ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:徳島編 二十三番霊場
第二十三番札所:薬王寺に向う。距離大凡22Km。
第二十三番札所 医王山 薬王寺 無量寿院
薬王寺は、厄除け祈願のお寺として篤い信仰を集めている。山門を潜り境内参道に入ると、33段の女厄坂・42段の男厄坂が続き、正面に本堂があり右手に61段の還暦厄坂があり 瑜祇塔(ゆうぎとう)へと続く。一段ずつ賽銭を置いて登っていく習わしが今も続いている。左手に太子堂がある。

山 門

山門口に『厄除け祈願の寺』石柱がある

女の厄坂は33段 ・ 頂上に絵馬堂がある

男の厄坂は42段 ・ 本堂へと続く

厄年石段風景を描写した司馬遼太郎の石碑(空海の風景)

本 堂

太 子 堂 (本堂の左手)

本堂の左手に還暦厄坂61段の石段があり頂上に瑜祇塔(ゆうぎとう)が建つ。

瑜祇塔(ゆうぎとう)は天地の和合により万物が豊かになる象徴と云われている。昭和38年建立。

厄坂の傾斜かなりキツイ!日和佐の街が遠望できる


本堂と太子堂の間にある肺大師の祠がある。 ラジウムを含んだ霊水(瑠璃の水)が湧出しており、肺病など諸病に効くといわれ、この名がある。祠(ほこら)の中には石像の弘法大師が祀られ、祠の足元から湧き出す水は枯れることがない。


境内の中ほどにある観世音菩薩像

鐘楼・女厄坂の右手にある

手水場は国道沿いの山門の前にある

納 経 所

御 朱 印
参拝を終えて御朱印を戴き二十四番札所 最御崎寺に向かう・・・・・10月31日午後3時20分・大凡80km。
★ 本尊:薬師如来(伝弘法大師作) ★ 開基:行基菩薩
★ 本尊の真言;おん、ころころ、せんだり、まとぅぎ、そわか
★『略縁起』
弘仁六年、平城天皇は弘法大師四十二歳のとき、衆生の厄除け祈願寺を造る様勅命を下した。諸人の厄災難を除こうと請願をたてられ日和佐に来錫した大師は、厄除け薬師如来像を刻み本尊とし当寺を厄除け根本祈願寺として開山された。以来、平城・嵯峨・淳和の各帝は厄除祈願の勅使を薬王寺へ下向させている。
その後文治四年(1188年)の災火でご本尊は玉厨子山へいつたん移られたが、後醍醐天皇が堂塔を再建して新しい薬師如来を安置すると再び戻ってこられ後向きに本堂へ入られ「後向薬師」とよばれている。現在二体の薬師如来が祀られている。本堂右のゆぎ塔へは六十一段の還暦の坂を登る塔内には五智如来が安置され、階上は寺宝の展示室、また、塔からは美しい日和佐の町並や大浜海岸が望まれる。阿波霊場もここで打ち終えとなる。
★私見では有るが:
①『略縁起』によると徳島の23霊場の殆どが天正年間(1573~1592)に焼かれたと記されている。 長宗我部氏の関与した事に間違いはあるまいが四国統一の際の阿波攻め天正6年~8年(1578~1580)の時なのか天正13年(1585年)の秀吉の四国討伐の時なのか明記されていない。
多くの自社を焼いた極悪武将のようなイメージ抱かせるきらいがあるが信義に篤い武人でもあったと思っている。
②『略縁起』には??が多々ある。伝大師、伝○○と言ったような創作話?が多くある様な気がする。
信心が足りない所為かな!。
当寺が阿波の国巡りの最後の寺である。無事に終えることが出来た。
此処より土佐の国を目指す、第二十四番札所:最御崎寺に向う。距離大凡80Km。最御崎寺文字通り室戸岬の最先端に位置する寺だ。
室戸岬の先端には中岡真太郎の銅像が高知桂浜の坂本竜馬の銅像と向かい合う姿で土佐の黒潮の海を睥睨していると聞く、司馬遼太郎ファンとしては見逃せない風景である。明日を楽しみにしながら室戸市に向けて先を急いだ。
高知県に入るとR55号線は海岸線を縫うように沿っている、小さな漁港と海水浴場の看板が目立つ。室戸岬に近づき暮れ始めた頃から一度止んでいた雨が降り出し沖からの風も可也強い。
辺りが完全な闇に包まれた頃突然に強烈な雷鳴と雷光が沖の方から起きると同時にバケツをひっくり返すような強烈な雨がフロントガラスを叩く、
ワイパーも役に立たない。前を行く車は高校野球の甲子園で有名な明徳義塾高校のネーム入りのバスであったがそのテールランプが漸く確認出来る程度、テールランプに合わせノロノロ運転、雷鳴と雷光は一向に止まない、前車は危険を感じたのか待避所で停車した。僕は室戸市で宿捜ししなければならぬのでそうもして居れぬ。
前方の目標を失ったので尚ノロノロと室戸市に向う、漸く街の灯りに辿り着いたのは8時過ぎ、雨は一向に弱まる気配も無い。漸くの思いで道端のローソンにはいる、車から店に入るまでに法衣は粗方濡れた。
ご主人に『近くにホテルは在りませんか?』と尋ねると『この雨ではお困りでしょう』と親切にも遠近に電話してくれた。
『ホテルは無かったが小さな旅館なら、知り合いなので融通はつきますが夕食は無い』と言う。宜しくとお願いすると『案内しましょ』と雨の中を厭わず先導してくれると言う感謝感謝である。
別れ際に『店の残り物ですが賞味期限ないです』と握り飯3ヶと汁のカップを呉れた。案内も握り飯も『お接待』と感謝し有難く頂戴することにした。
宿に落ち着き今夜は握り飯だけかと諦めローソンで買ったワンカップを空けた頃窓の外いやに静かに為ったので窓を開けてみると皮肉にも雨は上がっている。宿の女将さんに聞くと路地を出た向かいに飯屋があると言う。
早速出掛け暖簾を潜ると調理場で老夫婦が仕事中、客は誰もいない。
早速、刺身定食と酒を注文する、酒が済んでも定食が来ない『定食はまだでっか?』と聞くと『今日釣った魚を捌いているところ少々お待ち』魚の名を尋ねると何とか言ったが地方名なのか、魚には可也博識を自負している僕にも解らない。見ると50cm級のこぶ鯛である。
余談では有るが;こぶ鯛はユニークな魚である。南方系の魚でべら科ぶ鯛属で日本海では佐渡以南太平洋では本州以南の岩礁域に棲み甲殻類小動物海藻などを雑食。
雌性先熟で性転換する。幼魚の時には瘤は無く皆雌で成魚となり産卵後に性転換し皆雄となり瘤が大きくなる。性転換する魚には他にも黒鯛(チヌ)が有名、こぶ鯛の反対、黒鯛は幼魚時代には総てが雄,満2年まではオスとして機能する,3年目からはそれぞれ雌雄に別れ産卵活動を行い年無し(縦縞が無くなる頃)に成ると雌雄が決まり雌の方が多いい。
こぶ鯛の味頃は寒に入ってからと聴いていた、寒鯛と言われる所以である。
通例余り美味くない魚と言われるが食べて見ると中々いけた。
疲れもあって、黙々と呑み黙々と喰らい暇する。
宿に帰り残りのワンカップを開けテレビで明日の天気予報を見ると晴れ間もあるらしい。晴れてくれよ!と願いつつ疲れと酔いで安らかな眠りに落ちた。
★ 『四国遍礼霊場記』 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)
四国遍礼霊場記

海部郡にある。行基菩薩が霊威を感じて創建した。話を聞いた聖武天皇が、勅願寺にしたという。後に空海が訪れ、伽藍を飾り滞在して、四十二歳の厄を落とすため薬師如来像を作った。かつ永世利益のため堂を建てて安置した。思うに、本尊も堂も、当時と同じ物だろう。日光・月光菩薩、十二神も並んでいる。天長年中、淳和天皇が勅願所とし、若干の田を寄附したという。清和天皇が除厄のため勅使を送って剣を奉納し、錦の戸帳を懸けた。
塔の本尊は高さ三尺五寸の千手観音像で脇士は二十八部衆。ともに行基の作。恐らく昔の本尊だろうといわれている。本堂の右に鎮守の白山権現社・拝殿がある。空海の御影堂・塔・鐘楼が並んでいる。左には、護摩堂・住吉・愛宕社・釈迦堂がある。前には楼門。ほかに二王門も構えている。左右に坊舎十余。昔は堂宇が雲より高く聳えていたというが、火災に遭って礎石のみを残す建物も多い。文治の頃、後鳥羽院が再興した。
西に六十余町行くと奥の院がある。奇岩の窟で、空海の作った本尊が安置されている。空海が寺を再興したとき、窟から飛び出し自ら新堂に入ったと伝えられている。聞く人は、みな驚いた。窟を玉厨子山と号する。 薬王寺には、行基菩薩が作った高さ五尺の釈迦如来像がある。昔は領地も四五百石あったという。現在は十五石で、ほかに山林・竹林は免税となっている。寛永十六年、火災で堂宇が灰燼に帰した。どうにか本尊は助かった。太守・光隆は嘆き、堂宇を立派に造営したが、昔あった小宇の再建まで手が回らなかった。

第二十三番札所 医王山 薬王寺 無量寿院
薬王寺は、厄除け祈願のお寺として篤い信仰を集めている。山門を潜り境内参道に入ると、33段の女厄坂・42段の男厄坂が続き、正面に本堂があり右手に61段の還暦厄坂があり 瑜祇塔(ゆうぎとう)へと続く。一段ずつ賽銭を置いて登っていく習わしが今も続いている。左手に太子堂がある。

山 門

山門口に『厄除け祈願の寺』石柱がある

女の厄坂は33段 ・ 頂上に絵馬堂がある

男の厄坂は42段 ・ 本堂へと続く

厄年石段風景を描写した司馬遼太郎の石碑(空海の風景)

本 堂

太 子 堂 (本堂の左手)

本堂の左手に還暦厄坂61段の石段があり頂上に瑜祇塔(ゆうぎとう)が建つ。

瑜祇塔(ゆうぎとう)は天地の和合により万物が豊かになる象徴と云われている。昭和38年建立。

厄坂の傾斜かなりキツイ!日和佐の街が遠望できる


本堂と太子堂の間にある肺大師の祠がある。 ラジウムを含んだ霊水(瑠璃の水)が湧出しており、肺病など諸病に効くといわれ、この名がある。祠(ほこら)の中には石像の弘法大師が祀られ、祠の足元から湧き出す水は枯れることがない。


境内の中ほどにある観世音菩薩像

鐘楼・女厄坂の右手にある

手水場は国道沿いの山門の前にある

納 経 所

御 朱 印
参拝を終えて御朱印を戴き二十四番札所 最御崎寺に向かう・・・・・10月31日午後3時20分・大凡80km。
★ 本尊:薬師如来(伝弘法大師作) ★ 開基:行基菩薩
★ 本尊の真言;おん、ころころ、せんだり、まとぅぎ、そわか
★『略縁起』
弘仁六年、平城天皇は弘法大師四十二歳のとき、衆生の厄除け祈願寺を造る様勅命を下した。諸人の厄災難を除こうと請願をたてられ日和佐に来錫した大師は、厄除け薬師如来像を刻み本尊とし当寺を厄除け根本祈願寺として開山された。以来、平城・嵯峨・淳和の各帝は厄除祈願の勅使を薬王寺へ下向させている。
その後文治四年(1188年)の災火でご本尊は玉厨子山へいつたん移られたが、後醍醐天皇が堂塔を再建して新しい薬師如来を安置すると再び戻ってこられ後向きに本堂へ入られ「後向薬師」とよばれている。現在二体の薬師如来が祀られている。本堂右のゆぎ塔へは六十一段の還暦の坂を登る塔内には五智如来が安置され、階上は寺宝の展示室、また、塔からは美しい日和佐の町並や大浜海岸が望まれる。阿波霊場もここで打ち終えとなる。
★私見では有るが:
①『略縁起』によると徳島の23霊場の殆どが天正年間(1573~1592)に焼かれたと記されている。 長宗我部氏の関与した事に間違いはあるまいが四国統一の際の阿波攻め天正6年~8年(1578~1580)の時なのか天正13年(1585年)の秀吉の四国討伐の時なのか明記されていない。
多くの自社を焼いた極悪武将のようなイメージ抱かせるきらいがあるが信義に篤い武人でもあったと思っている。
②『略縁起』には??が多々ある。伝大師、伝○○と言ったような創作話?が多くある様な気がする。
信心が足りない所為かな!。
当寺が阿波の国巡りの最後の寺である。無事に終えることが出来た。
此処より土佐の国を目指す、第二十四番札所:最御崎寺に向う。距離大凡80Km。最御崎寺文字通り室戸岬の最先端に位置する寺だ。
室戸岬の先端には中岡真太郎の銅像が高知桂浜の坂本竜馬の銅像と向かい合う姿で土佐の黒潮の海を睥睨していると聞く、司馬遼太郎ファンとしては見逃せない風景である。明日を楽しみにしながら室戸市に向けて先を急いだ。
高知県に入るとR55号線は海岸線を縫うように沿っている、小さな漁港と海水浴場の看板が目立つ。室戸岬に近づき暮れ始めた頃から一度止んでいた雨が降り出し沖からの風も可也強い。
辺りが完全な闇に包まれた頃突然に強烈な雷鳴と雷光が沖の方から起きると同時にバケツをひっくり返すような強烈な雨がフロントガラスを叩く、
ワイパーも役に立たない。前を行く車は高校野球の甲子園で有名な明徳義塾高校のネーム入りのバスであったがそのテールランプが漸く確認出来る程度、テールランプに合わせノロノロ運転、雷鳴と雷光は一向に止まない、前車は危険を感じたのか待避所で停車した。僕は室戸市で宿捜ししなければならぬのでそうもして居れぬ。
前方の目標を失ったので尚ノロノロと室戸市に向う、漸く街の灯りに辿り着いたのは8時過ぎ、雨は一向に弱まる気配も無い。漸くの思いで道端のローソンにはいる、車から店に入るまでに法衣は粗方濡れた。
ご主人に『近くにホテルは在りませんか?』と尋ねると『この雨ではお困りでしょう』と親切にも遠近に電話してくれた。
『ホテルは無かったが小さな旅館なら、知り合いなので融通はつきますが夕食は無い』と言う。宜しくとお願いすると『案内しましょ』と雨の中を厭わず先導してくれると言う感謝感謝である。
別れ際に『店の残り物ですが賞味期限ないです』と握り飯3ヶと汁のカップを呉れた。案内も握り飯も『お接待』と感謝し有難く頂戴することにした。
宿に落ち着き今夜は握り飯だけかと諦めローソンで買ったワンカップを空けた頃窓の外いやに静かに為ったので窓を開けてみると皮肉にも雨は上がっている。宿の女将さんに聞くと路地を出た向かいに飯屋があると言う。
早速出掛け暖簾を潜ると調理場で老夫婦が仕事中、客は誰もいない。
早速、刺身定食と酒を注文する、酒が済んでも定食が来ない『定食はまだでっか?』と聞くと『今日釣った魚を捌いているところ少々お待ち』魚の名を尋ねると何とか言ったが地方名なのか、魚には可也博識を自負している僕にも解らない。見ると50cm級のこぶ鯛である。
余談では有るが;こぶ鯛はユニークな魚である。南方系の魚でべら科ぶ鯛属で日本海では佐渡以南太平洋では本州以南の岩礁域に棲み甲殻類小動物海藻などを雑食。
雌性先熟で性転換する。幼魚の時には瘤は無く皆雌で成魚となり産卵後に性転換し皆雄となり瘤が大きくなる。性転換する魚には他にも黒鯛(チヌ)が有名、こぶ鯛の反対、黒鯛は幼魚時代には総てが雄,満2年まではオスとして機能する,3年目からはそれぞれ雌雄に別れ産卵活動を行い年無し(縦縞が無くなる頃)に成ると雌雄が決まり雌の方が多いい。
こぶ鯛の味頃は寒に入ってからと聴いていた、寒鯛と言われる所以である。
通例余り美味くない魚と言われるが食べて見ると中々いけた。
疲れもあって、黙々と呑み黙々と喰らい暇する。
宿に帰り残りのワンカップを開けテレビで明日の天気予報を見ると晴れ間もあるらしい。晴れてくれよ!と願いつつ疲れと酔いで安らかな眠りに落ちた。
★ 『四国遍礼霊場記』 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)
四国遍礼霊場記

海部郡にある。行基菩薩が霊威を感じて創建した。話を聞いた聖武天皇が、勅願寺にしたという。後に空海が訪れ、伽藍を飾り滞在して、四十二歳の厄を落とすため薬師如来像を作った。かつ永世利益のため堂を建てて安置した。思うに、本尊も堂も、当時と同じ物だろう。日光・月光菩薩、十二神も並んでいる。天長年中、淳和天皇が勅願所とし、若干の田を寄附したという。清和天皇が除厄のため勅使を送って剣を奉納し、錦の戸帳を懸けた。
塔の本尊は高さ三尺五寸の千手観音像で脇士は二十八部衆。ともに行基の作。恐らく昔の本尊だろうといわれている。本堂の右に鎮守の白山権現社・拝殿がある。空海の御影堂・塔・鐘楼が並んでいる。左には、護摩堂・住吉・愛宕社・釈迦堂がある。前には楼門。ほかに二王門も構えている。左右に坊舎十余。昔は堂宇が雲より高く聳えていたというが、火災に遭って礎石のみを残す建物も多い。文治の頃、後鳥羽院が再興した。
西に六十余町行くと奥の院がある。奇岩の窟で、空海の作った本尊が安置されている。空海が寺を再興したとき、窟から飛び出し自ら新堂に入ったと伝えられている。聞く人は、みな驚いた。窟を玉厨子山と号する。 薬王寺には、行基菩薩が作った高さ五尺の釈迦如来像がある。昔は領地も四五百石あったという。現在は十五石で、ほかに山林・竹林は免税となっている。寛永十六年、火災で堂宇が灰燼に帰した。どうにか本尊は助かった。太守・光隆は嘆き、堂宇を立派に造営したが、昔あった小宇の再建まで手が回らなかった。
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