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四国撮り歩記  霊場八十八ヶ所巡礼の旅:高知編 二十六番霊場

  第二十六番札所;金剛頂寺に向かう。距離大凡5km。
 
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             第二十六番札所 龍頭山 金剛頂寺 光明院
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 「厄坂 金剛頂寺(土佐西寺)」の石柱を右に見て石段を登る。途中に男坂(42段)・女坂(33段)の区切りの標識がある。登り切ると大きな草鞋が奉納された山門に至る。
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                    山             門 
 巨大な草鞋が目を引く。この山門は仁王門でもあり「阿吽の仁王」も奉納されている。
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                 「阿吽」の力士像
 山門を潜ると左手に手水場があり、正面に本堂がある。
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 手水場・手洗いし、漱ぎ本堂に向かう。
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                     本   堂  遠  望
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                     本          堂 
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 本堂前で参詣記念に一枚。
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                     本   堂   内   陣
 本堂を下ると左側に鐘楼(山門からは右側)右側に修業大師像(山門左側)。
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                     鐘            楼
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                     修  業  大  師  像 ・後方に太子堂
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                     太     子     堂
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                     本堂左に  霊 宝 殿
密教法具 旅檀具 真言八祖像 など重要文化財が収蔵されているそうである。

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     クジラの碑「捕鯨八千頭精霊供養塔」とある。
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                 納     経     所
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           御     朱     印

 無事参詣を終え第二十七番札所 神峰寺へ向かう・・・・・・合掌  ・ 11月1日午前8時32分

★ 本尊:薬師如来(伝弘法大師作)      ★  開基:弘法大師
★ 本尊の真言:おん、ころころ、せんだり、まとぅぎ、そわか

『略縁起』
 ★金剛頂寺は大同2(807)年、嵯峨天皇の勅願によって、弘法大師が開基した。
嵯峨天皇が金剛頂寺の勅額を奉納したことから、金剛頂寺と改められた。西寺といって24番の東寺と鵜並称され、女人禁制の霊地であった。本尊は大師の手のよる座像の薬師如来が安置さいる
完成すると自ら本堂の扉を開けて鎮座したと伝えられておりその後は嵯峨、淳和天皇の勅願所として栄えたが文明11年(1479年)年火災のために焼失した。だがたちまち復興し、同18年に新しく金堂が建立された。金剛頂寺が全盛のころは、3500石を領有し、長宗我部氏、山内氏と代々の藩主の寄進もあり繁栄したが明治32年の火災により、全山消失した。現在の堂宇は以後の再建である。
本堂横には正倉院様式の霊宝殿がありここにある本造阿弥陀如来像は平安末期の寄木造りで、高さは88cm。さらに板彫真言八祖像八面、朝鮮鐘、鋼造観音菩薩立像、平安時代の密教法異ならびに弘法大師が背負って歩いたという金銅旅壇具、南部大経十巻大毘塵遮那経、金剛頂経が重要文化財になっている。

★『略縁起』は爺の勝手に書くものではなく寺院又は先達の文章を参考に書くしか方法がない。
金剛頂寺は大同2(807)年、嵯峨天皇の勅願と書いたが、納得のいくものではない。何故なら、
 第52代嵯峨天皇の在位は大同4年(809年)~弘仁14年(823年)であり、大同2年は平城天皇の御世である、大師も大同1年10月唐より九州大宰府に帰朝し大同4年のはじめまで観世音寺(監視付との説もある)に止め置かれている。平城天皇にも会っていないと考えている。
他にも大同2年開基と記された寺が数ヶ寺あるが同じ疑問を持っている。


  ★ 『四国遍礼霊場記』 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)
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 俗に西寺と呼ぶ。安喜郡にある。景色が見事であるため空海が建立した。嵯峨・淳和両天皇の勅願寺で、奥深い密教の教えを称揚した道場であった。その後も権威は受け継がれ、崇敬を受けた。綸旨・院宣・御教書を受けた。そのうち数件は、永く将来まで守るべき命令書とされている。
 本尊は薬師如来像。空海が作ったとき、像によって肉体を与え堂も出来たので早く行って席に着け、と言った。薬師如来像は立ち上がって厨子に入り、自ら戸を閉めた。以後、戸が開くことはない。
 空海が始めてこの地を訪れたとき、大きな楠があった。木の虚の中に多くの天狗が集まっていた。空海を見て、羽を叩き嘴を鳴らし咎め罵った。空海は暫く呪文を唱えて佇んでいた。不動明王の大呪/火界呪【曩莫薩■【クチヘンに縛】怛他檗帝毘薬、薩■【クチヘンに縛】目契毘薬、薩■【クチヘンに縛】他怛■【クチヘンに羅】■【クチヘンに宅のツクリ】、贊拏摩賀路灑拏、缺、■【ニンベンに去】■【クチヘンに目】、■【ニンベンに去】■【クチヘンに目】、■【クチヘンに縛】尾勤南、吽、怛■【クチヘンに羅】■【クチヘンに宅のツクリ】、憾、■【牟に含】/なうまくさらばたたーぎゃていびやく、さらばぼつけいびやく、さらばたたらた、せんだまかろしやだ、けん、ぎやき、ぎやき、さらばだぎなん、うん、たらた、かん、まん】であった。忽ち火焔が放出された。神通力も及ばず天狗たちは退散した。固く結界して寺を建て、自分の像を彫って楠の虚に置いた。
 空海の弟子に智弘という人がいた。徳の高い僧だったが、賑やかさを嫌い閑談を愛していた。空海に、この寺を任され、隠者のように暮らし一生を終えた。廟がある。
 本堂右の社は地主神・若一王子。左は十八所宮、空海が京から勧請した。山の上には清い泉があり、傍に弁財天の祠が建っている。空海が加持した阿伽井がある。堂を建てて覆っている。二王門には空海直筆の額。御影堂には空海が登ってきたときに使った杖がある。
 空海所持の仏具がある。このほか霊宝は多い。空海が書いたという当山の秘記があるらしい。存在を疑問視する人は多い。だいたいが文字に写せないこともあるだろう。
 文明年中に火災に遭い、堂宇は灰燼に帰した。焼け跡に本尊は瑠璃光を放って立っていたという。堂の再建供養の導師は根来の道瑜だったろうか。そのときの願文に書いてある。
 釜堂の釜は、空海が唐から持ち帰ったものだというが、記録には残っていない。空海時代のもので、通常とは異なる物だと言われている。容量は三石六斗。
 この寺は昔から女人禁制だ。女性の参詣人は、麓にある行道所の窟で拝む。楠の木に空海が彫りつけた霊験あらたかな不動明王像が本尊。
 この山には昔、多くの寺が厳かに放映を行っていたが、今では五寺しか残っていない。

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