ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:阿波徳島編 第十八番霊場
「四国撮り歩き」二回目の挑戦;
10月31日AM5;00に和歌山港に向けて家を出発。前日に南海フェリー徳島港行きのフェリーAM7;20発を予約(搭乗料金¥8、800当時)していたが和歌山港までの距離を100K程度と踏んではいたが実距離が定かでないので少し早めに家を出た。AM6;40に到着、走行距離90Kで搭乗手続きなどが有るので丁度良い時間帯である。空はどんより曇り今にも泣き出しそうな様子である、今度の旅は好天を望めそうに無い。巡礼姿のマイクロバス、自家用車の客が4~5台あるが僕も普段着であるから巡礼目的の人達の実数は分からない。
大凡30台ほどの車が船の先端部に大きく開いた扉の中に吸い込まれ定刻AM7;20に出向した。徳島港まで2時間の船旅である。

沖から見た和歌山港風景

徳島港に接岸したフェリー
徳島市からR55号線を高知に向けて西走、小松島市に入り4Kチョイで第十八番札所;恩山寺方面の看板が見えた。

第十八番札所 母養山 恩山寺 宝樹院
恩山寺は弘法大師の母、玉依御前がこの寺で髪を切り出家したことでも知られている。その髪は今も大師堂の隣り合わせに建てられいる剃髪所に納められている。
駐車場から登りの参道を進むと4mはあろうか巨大な修行大師像が迎えてくれる。


修行大師像:病気祈願し日参した方が病気治癒のお礼として寄贈したそうだ。

恩 山 寺 登 り 口 と 石 柱

「ゆかりの寺」石柱は登り口の右側にある
寺院に付き物の山門が無く石柱からいきなり境内と為っている。あとで分かったが山門は境内から200m余り下った処の旧道に有り今は余り利用されないとのこと。

旧道に取り残されたように建つ山門・屋根には草が生えていた。山門より境内の近くに駐車場が出来て利用されなくなった所為かもしれんがちょっと寂しい!暖かく迎えて欲しいものである。

境内風景:正面に本堂:左に太子堂と大師の母君(玉依御前)の御堂が寄り添うように建っている、右側に手水場がある。

本 堂

太 子 堂(左)と 御母堂の剃髪所(右)
太子堂には大師自ら彫造した大師像安置され太子堂の本尊とされている。剃髪所には大師作と伝えられる「御母公像」、母君の髪の毛が安置されている。


手 水 場 と 吐 水 龍

鐘 楼


水 子 地 蔵 尊
両脇に供養の小さな地蔵尊が沢山並んでいる。

左側に並んでいる石像達

門柱から入った右側に地蔵堂がある。沢山の地蔵尊が祀られている。

座像地蔵尊:背後に千体のお地蔵さんがならび・・・・

釈迦十大弟子像が祀られている。お釈迦様の教えを後世に伝えた重要な人たち。

お釈迦さまの弟子のなかで、特に優れた10人の人たちを 釈迦の十大弟子 と云う。

納 経 所

御 朱 印
恩山寺は諸人の災厄を取り除く道場であって女人禁制の聖地であったが弘法大師が母のために、女人解禁の祈願をしたとの言い伝えのある『親孝行の寺』とも言われるそうだ。言われてみると優しい雰囲気が漂うような気がする。
御朱印を戴き十九番札所立江寺に向かう・・・・・合掌 (10月31日10;35分)
★ 本尊:薬師如来 (伝 行基菩薩策) ★ 開基:行基菩薩
★ 本尊の真言: おん、ころころ、まとうぎ、そわか
『略縁起』
聖武天皇(在位724~49年)の勅願で行基菩薩が開基した寺である。この寺も、もとは大日寺、福生院、密厳寺と号し、請人の災厄を除く道場であって女人禁制の聖地であった。その後弘法大師が滞在していたとき、母の玉寄(玉依御前)が訪ねてきた。しかし、女人禁制なので上ることができなかった。大師は母のために山門辺りで十七日間の秘法を修し、女人開禁を成就して母を入山させて孝行の限りを尽くした。そして山号を母養山恩山寺としたという。以後寺運は栄えたが、天正年間(1573~92)に★長宗我部の兵火に遭って焼失し、江戸時代には蜂須賀家の保護を受けて栄えた。
★長宗我部の阿波・讃岐(当時両国の支配は三好氏)への侵攻は、天正5年(1577年)に三好長治が戦死するなど、三好氏の凋落が顕著になる。天正6年(1578年)2月阿波の白地城を攻めが始まりで大西覚養を討った。また次男の親和を讃岐国の有力豪族・香川信景の養子として送り込んだ。天正8年1580年)までに阿波・讃岐の両国をほぼ制圧した。
★ 『四国遍礼霊場記』 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)
四国遍礼霊場記

勝浦郡田野村にある。聖武天皇の詔勅によって、行基菩薩が建立した。大日山福生院密厳寺と名付けた。七堂が甍を並べ、雲に届くばかりだった。本尊は、行基作の薬師如来像。堂舎は三十二を数え、境内は広く、いくらかの田園や杣を寄進されていた。学問に励む僧侶が多く集まっていた。しかし、さほど長い年月を経ないうち、衰退してしまった。空海が訪れ再興した。母が人生を終える場所だと定め、死後は骨を埋めた。墓を築き、石碑を建てた。これにより、母養山恩山寺と名付けたという。後に源頼朝が由来を聞いて感心し、寺を修復した。足利尊氏や阿波守護の細川氏が相次いで崇敬した。三好氏と土佐の勢力が戦ったとき、堂宇も宝物も焼失してしまった。戦争が治まった後、以前の二割程度まで復旧した。蜂須賀小六の息子で阿波領主初代の家政・蓬菴が、旧来の姿に復し若干の寄進をして、儀礼を復活させた。その後、火災に遭い、近頃、太守が本堂を造営したという。
立江寺に向かう途中に、つるまき坂がある。下ると、黒藪と呼ばれる場所に出る。空海が生まれたとき、おむつを納めたと伝えられている。
10月31日AM5;00に和歌山港に向けて家を出発。前日に南海フェリー徳島港行きのフェリーAM7;20発を予約(搭乗料金¥8、800当時)していたが和歌山港までの距離を100K程度と踏んではいたが実距離が定かでないので少し早めに家を出た。AM6;40に到着、走行距離90Kで搭乗手続きなどが有るので丁度良い時間帯である。空はどんより曇り今にも泣き出しそうな様子である、今度の旅は好天を望めそうに無い。巡礼姿のマイクロバス、自家用車の客が4~5台あるが僕も普段着であるから巡礼目的の人達の実数は分からない。
大凡30台ほどの車が船の先端部に大きく開いた扉の中に吸い込まれ定刻AM7;20に出向した。徳島港まで2時間の船旅である。


沖から見た和歌山港風景

徳島港に接岸したフェリー
徳島市からR55号線を高知に向けて西走、小松島市に入り4Kチョイで第十八番札所;恩山寺方面の看板が見えた。

第十八番札所 母養山 恩山寺 宝樹院
恩山寺は弘法大師の母、玉依御前がこの寺で髪を切り出家したことでも知られている。その髪は今も大師堂の隣り合わせに建てられいる剃髪所に納められている。
駐車場から登りの参道を進むと4mはあろうか巨大な修行大師像が迎えてくれる。


修行大師像:病気祈願し日参した方が病気治癒のお礼として寄贈したそうだ。

恩 山 寺 登 り 口 と 石 柱

「ゆかりの寺」石柱は登り口の右側にある
寺院に付き物の山門が無く石柱からいきなり境内と為っている。あとで分かったが山門は境内から200m余り下った処の旧道に有り今は余り利用されないとのこと。

旧道に取り残されたように建つ山門・屋根には草が生えていた。山門より境内の近くに駐車場が出来て利用されなくなった所為かもしれんがちょっと寂しい!暖かく迎えて欲しいものである。

境内風景:正面に本堂:左に太子堂と大師の母君(玉依御前)の御堂が寄り添うように建っている、右側に手水場がある。

本 堂

太 子 堂(左)と 御母堂の剃髪所(右)
太子堂には大師自ら彫造した大師像安置され太子堂の本尊とされている。剃髪所には大師作と伝えられる「御母公像」、母君の髪の毛が安置されている。


手 水 場 と 吐 水 龍

鐘 楼


水 子 地 蔵 尊
両脇に供養の小さな地蔵尊が沢山並んでいる。

左側に並んでいる石像達

門柱から入った右側に地蔵堂がある。沢山の地蔵尊が祀られている。

座像地蔵尊:背後に千体のお地蔵さんがならび・・・・

釈迦十大弟子像が祀られている。お釈迦様の教えを後世に伝えた重要な人たち。

お釈迦さまの弟子のなかで、特に優れた10人の人たちを 釈迦の十大弟子 と云う。

納 経 所

御 朱 印
恩山寺は諸人の災厄を取り除く道場であって女人禁制の聖地であったが弘法大師が母のために、女人解禁の祈願をしたとの言い伝えのある『親孝行の寺』とも言われるそうだ。言われてみると優しい雰囲気が漂うような気がする。
御朱印を戴き十九番札所立江寺に向かう・・・・・合掌 (10月31日10;35分)
★ 本尊:薬師如来 (伝 行基菩薩策) ★ 開基:行基菩薩
★ 本尊の真言: おん、ころころ、まとうぎ、そわか
『略縁起』
聖武天皇(在位724~49年)の勅願で行基菩薩が開基した寺である。この寺も、もとは大日寺、福生院、密厳寺と号し、請人の災厄を除く道場であって女人禁制の聖地であった。その後弘法大師が滞在していたとき、母の玉寄(玉依御前)が訪ねてきた。しかし、女人禁制なので上ることができなかった。大師は母のために山門辺りで十七日間の秘法を修し、女人開禁を成就して母を入山させて孝行の限りを尽くした。そして山号を母養山恩山寺としたという。以後寺運は栄えたが、天正年間(1573~92)に★長宗我部の兵火に遭って焼失し、江戸時代には蜂須賀家の保護を受けて栄えた。
★長宗我部の阿波・讃岐(当時両国の支配は三好氏)への侵攻は、天正5年(1577年)に三好長治が戦死するなど、三好氏の凋落が顕著になる。天正6年(1578年)2月阿波の白地城を攻めが始まりで大西覚養を討った。また次男の親和を讃岐国の有力豪族・香川信景の養子として送り込んだ。天正8年1580年)までに阿波・讃岐の両国をほぼ制圧した。
★ 『四国遍礼霊場記』 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)
四国遍礼霊場記

勝浦郡田野村にある。聖武天皇の詔勅によって、行基菩薩が建立した。大日山福生院密厳寺と名付けた。七堂が甍を並べ、雲に届くばかりだった。本尊は、行基作の薬師如来像。堂舎は三十二を数え、境内は広く、いくらかの田園や杣を寄進されていた。学問に励む僧侶が多く集まっていた。しかし、さほど長い年月を経ないうち、衰退してしまった。空海が訪れ再興した。母が人生を終える場所だと定め、死後は骨を埋めた。墓を築き、石碑を建てた。これにより、母養山恩山寺と名付けたという。後に源頼朝が由来を聞いて感心し、寺を修復した。足利尊氏や阿波守護の細川氏が相次いで崇敬した。三好氏と土佐の勢力が戦ったとき、堂宇も宝物も焼失してしまった。戦争が治まった後、以前の二割程度まで復旧した。蜂須賀小六の息子で阿波領主初代の家政・蓬菴が、旧来の姿に復し若干の寄進をして、儀礼を復活させた。その後、火災に遭い、近頃、太守が本堂を造営したという。
立江寺に向かう途中に、つるまき坂がある。下ると、黒藪と呼ばれる場所に出る。空海が生まれたとき、おむつを納めたと伝えられている。
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