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四国撮り歩記  霊場八十八ヶ所巡礼の旅:高知編 二十四番霊場

  昨夜高知TVで日の出時間を調べていた、AM6;25である。女将さんにも朝早出する旨伝えていたので料金精算を済まし、中岡慎太郎の銅像の方角はと尋ねると、『路地を抜けるとR55号線で右に5km程行くと岬の先端にあります、その裏山の頂上に最御崎寺があり、家の裏側に25番札所もありますよ!』と言う。何の事はない、昨夜雨中を走った際慎太郎銅像と24番札所を通り過ぎて津照寺の間近くに宿を取った事に為るわけだ。AM5;40に出発。
 待つこと暫し室戸岬の海原に旭日が昇った。
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              雲から切れた【室戸御崎の旭日】
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              中岡慎太郎の銅像と室戸岬
 「中岡新太郎像と桂浜の坂本竜馬像は向かい合っているそうである」と書きましたがどうも「噂話」だった様である。真実を書きお詫び申します。
 「説明」
 桂浜にある龍馬像と、室戸岬にある中岡慎太郎像は土佐湾を隔てて向かい合っていると、よくいわれる。実際は、慎太郎像がほぼ真南を向いていて、龍馬像が西にあるので向かい合っていない。龍馬像は、東を向いていて慎太郎像の少し北(北川村の方)を見ている。このウワサの根源となったのは、両方の銅像を作った彫刻家の本山白雲が、作者の意図としては向かい合わせたかった。と語っていたからで、そのためか慎太郎像はやや右(西)向きに作られている。龍馬像と向かい合わせるように建てると、慎太郎が山の方を向いてしまうため、断念した。
(取材協力 : 高知県立坂本龍馬記念館)そうである。

 昨晩とは大違い今日は好天気に恵まれそうだ。太平洋に昇る旭日に感動し慎太郎に挨拶を重ねて公園を散策、30分も居たろうか、第二十四番札所最御崎寺に向かう、此処より大凡1km。

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 conv201406280004のコピー
 弘法大師像が第二十四番札所最御崎寺を案内に建っていた、大師19歳の頃海に面した洞窟で修行されたそうな、この石像も若い。「お迎え大師」と石柱にある。

         第二十四番札所:室戸山 最御崎寺 明星院
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                山         門 (仁王門)
 山門撮影が午前7時5分41秒。
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                山         門 (境内側)
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                「阿・吽 の仁王像」 (境内側)
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                 境  内   風  景
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                 本            堂
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                 本   堂   内   陣      
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                 大     子      堂
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                 多 宝 塔 と 鐘  楼  
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                 多     宝    塔  
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                 古い 鐘   楼   堂
 山内忠義公(土佐藩2代藩主)により慶安元年(1648年)に建てられた。現在は使われていない。
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                 現在使用されている鐘 楼
 境内の中には;観音像・鐘石・手水場・お願い地蔵尊・納経所等が点在。
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                 観     音     像
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                 鐘           石
 小石で大石を叩くと、「カーン」や「キーン」という甲高い音が響き、その音は冥土まで届くと言われている。「空海七不思議」のひとつ。
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                 手     水     場
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 手水鉢には寛政10年(1799年)の年号がある。
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                 「お願い 地  蔵  尊」
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                  納     経     所
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        御     朱     印  
 無事参拝を終えて第二十五番札所 津照寺に 向かう。合掌・・・・・・・・・                 
  
★  本尊:虚空蔵菩薩 (伝 弘法大師作)     ★  開基:弘法大師
★  本尊の真言:のぅぼう、あきゃしゃきゃらはや、おん、ありきゃまり、ぼり、そわか

★『略縁起』:
 大師19歳の時室戸岬を訪れ御蔵洞という海に面した洞窟で修行された。
大同2年(807年)唐から帰国した大師は嵯峨天皇の勅願により再び来錫され開基した寺で、本尊は大師が刻んだ虚空蔵菩薩で秘仏になっている。寺宝の木造薬師如来像は平安末期の秀作といわれている木造月光菩薩立像、石造如意輪観音半加俸とともに国の重要文化財となっている。歴代天皇の勅願所として栄え、★土佐藩主山内忠義の援助もあって寺勢も強かったが、明治初年の廃仏毀釈で荒廃した(廃仏毀釈とは明治元年3月に神仏分離令が公布されるとそれに伴って起こった仏教の排斥運動。多くの寺や仏像が壊された)。大正3年に復興し、現在に至っている。指定を受けた国宝には薬師如来、月光菩薩、如意輪観音などがあり、場内には大師の奇跡とされている明星石、くわず芋がある。

  ★土佐藩;
   1.一豊 (かつとよ) 〔従四位下・土佐守〕
   2.忠義 (ただよし) 〔従四位下・土佐守、侍従〕
   3.忠豊 (ただとよ) 〔従四位下・対馬守、侍従〕
   4.豊昌 (とよまさ) 〔従四位下・土佐守、侍従〕
   5.豊房 (とよふさ) 〔従四位下・土佐守、侍従〕
   6.豊隆 (とよたか) 〔従四位下・土佐守、侍従〕

   16.豊範 (とよのり) 〔従四位上・土佐守、侍従、侯爵〕


 土佐藩の領域は戦国時代末期には長宗我部氏が統治していたが、長宗我部盛親は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて西軍に与して改易となった。この合戦において徳川氏に味方した遠江掛川城主山内一豊が、新たに土佐国9万8000石を与えられた(後に20万2600石)。以降、明治時代初頭まで山内氏が治めた。
 藩政の中枢を山内家家臣(上士)で独占した下士に位置づけられた長宗我部氏旧臣(郷士)との二重構造が幕末まで続いた。幕末、維新に活躍した志士には坂本龍馬、武市半平太(瑞山)岡田以蔵等下士出身者も多数いる。
 武市瑞山を党首に結成された土佐勤皇党は坂本龍馬、中岡慎太郎、間崎哲馬、浜田辰弥、岡田以蔵等192名は署名血判しており終身二人扶持の武市と同じ下士である郷士、庄屋、従士、足軽等の若者ばかりであった。因みに龍馬は郷士、慎太郎は大庄屋の息子である。
 長宗我部家の旧臣子孫の反乱であったかも知れない。 私見では有るが:
『略縁起』によると徳島の23霊場の殆どが天正年間(1573~1592年)に焼かれたと記されている。長宗我部氏の関与した事に間違いはあるまいが四国統一の際の阿波攻め天正6年~8年(1578~1580年)のときなのか天正13年(1585年)の秀吉の四国討伐の時なのか明記されていない。
多くの自社を焼いた極悪武将のようなイメージ抱かせるきらいがあるが信義に篤い武人でもあったと思っている。

★ 長宗我部氏の戦歴
 元親は強者に屈しない独立性と反骨の武人で信義に篤い武将であったと信じている。
天正3年(1575年)に土佐統一後、織田信長と正室の縁戚関係(共に美濃の斉藤家から正室を娶る)から同盟を結び、伊予国や阿波国、讃岐国へ侵攻していく。
天正8年(1580年)までに阿波・讃岐の両国をほぼ制圧している。
 第一番札所 霊山寺の項で前述したが天正13年(1585年)には四国全土をほぼ統一することに成功したとされている。
 天正8年(1580年)、信長は元親の四国征服をよしとせず、土佐国と阿波南半国のみの領有を認めて臣従するよう迫る。元親は信長の要求を拒絶し信長、秀吉に反抗。
 天正10年(1582年)5月には、神戸信孝を総大将とした四国攻撃軍が編成されるなどの危機に陥った。 このため三好氏旧臣らは元親を見限って信長に寝返り、さらに阿波の一宮城と夷山城を落とされた。四国 攻撃軍は6月2日に渡海の予定であったが、その日に本能寺の変が起こって信長が明智光秀に殺され信長の死で信孝軍は解体して撤退したので、元親は危機を脱した。
 天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家と手を結んで豊臣秀吉と対抗する。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでも、織田信雄や徳川家康らと結んで秀吉に対抗したが 小牧の戦いは秀吉と信雄が和睦するという形で終結した。
 天正13年(1585年)春、秀吉が紀州を平定すると弟秀長を総大将とする10万を超える軍を派遣、元親は阿波白地城を本拠に阿・讃・予の海岸線沿いに防備を固め抗戦するが阿波戦線が尽く崩壊した。元親は反戦派の家臣谷忠澄の言を容れて降伏し、阿波・讃岐・伊予を没収されて土佐一国のみを安堵された。
 元親は上洛して秀吉に謁見し、臣従を誓った。
 天正14年(1586年)、秀吉の九州の役に嫡男の信親とともに従軍し、島津氏の圧迫に苦しむ大友氏の救援に向かう。しかし、12月の戸次川の戦いで四国勢の軍監・仙石秀久の独断により、島津軍の策にはまって敗走し、信親は討死した。伊予の日振島に落ちた。
 天正18年(1590年)の小田原の役では長宗我部水軍を率いて参加し、後北条氏の下田城を攻め、さら に小田原城包囲に参加した。
 文禄元年(1592年)から朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも従軍した。
 慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が死去すると政情が不安定になる。年末まで伏見屋敷に滞在し、その後、年明けに土佐に帰国した。
 5月に入って重病となり、、死期を悟った元親は5月10日に盛親に遺言を残して5月19日に死去。享年61。跡を4男の盛親が継いだ。
 元親は秀吉に対して徹底抗戦を貫いていたが一旦敗戦し臣従を誓って以後臣下の礼に徹しているのは凄い。
 歴史にもし、たらは禁句であるが長曾我部元親が生きていれば関が原はどうなっていたか想像するのは面白い。
 土佐藩の領域は戦国時代末期まで長宗我部氏が統治していたが、跡目相続した長宗我部盛親は慶長5年 (1600年)の関ヶ原の戦いにおいて西軍に与して改易され長宗我部家は断絶した。この合戦で徳川氏に味方した遠江掛川城主・山内一豊が、新たに土佐国9万8000石を与えられた。以降、明治時代初頭まで山内氏が治めた。
 関が原の戦いでは高台院(北政所、寧寧)と淀殿との確執があったにせよ秀吉恩顧の 武将、加藤清正、福島正則、蜂須賀正勝、山内一豊等々は石田三成、小西行長と仲違していたとは言え東軍に組している。
長宗我部氏は長年秀吉と交戦しながらも一旦臣下の礼を執った秀吉が死んだ後にも信義を貫いている。武将としてどちらに軍杯を上げるとすればそれは後者であろうとヒゲ爺は確信している。
 天正年間の四国の戦の中心は長宗我部氏であること、阿波の23霊場の大半の寺社仏閣が戦火で消失し たこともも事実であろうし長宗我部氏はその大半の責を負わねば為るまいが攻の長宗我部と防の長宗我部があった事も事実。 
 天正年間の四国の戦の中心は長宗我部氏であること、阿波の23霊場の大半の寺社仏閣が戦火で消失したこともも事実であろうし長宗我部氏はその大半の責を負わねば為るまいが攻の長宗我部と防の長宗我部があった事も事実。
 戦に於いて攻めの場合戦後統治の為に焼き討ち壊しは控える筈防ぎで敗走の場合にこそ焼き討ち壊しが激しくなるのが戦術の一つと聞いている。
長宗我部の阿波攻めと秀吉の四国攻めの焼き討ちの比率はどうだったのか?そこが知りたい。それに拠っては秀吉の責もあると言えよう。
責に秀吉が加わることに拠って長宗我部元親へ免罪符の一ページのかけらでも与えられれば良いがな~と 長宗我部元親ファンの思いである。


  ★ 『四国遍礼霊場記』 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)
 四国遍礼霊場記巻五

土州
室戸山、津寺、西寺、神峯寺、大日寺、国分寺、一宮、五台山付吸江寺、禅師峯寺、高福寺、種間寺、清瀧寺、青龍寺、五社、蹉■【足に陀のツクリ】山  寺山

▼室戸山明星院最御崎寺(二十四番)
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 俗に東寺という。安喜郡にある。空海が求聞持を修めた場所だ。空海自ら書いている所に拠れば、土佐室門の崎で寂然と心に浮かんだとき、明星が口に入り虚空蔵菩薩の光が照らして菩薩の威光を表し、仏法が唯一無二であることを示した。空海が感応した霊地である。空海は弘仁年中に伽藍を整備し、能満虚空蔵の像を彫って安置した。空海が滞在したときの歌「法性の室戸といえど我住めば有為の波風立たぬ日ぞなき」。この和歌は「新勅撰集」に収められている【釈教十・冒頭】。「続後撰」「続古今」和歌集の選者である藤原為家卿自筆の色紙が、寺に残っているらしい。
 空海が修行していたとき、姿を見せた明星を吐き出すと五色の石となった。今も残っている。明星石と呼ばれているものが、そうであるらしい。
 山の麓に光明石というものがある。空海が勤行しているとき、龍鬼が邪魔をした。呪伏して唾を吐くと石に付いて光明を放ちだしたという。
 山の麓に、入口の広さ六七尺の岩窟がある。六七間奥にはいると、高さ二尺ばかりの如意輪観音石像がある。龍宮から上がったものだともいう。巨石で作った厨子がある。中には二金剛を置き、両方の戸には天人をあしらっている。みな浮き彫りだ。実際に見た者にしか、想像も付かないほど玄妙な造化だ。
 東の大きな窟に十七八間入ると、高さは一丈あるいは二三丈ある。広さは二、三間から五、十間。太守が巨石で五社権現祠を建立した。愛満権現と呼ぶ。これは昔、窟の中にいた民を苦しめる毒蛇を、空海が対退治し、跡に祀ったものだ。そのまた東にも窟がある。天照太神の社である。坂の半ばに聞持堂がある。坂より上は女人禁制となっている。
 足摺山とこの嶽を、土佐の二つの岬とする。遙か沖まで突き出ている。特に、この寺は三方を海に囲まれ、山は一方にしかない。座ると波の音が耳に入り続け、空海は、あらゆる現象は因縁の積み重なりによって存在しているとの法理を感じた。今の参詣人も、人を感じ世を感じて、思いに耽る。
 この寺は昔、堂宇は大きく白壁に覆われていた。朱塗りの柱が霞のように駁に見えていた。建仁二年、火災に遭って崩れた石段が土埃に覆われ、人々は心を痛めた。このとき本尊は、大勢の中から飛び出し、林の中に隠れたという。
 俗に食わず芋と呼ばれるものが、この辺にある。奇怪なことがあれば空海に結びつけようとするものが多いが、これも、化物の一つであろう。

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