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四国撮り歩記  霊場八十八ヶ所巡礼の旅:高知編 二十九番霊場

  第二十九番札所;国分寺に向かう。距離大凡10km。

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        第二十九番札所 摩尼山 国分寺 宝蔵院
 
 奈良朝廷時代全国を統治する為、律令に基づいて日本の地方行政区分を制定した。令制国(りょうせいこく)・律令国(りつりょうこく)ともいう。所謂「国府」である。
 仏教を規範として行政を統治しようと試みた聖武天皇は天平13年(741年)国府の配置された国ごとに「国分寺建立の詔」を出した。その内容は、各国府ごとに七重塔を建て、金光明最勝王経と妙法蓮華経(法華経)を写経すること、自らも金字の金光明最勝王経を写し、塔ごとに納めること、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、僧寺の名は金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺とすることなどである。寺の財源として、僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施すこと、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められた。四国には阿波・土佐・伊予・讃岐と国府が置かれ国分僧寺が建立された、現在の残る『国分寺』の前身であろうと思われる。
 四国八十八箇所霊場には4ヶ所の『国分寺』がある。
① 阿波・第十五番札所 ② 土佐・第二十九番札所 ③ 伊予・第五十九番札所 ④ 讃岐・第八十番札所.
 土佐の国府は国分寺から北東1kmに国府跡がある。
土佐の国府と云えば平安中期の歌人、★紀貫之(868〜945頃)の『土佐日記』であろう。、貫之は国司として国府に4年間滞在した。
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                山          門 
 山門は仁王門で両脇に阿形・吽形の仁王像が配置されている。
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               阿・吽 の 仁 王 像
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               境  内  配  置 図
 仁王門を潜り杉木立のの並ぶ石畳を進むと正面に本堂がある。左側に太子堂と「酒断地蔵尊」がある。石畳の途中に右折れの道は「中門」を潜り光明殿に続く、この一画は庭園で庫裏、納経所がある。右折れ道の山門寄りに鐘楼・手水場が配置されている。

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               本   堂 へ 続く石畳
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       柿葺き(こけらぶき)の金堂(本堂) (柿木の板で屋根を葺く)
 金堂は七堂伽藍の中心となる建物で、本尊を安置するお堂。現在の建物は永禄元年(1558)に長宗我部国親・元親親子により創建時の金堂跡に再建されたもので、杮葺(こけらぶき)と天平時代の建物に模した寄棟造りに特徴がある。
 又、内部の海老虹梁は土佐最古といわれ吹寄垂木等に室町時代の特色がうかがわれる。明治37年に国の特別保護建造物に指定され現在にいたる。
 
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                金堂前で記念撮影
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                太    子    堂
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                『酒 断 地 蔵 尊』
       幾らお祈りしても酒断ちは出来そうにありませ~ん!!
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                地蔵尊左に『観音像』
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                鐘 楼 と 手 水 場
  鐘楼と手水場を右折すると庭園と中門に続く。
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                中           門
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                光     明     殿 
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                光 明 殿 内 陣 
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                光明殿前の庭園 
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                庫           裏 
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                納     経     所  
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       御   朱   印
               
  無事参詣を終えて第30番札所 善楽寺に向かう・・・・・・合掌    11月1日午後1時5分

 ★ 本尊:千手観音菩薩 (伝 行基菩薩)    ★ 開基:行基菩薩
 ★ 本尊の真言:おん、ばざら、たらま、きりく
  
『略縁起』
 聖武天皇の勅願により、天平11年(739)に行基が建立した寺。本尊の千手観音像、脇仏の不動明王、毘沙門天共に行基作。天皇自らが金光明景勝王経を書写して納め、天下泰平、五穀豊穣、万民豊楽を願う祈願所とした。後に弘法大師が真言宗の寺として中興。招福・除災の星祭の秘法を修めて、四国29番霊場に定めた。歴代天皇からの信仰が厚かったほか、長宗我部氏や土佐藩主・山内氏からも信仰を集め寺領、堂宇等の寄進を受けている。数多くの史跡が残っていることから、境内地全域が史蹟として国の文化財指定されている。   
  
 ★ 『四国遍礼霊場記』 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載) 
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 長岡郡にある。聖武天皇が詔勅を発して建てた、土佐の国分寺だ。古い言葉に、根の深いものは抜けにくいという。この寺は昔の繁栄から比べると廃れてはいるが、千年もの間存続しているのであるから、当初の企図が偉大であったのだろう。今の本尊は千手菩薩で、不動明王・毘沙門天を脇士としている。行基菩薩が作った。
 本堂の西に空海の御影堂、北西に崇道天王、南西には楠山王神を祀っている。左には十王堂があり、本坊を東に構えている。脇坊には四宇があり、垣の西に門がある。本堂の正面南には二王門。仁王像は五尺五寸で、楼上には鐘が架かっている。朝夕に突く音は神明に通じ、人々を安心させ仏教が根付く一助となっている。
 国分寺の成り立ちについて讃岐・阿波の巻に書いた。ここでは詳しく書かない。

 ★ 紀 貫之(き の つらゆき)は、平安時代前期の歌人。醍醐天皇の勅命により『新選和歌集』を編纂、『古今和歌集』の選者のひとり、また三十六歌仙のひとりでもあり『土佐日記』の作者でもある。
延長8年(930年)1月 - 土佐守に遷任され国司に就く。貫之が土佐の国府に国司として四年間務めたので国司時代に書かれたと思われがちだが承平5年(935年)2月 - 土佐守の任を終え、京への帰路の五十数日間の紀行を参考に、帰洛の後に『土佐日記』は書かれたものである。

 『土佐日記』:序の部(参考資料として)
男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。それの年(承平四年)のしはすの二十日あまり一日の、戌の時に門出す。そのよしいさゝかものにかきつく。ある人縣の四年五年はてゝ例のことゞも皆しをへて、解由など取りて住むたちより出でゝ船に乘るべき所へわたる。かれこれ知る知らぬおくりす。年ごろよく具しつる人々(共イ)なむわかれ難く思ひてその日頻にとかくしつゝのゝしるうちに夜更けぬ。
廿二日(にイ有)、和泉の國までとたひらかにねがひたつ。藤原の言實船路なれど馬の餞す。上中下ながら醉ひ過ぎていと怪しくしほ海のほとりにてあざれあへり。
廿三日、八木の康教といふ人あり。この人國に必ずしもいひつかふ者にもあらざる(二字ずイ)なり。これぞ正しきやうにて馬の餞したる。かみがらにやあらむ、國人の心の常として今はとて見えざなるを心あるものは恥ぢずき(ぞイ)なむきける。これは物によりて譽むるにしもあらず。
廿四日、講師馬の餞しに出でませり。ありとある上下童まで醉ひしれて、一文字をだに知らぬものしが、足は十文字に踏みてぞ遊ぶ。
廿五日、守のたちより呼びに文もて來れり。呼ばれて至りて日ひとひ夜ひとよとかく遊ぶやうにて明けにけり。
廿六日、なほ守のたちにてあるじしのゝしりてをのこらまでに物かづけたり。からうた聲あげていひけり。やまとうた、あるじもまらうどもこと人もいひあへりけり。からうたはこれにはえ書かず。やまとうたあるじの守のよめりける、
「都いでゝ君に逢はむとこしものをこしかひもなく別れぬるかな」
となむありければ、かへる前の守のよめりける、
「しろたへの浪路を遠くゆきかひて我に似べきはたれならなくに」。
ことひとびとのもありけれどさかしきもなかるべし。とかくいひて前の守も今のも諸共におりて、今のあるじも前のも手取りかはしてゑひごとに心よげなることして出でにけり。
廿七日、大津より浦戸をさして漕ぎ出づ。かくあるうちに京にて生れたりし女子(子イ無)こゝにて俄にうせにしかば、この頃の出立いそぎを見れど何事もえいはず。京へ歸るに女子のなきのみぞ悲しび戀ふる。ある人々もえ堪へず。この間にある人のかきて出せる歌、
「都へとおもふもものゝかなしきはかへらぬ人のあればなりけり」。
又、或時には、
「あるものと忘れつゝなほなき人をいづらと問ふぞ悲しかりける」
といひける間に鹿兒の崎といふ所に守のはらからまたことひとこれかれ酒なにど持て追ひきて、磯におり居て別れ難きことをいふ。守のたちの人々の中にこの來る人々ぞ心あるやうにはいはれほのめく。かく別れ難くいひて、かの人々の口網ももろもちにてこの海邊にて荷ひいだせる歌、
「をしと思ふ人やとまるとあし鴨のうち群れてこそ我はきにけれ」
といひてありければ、いといたく愛でゝ行く人のよめりける、
「棹させど底ひも知らぬわたつみのふかきこゝろを君に見るかな」
といふ間に楫取ものゝ哀も知らでおのれし酒をくらひつれば、早くいなむとて「潮滿ちぬ。風も吹きぬべし」とさわげば船に乘りなむとす。この折にある人々折節につけて、からうたども時に似つかはしき(をイ有)いふ。又ある人西國なれど甲斐歌などいふ。かくうたふに、ふなやかたの塵も散り、空ゆく雲もたゞよひぬとぞいふなる。今宵浦戸にとまる。藤原のとき實、橘の季衡、こと人々追ひきたり。
廿八日、浦戸より漕ぎ出でゝ大湊をおふ。この間にはやくの國の守の子山口の千岑、酒よき物どももてきて船に入れたり。ゆくゆく飮みくふ。
廿九日、大湊にとまれり。くす師ふりはへて屠蘇白散酒加へてもて來たり。志あるに似たり。
元日、なほ同じとまりなり。白散をあるもの夜のまとてふなやかたにさしはさめりければ、風に吹きならさせて海に入れてえ飮まずなりぬ。芋し(もカ)あらめも齒固めもなし。かやうの物もなき國なり。求めもおかず。唯おしあゆの口をのみぞ吸ふ。このすふ人々の口を押年魚もし思ふやうあらむや。今日は都のみぞ思ひやらるゝ。「九重の門のしりくめ繩のなよしの頭ひゝら木らいかに」とぞいひあへる。
二日、なほ大湊にとまれり。講師、物、酒などおこせたり。・・・・・・・・・・・・・・・つづく



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