ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
- 2023 . 02 «
- 1
- 2
- 3
- 4
- 5
- 6
- 7
- 8
- 9
- 10
- 11
- 12
- 13
- 14
- 15
- 16
- 17
- 18
- 19
- 20
- 21
- 22
- 23
- 24
- 25
- 26
- 27
- 28
- 29
- 30
- 31
四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:土佐高知編 三十五番霊場
第三十五番札所;清滝寺に向かう。距離大凡13km。

第三十五番札所 医王山 清滝寺 鏡池院


仁 王 門


仁 王 門 天井絵「龍の絵」
明治33年の楼門建立に際し、絵金を学んだ地方画家久保南窓が揮毫したもの。
仁王門を潜ると長い石段が続き登り切ると境内に出る。境内の正面に本堂が建つ。


本 堂

右側に本堂・左側大師堂・中央部に厄よけ薬師如来像。

大 師 堂

厄除け薬師如来立像:本堂前、台座を含めると高さ15m。昭和8年、製紙業者による寄贈した。

何故か本堂の右隣に鳥居が?


「琴平神社本殿高知県保護有形文化財」と石柱にある。

地 蔵 堂

観 音 堂
境内参道の右側に手水・鐘楼・庫裏(客殿・寺坊)・納経所がある。

手 水 場

鐘 楼

庫 裏

庫 裏 表 札

納 経 所

御 朱 印
無事参詣を終えて第37番札所 岩本寺に向かう・・・・・・合掌 11月2日午前8時50分。
★ 本尊:薬師如来 (伝 行基菩薩作) ★ 開基:行基菩薩
★ 本尊の真言:おん、ころころ、せんだり、まとぅぎ、そわか
『略縁起』
養老七年(723)修行巡錫中の行基菩薩がこの地で霊気を感じ薬師如来を刻み本尊とし景山蜜院:釈本寺として開基したのが始まり、弘仁年間(810~23)留錫した弘法大師が当山の北方300mの巌上で7日間修行し、満願の日に金剛杖で壇前を突くと清水が湧き出て滝となり溢れて鏡のような池が出来たそうな。それで今までの寺号を改め清滝寺と改名した35番札所と定められた。
なおこの寺には平城天皇の第三皇子の高岳親王の逆修塔がある。★薬子の乱にに連座したとして皇子の任を解かれ土佐の国に流され当寺で修業された後唐に渡ったと伝えられたいる。
★薬子の変:平安時代初期に起こった事件。平城上皇と嵯峨天皇とが対立、(皇位継承問題)嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって平城上皇が出家して決着する。平城上皇の愛妾の藤原薬子や、その兄である藤原仲成らが処罰された。第三皇子の高岳親王も連座し土佐に流刑。
★高岳親王:平城天皇の第三皇子。法名、真如。遍明とも。嵯峨天皇の皇太子。薬子(くすこ)の乱に連座、廃されて空海の弟子となった。唐を経て、インドへ渡航中羅越で客死したと伝えられる。真如親王。
★ 『四国遍礼霊場記』 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)

高岡にある。本尊の薬師如来像、日光・月光菩薩・十二神は、行基菩薩の作。秘仏となっている。本堂の左に鎮守社、右に空海の御影堂、傍らに真如親王の墓だと伝えられるものがある。
高さ五尺ほどの五輪塔が建っている。親王が塔に赴くとき、風の具合が悪く、暫く土佐に滞在した。民家を整えて休んだ。このため、所の土地を、御所の内と呼ぶ。寺に入って親王は、唐から天竺へ遙々向かう心細さを思ったのだろうか、自分の墓を建てたという。羅越国で亡くなった。
親王は平城天皇の第三子で、高岳親王と称する。嵯峨天皇が皇太子としたが藤原薬子の乱で廃されて出家、東大寺で三論宗を学んだ。生まれつき賢く高邁で、仏教だけでなく儒教も学んだ。真言宗の教えを空海に受けた。朝廷に願って唐に赴き西域にまで行こうと志を立てたが、流沙で客死した。日本から唐へ留学した者は数多いが、天竺を目指した者は、親王一人である。この勇気に昔の人は驚いた。今、ここで親王の墓があると聞くさえ、哀れを催すことだ。
・・・・・・・・真如関連資料・・・・・・・・・・・・・・・・・・
澁澤龍彦「高丘親王航海記」にも取り上げられた高僧。戦時中は南方進出の政策と相俟って教科書にも取り上げられた。当時は日本人の起源として南方系民族が注目されたが、事情は同じである。ただし、精確な史料が残っておらず、人口に膾炙しているごとく虎に喰われたのか否かも、分からない。以下、管見に触れたものを以下に掲げる。
【先帝御不和云々。仍先帝兵ヲオコシテ東國ヘ御下向云々。ヨリテ大納言田村麻呂。参議綿丸等ヲツカハシテトドメマイラスル間ニ。太上天皇ノ御方ノ大将軍仲成打取畢。又内侍〔薬子〕ノカミ同死畢。ススメニテ此事アリト云々。上皇御出家ヲハヌ。東宮高丘親王ヲトドメテ大伴皇子ヲ東宮トス。高丘親王出家得度。弘法大師ノ御弟子ニナリタマウ。入唐シテカシコニテ遷化シタマウ。真如親王ト申ハコレナリ。或ハ唐ヨリナヲ天竺ヘワタリタマウ。流沙ニテウセ給トイヘリ。/愚管抄巻一嵯峨天皇十四年】
【真如親王天竺にわたり給ふ事 昔真如親王といふ人いまそかりけり。ならの御門の第三のおん子なり。いまだかしらおろしたまはぬさきには。たかをかの親王とぞ申ける。かざりをおとしたまひてのちは。道詮律師にあひて。三論宗をきはめ。弘法大師にしたがひて真言をならひ給けり。法門ともにおぼつかなきことおほしとて。ついにもろこしにぞわたり給ける。宗叡僧正とともなひ給けるが。宗叡は文殊のすみ給五台山おがまんとてゆき給ふ。親王はものならふべき師をたづね給けるほどに。むかしこのやまとの国の人にて。円載和尚といひし人の唐にとどまりたりけるが。親王のわたり給よしをきヽて。御門に奏したりければ。御門あはれみて。法味和尚といふ人におほせつけられて。学問ありけれど。心にもかなはざりければ。つゐに天竺にぞわたりたまひける。錫杖をつきてあしにまかせてひとりゆく。ことはりにもすぎてわづらひおほし。さてやうやうすヽみゆくほどに。つゐに虎にゆきあひて。むなしくいのちおはりぬとなん。このことは親王の伝にも見へ侍らねば。しるしいれぬるなるべし。昔のかしこき人々の。天竺にわたり給へる事をしるせるふみにも。大唐新羅の人々はかずあまたみへ侍れど。この国の人はひとりもみえざんめるに。この親王のおもひたち給けん心のほど。いといとあはれにかしこく侍り。昔はやすみしるまうけのすべらぎにて。もヽのつかさにあふがれきといへども。いまは道のほとりのたびのたましゐとして。ひとりいづくにおもむきたまひけんと。返々もあはれに侍り。……中略……わたりたまひけるみちのよういに大かんし三もちたまひけるを。つかれたるすがたしたる人いできてこひければ。とりいでて中にもちいさきをあたへ給けり。この人おなじくはおほきなるをあづからはやといひければ。我はこれにてすゑもかぎらぬみちをゆくべし。汝はこヽのもと人也。さしあたりたるうへをふせぎてはたりぬべしとありければ。この人菩薩の給はざる事なし。汝心ちいさからん人のほどこすものをばうくべからずとて。かきけちうせにけり。親王あやしくて。化人の出来てわがこヽろをはからひけるにぞと。くやしくあぢきなしと侍る事思いでられて。とにかくにこヽろすずろに侍り。……後略/閑居友巻上第一話】
【前略……去れは此大和の国。奈良の御門の太子。長岡の親王とてゐませしは。すへらきの儲の君にてをはせいか。浮事にあはせ給て後。御かさりをろさせ給て。道詮律師の室に入て。真如親王となん申けれは。智恵徳行ならひなくて。三論宗をもてあそひ給ふのみならす。宗叡僧都の禅林寺閑庵に閉篭ては。鹿薗の谷の水に。見思の垢をすヽき。修円大徳の伝法院にやすみしては。覚知一心の悟を開き。弘法大師に随ては。真言宗をきはめ給へり。かヽる有智高僧の人々も。猶あきたらすやをほしけん。唐に渡り給へりけるか。是には明師もなしとて。天竺に渡り給へり。唐の御門。渡天之心さしを哀みて。さまざま宝をあたへ給へりけるに。それよしなしとて皆々返し参せて。道の用意とて。大柑子を三留給へりけるそ。聞もかなしく侍るめる。さても宗叡帰朝すれとも友なひ給へる親王は見え給はなえは。唐へ生死を。尋給へりけり。返事に渡天すとて師子州にて。村かれる虎の合て。くゐ奉らんとしけるに。我身を惜には非す。我は是仏法のうつは物なり。あやまつ事なかれとて。錫杖にてあはへりけれと。つゐに情なくくゐ奉ると。側になん聞ゆと侍けるに。御門を初まゐらせて。百のつかさ皆袂をしほりにけり。/撰集抄第のうち玄奘三蔵并真如親王渡天事から】
【(元慶五年十月十三日条)无品高丘親王。志深真諦。早出塵区。求法之情。不遠異境。去貞観四年自辞当邦。問道西唐。乗査一去。飛錫无帰。今得在唐僧中■【王に灌のツクリ】申状称。親王先過震旦。欲度流沙。風聞到羅越国。逆旅遷化者。雖薨背之日不記。而審問之来可知焉。親王者平城太上天皇之第三子也。母贈従三位伊勢朝臣継子。正四位下勲四等老人之女也云々。去大同五年廃皇太子。親王帰命覚路。混形沙門。名曰真如。住東大寺。親王機識明敏。学渉内外。聴受領悟。罕見其人。稟受三論宗義於律師道詮。稍通大義。又真言密教究竟秘奥。門弟子之成熟者衆。小乗壹演為上首。詔授伝燈修行賢大法師位。親王心自為。真言宗義。師資相伝。猶有不通。凡在此間。難可質疑況復観電露之遂空。顧形骸之早弃。苦求入唐了悟幽旨。乃至庶幾尋訪天竺。貞観三年上表曰。真如出家以降四十余年。企三菩提。在一道場。竊以。菩薩之道。不必一致。或住戒行。乃禅乃学。而一事未遂。余算稍頽。所願跋渉諸国之山林。渇仰斗藪之勝跡。勅依請。即便下知山陰山陽南海等諸道。所到安置供養。四年奏請。擬入西唐。適可許。乃乗一舶。渡海投唐。彼之道俗。甚見珍敬。親王遍詢衆徳。疑■【得のツクリ】難決。送書律師道詮曰。漢家諸徳多乏論学。歴問有意。无及吾師。至于真言。有足共言焉。親王遂杖錫就路■【一字欠】脚孤行。十五年親王男大和守従四位上在原朝臣善淵。前肥後守従五位上同安貞等上表請。親王入唐後。多歴年序。帰朝之期已過。存亡之分難決。而偏准平常。猶受封邑。静而思之。悚兢難耐。伏望早被返収。将免謗議。■【來に力】。存亡難卜。何許来請焉。親王身殞中途。神馳半月。昔為千乗之皇儲。今作単子之旅魄。彼菩提之求。何必出戸。然厭世心深。甚哉苦行。親王始登震坊。世人号曰蹲居太子。雖見廃非其罪。而理有必至。靡可預防。豈天意乎。豈人事乎。何婬嬖之傷化。而俗諺之如期。書曰。牝鶏之晨。惟家之索。信而有徴歟。/三代実録巻四十陽成天皇】
【真如親王入唐略記(入唐五家伝)伝云。親王帰命覚路。混形沙門。住東大寺。機明敏楽。渉内外真言教。究竟幽玄。貞観四年奏請。擬入西唐。適蒙勅許。乃乗一舶渡唐。高丘親王(平城天皇皇太子。母贈従三位伊勢継子。従四位下勲四等老人母女也)大同四年四月十三日立為太子。弘仁元年九月十三日廃皇太子。出家。貞観三年入唐。法名真如。元慶五年十月。三日自唐申遷化由。到流沙。於羅越国亡云々】
なお、これに続く「頭陀親王入唐略記」に、貞観三年七月十三日に難波津で乗船、八月九日に太宰府に到着したとある。その間、四週間足らず。遣唐使の標準的な行程をとった場合の日数といえる。なお、遣唐使は難波津を出て、中国地方の瀬戸内海沿岸を航行した。則ち真如には、土佐の横浪付近まで迂回する時間的な余裕はなかったことになる。
とはいえ、清瀧寺にある真如の墓/塔が無意味に存在しているとは思わない。三十六番・青龍寺の項で道指南は、花山天皇が土佐に流され客死した、と伝える。花山天皇は十七歳で即位、十九歳で妃を亡くし絶望、藤原道長の兄に当たる道兼に唆されて出家する。共に出家すると誓った道兼は姿を眩ました。その間に七歳の一条天皇が即位し、外戚・藤原家の専断体制が成立した。年若い花山天皇の純情に付け込んだ政治劇は、あまりに愚かしい。そして、花山天皇が土佐に流されたことなど、史実にはない。
例えば日本武尊と弟橘姫、例えば静御前、本当に其の地に来たかあやしいけれども、全国各地に伝承が残っている。悲劇の英雄もしくはヒロインに同情し、慰めようとする人々の優しさが、事実を捏造していったのだろう。事実として認めることは出来ないが、責める気にはなれない。昔の優しき人々の存在をこそ、事実として信じたい。
結局する所、真如の墓は、真如が清瀧寺へ実際に来たことの証ではなく、真如の悲壮な企てに対する深い同情の証ではないか。両者は厳然と峻別せねばならないが、必ずしも後者の価値を貶めるものではない。却って、価値は高いかもしれない。人間というものの優しさ、権力から排除された者を抱き取ろうとする強さが、昔の人々にはあったことを証明しているように思えるから。

第三十五番札所 医王山 清滝寺 鏡池院


仁 王 門


仁 王 門 天井絵「龍の絵」
明治33年の楼門建立に際し、絵金を学んだ地方画家久保南窓が揮毫したもの。
仁王門を潜ると長い石段が続き登り切ると境内に出る。境内の正面に本堂が建つ。


本 堂

右側に本堂・左側大師堂・中央部に厄よけ薬師如来像。

大 師 堂

厄除け薬師如来立像:本堂前、台座を含めると高さ15m。昭和8年、製紙業者による寄贈した。

何故か本堂の右隣に鳥居が?


「琴平神社本殿高知県保護有形文化財」と石柱にある。

地 蔵 堂

観 音 堂
境内参道の右側に手水・鐘楼・庫裏(客殿・寺坊)・納経所がある。

手 水 場

鐘 楼

庫 裏


庫 裏 表 札

納 経 所

御 朱 印
無事参詣を終えて第37番札所 岩本寺に向かう・・・・・・合掌 11月2日午前8時50分。
★ 本尊:薬師如来 (伝 行基菩薩作) ★ 開基:行基菩薩
★ 本尊の真言:おん、ころころ、せんだり、まとぅぎ、そわか
『略縁起』
養老七年(723)修行巡錫中の行基菩薩がこの地で霊気を感じ薬師如来を刻み本尊とし景山蜜院:釈本寺として開基したのが始まり、弘仁年間(810~23)留錫した弘法大師が当山の北方300mの巌上で7日間修行し、満願の日に金剛杖で壇前を突くと清水が湧き出て滝となり溢れて鏡のような池が出来たそうな。それで今までの寺号を改め清滝寺と改名した35番札所と定められた。
なおこの寺には平城天皇の第三皇子の高岳親王の逆修塔がある。★薬子の乱にに連座したとして皇子の任を解かれ土佐の国に流され当寺で修業された後唐に渡ったと伝えられたいる。
★薬子の変:平安時代初期に起こった事件。平城上皇と嵯峨天皇とが対立、(皇位継承問題)嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって平城上皇が出家して決着する。平城上皇の愛妾の藤原薬子や、その兄である藤原仲成らが処罰された。第三皇子の高岳親王も連座し土佐に流刑。
★高岳親王:平城天皇の第三皇子。法名、真如。遍明とも。嵯峨天皇の皇太子。薬子(くすこ)の乱に連座、廃されて空海の弟子となった。唐を経て、インドへ渡航中羅越で客死したと伝えられる。真如親王。
★ 『四国遍礼霊場記』 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)

高岡にある。本尊の薬師如来像、日光・月光菩薩・十二神は、行基菩薩の作。秘仏となっている。本堂の左に鎮守社、右に空海の御影堂、傍らに真如親王の墓だと伝えられるものがある。
高さ五尺ほどの五輪塔が建っている。親王が塔に赴くとき、風の具合が悪く、暫く土佐に滞在した。民家を整えて休んだ。このため、所の土地を、御所の内と呼ぶ。寺に入って親王は、唐から天竺へ遙々向かう心細さを思ったのだろうか、自分の墓を建てたという。羅越国で亡くなった。
親王は平城天皇の第三子で、高岳親王と称する。嵯峨天皇が皇太子としたが藤原薬子の乱で廃されて出家、東大寺で三論宗を学んだ。生まれつき賢く高邁で、仏教だけでなく儒教も学んだ。真言宗の教えを空海に受けた。朝廷に願って唐に赴き西域にまで行こうと志を立てたが、流沙で客死した。日本から唐へ留学した者は数多いが、天竺を目指した者は、親王一人である。この勇気に昔の人は驚いた。今、ここで親王の墓があると聞くさえ、哀れを催すことだ。
・・・・・・・・真如関連資料・・・・・・・・・・・・・・・・・・
澁澤龍彦「高丘親王航海記」にも取り上げられた高僧。戦時中は南方進出の政策と相俟って教科書にも取り上げられた。当時は日本人の起源として南方系民族が注目されたが、事情は同じである。ただし、精確な史料が残っておらず、人口に膾炙しているごとく虎に喰われたのか否かも、分からない。以下、管見に触れたものを以下に掲げる。
【先帝御不和云々。仍先帝兵ヲオコシテ東國ヘ御下向云々。ヨリテ大納言田村麻呂。参議綿丸等ヲツカハシテトドメマイラスル間ニ。太上天皇ノ御方ノ大将軍仲成打取畢。又内侍〔薬子〕ノカミ同死畢。ススメニテ此事アリト云々。上皇御出家ヲハヌ。東宮高丘親王ヲトドメテ大伴皇子ヲ東宮トス。高丘親王出家得度。弘法大師ノ御弟子ニナリタマウ。入唐シテカシコニテ遷化シタマウ。真如親王ト申ハコレナリ。或ハ唐ヨリナヲ天竺ヘワタリタマウ。流沙ニテウセ給トイヘリ。/愚管抄巻一嵯峨天皇十四年】
【真如親王天竺にわたり給ふ事 昔真如親王といふ人いまそかりけり。ならの御門の第三のおん子なり。いまだかしらおろしたまはぬさきには。たかをかの親王とぞ申ける。かざりをおとしたまひてのちは。道詮律師にあひて。三論宗をきはめ。弘法大師にしたがひて真言をならひ給けり。法門ともにおぼつかなきことおほしとて。ついにもろこしにぞわたり給ける。宗叡僧正とともなひ給けるが。宗叡は文殊のすみ給五台山おがまんとてゆき給ふ。親王はものならふべき師をたづね給けるほどに。むかしこのやまとの国の人にて。円載和尚といひし人の唐にとどまりたりけるが。親王のわたり給よしをきヽて。御門に奏したりければ。御門あはれみて。法味和尚といふ人におほせつけられて。学問ありけれど。心にもかなはざりければ。つゐに天竺にぞわたりたまひける。錫杖をつきてあしにまかせてひとりゆく。ことはりにもすぎてわづらひおほし。さてやうやうすヽみゆくほどに。つゐに虎にゆきあひて。むなしくいのちおはりぬとなん。このことは親王の伝にも見へ侍らねば。しるしいれぬるなるべし。昔のかしこき人々の。天竺にわたり給へる事をしるせるふみにも。大唐新羅の人々はかずあまたみへ侍れど。この国の人はひとりもみえざんめるに。この親王のおもひたち給けん心のほど。いといとあはれにかしこく侍り。昔はやすみしるまうけのすべらぎにて。もヽのつかさにあふがれきといへども。いまは道のほとりのたびのたましゐとして。ひとりいづくにおもむきたまひけんと。返々もあはれに侍り。……中略……わたりたまひけるみちのよういに大かんし三もちたまひけるを。つかれたるすがたしたる人いできてこひければ。とりいでて中にもちいさきをあたへ給けり。この人おなじくはおほきなるをあづからはやといひければ。我はこれにてすゑもかぎらぬみちをゆくべし。汝はこヽのもと人也。さしあたりたるうへをふせぎてはたりぬべしとありければ。この人菩薩の給はざる事なし。汝心ちいさからん人のほどこすものをばうくべからずとて。かきけちうせにけり。親王あやしくて。化人の出来てわがこヽろをはからひけるにぞと。くやしくあぢきなしと侍る事思いでられて。とにかくにこヽろすずろに侍り。……後略/閑居友巻上第一話】
【前略……去れは此大和の国。奈良の御門の太子。長岡の親王とてゐませしは。すへらきの儲の君にてをはせいか。浮事にあはせ給て後。御かさりをろさせ給て。道詮律師の室に入て。真如親王となん申けれは。智恵徳行ならひなくて。三論宗をもてあそひ給ふのみならす。宗叡僧都の禅林寺閑庵に閉篭ては。鹿薗の谷の水に。見思の垢をすヽき。修円大徳の伝法院にやすみしては。覚知一心の悟を開き。弘法大師に随ては。真言宗をきはめ給へり。かヽる有智高僧の人々も。猶あきたらすやをほしけん。唐に渡り給へりけるか。是には明師もなしとて。天竺に渡り給へり。唐の御門。渡天之心さしを哀みて。さまざま宝をあたへ給へりけるに。それよしなしとて皆々返し参せて。道の用意とて。大柑子を三留給へりけるそ。聞もかなしく侍るめる。さても宗叡帰朝すれとも友なひ給へる親王は見え給はなえは。唐へ生死を。尋給へりけり。返事に渡天すとて師子州にて。村かれる虎の合て。くゐ奉らんとしけるに。我身を惜には非す。我は是仏法のうつは物なり。あやまつ事なかれとて。錫杖にてあはへりけれと。つゐに情なくくゐ奉ると。側になん聞ゆと侍けるに。御門を初まゐらせて。百のつかさ皆袂をしほりにけり。/撰集抄第のうち玄奘三蔵并真如親王渡天事から】
【(元慶五年十月十三日条)无品高丘親王。志深真諦。早出塵区。求法之情。不遠異境。去貞観四年自辞当邦。問道西唐。乗査一去。飛錫无帰。今得在唐僧中■【王に灌のツクリ】申状称。親王先過震旦。欲度流沙。風聞到羅越国。逆旅遷化者。雖薨背之日不記。而審問之来可知焉。親王者平城太上天皇之第三子也。母贈従三位伊勢朝臣継子。正四位下勲四等老人之女也云々。去大同五年廃皇太子。親王帰命覚路。混形沙門。名曰真如。住東大寺。親王機識明敏。学渉内外。聴受領悟。罕見其人。稟受三論宗義於律師道詮。稍通大義。又真言密教究竟秘奥。門弟子之成熟者衆。小乗壹演為上首。詔授伝燈修行賢大法師位。親王心自為。真言宗義。師資相伝。猶有不通。凡在此間。難可質疑況復観電露之遂空。顧形骸之早弃。苦求入唐了悟幽旨。乃至庶幾尋訪天竺。貞観三年上表曰。真如出家以降四十余年。企三菩提。在一道場。竊以。菩薩之道。不必一致。或住戒行。乃禅乃学。而一事未遂。余算稍頽。所願跋渉諸国之山林。渇仰斗藪之勝跡。勅依請。即便下知山陰山陽南海等諸道。所到安置供養。四年奏請。擬入西唐。適可許。乃乗一舶。渡海投唐。彼之道俗。甚見珍敬。親王遍詢衆徳。疑■【得のツクリ】難決。送書律師道詮曰。漢家諸徳多乏論学。歴問有意。无及吾師。至于真言。有足共言焉。親王遂杖錫就路■【一字欠】脚孤行。十五年親王男大和守従四位上在原朝臣善淵。前肥後守従五位上同安貞等上表請。親王入唐後。多歴年序。帰朝之期已過。存亡之分難決。而偏准平常。猶受封邑。静而思之。悚兢難耐。伏望早被返収。将免謗議。■【來に力】。存亡難卜。何許来請焉。親王身殞中途。神馳半月。昔為千乗之皇儲。今作単子之旅魄。彼菩提之求。何必出戸。然厭世心深。甚哉苦行。親王始登震坊。世人号曰蹲居太子。雖見廃非其罪。而理有必至。靡可預防。豈天意乎。豈人事乎。何婬嬖之傷化。而俗諺之如期。書曰。牝鶏之晨。惟家之索。信而有徴歟。/三代実録巻四十陽成天皇】
【真如親王入唐略記(入唐五家伝)伝云。親王帰命覚路。混形沙門。住東大寺。機明敏楽。渉内外真言教。究竟幽玄。貞観四年奏請。擬入西唐。適蒙勅許。乃乗一舶渡唐。高丘親王(平城天皇皇太子。母贈従三位伊勢継子。従四位下勲四等老人母女也)大同四年四月十三日立為太子。弘仁元年九月十三日廃皇太子。出家。貞観三年入唐。法名真如。元慶五年十月。三日自唐申遷化由。到流沙。於羅越国亡云々】
なお、これに続く「頭陀親王入唐略記」に、貞観三年七月十三日に難波津で乗船、八月九日に太宰府に到着したとある。その間、四週間足らず。遣唐使の標準的な行程をとった場合の日数といえる。なお、遣唐使は難波津を出て、中国地方の瀬戸内海沿岸を航行した。則ち真如には、土佐の横浪付近まで迂回する時間的な余裕はなかったことになる。
とはいえ、清瀧寺にある真如の墓/塔が無意味に存在しているとは思わない。三十六番・青龍寺の項で道指南は、花山天皇が土佐に流され客死した、と伝える。花山天皇は十七歳で即位、十九歳で妃を亡くし絶望、藤原道長の兄に当たる道兼に唆されて出家する。共に出家すると誓った道兼は姿を眩ました。その間に七歳の一条天皇が即位し、外戚・藤原家の専断体制が成立した。年若い花山天皇の純情に付け込んだ政治劇は、あまりに愚かしい。そして、花山天皇が土佐に流されたことなど、史実にはない。
例えば日本武尊と弟橘姫、例えば静御前、本当に其の地に来たかあやしいけれども、全国各地に伝承が残っている。悲劇の英雄もしくはヒロインに同情し、慰めようとする人々の優しさが、事実を捏造していったのだろう。事実として認めることは出来ないが、責める気にはなれない。昔の優しき人々の存在をこそ、事実として信じたい。
結局する所、真如の墓は、真如が清瀧寺へ実際に来たことの証ではなく、真如の悲壮な企てに対する深い同情の証ではないか。両者は厳然と峻別せねばならないが、必ずしも後者の価値を貶めるものではない。却って、価値は高いかもしれない。人間というものの優しさ、権力から排除された者を抱き取ろうとする強さが、昔の人々にはあったことを証明しているように思えるから。
スポンサーサイト