ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:阿波徳島編 第十六番霊場
第十六番札所観音寺に向う。距離大凡2、2Km。

第十六番札所 光耀山 観音寺 千手院


山 門

扁 額


本 堂
鐘楼門を潜ると正面に本堂がある。右に太子堂・左に納経所がある。上記2枚の本堂写真は2004年10月11日にひげ爺が撮影した。その後2006年4月に改築竣工された。以下が新装為った本堂である。


新装為った本堂写真は借り物。

太 子 堂

修 業 太 子 像

水 子 供 養 地 蔵

夜 鳴 き 地 蔵 尊
この地蔵尊は子供の夜泣きに御利益があるとされる。御利益を頂き願いが叶うと、お礼に赤いよだれかけを地蔵に奉納するのが習わしとなっている。

手 水 場

吐 水 龍

納 経 所

御 朱 印
参拝を終えて、御朱印を戴き第十七番 井戸寺に向かう・・・合掌
★ 本尊:千手観世音菩薩★(伝;弘法大師作) ★ 開基:弘法大師
★ 本尊の真言:おん、 ばさら、 たらま 、きりく
★伝とは;伝承の意で古くからその様に伝えられているとの意味である。確証が無く○○らしいと解釈すべきかな?和歌等でも伝西行歌などと使われる。
『略縁起』
聖武天皇第四十五代が諸国に命じて、国分寺、国分尼寺を創立させたのと同年の天平13年(741年)、同じく聖武天皇の勅願道場として創立。その後、弘仁7年(816年)に弘法大師がこの地を訪れ、等身大の千手観世音菩薩を刻んで本尊としして開基。大師はさらに鎮護国家のためにと毘沙門天を、そして悪魔降伏の意を含めて不動明王を自刻して安置した。、両脇侍に不動明王と毘沙門天を安置した。これは観音菩薩の功徳と不動明王の威力、毘沙門天の授福にあやかるということで、焼山寺の三面大黒などと共通した様式。
寺はその後、天正年間の長宗我部の兵火にかかって寺は焼失し、以後衰残の日々が長年月に及んだが万治二年(1659年)になって宥応法印が中興した。ただし、現在の堂塔は、阿波藩主蜂須賀光隆公の手によって再建立されたもの…。なお、この寺には弘法大師の御筆跡を刻印したと伝えられる★光明真言の印版を宝蔵してある。
★『光明真言』:
おん、 あぼきや、 べいろしゃのう、 まかぼだら、 まに、 はんどま、 じんばら、 はらばりたや、 うん
★ 『四国遍礼霊場記』 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)
四国遍礼霊場記

名東郡にある。空海が開いた名刹。丹塗りの壮麗な堂が軒を連ねている。本尊は高さ一丈六尺と立派で、本堂に安置されている。脇士は不動明王と毘沙門天。とはいえ、時は物を朽ちさせる。堂舎は壊れ、一宇として当初の姿を留めているものはない。茅に覆われた窓に夜の月は、あまりに明るく差し込んでいる。石段は、苔に覆われている。太守の蜂須賀光隆は信義ある人で、古き良き時代を引き継ぐことを望んだ。住持・宥雄は、寺の荒廃を訴えた。太守はすぐに請け負い、万治年中に寺を修復した。
現在の堂から南に半町ばかり行くと、昔の大門の跡がある。東西には、昔の坊舎跡が多く残っている。本尊・両脇士が破損しているので近頃、村の鈴江氏が資材を抛ち修復して飾り、尊い姿を取り戻して威容を新たにした。

第十六番札所 光耀山 観音寺 千手院


山 門

扁 額


本 堂
鐘楼門を潜ると正面に本堂がある。右に太子堂・左に納経所がある。上記2枚の本堂写真は2004年10月11日にひげ爺が撮影した。その後2006年4月に改築竣工された。以下が新装為った本堂である。


新装為った本堂写真は借り物。

太 子 堂

修 業 太 子 像

水 子 供 養 地 蔵

夜 鳴 き 地 蔵 尊
この地蔵尊は子供の夜泣きに御利益があるとされる。御利益を頂き願いが叶うと、お礼に赤いよだれかけを地蔵に奉納するのが習わしとなっている。

手 水 場

吐 水 龍

納 経 所

御 朱 印
参拝を終えて、御朱印を戴き第十七番 井戸寺に向かう・・・合掌
★ 本尊:千手観世音菩薩★(伝;弘法大師作) ★ 開基:弘法大師
★ 本尊の真言:おん、 ばさら、 たらま 、きりく
★伝とは;伝承の意で古くからその様に伝えられているとの意味である。確証が無く○○らしいと解釈すべきかな?和歌等でも伝西行歌などと使われる。
『略縁起』
聖武天皇第四十五代が諸国に命じて、国分寺、国分尼寺を創立させたのと同年の天平13年(741年)、同じく聖武天皇の勅願道場として創立。その後、弘仁7年(816年)に弘法大師がこの地を訪れ、等身大の千手観世音菩薩を刻んで本尊としして開基。大師はさらに鎮護国家のためにと毘沙門天を、そして悪魔降伏の意を含めて不動明王を自刻して安置した。、両脇侍に不動明王と毘沙門天を安置した。これは観音菩薩の功徳と不動明王の威力、毘沙門天の授福にあやかるということで、焼山寺の三面大黒などと共通した様式。
寺はその後、天正年間の長宗我部の兵火にかかって寺は焼失し、以後衰残の日々が長年月に及んだが万治二年(1659年)になって宥応法印が中興した。ただし、現在の堂塔は、阿波藩主蜂須賀光隆公の手によって再建立されたもの…。なお、この寺には弘法大師の御筆跡を刻印したと伝えられる★光明真言の印版を宝蔵してある。
★『光明真言』:
おん、 あぼきや、 べいろしゃのう、 まかぼだら、 まに、 はんどま、 じんばら、 はらばりたや、 うん
★ 『四国遍礼霊場記』 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)
四国遍礼霊場記

名東郡にある。空海が開いた名刹。丹塗りの壮麗な堂が軒を連ねている。本尊は高さ一丈六尺と立派で、本堂に安置されている。脇士は不動明王と毘沙門天。とはいえ、時は物を朽ちさせる。堂舎は壊れ、一宇として当初の姿を留めているものはない。茅に覆われた窓に夜の月は、あまりに明るく差し込んでいる。石段は、苔に覆われている。太守の蜂須賀光隆は信義ある人で、古き良き時代を引き継ぐことを望んだ。住持・宥雄は、寺の荒廃を訴えた。太守はすぐに請け負い、万治年中に寺を修復した。
現在の堂から南に半町ばかり行くと、昔の大門の跡がある。東西には、昔の坊舎跡が多く残っている。本尊・両脇士が破損しているので近頃、村の鈴江氏が資材を抛ち修復して飾り、尊い姿を取り戻して威容を新たにした。
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