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四国撮り歩記  霊場八十八ヶ所巡礼の旅:伊予愛媛編   42番霊場

 第四十二番札所 仏木寺に向かう大凡3,5km

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      第四十二番札所:一課山 仏木寺 毘盧舎那院

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                 山             門
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            「阿 吽」  仁  王  像
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                 修   業   大   師
 山門を潜ると修業大師がお出迎え。参道の右階段を登ると七福神像が並んでいる。
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                 七      福      神
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                 手      水      場
 左折れの参道を進むと右に手水場があり正面が本堂、左に大師堂が建つ。
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                 本             堂
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         本       堂  :本尊 大日如来
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         救 世 観 音 菩 薩 像
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                 大      師      堂

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 本堂の手前に道祖神・右側に家畜堂・聖徳太子堂・不動堂が並ぶ。
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                 道    祖    神    尊
 道祖神は外来の悪霊をさえぎる神とされている。村境や峠などに石碑,男女和合の神像,陰陽の形の石や自然石をまつる。旅行安全,防疫,縁結び,性の神,子供の神ともされた。
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                 家      畜      堂
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           釈  迦  如  来  像 
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            家  畜  慰  霊  塔

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                 聖   徳   太  子  堂
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                 忠      魂      碑
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                 不      動      堂
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                 不 動 堂 の 鬼 瓦

 手水場まで引き返すと右手に鐘楼があり前方に庫裏・納経所がある。
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                 鐘             楼
 四国霊場では珍しい茅葺の屋根。元禄時代(1688〜1704)に再建された。
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                 納      経      所
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             御    朱    印

 無事参詣を終えて第43番札所 明石寺に向かう・・・・・・合掌    4月4日午前7時45分。

 【略縁起】
 大同2年(807年)、この地を巡錫していた弘法大師は牛をひく老爺に出会い、勧められるまま牛の背に乗り、しばらく行くと、近くの楠の枝に一課の宝珠がかかっているのを発見されたそうだ。
その宝珠は、大師が在唐のときに有縁の地を選ばれるようにと三鈷とともに東へ向けて投げた宝珠でした。
この地こそ霊地と直感した大師は楠で大日如来を刻み、尊像の眉間に宝珠を納めて本尊とし、堂宇を建立して一課山仏木寺と号した。
【註】上記は『四国八十八ヶ所詳細地図帳の略縁記』参考

★第四十番札所~第四十二番札所の縁起を調べ、書く内にまたまた疑問が生まれた。
 ① 3寺共に大同2年(807年)に建立と為っているし、当地を巡錫とある。巡錫は当然あり得ること、然し同年に3寺を建立する事が可能か否か?資金は誰が?人的資源は?等々。
当時資金を出せる可能性があるのは天皇家か藤原四家ぐらいだと想像できる。
当時は806年に50代桓武天皇が崩御され51代平城天皇(桓武天皇の第一皇子:安殿親王(あてしんのう)存命中は平城天皇とは言わない)が即位したばかりであり、朝廷に内紛が有った頃にも一致する。
 一方弘法大師は806年1月(大同元年)修行していた唐の長安の青龍寺で師の葬儀を宗門代表で執り行い恵菓和尚の碑文を記している。葬儀終了後帰国を計るが時化に遭うなどして九州大宰府に着いたのが夏の終わり頃、『御請来目録』朝廷に提出し、入京を請願するが朝廷は弘法大師の帰国を許可していなかったので、大師は大宰府の観世音寺に監視付きで留め置かれる。
 桓武天皇は最澄の天台宗一辺倒であったし、第三皇子伊予親王の謀反等が有るなど天皇家の混乱、天台宗一門の反対等があり『監視付き留め置き』の処置が為されたのではないか?と想像している。
伊予親王は人身を掌握し政務にも通じ人気が有ったので、妬む者達の政治的陰謀事件に発展し伊予親王は捕らえられ母(藤原南家の吉子)と共に毒を飲んで自殺した。
平城天皇は伊予親王と母親との亡霊に悩まされノイローゼ状態となり政務を司る事も出来ず酒色に溺れ僅3年で退位し809年(大同4年)4月平城天皇から嵯峨天皇(桓武天皇の第二皇子 神野親王(かみのしんのう))へ譲位が行われる。
 一方大師は807年に朝廷より入京の許可は出たので入京しようとするが槙尾山 施福寺(大阪和泉市に現存、江戸時代に天台宗に改宗)に足掛け2年に渉り足止めをくらう。此の寺の堂に籠り新しい宗派真言宗を開く為の思索を練ったと言われている。大師は806年に帰国の途に就き大宰府到着後2度に渉り『監視付き留め置き』の処遇の受け、実際に入京されたのは嵯峨天皇の御世になった809年(大同4年)と記されている。これが史実とすれば大師は平城天皇に当時は会って居ない事に為る筈である。
 こうして書いて見ると①朝廷のゴタゴタ②凡庸な天皇③大師の足掛け2年に及ぶ足止め④大師は平城天皇に会っていない等々から推測すれば:弘法大師が807年(大同2年)に平城天皇の勅使で、巡錫、来錫、建立した、開基した等々の言葉は矛盾することに成りはしないだろうか?
40番霊場観自在寺の『略縁起』に平城、嵯峨両帝が当寺を行幸とあるが、在位が短く①②から推測すると凡そ700km行程、一日20kとして70日間の平城天皇の行幸が為されたか?疑問の残るところである。809年退位し上皇となり薬子の変(前述)に敗北し出家した後には在り得たかも知れないが・・・・・。
桓武天皇(50代)は最澄の天台宗の最強の庇護者であった。空海が天皇家の庇護を受けられる様に為ったのは薬子の変の時に嵯峨天皇(52代)の戦勝を祈願祈祷の業を行い見事勝利して以来と言われている。天皇家における仏教宗派勢力が天台宗から真言宗に移ったと言えよう。空海の本格的な活躍は薬子の変以降であるとひげ爺は考えているが如何なものか・・・・。
 ★ 大同4年 (809) 平城天皇が退位し、嵯峨天皇が即位。空海は和泉国槇尾山寺に滞在していたが、嵯峨天皇の勅により7月に入京、和気氏の私寺であった高雄山寺(後の神護寺)に入る 。
 ★ 弘仁元年(810年) 薬子の変が起こったため、嵯峨天皇側につき10月27日より高雄山寺で鎮護国家のための大祈祷を行う(空海年表による)
 霊場の縁起を調べると大師(空海)が大同2年(807年)に巡錫中・・・この寺を「開基」は年代間違いである、と考えている。
 『略縁起』の★三鈷の話も?大いに疑問の残るところである。
【註】空海の巡錫は当然あり得る事と先述したが無理の様だ。

★  本尊:大日如来   ★  開基:弘法大師
★  本尊の真言:おん、あびらうんけん、ばさら、だどばん

★ 金剛杵(こんごうしょ)
密教法具の金剛杵は、古代インドでは帝釈天などが手にする武器でしたが、密教に取り入れられ、人間の心の中の煩悩を打ち砕く、仏の智慧の徳を表す密教法具として用いられるようになった。
金剛杵には3つの形があり、両端がひとつの突起になったものを独鈷杵(とっこしょ)、三股のものを三鈷杵(さんこしょ)、五股のものを五鈷杵(ごこしょ)という。
独鈷杵は金剛杵の基本形で、五鈷杵は最も重要視される法具である。
弘法大師が唐から持ち帰り生涯大切にし、祈祷のとき必ず手にしていたのが五鈷杵です。
どの金剛杵も、魔をうち砕く力を秘め、困難や煩悩を振り払う法具として用いられ、身近にあるだけで、厄除け・災難除けになるといわれている。

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                 五      鈷      杵

 
 ★ 『四国遍礼霊場記』 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)
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 宇和郡則村にある。空海が通りかかったとき、楠の老木の上に光り輝く物があった。不審に思って見ると、一個の宝珠であった。楠を伐って大日如来像を彫刻し、玉を頭部に納めた。寺を建て像を安置した。一■【果に頁】山仏木を号とした。または、空海が唐で投げた一玉が、この木に引っ掛かっていたともいう。三鈷杵の説話にも触れられているという。
 本尊は高さ四尺の座像。右に鎮守・熊野三所権現社、弁財天・地蔵堂がある。左には仏木大師堂、鐘楼がある。背後の山には椎や松などの木が茂り、前には田園が広がっている。春には鋤を操るうちに川に降る雨を見る。秋は千もの畝が這う田が黄金色に輝き岡の上に雲が立つところを見る。長閑で健全な風景が思い浮かぶ。
 


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