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四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:土佐高知編 三十四番霊場

   第三十四番札所;種間寺に向かう。距離大凡7km。
種間寺到着がPM5:1分、納経所の閉所の時間ギリギリ、変則ながら最初に御朱印を戴く。ゆっくりと参詣できた。

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        第三十四番札所 本尾山 種間寺 朱雀院
 
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               石      柱      門
 種間寺には山門はない、石柱門である。右には庫裏・納経所・鐘楼がある。左側の白壁に沿った参道の入り口の右で修行大師立像が迎えてくれる。
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               修 行 大 師 立 像
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           細い参道の白壁に沿って石仏が並らぶ。
 参道を過ぎ境内に入ると億の正面に本堂がある。手前左に子安観音・右に太子堂がある。
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               本            堂
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  ご本尊:薬師如来は約145cmの座像で百済(くだら)の仏師の作といわれ国の重要文化財に指定。
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               本   堂   内   陣
 別名「薬師如来奉安殿」と呼ばれている。堂宇はすべて昭和45年の台風後に再建。

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               子  安  観  音  堂
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 conv201409050001のコピー
               子  安  観  音  像
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 観音堂の周囲に「底の無い(抜けた)柄杓」が沢山奉納されている。安産祈願だそうな・・・そのエピソードを紹介する。

 『柄杓の謎なぞ?』;
 この寺に奉納されちゅう、柄杓の謎なぞ?について、如何してじゃろと考えた?。其処でにわかに、興味が沸いたきに、先ず本尊を調べたが゙よ!
国宝安産の薬師如来と書かれちょらよ!まっこと安産祈祷所の柱や梁に底が抜けた柄杓がどっさり打ちつけられちゅう事が不思議じゃのうし。寺の古事・由縁を尋ねてみたら、安産を願う妊婦の女御子が、新しい柄杓を持って御寺に参り、寺の住職さんが底を抜いて仏さん(正確に言うと如来さんよ)に御祈祷してくれる相や!其れを家に持ち帰り、床の間にお札と底抜けの柄杓を祭って安産を願ったがやと!子供が無事生まれたら又其の柄杓を寺へ奉納するがじゃと!。其の由縁が実に面白い?なんじゃとおもうかよ!。種間の種は子宝の種の種の意・間は言えん!底の無いのは『通りを良くする為』じゃと!話しも聞いて見るもんじゃねや。先人もユウモアーが有ったぞねや。
男のおらには、解らんけど本当は『子供を産み、育て上げるまで、底の無い柄杓で水を汲み上げる程苦労がかかるものだよ』と言う意味だそうですね!此れで解ったろう。( 水軍丸船長さんブログから戴きました)

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               大      師      堂
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               大  師  堂   内  陣

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               手      水      場
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大師堂の隣にある手水場  江戸時代初期・延宝5年(1677年)の1677年に作られた手水鉢。

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               鐘            楼
 鐘楼は庫裏・納経所より外側にある。
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 庫裏(本坊)・玄関の左手に納経所の窓口がある。
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          御  朱  印

  無事参詣を終える・・・・・・合掌。

 今朝の早朝室戸岬を訪れ中岡新太郎の銅像に挨拶したのがAM6;33分、土佐の一ヶ寺目第24番霊場最御崎寺を皮切りに第34番霊場種間寺までの11ヶ寺、良く回れたものだ。後は今夜の宿を探すだけである。

★ 本尊:薬師如来(坐像4尺8寸)国宝に指定     ★ 開創:弘法大師         
★ 本尊の真言:おん、ころころ、せんだり、まとぅぎ、そわか

『略縁起』
 千四百年前に百済の仏師、工匠達が大阪の四天王寺造営のため訪れ落成後帰国の途中時化に遭い寄港したのが近くの秋山港、海上安全を祈願して薬師如来を刻み秋山郷本尾山頂に安置する、これが寺の始まりであり後に大師が当地を訪れ薬師如来を本尊とする当寺を開創した。大師が唐より帰国の時持ち帰った五穀(稲、麦、粟、稗、豆)を蒔いたとの由来で種間寺と命名したそうだ。
藩政時代藩主山内公に厚い保護を受けた。

★ 開創:寺院を創設すること。寺院開創の創立者を開基、寺院の宗派のうえでの開創僧侶のことを開山という。


  ★ 『四国遍礼霊場記』 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)
 
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 吾川郡秋山村にある。聖徳太子が天王寺を建立しようと、百済から宮大工や仏師を招いた。寺が完成し、工匠らが百済に帰る途中、舟が外洋に差し掛かったとき、逆風が荒れ狂い、舵が折れた。波は高く海水が空に降り注ぐほどだった。南へ北へと波に翻弄された。たまたま土佐国吾川郡に辿り着いた。水棲動物の餌にならずに済んだ。工匠らは滞在するうち、現在の本尊・薬師如来像を作り、故郷に帰ることを願った。すると二羽の鶴が飛来した。両翼を伸ばし、船のように工匠らを載せて、西の空へと飛び去った。人々は、薬師如来の霊異だと感じた。本尾の山頂に堂を建て、本尊を安置して、国家鎮護の押さえとした。
 その後、清和天皇の時代、粟田の関白・藤原道兼の息子・信衡が土佐に流された。その子供の信定が山の麓に堂を建て、本尊を移して安置した。参詣の人が苦労しないようにとの配慮だった。
 本尊の霊異を聞いた村上天皇が、藤原信家を勅使として派遣、種間寺に勅額を贈った。信家は大般若経一部を写して本尊に捧げようと考えた。一人の異様な雰囲気の僧侶が現れて、自分がやろうと三年間堂に籠もって六百巻を書写した。供養の場となって、僧侶は、何事があったのだろうか、姿を消した。経は六百巻とも空中に舞い上がり、暫くして落ちてきた。ことごとく白紙に戻っていた。これを白紙の般若と呼び、今も残っている。冷泉院の時代に、この白紙を送らせ代わりに大般若経一部と十六善神の絵一幅を寄越した。現在にも残り、毎年多くの僧を招いて転読し、国家の安全を願う儀式を行っている。
 寺の数百年にわたる数度の興廃は記録に残っている。現在の堂は正保三年秋、前の国主・従四位侍従兼土佐守藤原朝臣忠義が、昔と同じように本尾山の頂に堂を建て、荘厳を尽くした。本尊を安置した。霊像と霊境は互いに呼応して、改めて霊験あらたかとなった。忠義の息子・忠豊は父の遺志を継ぎ、堂を補修し鎮守社を再建した。

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