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四国撮り歩記  霊場八十八ヶ所巡礼の旅:伊予愛媛編  第四十六番霊場

  第四十六番札所:浄瑠璃寺に向かう  大凡35k

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          第四十六番札所 医王山 浄瑠璃寺 養珠院 
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 四国霊場には必ず山門があるものと思って居たが浄瑠璃寺には山門が無い。県道沿いに大きな「浄瑠璃寺」の看板があり傍らの子規の句碑を左に見て参道の石段を登ると行き成り樹木に覆われた境内に入る。
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        永き日や 衛門三郎 浄瑠璃寺 (子規の句碑) 
 石段を登ると正面に本堂が建ち右に太子堂。本堂の左手に一願弁財天堂ある。本堂の手前に手水場、右にイブキビャクシン(伊吹柏槇)の大木、籾大師、鐘楼等がある。
 このあたりは遍路の元祖といわれる右衛門三郎のふる里として知られる。

 正岡 子規(まさおか しき)1867年10月14日(慶応3年9月17日) - 1902年(明治35年)9月19日)は、日本の俳人、歌人、国語学研究家。名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。
俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面に亘り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治時代を代表する文学者の一人であった。
 死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。(ウィキペディア参照)
 
 伊予路に入り始めて子規の句碑に出会った。云わずと知れた子規は四国松山が産んだ俳人正岡子規のこと。生涯の句作は二万三千六百句と言われ句碑も松山市で70余碑、県内で120碑程を数える明治を代表する俳人、文学者である。
 俳句の革新を成し遂げたことで有名。松尾芭蕉と並んで、俳聖の称号で呼ばれることもあります。
 彼の大きな功績は、以下の三つです。
1) 俳諧から発句を独立させて、俳句という呼び名を与えたこと。
2) 江戸時代以来の陳腐な俳句を、月並み俳句と呼んで否定し、写生による現実密着型の俳句を確立させたこと。
3) 松尾芭蕉の神格化の否定と、与謝蕪村の写生句を評価。蕪村は画家としては有名であったが俳人としては知名度が低かった。
 子規と蕪村の関わりを書いたひげ爺のブログ『番外編 「蕪村」 』(2013-03-17 掲載)の一部を掲載する。
 
 『与謝蕪村』 
 蕪村の俳句で一番好きな句を挙げよ・と云われたら間違いなく下記の句を筆頭に挙げる。
 • 春の海 終日のたりのたり哉
 この句は蕪村が四国讃岐の旅に行く途中須磨の海岸で創る。
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              神戸市須磨浦公園の蕪村の句碑
 で五句では・・・・・・・。
 •  菜の花や月は東に日は西に
 この句は1774年(安永3年)京都東山での連句の発句である。蕪村が摩耶詣の帰途、摩耶山の中腹あたりで想を得て詠んだ句と伝えられている。連句はこう続いている。
 ・ 発句  菜の花や月は東に日は西に   蕪村
 ・ 脇句  山もと遠く鷺かすみ行(ゆく) 樗良
 ・ 第三  渉(わた)し舟酒債(さかて)貧しく春くれて  几菫
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                摩耶山天上寺の蕪村の句碑
 •  牡丹散りて打かさなりぬ二三片
 •  さみだれや大河を前に家二軒
 •  ゆく春やおもたき琵琶の抱心

 芭蕉は蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立し、後世では俳聖として名を残した日本史上最高の俳諧師の一人である。大自然の森羅万象を「五・七・五」の短文に纏め上げる詩情性の豊かさは他の追随を許さぬことも間違いあるまい。
 「五月雨を あつめて速し 最上川」芭蕉と「五月雨や 大河を前に 家二軒」蕪村 両句は良く比較されるが前句は詩情性に富み、後句は絵画性に富んだ句だと思う。
異論が多くあろうがヒゲ爺は蕪村を選ぶ、・春の海・・菜の花や・・五月雨や・・牡丹散って・・と読むとその情景が浮かんで来て一服の絵画を見る感じである、だからファンなのかも知れない。

 正岡子規は蕪村評の中でこう述べている・・・。
 「・・百年間空しく瓦礫(がれき)とともに埋められて光彩を放つを得ざりし者を蕪村(ぶそん)とす。蕪村の俳句は芭蕉に匹敵すべく、あるいはこれに凌駕するところありて、かえって名誉を得ざりしものは主としてその句の平民的ならざりしと、蕪村以後の俳人のことごとく無学無識なるとに因(よ)り・・・・」
「・・ 蕪村の名は一般に知られざりしにあらず、されど一般に知られたるは俳人としての蕪村にあらず、画家としての蕪村なり・・・。」
要約すると「・・蕪村の俳句は世に出ていないが、芭蕉の俳句に匹敵するかそれ以上に素晴しい句であるにも関わらず埋もれていたのは蕪村以後の俳人のことごとく無学無識なのが原因だ・・・と詰っている」
子規は蕪村俳句を絶賛し世に知らしめた第一人者である。
 俳人正岡子規の働きで俳人蕪村は復活し、俳画の祖として、南画文人画家の池大雅と並び称され、国宝をはじめ多くの重要文化財の絵画を残している。その一端を紹介する。
 

子規の功績として次に挙げたいのは、明治30年1月に松山で友人の柳原極堂が創刊した俳句雑誌『ほとゝぎす』に選者などで尽力(松山で20号まで刊行)。翌年10月本部を東京に移し高濱虚子が継承し地方雑誌を全国に広め明治後期からは総合文芸誌として発展。大正・昭和初期には保守俳壇の最有力誌を掲載して今に名を残す小説家、俳人を生み出したことである。(明治34年『ホトヽギス』と改名)
 明治38年1月 漱石『吾輩は猫である』連載開始。等掲載好評を得る。寺田寅彦『団栗』掲載。
明治39年1月 伊藤左千夫『野菊の墓』。4月 漱石『坊っちゃん』。5月 鈴木三重吉『千鳥』。8月より碧梧桐第一回全国行脚。9月 小泉八雲『海のほとり』。
明治40年1月 漱石『野分』。2月 野上八重子(弥生子)『縁』。11月 長塚節『佐渡』等々多く輩出している。俳人は高濱虚子、河東碧梧桐、内藤鳴雪、山口誓子、中村草田男等々。
 『ホトヽギス』は子規の俳号から名付けられた。ホトトギスは杜鵑、杜宇、蜀魂、不如帰、時鳥、子規、田鵑などと漢字表記される。俳号『子規』の由来は:明治二十二年五月突然咯血した。 二回目の吐血は翌日の夜十一時頃であったが、午前一時頃までの間に子規は「時鳥ホトトギス」の題で
   ・卯の花をめがけてきたか時鳥
   ・卯の花の散るまで鳴くか子規
など数十句を作り自らを「子規」と号した。ホトトギスは血を吐くまで鳴き続けるという故事に習ったそうだ。
 
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                正   岡   子   規  写真
                柿食へば 鐘がなるなり 法隆寺
 子規の写真と「柿食えば」の句は中学の国語の教科書に必ず載っている超有名で目にし習った写真と句である。
そのエピソードを①②③④を紹介したい。
 ①  本、教科書などに載っている写真は何故そっぽを向いているか?
 子規は目と目がとても離れていることを気にして居たらしく正面の写真が余り好きでは無かったらしい・・・・。見栄えを重視したのでは無かろうか、晩年の明治33年12月に撮られた横顔の写真が気に入り、書籍の総てと云って好い程使用されている。
 子規の弟子だった河東碧悟桐の著書に、子規は目と目がとても離れていたと云う一説がある。
 「・・・しかし子規の眼の位置くらい、鼻梁を挟んで距離の多い例は、私もかつて経験したことがない。二つの眼が対立しているというよりも、個々の眼が孤立しているといった方が適切なくらい離れ離れだった。・・・」

 ②   柿食へば 鐘がなるなり 法隆寺 「柿くへば…」には下敷きがあった。
      鐘つけば 銀杏ちるなり 建長寺 作者は夏目漱石で明治28年9月6日『海南新聞』に掲載された。(建長寺は鎌倉五山の第一)
      柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺
 『海南新聞』に掲載されたのが明治28年11月8日。さて子規の名句は漱石の句の盗作なのか?
坪内稔典という俳人で子規の研究者でもある大学教授が「子規の代表句は,漱石との共同によって成立した。それは愚陀仏庵における二人の友情の結晶だった。」 と述べている。
「鐘をついたらはらはら銀杏が散るというのは,これ,寺の風景として平凡です。はっとするものがありません。」
「「柿くへば鐘が鳴る」は意表を突く。あっと思うよ。」(『俳人漱石』坪内稔典(岩波新書,2003年))

 子規が松山から東京へ帰る途中,奈良に立ち寄ったときに作られたとされる。この奈良行きは夏目漱石が旅行の費用も貸し、段取りを取り、松山の漱石の下宿「愚陀仏庵」から送り出した。この旅が子規の最後の旅となりこの後7年間,子規は病床に伏し,1902年(明治35年)9月19日)に永眠する。
 ★坪内 稔典(つぼうち としのり、俳号ではねんてん、1944年4月22日 - )は、日本の俳人。佛教大学教授、京都教育大学名誉教授。「船団の会」代表。研究者としての専門は日本近代文学で、特に正岡子規に関する著作・論考が多い。 
 ★愚陀佛庵ぐだぶつあん(夏目漱石なつめそうせきの寓居ぐうきょ)跡 明治28年(一八九五)、松山中学校英語科教師として、月給八〇円で赴任し た漱石は、6月下旬、城山山裾の愛松亭から松山市二番町上野義方邸内の二階 建の離れに移った。一階も二階も四畳半と六畳であった。日清戦争に記者として従軍の帰路喀血した子規は、神戸で療養のあと松山に帰り、8月27日、漱石の下宿へ移り、階下の二間を居室と定め、漱石は二階に移った。10月17日までの五二日間、子規はここに起居して、「俳諧大要」を書き、当地の「日本」派俳句結社「松風会」会員約三〇名を日夜指導した。
 また、漱石も自らを「愚陀佛」と称し、この宿を「愚陀佛庵」として俳句に 熱中した。
  愚陀佛は主人の名なり冬籠   (夏目)漱石
   漱石寓居の一間を借りて
  桔梗活けてしばらく仮の書斎哉   (正岡)子規
  なお、愚陀佛庵滞在中、子規が試みた吟行の記録は、「散策集」として残されている。(松山市立子規記念博物館参考)
 ③  野球の殿堂
 没後100年の平成14年に、子規は野球殿堂入りを果たす。明治初期に日本に野球が紹介されて間もない頃からの
野球愛好者でポジションは捕手だった。
 子規は数々の野球用語の日本語訳を施したが、そのほとんどが現在でも使われている。「直球」「打者」「走者」「飛球」などである。幼名を升(のぼる)といったので、それをもじって「野球(のボール)」という雅号もあった。ベースボールを野球と日本語訳したのは中馬庚だが、正岡子規はそれ以前に「野球」という字を使っていたのである。
 新聞「日本」に発表したベーズボールの歌九首(明治31年)であるが、野球のプレイボールからフルベースになっていく進行を詠んだという秀作である。
  ・久方の アメリカ人の はじめにし ベースボールは 見れど飽かぬかも
  ・国人と とつ国人の 打ちきそふ ベースボールを みればゆゝしも
  ・若人の すなる遊びは さはにあれど ベースボールに 如く者はあらじ
  ・九つの 人九つの 場を占めて ベースボールの 始まらんとす
  ・九つの 人九つの あらそひに ベースボールの 今日も暮れけり
  ・打ち揚ぐる ボールは高く 雲に入りて 又落ち来る人の 手の中に
  ・なかなかに 打ちあげたるは 危かり 草行く球の とゞまらなくに
  ・打ちはづす 球キャッチャーの 手に在りて ベースを人の 行きがてにする
  ・今やかの 三つのベースに 人満ちて そゞろに胸の 打ち騒ぐかな
                          (参考資料:『真説日本野球史《明治篇》』ベースボール・マガジン社)
 ④  辞世の句三句
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         記 念 切 手 と 辞 世 の 句
         糸瓜咲て 痰のつまりし 仏かな
 ・痰一斗糸瓜の水も間に合わず
 ・をとヽひのへちまの水も取らざりき

 「閑話休題」:少し余談が過ぎた様だ。本題に帰ります。

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                  本              堂
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                  本   堂  山 号 扁 額
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                  本    堂    外   陣
 本尊は白檀の木で彫られた薬師如来で脇侍に日光・月光菩薩。薬師如来は病気を治す仏様であり、寺名は薬師如来がおられるとされる瑠璃光浄土から「浄瑠璃寺」とし、山号もまた医王如来に因んで名付けられた。
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                  太      子      堂
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                  太  子  堂   内  陣
 太子座像が祀られている。

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            一  願  弁  天  堂
 本堂左手奥の鳥居の中。天女像が祀られ、音楽、智恵、美貌、財宝、福徳に霊験があると伝えられる。
本堂の手前に手水場、右にイブキビャクシンの木、籾大師、鐘楼等がある。
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                  手      水      場 
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 イブキビャクシン(伊吹柏槇):樹齢千年を超すといわれる松山市指定天然記念物(昭和43.10.25に指定)
巨木は 3本あり幹囲は(1)4.8m、(2)3.5m、(3)3.2mで、高さは20m。
 conv201412180001のコピー
            籾     大      師 
五穀豊穣の御利益があるという籾 大師〔もみだいし〕は本物の籾にお大師様が刻まれているとのこと。

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                 鐘            楼
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                 納     経     所
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           御    朱    印

 無事参詣を終えて第47番札所 八坂寺に向かう・・・・・・合掌    4月4日午前14時35分。  
 
 【略縁起】
 元明天皇の和銅元年(708年)、奈良の大仏開眼に先立ち仏教布宣のため諸国を巡錫中の伊予に寄った行基菩薩は、この地に留まり仏教流布の適地定め、伽藍を建立、ご本尊の薬師如来、更に日光月光両菩薩,十二神将を刻み、薬師如来の居られる瑠璃光浄土の名に因み寺号とされた。
その後の大同2年(807年)、弘法大師が来錫して伽藍を修復、増建したのち第四十六番札所と定められた。
 以後、戦国時代は荒廃、中興を繰り返し、正徳年間の火災で堂塔を焼失、この村の庄屋出身で社会事業家でもあった尭音という人が本堂を再建している。現在の本堂はその後の天明5年(1785年)の再建である。
 
 ★ 又も出てきた大同2年

 ★  本尊:薬師如来(伝 行基菩薩作)   ☆  開基:行基菩薩
 ★  本尊の真言:おん、こんころ、せんだり、まとぅぎ、そわか

 ★ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護)
   (参考資料として)
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 浮穴郡にある。本尊は薬師如来。日光・月光菩薩と十二神将が周囲を囲む。鎮守は牛頭天王社。左方に寺を構えている。山が遠くないため、松風が窓に通う。左右に竹林が茂り、前の石段は二堂に向かっている。本堂の姿は通常とは異なっている。門を出た所には川が横たわっている。水は昼も夜も変わらず流れ動いている。ゆく川の流れは絶えないが、もとの水ではない。世の中も絶えず動いており、人も変わっている。昔のことが遠く消え去り、伝わらないわけだ。寺の興廃については分からない。惜しむべきことだ。

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