ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:伊予愛媛編 44番霊場
第四十四番札所 大宝寺に向かう。距離大凡90Km。

高速に乗り一度松山市迄行き久万町に向かう。以前高知市に通った頃には松山より三坂峠を通り久万町を経由する此の街道を必ず往復した。松山市より高知市迄は120km程だった様に記憶の底にある。久方ぶりの走りである。


今日の三坂峠は頗る付きの晴天、展望台で一服。松山の街と平野が綺麗に見えた、微かに海も・・・。
4月3日だと言うに雪景色が見えた、昨晩降ったそうだ。

冬景色:四国久万高原町
第四十四番札所:菅生山 大宝寺
大宝寺は四国霊場八十八ヵ所のちょうど中間地点、43番札所から大凡90kmもあり、「遍路ころがし」という難所である。

樹齢2~300年とも言われる杉・檜の巨木に囲まれる表参道。

山 門 (仁王門)
山門は国宝に指定されておる楼門で(二階建ての門)大きく立派な門であるが門前のスペースが狭く全体像が撮れぬのが残念!

「阿吽」の仁王像に守られる山門。巨大な草鞋が奉納されている。四国霊場には草鞋の奉納は数あるが当寺の草鞋が一番大きいとのこと。


阿 吽 像
仁王像は総檜造りで総高は約3メートル。室町時代の享徳4年(1455年)越前国(今の福井県)の法眼某(名は不明)という仏師を招いて造らせたと伝えられている。。明治7年(1874年)の火災で仁王門は焼亡したが金剛力士像は焼失を免れた。昭和27年(1952年)に京都で修復を行い再び仁王門に据えられた。((ウィキペディア参照))
山門を潜り石段を登ると左手に手水場があり、右に納経所がある。

手 水 場

納 経 所
長い石段を登り切ると正面に本堂が建つ。



本 堂

扁 額
本堂の右側に大師堂があり前面に鐘楼、中程に十一面観音像がある。

大 師 堂

大 師 堂

十 一 面 観 音 像

本堂両側に鐘楼がある。左が昔からの古い鐘楼で右の鐘楼は太平洋戦争で亡くなった地元の英霊を供養する「平和の鐘」で「忠魂碑」と同じ意味合いで造られたに違いあるまい。

古 い 鐘 楼

「平 和 の 鐘」
本堂に登る石段の途中に山頭火の句碑がある。

朝まいりはわたくしひとりの 銀杏ちりしく
放浪の俳人種田山頭火は愛読書の一つである、五、七、五の定型句に無い味を感じる。
★ 分け入っても 分け入っても 青い山
★ まっすぐな道でさびしい
★ 鴉啼いて私も一人
【註】鴉啼いての前書きに、「放哉居士の作に和して」と書かれている。尾崎放哉と山頭火は、互いに会ったことはなかったが、『層雲』を通して、互いの句に惹かれていた。前記の句は、放哉の「咳をしても 一人」という句に応えたものである。

山頭火の行脚姿
五年程前になろうかこの句に出会い調べてみると放哉は鳥取市立川の生まれと知る。興味を抱き『山脈八期』理事長 谷口 肇氏に資料を調達して貰った、中々面白い。山八仲間(鳥取県人・ひげ爺は兵庫県但馬産)として一読をお勧めする。
【註】『層雲』:形式をきらい、内在的・主観的立場から句を生み出すために、季語無用・定型破壊を掲げた自由律俳句の舞台となった俳句雑誌である。創刊時には新傾向運動の河東碧梧桐を戴いたが、碧梧桐が去ったあとは、自由律俳句の牙城として野村朱鱗洞・芹田鳳車・尾崎放哉・種田山頭火・栗林一石路などの俳句作家を輩出した。
山頭火は40過ぎてから出家得度し、曹洞宗の禅僧となり、墨染めの法衣を着て、日本全国を旅して歩いた。昭和14年10月松山にやって来た。
松山の生んだ俳人野村朱燐洞を思慕し、彼の墓参りを終えた彼は、その足で四国遍路に旅立った。
松山市、御幸寺境内に一草庵を構える。翌年10月死去、58歳。(自書ホームページ「山脈八期」参考)

御 朱 印
無事参詣を終えて第44番札所 岩屋寺に向かう・・・・・・合掌 4月4日午前11時15分。
【略縁起】
寺の創建は大宝元年(701年)、百済の聖僧が十一面観世音菩薩を奉持して来日、この地に草庵を結び安置したと伝えられている。
後年、名神右京、隼人の兄弟狩人が十一面観音菩薩菩薩を発見し安置したのが始まりとも言われている。
のち、文武天皇の勅願により、その年の年号に因んで大宝寺と号して開創。開創後の弘仁年間、寺に留錫した弘法大師が密教三密の修法を厳修、この寺を44番、中札所と定められた。
保元年間には後白河天皇が病気平癒を祈願され成就、仁平2年に焼失していた伽藍を再興、帝の妹宮を住職として下向させている。
天正年間の長宗我部軍の兵火で伽藍は再び焼失、また、近くは明治7年の火災等、長い年月をかけて再建、という歴史を繰り返してきた。
★ 本尊:十一面観音菩薩 ☆ 開基:名神右京、隼人
★ 本尊の真言:おん、まか、きゃろにきゃ、そわか
★ 『四国遍礼霊場記』 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)

浮穴郡にある。文武天皇の時代、大宝元年四月十八日、一人の猟師が山に入ると、岩や木々が激しく動き、紫雲が峯や谷に満ち、ある場所から閃光が放たれていた。光の本には十一面観音像があった。生えている菅を敷いた上に観音像を置いた。その場所に堂を建て菅で覆って安置した。猟師は白昼、天に昇った。高殿明神と呼んで祀った。菅を敷いたために、菅生山と号し、大宝年中のことだったので大宝寺と称している。朝廷の知るところとなり、天皇の帰依を受け、立派な堂舎が建てられ勅願所となった。本堂は大きく美しく、縁から両方の社の拝殿へ廊下を渡した。左に赤山権現、続いて天神。右は三島大明神、耳戸明神。阿弥陀堂・文殊堂・百々尾権現社が並ぶ。左右とも前に池があり、それぞれ弁財天祠が建っている。石段の下の門には二金剛像を安置している。その下に十王堂がある。左右に寺を構えており、堂舎は十二宇。入ると橋になっている。川を御手洗と呼んでいる。人里から離れてはいないし、牛の声が聞こえてくるわけでもないが、修行に適した閑静な美しい環境で、風が涼しくそよぐ。
弘仁十三年、空海が訪れたとき、落ち着いて美しい場所であることを喜び、精神を集中して心に仏を思い浮かべる修行を幾日も続けた。立ち去ることを忘れるほどだった。また、山から霊気が立っていると感じ、岩を踏み進んで奥の院を開いた。岩屋寺である。
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