物の一部は、徳島市立考古資料館で収蔵・展示公開している。
平成14年11月15日設置 徳島県教育委員会・徳島市教育委員会


境 内 風 景
山門を入ると右手に手水場が、左手には地蔵堂、七重塔礎石、鐘楼堂と並び、正面奥に本堂がある。

地蔵堂、七重塔礎石、鐘楼堂

塔の心柱(しんばしら)の礎石。中心に柱を受ける座や孔のあるものが多く、奈良前期以前のものでは舎利(しゃり・釈迦の遺骨)を納める孔をもつものもある。

鐘 楼 堂

手 水 場

本 堂

烏瑟沙摩明王堂・仮の太子堂である。石柱には『泰唱常光明真言一切三寶供養塔』とある。
各所のお参りを終えて納経所へ・・・・

納 経 所

御 朱 印
御朱印を戴き第16番札所 観音寺に向かう・・・合掌
★ 本尊:薬師如来 (伝 行基菩薩作) ☆ 開基:★行基菩薩
★ 本尊の真言:おん こんころ せんだり まとうぎ そわか
『略縁起』
天平13年(741年)★聖武天皇が天下泰平を祈願して建立した全国66国分寺中の一つ。天皇の勅命を受けた行基が四国へ下向し建立し寺号はその由来による。天正年間(1573~1591年)、長宗我部の兵火に遭い鳥志沙摩明王堂(うすさまみょうおうどう)だけを残し焼失。その後長く廃寺となっていたが長年月をかけて再建された。まず寛保年間(1741-1743年)に本堂が建ち、さらに年月を経た天保年間(1830~1843年)に大師堂が完成している。境内にある鳥瑟沙摩明王堂は、不浄除けの仏様であり、弘法大師が十七日間にわたって修せられたのち刻んだもので、一つの願いは必ず叶えてくれるということで信仰されている。また、本堂には聖武天皇、光明皇后の位牌を祀っている。
★行基菩薩:第一番札所霊山寺の項で説明済でした。
★聖武天皇:(701-756年) 第四五代天皇(在位 724-749年)。名は首(おびと)。文武天皇の第一皇子。光明皇后とともに仏教を厚く信仰。741年全国に国分寺・国分尼寺の建立を発布し、743年には★「墾田永年私財法」を発布して墾田の開発を公認してその促進をはかった。745年に東大寺を建立して大仏を造立した。その書「雑集」は、繊細な筆致の名筆。正倉院に聖武天皇の遺品が残されている。
第八十番札所 国分寺も聖武天皇勅願による行基菩薩の開基である。
★墾田永世私財法:(こんでんえいねんしざいほう)天平15年5月27日(743年6月23日)に発布された勅(天皇の名による命令)で、墾田(自分で新しく開墾した耕地)の永年私財化を認める法令である。墾田永世私有法と呼称した。荘園発生の基礎となった。
★ 『四国遍礼霊場記』 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)
四国遍礼霊場記

国分寺は、聖武天皇が天平九年に詔勅を発して諸国に建てたものだ。高さ一丈六尺の釈迦如来像・四天王像を置き、大般若経を写させて、頒布した。各国の税を割いて納めさせた。吉祥懺を修し金剛般若経を転じ、豊饒を願い厄を払うものである。代々、国家から費用の給付を受けていたことは史書に明示されている。しかし、その権威が失われる前に、官吏や豪族たちに収入を横取りされ、荒廃するところもでてきた。廃帝天皇の時代、宝字の末年、諸国司に命じて実態を調査させた。その後、延暦・大同年中にも寺領・寺田を侵し仏教を蔑ろにする者があったので、再び禁令を発した。昔でさえ、このような状態であったから、千年を経た現在の荒廃は、仕方のないことだ。阿波の国分寺も廃れてしまい、名を残すのみとなっている。小さな堂に薬師如来像を安置している。一人の腹を空かせた旅の僧侶が、竹窓から通う風に曝されながら、横になっている。嗚呼。
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