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四国撮り歩記  霊場八十八ヶ所巡礼の旅:阿波徳島編  第十七番霊場

  第十七番札所 瑠璃山 井戸寺に向かう。距離大凡3,8Km。今回の撮り歩記旅は井戸寺を以て最終寺とした。
十四番~十七番札所は街中に在り比較的近くに点在している。
 まだ陽は高く午後3時、納経所が閉まる5時まで時間はたっぷり、ゆっくり参拝する。
 
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          第十七番札所 瑠璃山 井戸寺 真福院
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                山          門 (仁王門)
 阿波10代藩主・蜂須賀重喜公が大谷別邸から移築し寄進した門。大谷別邸は重喜公が隠居後過ごした屋敷である。
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                記   念   撮   影 (ひげ爺)
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                金   剛   力   士  像

 仁王門を入ると左に手水場があり正面奥に本堂が建っている。
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                山 門 脇 の 手 水 場
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                本            堂
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                本   堂   遠   景
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               左側に水子地蔵尊・本堂・光明殿
 
 幸運にも本堂内部が撮影することが出来た。
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 本尊は薬師仏を中心に1体、左右に3体ずつ安置した七仏薬師如来座像で、聖徳太子作と云われている。
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 左側に3体の薬師如来座像(上図)・右側に3体の薬師如来座像(下図)重要文化財に指定されている。瑠璃山の名に恥じない豪華絢爛な本堂内であった。

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         光     明     殿  (本堂の右) 
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                太     子     堂  (左屋根は光明殿)
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                日  限  大  師  堂 
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             面  影  の  井  戸 
 日限大師堂には弘法大師が巡錫中に水の濁りに困っている村人の為に太子が錫杖で一夜にして掘ったとの伝えのある面影の井戸がある。覗き込んで自分の姿が映れば無病息災。映らなければ近いうちに病になるといわれている。
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                大師堂脇の 鐘     楼 
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           水  子  地  蔵  尊                   
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 護摩堂(六角堂)本尊は不動尊・収蔵庫に祀られている十一面観音像は重要文化財に指定されている。
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 1.9mもある十一面観音像・榧(かや)の木の一木一体造りで伝弘法大師・脇仏は日光・月光菩薩。

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          納経所は六角堂の左奥にある。
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          御     朱     印 

 冒頭に書いたように井戸寺到着午後3時、1時間余り掛けてゆっくり参拝できた、写真も充分撮れたし後は安全運転で帰るだけである。徳嶋⇒鳴門⇒淡路⇒明石大橋⇒(阪神高速で)神戸⇒大阪⇒東大阪(阪奈道路水走インター)自宅に着いたのは8時を大きく回っていた。

★ 本尊:七仏薬師如来 (伝 聖徳太子作)     ★ 開基:天武天皇勅願 
★ 本尊の真言:おん こんころ せんだり まとぅぎ そわか

『略縁起』
 ★天武天皇が白鳳2年(674年)に勅願所として建てた妙照寺が、その前身といわれている本尊の七仏薬師如来は、聖徳太子の作といわれている。その後、弘法大師が弘仁6年(815年)、巡錫中にこの地を訪れて十一面観音を刻んだという。この十一面観音は榧(かや)材で、高さは192cmの一木造り。右手には錫杖を持っていて、国の重要文化財の指定を受けている。そのほか、★日光菩薩、月光菩薩は徳島県の文化財になっている。★南北朝以後2度にわたって兵火に遭ったが、阿波藩主蜂須賀光隆公が堂塔を再建。さらに昭和四十三年には、これも不慮の火災にあって本堂を全焼したが、その後三ケ年で再建した。

★天武天皇:第40代天皇、在位期間673年 - 686年。舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)の子として生まれ、中大兄皇子(38代天智天皇)にとっては両親を同じくする弟にあたる。天智天皇の死後、672年に★壬申の乱で大友皇子(39代弘文天皇)を倒し、その翌年に即位した。
★壬申の乱:皇位継承紛争、天武天皇元年(672年)に起きた日本古代最大の内乱。天智天皇の太子・大友皇子(明治3年(1870年)、弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。(天皇家骨肉の争い)(参考ウィキぺディア)
★日光菩薩、月光菩薩:行基菩薩作と伝えられている。
★南北朝以後2度にわたって兵火:貞治元年(1362年)、細川頼之の兵乱で堂宇を焼失し、次いで天正10年(1582)には三好存保と長宗我部元親との戦いでも罹災。
 


 ★ 『四国遍礼霊場記』 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)
 四国遍礼霊場記
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 名東郡にある。井戸寺と呼ばれている。所の地名にちなむ。空海の開基とも、聖徳太子の創建とも、行基菩薩の建立とも伝えられている。昔のことなので、はっきりしたことは分からない。昔の本尊は八九尺のものだったらしいが、風雪に侵され、破損してしまった。現在の本尊は、空海の作で、高さ五尺の座像である。両脇士の日光・月光菩薩と、四天王像がある。鎮守の八幡社と楠明神社が並んでいる。
 寺の盛んな頃は、三町四方の境内であった。坊舎の跡が十二三残っている。現在門外となっている池には弁財天の祠、隣に塔屋敷、若宮もある。今も境内は一町四方で、大きく伸びた竹が茂る、侘びた趣のある場所となっている。
     
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