ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
- 2023 . 02 «
- 1
- 2
- 3
- 4
- 5
- 6
- 7
- 8
- 9
- 10
- 11
- 12
- 13
- 14
- 15
- 16
- 17
- 18
- 19
- 20
- 21
- 22
- 23
- 24
- 25
- 26
- 27
- 28
- 29
- 30
- 31
四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:愛媛編 49番霊場
第四十九番札所:浄土寺に向かう大凡3km

第四十九番札所:西林山 浄土寺

仁 王 門

扁 額


「阿吽」の仁王像
山門は楼門形式の仁王門で二体の仁王が出迎えてくれる。仁王像の阿像の仁王様の目が空洞になっている。この仁王門は大正11年に建立された。
山門を入ると右手に手水場その後ろに弁財天、さらに石段を上って右に鐘楼がある。

山門から本堂に至る参道

手 水 場

手水場の奥見える弁財天(音楽・学問・福徳の神さま)
参道の石段を登ると右に鐘楼を見て、正面に本堂が建つ。本堂の左側に阿弥陀堂と愛染堂が、右側に大師堂がある。


本 堂


本 堂 内 陣
本尊は行基が刻んだと言われる釈迦如来。当初は法相宗であったが、空海(弘法大師)が伽藍を再興した際に真言宗に改宗した。
建久3年(1192年)に源頼朝が堂宇を修復するが、応永23年(1416年)には兵火で焼失。1469〜1487年に領主である★河野道宣公によって再建。本堂と内陣の厨子は当時の建造で、和洋と唐様が折衷した室町時代の代表的な建物は、国の重要文化財に指定されている。本堂・厨子ともに1961年に解体・修理が行われた。
★河野 通宣(こうの みちのぶ)は、戦国時代の武将・大名。伊予河野氏の当主。湯築城主。通直(伊予守) -通軌 と続き 断絶する。
本堂右側の太子堂。本堂と太子堂の間に修行太子像がある。

太 子 堂

太 子 堂 内 陣

修 業 太 子 像
本堂左横に、阿弥陀堂と愛染堂が並ぶ。阿弥陀堂には「阿弥陀如来像」、愛染堂には「愛染明王」が祀られている。


阿 弥 陀 堂

愛 染 堂
石段を登った左手に俳人・正岡子規(1867~1902年)の「霜月の空也は骨に生きにける」の句碑が立つ。
子規については第46番札所 浄瑠璃寺編に記載。参照されたい。


子 規 の 句 碑
霜月の 空也は骨に 生きにける 子規
流石近代俳句のメッカ松山市、彼方此方に『観光俳句ポスト』為る物が設置されている。この句は子規の句集『寒山落木』巻五(明治29年冬の部)に載っている。空也とは空也上人のこと。

空 也 上 人
空也(踊り念仏開祖)は念仏を唱えて市中を巡り、市聖(いちのひじり)阿弥陀聖ともいわれ,三年間この寺に立ち止まったと言われている。常に京の市中に立って,庶民に念仏をすすめ鉦をならし瓢箪や鉢を叩きながら踊った。「骨に生きる」とは,空也は死んでもその教えは今も生きているとの意味ではなかろうか?自分もまたそう有りたいものだとの願望も伺える。
子規さん貴方の教えも生き続け、花開いておりますよ!!と声を掛けた。
愛媛の浄土寺の蔵、重文。左手に鹿角杖を持ち、右手で鉦鼓を叩く姿。
参道の右側の鐘楼脇の道を右に取り中門を潜り進むと庫裏・納経所がある

鐘 楼

中 門

納 経 所

御 朱 印
無事参詣を終えて第50番札所 繁多寺に向かう・・・・・・・合掌 4月4日午前16時10分
【略縁起】
天平年間(729~48年)恵明上人の開基とされ、本尊の釈迦如来は行基菩薩の作である。
孝謙天皇(749年即位)の祈願所だった頃は末寺66坊を持ち繁栄していたが、応永の頃(足利義満の時代)兵火により焼失、文明13年、領主 河野家により再興、現在の本堂はその時の物である。
この寺には浄土宗の開祖 円光大師、二世聖光上人、三世良忠上人の自作像があり、それが三蔵院という院号になっている。
また、ここには「市の聖」として民衆から親しまれた空也上人の像がある。
★ 本尊:釈迦如来(出ん行基菩薩作) ☆ 開基:恵明上人
★ 本尊の真言:のぅまく、さんまんだ、ぼだなん、ばく
◎ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護)
(参考資料として)

久米郡鷹子村にある。寺の伝承によれば、孝謙天皇の勅願所だ。四百年の星霜を経て、源頼朝が堂宇の荒廃を聞いて再興した。以後、郡司・河野氏が荘厳を加え、現在に至っている。境内は八町四方で、伽藍は軒を接し、仏教談義の絶える日はなかった。郡司・河野氏の崇敬が篤く、重罪人でも寺領に入れば捕まえることができないとの証文があったそうだ。空也上人・聖光上人の肖像がある。聖光は浄土宗の名僧だ。浄土宗の人が住んでいたことがあり、肖像を置いたのだろう。
スポンサーサイト