ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:伊予愛媛編 43番霊場
疑問はさて置き:
第四十三番札所 明石寺に向かう大凡15km。

第四十三番札所:源光山 明石寺 円手院

駐車場から続く長い石段の参道を登り切ると山門(仁王門)前の広場に出る。

山 門 前 広 場
山門の左に手水場があり正面に庫裏・納経所が建つ。

山門右手奥に2~3分咲か今年初めて見る桜が咲いている、手前はモクレン。

手 水 場 山門左


山 門 (仁王門)


「阿吽」 仁 王 像
山門を潜ると右手に地蔵堂があり、さらに石段を数段上がると正面に本堂が建つ。その右側に大師堂と鐘楼がある。



本 堂


本 堂 外 陣 の 天 井 絵

本 堂 内 陣
当時は四国霊場には珍しく天台宗の寺である。天台宗の霊場は他に76番金倉寺・82番根香寺・87番長尾寺の4ヶ寺。
他の宗派は臨済宗で11番藤井寺・33番雪蹊寺。曹洞宗で15番国分寺。時宗で78番郷照寺合わせて8ヶ寺。あとの80ヶ寺は宗派は異なるが総て真言宗である。

大 師 堂

大 師 堂 内 陣

仏 足 跡
仏陀(釈迦)の足裏の形を石に刻したもの。インドの初期仏教では直接仏像を作ることを恐れ、台座や足跡などで象徴し礼拝した。その名残として今に残っている。

大師堂前に鐘楼、山門寄りに納経所と向かい合うように延命地蔵堂がある。

鐘 楼

近くの 夫 婦 杉

延 命 地 蔵 堂

庫 裏・納 経 所

御 朱 印

弘 法 井 戸 山門手前を左に行く・・・。
無事参詣を終えて第44番札所 大宝寺に向かう・・・・・・合掌 4月4日午前8時25分。
【略縁起】
欣明天皇(29代)の勅願により円手院正澄と言う行者が開創したと伝えられている。のち、天平6年(734年)、役行者から数えて五代目にあたる寿元行者が、紀州熊野より十二社権現を勧請して十二坊を建立、修験道の中心道場となった。
後の弘仁13年(822年)、弘法大師が巡錫、嵯峨天皇の勅願により荒廃した伽藍を再興、43番札所に定められた。
建久5年(1194年)には源頼朝が命の恩人である★池の禅尼の菩提を弔うために一宇を建てたことから、それまでの現光山の山号を源光山に改めた。
【註】★池の禅尼は平清盛の父忠盛の後妻で清盛の継母に当たる、源氏敗戦後捕えられた頼朝兄弟の助命をするべく重盛を介して嘆願した。それが平家滅亡の一因でもあろう。
この寺は四国霊場の本関所として人々に敬われている。
この寺の本来の名は「あげいしじ」ですが、現在は「めいせきじ」と呼ばれていて、土地の古老たちは親しみを込めて「あげいしさん」、または「あげしさん」と呼んでいるそうだ。
それは、若く美しい女神が願をかけ、深夜に大石を山に運ぶうち、夜明けに驚き消え去った・・・、という話を詠った御詠歌の「軽くあげ石」からついたと伝えられている。
御詠歌: きくならく 千手ふしぎの ちかいには だいばんじゃくも かろくあげいし
☆ 本尊:千手観音菩薩 ☆ 開基:正澄上人
☆ 本尊の真言:おん、ばさら、たらま、きりく
★ 『四国遍礼霊場記』 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)

本尊は高さ三尺の千手観音像で、二十八部衆が並んでいる。これらは空海の作。右に鎮守の熊野十二所権現、伴社もある。前には二王門の傍らに籠所を構えている。左の山の上に薬師堂、南の山の麓には地蔵堂がある。門を入ると白王権現石と呼ばれるものがある。籬で囲っている。この神石によって、明石寺と呼ばれている。村の名前も、これから来ている。地元では、「あげいし」と読んでいる。現在住んでいる人は僧侶ではなく、修験者だという。
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