ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:愛媛編 50番霊場
第五十番番札所:繁多寺に向かう大凡2km。

第五十番札所:東山 繁多寺

山 門
繁多寺は松山市を見下ろす淡路山の中腹にある。山門からの展望が素晴らしく、松山城や瀬戸内海まで遠望できる。
山門を潜ると彼方此方に5~7分咲きの桜、若芽の桜が境内一杯に広っていた。桜の名所としても有名だとのこと。
正面奥に本堂が建ち、手前左に歓喜天堂、毘沙門天、弁財天が、本堂の右手に大師堂がある。

本 堂

本 堂

本堂内陣:本尊: 薬師如来

本堂を中心に右に太子堂(鐘楼の裏側)・鐘楼・手水場・左に歓喜天堂。

本 堂 前で記念撮影
先ず本堂手前の右側にある手水場で漱ぎ手を清め本堂に向かう。


手 水 場


鐘 楼 堂

鐘楼堂の天井には「御伽草紙」の天井絵が奉納されている。
本堂右の太子堂。

太 子 堂

太 子 堂 内 陣

大師像を拝顔できる。信者・参拝者が奉納した千羽鶴等々。
本堂手前左の歓喜天堂、毘沙門天、弁財天。

歓 喜 天 堂


徳川家の帰依を得て寺は栄え、4代将軍家綱の★念持仏三体の一つである観喜天をまつった。厄除けや商売繁盛、合格祈願などの参拝者が多い。
★個人が朝夕に帰依礼拝する仏像で,単に持仏あるいは内仏(うちぼとけ)ともいう。また,枕辺近くに安置するところから枕本尊ともよばれる。その多くは小金銅仏,小木仏で,簡素な宮殿(くうでん)(龕(がん)),厨子(ずし)などに安置される。元来念持仏は自宅の一室に宮殿,厨子を安置し,私的に礼拝するものであるが,別棟や小堂を設ける場合もあり,これを持仏堂という。今日各家庭にみる仏壇は江戸時代にその形態が成立するが,これは念持仏安置が一般化し,普及発展したものといえる。(世界大百科事典より)

毘 沙 門 堂

弁 天 堂
庫裏・納経所は山門を入った直ぐ左手にあり、納経所前の桜の老木は樹齢百年とも言われ素晴らしいの一語に尽きる。

庫 裏・納 経 所

納 経 所

樹 齢 百 年 の 桜

御 朱 印
無事参詣を終えて第51番札所 石手寺に向かう・・・・・・・合掌 4月4日午前16時50分
【略縁起】
天平勝宝年間(749~757年)孝謙天皇の勅願によって行基菩薩が開基され、3尺の薬師如来像を刻んで本尊とした。
弘仁年間(810~824年)に四国を巡錫中の大師が、当寺に留錫され、堂塔を整えて東山・繁多寺と号して霊場に定められた。
その後、寺運は衰退し堂塔はさびれるにまかせていたが源 頼義によって再建された。
弘安2年(1279年)に後宇多天皇の蒙古来襲退散の祈願の勅命を奉じて下向した聞月上人がこの寺で祈祷したと伝えられている。この時は、日本中の寺々で蒙古退散の祈祷が行なわれた。
時宗の★開祖一遍上人は1239年(延応 元年)伊予の豪族河野道広の子として生まれ、15才の折 父を失ったのが動機で出家した。47才のころこの寺に長く留まって修行されたといわれている。亡父追善のための「三部経」が奉納されている。

『踊り念仏』で有名な一遍上人の銅像;空也に影響されたと言われている。
時宗(浄土経の一宗派)当麻山 無量光寺に在る
★【註】 時宗開祖一遍上人(1239~1289年)は鎌倉時代の終わり頃、伊予守護職河野家の出身で幼にして出家、法然-証空-聖達-一遍と浄土宗西山流を学ばれ、のち予州窪寺の修行、紀州熊野本宮の参籠(さんろう)に依って絶対他力の念仏の深意を領解、衆生救済のため人々に念仏を勧め「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」のお札をくばり乍(なが)ら時衆を引きへ、日本全国を十六年間にわたって行脚された遊行聖(ゆぎょうひじり)で御座います。
目録に入る数が廿五万(25万)余その他数知れず人々に念仏結縁(けちえん)し、最後にこの地(ところ)和田の御崎島観音堂において、正応二年八月廿三日御年五十一歳で安らかに入寂(にゅうじゃく)なさいました。
「一代の聖教みなつきて南無阿弥陀仏になりはてぬ」とて所持の経典を焼きすてられ、又「我がなきがらは野に捨てけだものなどに施(ほど)こせよ」のお言葉もありましたが、多勢の信者の人達によって荼毘(だび)にふされ、手厚く供養されましたのが、現在の五輪塚で御座います。【神戸市にある一遍上人 入寂の地、真光寺の廟所にある文章です】
☆ 本尊:薬師如来(伝 行基菩薩作) ☆ 開基:行基菩薩
☆ 本尊の真言:おん、ころころ、せんだり、まとぅぎ、そわか
◎ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護)
(参考資料として)

温泉郡畑寺村にある。孝謙天皇の御願所だという。昔は伽藍が甍を並べ、三十六宇の坊舎があった。学問僧が犇めき、講義の席には絶えず人がいたという。中興の住持は聞月といって、弘安の頃に死んだ。四百年を経て、時も人も代わり当時の面影は残っていない。寛文の初めから、龍狐という名の僧が本願を立て、堂舎を多く修復した。規模は大きくないが、綺麗に磨き上げている。本堂の本尊は行基が作った薬師如来像。護摩堂の本尊・不動明王像は伝教大師の作。堂の左に鎮守の熊野権現社がある。後には求聞持堂がある。二王門は国司が建てたという。二王は運慶作で高さ九尺五寸。門内に池があり、中には弁財天祠が建つ。
境内は四町余りで前方に海を眺望する。左は沃野が広がり、背後には山林の緑が深い。
聞月の時代から二百年前に、源頼朝から寄進を受けたことがあるという。
村の名前の畑寺は、繁多と本は同じだろう。
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