ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:阿波徳島編 第十九番霊場
第十九番札所;立江寺に向う。距離大凡5Km。

第十九番札所 橋池山 立江寺 摩尼院

山 門
当寺は聖武天皇の命により行基菩薩が光明皇后の安産を祈って約6cmの黄金延命地蔵尊を刻み開基したのが始まりと言われている。子授地蔵尊は「子安の地蔵尊」「立江の地蔵尊」と呼ばれ親しまれている。
山門を入ると左に鐘楼が、右には毘沙門堂があり隣に手水場がある。その先左側に本堂が建ち、本堂左に本堂を背にして境内の南に進むと右に多宝塔、左の奥に大師堂が建つ。大師堂の右に黒髪堂がある。納経所は山門の正面奥の右側である。
山門は仁王門で金剛力士像と大きな草鞋が納められている。


金剛力士像(阿吽像)と大草鞋

山門の境内側・鐘楼

本 堂
本尊は「延命地蔵尊」で天井には286枚の格天井絵がある。


昭和52年の本堂再建時に、東京芸術大学教授ら40名余が描いた花鳥風月の天井絵。

左奥に太子堂があり・多宝塔・手前に毘沙門堂・前に修業大師像・一番手前が手洗場。

太 子 堂 ・ 右側に大きな修業大師像、観光客が見上げている。

修 業 大 師

手 洗 場

黒 髪 堂
大師堂の右にある黒髪堂。お堂には以下の様な逸話が残っている。
お京という女が愛人と一緒に夫を殺し、自責の念から四国遍路をはじめた。
立江寺において地蔵菩薩に祈っていると、お京の髪が逆立ち、鉦(かね)の緒に巻きついたまま離れなくなった。 恐ろしくなったお京は、院主にすべてを打ち明けた。すると、髪はほどけずに肉と一緒に削げ落ちた。
以後改心したお京は出家し、寺のちかくに住み、地蔵尊を祈り続けて生涯をとじた。( 四国遍路体験記より)

納経所は山門の正面奥にあり宿坊を兼ねる。

御 朱 印
参拝を終えて御朱印を戴き立江寺を後に鶴林寺に向かう・・・・・合掌
★ 本尊:延命地蔵菩薩 (伝 弘法大師作) ☆ 開基:行基菩薩
★ 本尊の真言: おん、かかかび、そわか
『略縁起』
★聖武天皇の勅願所として行基菩薩が開基した寺と言われている(伝行基菩薩)。行基は光明皇后の安産祈願として一寸八分の金の地蔵菩薩を刻みそれを本尊として堂塔を建立したのがこの寺の始まりだと言われている。その後の弘仁六年、弘法大師が留錫して約丁1.8メートルの大像を刻み、金の仏像を体内に納め、立江寺と命名して十九番札所と定められた。
天正の兵火で本尊以外はことごとく焼失してしまった。★秀吉の四国征伐後、阿波に入国した阿波藩主の蜂須賀家政(蜂須賀小六の長男)が再興して現在地に移した。
行基の刻んだ地蔵菩薩が光明皇后の安産を祈願して刻まれたものだったため「子安の地蔵尊」とも呼ばれて信仰を集めている。立江寺はまた、阿波の関所寺として知られている。
★秀吉の四国征伐:安土桃山時代の天正13年(1585年)に行われた、羽柴秀吉と長宗我部元親の戦争である。織田信長が天正10年(1582年)5月四国討伐を図ったが6月2日★本能寺の変が興り信長が自刃した為中止され、信長の後継者と為った秀吉が再び四国討伐を行った。
長宗我部元親は敗れ土佐一国を安堵された。
★本能寺の変:天正10年(1582年)6月2日羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられて出陣する途上京都の入り口で「敵は本能寺にあり」と発言し、主君信長討伐の意を告げたといわれている。
★明智光秀:戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。戦国大名・織田信長の重臣の一人で★本能寺の変を起こした事で有名。家系は清和源氏の摂津源氏系で、美濃源氏土岐氏支流である。変後11日目山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れる。
本姓は源氏。 家系は清和源氏の摂津源氏系で、美濃源氏土岐氏支流である。
出陣前の連歌の会で『時は今 雨が下しる 五月哉』発句した事は有名である。
これを『土岐は今 天が下知る 五月哉』と読み替えて、『土岐氏出身の光秀が天下をとる』という決意を表したものとの解釈されている。
連歌師・里村紹巴がそれを受けて『花落つる池の流れをせきとめて』詠んだ。
①『花(信長)が落つる(死ぬ)』朝廷による律令政治の流れを止めようとする信長打つべしの解釈。
②『花(光秀の計画)が落つる(失敗に終わる)』計画は失敗するから止めなさいと忠告の解釈。
何れの解釈にしても後々の人の考えること、審議の程は故人御両所しか分かるまい、が面白い。
★ 『四国遍礼霊場記』 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)
四国遍礼霊場記

聖武天皇の建立。縁起が残っているという。昔は八町四方あったらしいが、今では一町半四方となっている。
本尊の地蔵菩薩像は、聖武天皇が皇子の安産を願って作らせたものだという。子安の尊像と称している。同様のものは各国に多くある。もとは小像であったが、空海が訪れ現在の高さ六尺の本尊を作って安置したという。
本堂の左に大師堂がある。
付け足し 取星寺、星谷(番外)
立江から三十町ばかり脇の岩脇村に、取星寺はある。大師釣召の星というものが残っている。厨子に入れ、蓮華座の上に安置している。青黒色で玲瓏としており、心惹かれる。
取星寺から二十町ほど離れた星谷に、星の岩屋がある。三間四方もあろうか。岩窟の口の真ん中あたりに高さ数丈の瀧が懸かっている。霊場らしい。この岩の上に、取星寺の星が落ちたと伝えられている。星石山と呼ばれている。
落ちた星が石になると、中国では昔から言われていた。早くも左伝に書かれている。儒者の説によれば、天を積気、日月を陰陽の精、星は万物の精だという。北斉の顔之推の著書「顔氏家訓」帰心第十六に「天為積氣、地為積塊、日為陽精、月為陰精、星為萬物之精、儒家所安也。星有墜落、乃為石矣、精若是石、不得有光、性又質重、何所繋屬【天は気の積みたるもの、地は塊の積むもの。日は陽の精、月は陰の精。星は万物の精たり。儒家の安んずる所なり。星の落つることあればすなわち、石となるか。精の、もしこれ石となるや、光あるを得ず。性また質重たり。何所に繋属するものか】」と論じた【勿論、これは古来行われた中国の陰陽五行説を背景にした自然観であり、顔之推の独創ではない】。凡人の憶説は採るに足らない。俗に色々と言われているが、みな間違っている。仏教者の説もないわけではないが、儒者であっても顔之推のように学問に精通している者が真摯に論じた場合、見るべき所が多い。
星谷を後にして坂本村へ。この村には霜が降らないといわれている。昔、空海が泊まったとき、夜になって酷く霜が降った。里人が我慢できないほどに辛がって憂えていると聞いた空海が加持し、霜を降らせないようにした。隣村には、ひどく霜が降る。人々は不思議なことだと言っている。

第十九番札所 橋池山 立江寺 摩尼院

山 門
当寺は聖武天皇の命により行基菩薩が光明皇后の安産を祈って約6cmの黄金延命地蔵尊を刻み開基したのが始まりと言われている。子授地蔵尊は「子安の地蔵尊」「立江の地蔵尊」と呼ばれ親しまれている。
山門を入ると左に鐘楼が、右には毘沙門堂があり隣に手水場がある。その先左側に本堂が建ち、本堂左に本堂を背にして境内の南に進むと右に多宝塔、左の奥に大師堂が建つ。大師堂の右に黒髪堂がある。納経所は山門の正面奥の右側である。
山門は仁王門で金剛力士像と大きな草鞋が納められている。


金剛力士像(阿吽像)と大草鞋

山門の境内側・鐘楼

本 堂
本尊は「延命地蔵尊」で天井には286枚の格天井絵がある。


昭和52年の本堂再建時に、東京芸術大学教授ら40名余が描いた花鳥風月の天井絵。

左奥に太子堂があり・多宝塔・手前に毘沙門堂・前に修業大師像・一番手前が手洗場。

太 子 堂 ・ 右側に大きな修業大師像、観光客が見上げている。

修 業 大 師

手 洗 場

黒 髪 堂
大師堂の右にある黒髪堂。お堂には以下の様な逸話が残っている。
お京という女が愛人と一緒に夫を殺し、自責の念から四国遍路をはじめた。
立江寺において地蔵菩薩に祈っていると、お京の髪が逆立ち、鉦(かね)の緒に巻きついたまま離れなくなった。 恐ろしくなったお京は、院主にすべてを打ち明けた。すると、髪はほどけずに肉と一緒に削げ落ちた。
以後改心したお京は出家し、寺のちかくに住み、地蔵尊を祈り続けて生涯をとじた。( 四国遍路体験記より)

納経所は山門の正面奥にあり宿坊を兼ねる。

御 朱 印
参拝を終えて御朱印を戴き立江寺を後に鶴林寺に向かう・・・・・合掌
★ 本尊:延命地蔵菩薩 (伝 弘法大師作) ☆ 開基:行基菩薩
★ 本尊の真言: おん、かかかび、そわか
『略縁起』
★聖武天皇の勅願所として行基菩薩が開基した寺と言われている(伝行基菩薩)。行基は光明皇后の安産祈願として一寸八分の金の地蔵菩薩を刻みそれを本尊として堂塔を建立したのがこの寺の始まりだと言われている。その後の弘仁六年、弘法大師が留錫して約丁1.8メートルの大像を刻み、金の仏像を体内に納め、立江寺と命名して十九番札所と定められた。
天正の兵火で本尊以外はことごとく焼失してしまった。★秀吉の四国征伐後、阿波に入国した阿波藩主の蜂須賀家政(蜂須賀小六の長男)が再興して現在地に移した。
行基の刻んだ地蔵菩薩が光明皇后の安産を祈願して刻まれたものだったため「子安の地蔵尊」とも呼ばれて信仰を集めている。立江寺はまた、阿波の関所寺として知られている。
★秀吉の四国征伐:安土桃山時代の天正13年(1585年)に行われた、羽柴秀吉と長宗我部元親の戦争である。織田信長が天正10年(1582年)5月四国討伐を図ったが6月2日★本能寺の変が興り信長が自刃した為中止され、信長の後継者と為った秀吉が再び四国討伐を行った。
長宗我部元親は敗れ土佐一国を安堵された。
★本能寺の変:天正10年(1582年)6月2日羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられて出陣する途上京都の入り口で「敵は本能寺にあり」と発言し、主君信長討伐の意を告げたといわれている。
★明智光秀:戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。戦国大名・織田信長の重臣の一人で★本能寺の変を起こした事で有名。家系は清和源氏の摂津源氏系で、美濃源氏土岐氏支流である。変後11日目山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れる。
本姓は源氏。 家系は清和源氏の摂津源氏系で、美濃源氏土岐氏支流である。
出陣前の連歌の会で『時は今 雨が下しる 五月哉』発句した事は有名である。
これを『土岐は今 天が下知る 五月哉』と読み替えて、『土岐氏出身の光秀が天下をとる』という決意を表したものとの解釈されている。
連歌師・里村紹巴がそれを受けて『花落つる池の流れをせきとめて』詠んだ。
①『花(信長)が落つる(死ぬ)』朝廷による律令政治の流れを止めようとする信長打つべしの解釈。
②『花(光秀の計画)が落つる(失敗に終わる)』計画は失敗するから止めなさいと忠告の解釈。
何れの解釈にしても後々の人の考えること、審議の程は故人御両所しか分かるまい、が面白い。
★ 『四国遍礼霊場記』 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)
四国遍礼霊場記

聖武天皇の建立。縁起が残っているという。昔は八町四方あったらしいが、今では一町半四方となっている。
本尊の地蔵菩薩像は、聖武天皇が皇子の安産を願って作らせたものだという。子安の尊像と称している。同様のものは各国に多くある。もとは小像であったが、空海が訪れ現在の高さ六尺の本尊を作って安置したという。
本堂の左に大師堂がある。
付け足し 取星寺、星谷(番外)
立江から三十町ばかり脇の岩脇村に、取星寺はある。大師釣召の星というものが残っている。厨子に入れ、蓮華座の上に安置している。青黒色で玲瓏としており、心惹かれる。
取星寺から二十町ほど離れた星谷に、星の岩屋がある。三間四方もあろうか。岩窟の口の真ん中あたりに高さ数丈の瀧が懸かっている。霊場らしい。この岩の上に、取星寺の星が落ちたと伝えられている。星石山と呼ばれている。
落ちた星が石になると、中国では昔から言われていた。早くも左伝に書かれている。儒者の説によれば、天を積気、日月を陰陽の精、星は万物の精だという。北斉の顔之推の著書「顔氏家訓」帰心第十六に「天為積氣、地為積塊、日為陽精、月為陰精、星為萬物之精、儒家所安也。星有墜落、乃為石矣、精若是石、不得有光、性又質重、何所繋屬【天は気の積みたるもの、地は塊の積むもの。日は陽の精、月は陰の精。星は万物の精たり。儒家の安んずる所なり。星の落つることあればすなわち、石となるか。精の、もしこれ石となるや、光あるを得ず。性また質重たり。何所に繋属するものか】」と論じた【勿論、これは古来行われた中国の陰陽五行説を背景にした自然観であり、顔之推の独創ではない】。凡人の憶説は採るに足らない。俗に色々と言われているが、みな間違っている。仏教者の説もないわけではないが、儒者であっても顔之推のように学問に精通している者が真摯に論じた場合、見るべき所が多い。
星谷を後にして坂本村へ。この村には霜が降らないといわれている。昔、空海が泊まったとき、夜になって酷く霜が降った。里人が我慢できないほどに辛がって憂えていると聞いた空海が加持し、霜を降らせないようにした。隣村には、ひどく霜が降る。人々は不思議なことだと言っている。
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