ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:阿波徳島編 第二十番霊場
第二十番札所;鶴林寺に向う。距離大凡15Km。

第二十番札所 霊鷲山 鶴林寺 宝珠院


山 門 (仁王門)


「阿吽」 の 仁 王 像

忠 霊 殿

忠霊殿前の不動明王像
山門を潜り参道を進むと右に忠霊殿に左に手水場がある。

手 水 場

手水場近くの太子堂(石段左)・本堂に登る石段。

雨の中を本堂に向かい石段を登る巡礼の皆さん。
地道から参道に掛かる頃から小雨がフロントガラスに当たり始め山門を撮った時にはカメラを出すのに逡巡するほどの雨になった。勿論かさも雨具も無い。
強烈な稲光とシャワーの様な雨が降り始めた。已む無く納経所に避難するが一向に小降りになる気配も無い、高い所為か稲光と轟音が一緒だ。
矢鱈と巨木が生い茂り寺全体が老杉、檜に囲まれている感がある。老杉に落雷しゃぁせんかと?心配する、それ程強烈な稲光であった。そんな様子で本堂には行けず納経帳記入のみでご無礼することにした。
そのため本堂・三重塔の写真は無い、借り物の写真である。


借り物写真:本堂と三重塔。

あまやどりの 納 経 所

御 朱 印
雷光も止み小降りに為ったので中途半端なお参りではあるが二十一番札所太龍寺に向かう・・・・合掌。
(10がつ31日12時2分)
帰りの参道風景:


巨大檜の囲まれる参道

巨大檜の隙間から見えるけぶる山脈
鶴林寺は「一に焼山(第12番札所焼山寺) 二がお鶴(第20番札所鶴林寺) 三は大龍(第21番札太龍寺)」
といわれている阿波霊場の二番目の難所である。
★ 本尊:地蔵菩薩 (伝 弘法大師作) ☆ 開基:弘法大師
★ 本尊の真言;おん、かかかび、さんまえい、そわか
『略縁起』
桓武天皇(701~806年)の勅願寺と言われているが、弘法大師が夢告を受けてこの地へ来錫したときに、雌雄の鶴が小さな地蔵尊を羽に包んで守っているのを見つけた。大師は自らも地蔵菩薩を刻んで小さい地蔵菩薩を胎内に納め本尊とし、堂宇を建立し寺号は鶴に因んで鶴林寺と命名した。大師は、先に地蔵菩薩を彫られたその残木で五種の鈴を刻み、爪彫りの堅額を遺された。前述の本尊降臨の彬は本堂左側にあり 、大師お手植えの菩提樹もある。寺は歴代皇家、武将の尊信を得、わけても阿波藩主は鶴林寺を祈願与と定め、多くの山林、寺領を寄進した。
鶴林寺は難所ゆえか天正年間の兵火を免れている。
★ 『四国遍礼霊場記』 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)
四国遍礼霊場記

勝浦郡にある。太古の創建だという。空海が霊を感じて登ったとき、瑞光が発し珍しい芳香が漂った。空海は精神を集中し目を凝らして見回した。老木の上に一羽の鶴がいた。翼を伸ばして何かを覆っていた。ほかの一羽が飛んでくると、それまでいた鶴はどこかへ飛び去った。交替で何かを守っていた。空海が不審に思って見ると、鶴が守っている何かから光が発していた。よく見ると、小さな仏像のようだった。取り下ろすと、地蔵菩薩の金像だった。空海は、失われることがないようにと、像のあった老木を伐って高さ三尺の地蔵菩薩像を作り、金像を納めた。立派な堂を建てて安置した。鶴林寺と名付けた。山容が、天竺の霊鷲山に似ているため、霊鷲山を山号とした。地蔵の所持三形から、院号を宝珠とした。この山は起伏多く緑深く、峰は西北に巡り麓には川が涼しく流れている。
堂宇は地形に従って建てられ、石段を設けている。霊木や珍しい草が茂り、春は花、秋は紅葉に彩られる。怪力の人がいて、桜の名所・吉野山と紅葉流れる美しい龍田川を持ってきたのかと疑いたくなるほどだ。
空海が伽藍を整えたとき、地面をならしていると、大木の根元で一つの小さな鐘を見つけた。形は通常の物と同じだったが、華文が普通とは違っていた。納めて寺の宝とした。
昔、山麓に猟師がいた。日頃、山に登って殺生を業としていた。ある時、猪を射た。追うと、堂の中に入っていった。血の痕が、厨子の中へと続いていた。不審に思って本尊を見ると、胸に矢が刺さり破損していた。これを見て後悔し、髪を剃り発心して、本尊に仕えた。そのまま生涯を送った。二王門の下にある猟師塚が、昔を物語っている。本尊は、大いなる慈悲によって苦を自ら受け入れ身代わりとなる願いを抱いているので、猪の代わりに矢を受けたのだ。また、殺生を業とする猟師の罪深さを憐れみ、救済の方便として、このようにしたのだろう。人智を超えた事柄なので、分かるはずのないことなのだが。
桓武天皇の勅願寺となってから、歴代天皇の崇敬を受けていた。寺領三千貫を与えられたという。綸旨や院宣が数通残っている。
源頼朝は神仏を崇め、運を開いた。神社仏閣の修理を行った。この寺の尊像について聞き及んで心に留めた夜、夢に本尊が現れた。頼朝は本尊を鎌倉に運び、熱心に敬った。金の錫杖などの宝物を捧げた。生夷の庄から三千貫を割いて、永代寄進とした。錫杖は、今に残っている。
本尊が鎌倉から戻されるとき、伊勢の神官・福井氏が阿波に渡ろうとした。急に暴風が襲い、波が荒れ狂って、舟が沈みそうになった。地蔵菩薩が現れた。舟は速やかに小松島の浦に着いた。福井氏は、どうにか命を救われた。福井氏は深く帰依し、毎年灯明料を捧げている。また、福井氏の子孫は以後、幼名に必ず鶴の字を使うようになったという。
六角堂の六地蔵は、空海が十八町麓から砂を取り上げ一夜のうちに作ったものだ。砂を採った場所を、鶴瀬といい、今も所の人は信心深く謹み暮らしている。色々な超常現象が起こる場所だ。
鎮守の熊野権現社は、空海が勧請した。昔は年二回の祭りを厳かに執り行っていた。山の麓にある供田を、掃除田と呼ぶ。今も名前ばかりは残っている。
鎮守社の左に塔があった。今は壊れて跡だけが残っている。前に鶴守神祠と鐘楼が並んでいる。
二王門の内にある荒神や三社も空海が建てた。
本堂の上手に弁財天祠がある。像高は七寸五分。十五童子像も共に、空海が作って安置した。本坊の持仏堂の本尊は、高さ一尺三寸の羅陀山地蔵像。ひしゆかつま作。
本堂の本尊は智証大師作の不動明王像。
寺の南に阿伽井がある。空海が加持したもので、清水を厳かに湛えている。空海が龍神像を作って安置した。
境内にある堂宇は七つ。本尊に仕え、国家安泰の祈りを怠ることなく勤めている。
霊宝は、安阿弥作の阿弥陀如来像、高さ一尺二寸の覚鑁上人作・愛染明王像、空海直筆の不動明王像、空海直筆の愛染明王像、覚鑁が描いた五大尊、同じく不動明王像、大幅の唐絵涅槃像、覚鑁が描いた十三仏、真然僧直筆の御遺告、空海が作った五種の鈴。このほか多くあるが、繁雑になるので記さない。

第二十番札所 霊鷲山 鶴林寺 宝珠院


山 門 (仁王門)


「阿吽」 の 仁 王 像

忠 霊 殿

忠霊殿前の不動明王像
山門を潜り参道を進むと右に忠霊殿に左に手水場がある。

手 水 場

手水場近くの太子堂(石段左)・本堂に登る石段。

雨の中を本堂に向かい石段を登る巡礼の皆さん。
地道から参道に掛かる頃から小雨がフロントガラスに当たり始め山門を撮った時にはカメラを出すのに逡巡するほどの雨になった。勿論かさも雨具も無い。
強烈な稲光とシャワーの様な雨が降り始めた。已む無く納経所に避難するが一向に小降りになる気配も無い、高い所為か稲光と轟音が一緒だ。
矢鱈と巨木が生い茂り寺全体が老杉、檜に囲まれている感がある。老杉に落雷しゃぁせんかと?心配する、それ程強烈な稲光であった。そんな様子で本堂には行けず納経帳記入のみでご無礼することにした。
そのため本堂・三重塔の写真は無い、借り物の写真である。


借り物写真:本堂と三重塔。

あまやどりの 納 経 所

御 朱 印
雷光も止み小降りに為ったので中途半端なお参りではあるが二十一番札所太龍寺に向かう・・・・合掌。
(10がつ31日12時2分)
帰りの参道風景:


巨大檜の囲まれる参道

巨大檜の隙間から見えるけぶる山脈
鶴林寺は「一に焼山(第12番札所焼山寺) 二がお鶴(第20番札所鶴林寺) 三は大龍(第21番札太龍寺)」
といわれている阿波霊場の二番目の難所である。
★ 本尊:地蔵菩薩 (伝 弘法大師作) ☆ 開基:弘法大師
★ 本尊の真言;おん、かかかび、さんまえい、そわか
『略縁起』
桓武天皇(701~806年)の勅願寺と言われているが、弘法大師が夢告を受けてこの地へ来錫したときに、雌雄の鶴が小さな地蔵尊を羽に包んで守っているのを見つけた。大師は自らも地蔵菩薩を刻んで小さい地蔵菩薩を胎内に納め本尊とし、堂宇を建立し寺号は鶴に因んで鶴林寺と命名した。大師は、先に地蔵菩薩を彫られたその残木で五種の鈴を刻み、爪彫りの堅額を遺された。前述の本尊降臨の彬は本堂左側にあり 、大師お手植えの菩提樹もある。寺は歴代皇家、武将の尊信を得、わけても阿波藩主は鶴林寺を祈願与と定め、多くの山林、寺領を寄進した。
鶴林寺は難所ゆえか天正年間の兵火を免れている。
★ 『四国遍礼霊場記』 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)
四国遍礼霊場記

勝浦郡にある。太古の創建だという。空海が霊を感じて登ったとき、瑞光が発し珍しい芳香が漂った。空海は精神を集中し目を凝らして見回した。老木の上に一羽の鶴がいた。翼を伸ばして何かを覆っていた。ほかの一羽が飛んでくると、それまでいた鶴はどこかへ飛び去った。交替で何かを守っていた。空海が不審に思って見ると、鶴が守っている何かから光が発していた。よく見ると、小さな仏像のようだった。取り下ろすと、地蔵菩薩の金像だった。空海は、失われることがないようにと、像のあった老木を伐って高さ三尺の地蔵菩薩像を作り、金像を納めた。立派な堂を建てて安置した。鶴林寺と名付けた。山容が、天竺の霊鷲山に似ているため、霊鷲山を山号とした。地蔵の所持三形から、院号を宝珠とした。この山は起伏多く緑深く、峰は西北に巡り麓には川が涼しく流れている。
堂宇は地形に従って建てられ、石段を設けている。霊木や珍しい草が茂り、春は花、秋は紅葉に彩られる。怪力の人がいて、桜の名所・吉野山と紅葉流れる美しい龍田川を持ってきたのかと疑いたくなるほどだ。
空海が伽藍を整えたとき、地面をならしていると、大木の根元で一つの小さな鐘を見つけた。形は通常の物と同じだったが、華文が普通とは違っていた。納めて寺の宝とした。
昔、山麓に猟師がいた。日頃、山に登って殺生を業としていた。ある時、猪を射た。追うと、堂の中に入っていった。血の痕が、厨子の中へと続いていた。不審に思って本尊を見ると、胸に矢が刺さり破損していた。これを見て後悔し、髪を剃り発心して、本尊に仕えた。そのまま生涯を送った。二王門の下にある猟師塚が、昔を物語っている。本尊は、大いなる慈悲によって苦を自ら受け入れ身代わりとなる願いを抱いているので、猪の代わりに矢を受けたのだ。また、殺生を業とする猟師の罪深さを憐れみ、救済の方便として、このようにしたのだろう。人智を超えた事柄なので、分かるはずのないことなのだが。
桓武天皇の勅願寺となってから、歴代天皇の崇敬を受けていた。寺領三千貫を与えられたという。綸旨や院宣が数通残っている。
源頼朝は神仏を崇め、運を開いた。神社仏閣の修理を行った。この寺の尊像について聞き及んで心に留めた夜、夢に本尊が現れた。頼朝は本尊を鎌倉に運び、熱心に敬った。金の錫杖などの宝物を捧げた。生夷の庄から三千貫を割いて、永代寄進とした。錫杖は、今に残っている。
本尊が鎌倉から戻されるとき、伊勢の神官・福井氏が阿波に渡ろうとした。急に暴風が襲い、波が荒れ狂って、舟が沈みそうになった。地蔵菩薩が現れた。舟は速やかに小松島の浦に着いた。福井氏は、どうにか命を救われた。福井氏は深く帰依し、毎年灯明料を捧げている。また、福井氏の子孫は以後、幼名に必ず鶴の字を使うようになったという。
六角堂の六地蔵は、空海が十八町麓から砂を取り上げ一夜のうちに作ったものだ。砂を採った場所を、鶴瀬といい、今も所の人は信心深く謹み暮らしている。色々な超常現象が起こる場所だ。
鎮守の熊野権現社は、空海が勧請した。昔は年二回の祭りを厳かに執り行っていた。山の麓にある供田を、掃除田と呼ぶ。今も名前ばかりは残っている。
鎮守社の左に塔があった。今は壊れて跡だけが残っている。前に鶴守神祠と鐘楼が並んでいる。
二王門の内にある荒神や三社も空海が建てた。
本堂の上手に弁財天祠がある。像高は七寸五分。十五童子像も共に、空海が作って安置した。本坊の持仏堂の本尊は、高さ一尺三寸の羅陀山地蔵像。ひしゆかつま作。
本堂の本尊は智証大師作の不動明王像。
寺の南に阿伽井がある。空海が加持したもので、清水を厳かに湛えている。空海が龍神像を作って安置した。
境内にある堂宇は七つ。本尊に仕え、国家安泰の祈りを怠ることなく勤めている。
霊宝は、安阿弥作の阿弥陀如来像、高さ一尺二寸の覚鑁上人作・愛染明王像、空海直筆の不動明王像、空海直筆の愛染明王像、覚鑁が描いた五大尊、同じく不動明王像、大幅の唐絵涅槃像、覚鑁が描いた十三仏、真然僧直筆の御遺告、空海が作った五種の鈴。このほか多くあるが、繁雑になるので記さない。
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