四国撮り歩記  霊場八十八ヶ所巡礼の旅:愛媛編  51番霊場

  
 第五十一番番札所:石手寺に向かう大凡3km
 
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          第五十一番札所:熊野山 石手寺





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                  渡 ら ず の 橋
 県道より伝説の残る渡らずの橋の脇を通ると小さな門にでる。 
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                  手 水 場 と 衛門三郎懺悔像

 傍にある手水場で身を清める。衛門三郎像の横を過ぎ、土産物屋等の並ぶ石畳の参道を行くと山門前に至る。
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                  参  道 に並ぶ土産物屋




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                  仁      王      門  
  山門(二王門) 国宝。三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺き。『伊予古蹟志』によると文保2年(1318年)の建立。 
「阿吽の仁王像」と奉納された「大草鞋」・大草鞋の間に写る本堂。
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          仁   王   像
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          大   草   鞋




 山門を潜ると正面奥の一段高い位置の石段を上ると本堂が建つ。右側に太子堂・訶梨帝母天堂がある。
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                  本             堂
 本堂は(国の重要文化財)鎌倉末期建立。毎年、10月下旬から11月上旬にかけて、本堂内拝をし本尊を拝顔できるそうだが今わシーズンオフ写真なし。



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                  太      子      堂
 かつては壁に正岡子規、夏目漱石ら多くの文化人の落書きが記されており、「落書堂」とも呼ばれていたが、壁は第二次大戦中に塗りなおされている。大師像を眼前で拝顔できる。

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                  太   子   堂  内 陣



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                  訶梨帝母天堂(かりておいもてんどう)
 大師堂右側にある子授け・安産の神様を祀る訶梨帝母天堂(かりておいもてんどう)は、別名鬼子母神ともいい熊野十二社権現の遺構の1つである。ここの石を持ち帰って祈り、無事に出産した時に持ち帰った石と新しい石を持参してお礼参りする風習がある。




 本堂・太子堂の納経を終え山門に向け参道を下ると右側(山門から見て)に三重塔が聳え、鐘楼堂が建つ、左側(山門から見て)阿弥陀堂が建ち平和の鐘がある。何れも当寺の誇る文化財である。
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                  三      重      塔
 三重塔:鎌倉末期建立(国の重要文化財)。鎌倉時代の塔に多く用いられた手法で三間三重の塔である。塔には★真言八祖(龍猛、龍智、金剛智、不空、善無畏、一行、恵果、空海)の像が祀られている。。
★真言八祖とは:インドで生まれた密教の正統は、その後中国の高僧に受け継がれ、さらには九世紀の初め入唐した空海(弘法大師)がこれを継承して日本に持ち帰りました。真言宗の寺院では、空海までの三国(インド・中国・日本)八代に及ぶこれら正統の祖師を八祖大師または「伝持の八祖」として大切にお祀りしています。
 
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 壁の前面に須弥壇を置いて釈迦三尊の像を祀り、三重塔周りには八十八カ所霊場と高野山金剛峯寺境内の砂の袋を触る「四国霊場八十八ヶ所お砂撫で」ができる。八十八ヵ所行った様な気分に為れる・・・との意味合いかな?
「四国霊場八十八ヶ所お砂踏み」も何ヶ寺かあるが同類のものであろう。
★お砂踏みとは、四国八十八ヶ所霊場各札所の「お砂」をそれぞれ集め、その「お砂」を札所と考えて「お砂」を踏みながらお参りすることです。そのご利益は、実際に遍路をしたことと同じであるといわれております。四国遍路ができない人の為に四国遍路を身近に感じていただくものである。




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                  阿   弥   陀   堂
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                  阿弥陀堂正面の仏画
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 阿弥陀如来を中尊とし、その左右に左脇侍の観音菩薩と、右脇侍の勢至菩薩を配する三尊形式である。
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                 阿弥陀如来像
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    脇侍の観音菩薩と、右脇侍の勢至菩薩 



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                  鐘      楼      堂  
  袴腰造り :鐘楼・鼓楼の下層が末広がりになった造りのこと。【重要文化財】- 重要文化財の鐘がぶら下がっていて住職しか突けない。
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 左の鐘楼は「平和の鐘」と呼ばれ誰でも突くことが出来る。




 納経所の近くの一郭に子規の句碑がある。
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                   子 規 の 句 碑
            身の上や みくじを(御籤)引けぞ秋の風
 散策集に以下の文章がある:
石手寺に着いた子規は【大師堂の縁側に腰うちかけて息をつけば其側に落ち散りし白紙何ぞと開くに当時の御鬮(おみくじ)ニ四番凶とあり中に『病気は長引く也命にはさはりなし 』など書きたる自ら我身にひしひしとあたりたるも不思議なり。】
と書いている。明治28年9月20日散策の折にとあるが丁度漱石の下宿に移った頃ではなかろうか、(柳原極堂が同道している)その後8年間の闘病生活に入る。
 この年の4月に漱石は松山中学に赴任している。




 参詣の順番は、山門を潜り先ず手水場で手洗いし漱ぎ身を清めて後に本堂、太子堂で納経し最後に納経所に行くのが正当な習わしだそうだが、当寺では最初に納経所で御朱印を戴いた。当寺に着いたのが5時チョッと過ぎ、納経所は5時が締切時間なので禁を破った次第である。
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                  納      経      所
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           御    朱    印


 当寺が今日の最後の寺、ゆっくり参詣出来た・・・・・合掌





【略縁起】
 728年 (神亀5年)に伊予国領主越知玉純(おちのたまずみ)が聖武天皇の勅願を受けて創建、翌年行基菩薩が薬師如来を刻み本尊としたといわれ、当時は法祖宗の寺で安養寺と言った。その後813年(弘仁4年)にお大師さんがこの地に留まり、堂塔を整えて霊場に定め、真言宗に改めた。
さらに寛永四年(813年)時の領主河野家に男児が誕生する、その子が★衛門三郎の生まれ変わりの証として左手に、三郎が臨終の際大師に渡された小石を握っていた事に因んで石手寺と改号した。
 本堂、三重塔、鐘楼、五輪塔、訶梨帝母天堂護摩堂、梵鐘はすべて重要文化財に指定されている。
境内奥に安産祈願のお堂として親しまれている訶梨帝母天堂(国重文)があり、お堂の前には小石の山があり、妊産婦がこの石を持ち帰り、無事に出産すれば借りた石と別の石を持参し感謝する風習が今も受け継がれているそうだ。


 
 ★衛門三郎伝説:
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                  懺悔する衛門三郎
 むかし,伊予の国江原の里に衛門三郎という欲張りの長者がいた。ある日のこと,一人のお坊さんが三郎の屋敷に托鉢に回ってきた。三郎は冷たく追い払ったが,たびたびやってくるお坊さんに腹を立ててしまった。
「しつこい坊主じゃ。これでもくらえ」三郎は荷ない棒でお坊さんの鉄鉢を叩きつけた。すると,鉄鉢は八つに割れて飛び散り,お坊さんは去っていった。ところが,翌日から八人いた三郎の子どもがわけのわからない病気にかかり,八日の間に次々とみんな死んでしまった。
さすがの三郎も子どもを全部なくして大声で泣き叫んだ。
さて,そんなある夜のこと,三郎が眠っていると,夢枕にお坊さんが立ってこう言った。「三郎よ,すべてはお前の悪業の報いじゃ。今までの行いを悔いて情け深い人間になれ」その声に,はっと飛び起きた三郎は,あのときのお坊さんが,お大師さんであったことに気がついた。そして自分の罪の深さを知ることになった。
 それ以来,三郎は財産すべてを村人に分け与え,自分はお大師さんに会って罪をお詫びしようと,四国巡礼の旅に出た。伊予から讃岐へ,そして阿波,土佐へ,寺々を巡ってお大師さんを探したのだ。時には雨風に打たれ,野宿までしながら,三郎は二十回も四国を巡り歩いた。そして,もう何年が過ぎたのであろうか,三郎は長い旅に疲れ,見る影もないほどやせ衰えてしまった。やがて,阿波の焼山寺(第十二番札所)の門前で,力つき倒れてしまった。ところが三郎は,うすれていく意識の中で,自分を呼ぶ声を聞いた。
「三郎,衛門三郎よ,よくやった。これまでの巡礼の功徳によって,今までの罪はすべて消えてしもうたぞ。まことによくやった・・・」
その声に,三郎がうっすらと目を開けると,一人のお坊さんが立っているではないか。その姿は,三郎が片ときも忘れたことのないお大師さんの姿だった。そこで三郎は最後の力をふりしぼって,お大師さんのそばにはいずっていった。「三郎よ,この世の最後の望みがあれば言うてみよ。何なりとかなえてやるぞ」
「ありがとうございます。今はもう望みはありませんが,できることなら次の世では,名門の家に生まれ,世のため人のためにつくすことのできる人間になりとうございます。」息も絶え絶えに言った三郎の言葉にお大師さんは深くうなずくと,そばにあった小石を三郎の手に握らせた。そして,三郎はその石をしっかり握り息を引き取ったのであった。
 さて,次の年の七月,伊予きっての豪族である河野家に玉のような男の子が生まれた。ところが不思議,この子は生まれたときから左手を握りしめたまま,いっこうに開こうとはしない。そこで安養寺で大祈願祭を行うと,子どもの手はひとりでに開き,中から小石が出てきた。石には,衛門三郎という文字が刻まれていたという話だ。
それからのち,この子どもは立派に成長し国守となり,伊予の国に立派な政治を施したという話だ。そして,ゆかりの寺も手に石を握りしめて生まれたという話から”石手寺”と改められ,今も,その石は大切に残されているそうだ 。
(伊予伝説より)








★ 本尊:薬師如来 (伝 行基菩薩作)     ☆ 開基:行基菩薩
★ 本尊の真言:おん、ころころ、せんだり、まとぅぎ、そわか

 







 石手寺のお参りを済ませたのがPM5:40分少し前、今日は松山泊まり。廣島在住の頃、プライベートや仕事に就いてもお世話になった高市信義氏(柔道整骨院開業)に遭う約束をしていたので連絡するとPM8:00迄仕事とのこと。
県庁近くのホテルを指定され、そこを今日の宿に決める。
大凡20年振りの松山で当時は良く知った街であったが大変わりしており指定ホテルが中々見付からず市役所の地下駐車場に車を止めて散策を兼ねてテクシーでホテルの所在を探すことにした。その時出会ったのが以下の碑である。
 
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             わかるるや 一鳥啼いて 雲に入る
夏目漱石の句碑(松山中学校跡に:現在四国電電ビル)である。明治28年(1895年)松山中学校の英語教師として赴任し一年間教鞭を執る。翌29年4月熊本第五高等学校教授となり、松風会会員 近藤我観(漢学者)に句双幅(三つ切り)を送った。松山を去るにのぞみ別離の句双幅の一句である。
もう一句は:『永き日や あくびうつして 分かれ行く』
 いずれも「漱石」ではなく★「愚陀仏」の号が記してあった。句の「一鳥雲に入る」は渡り鳥が春になって北へ帰ることで「春」の季語を意味する。
4月11日高浜虚子と広島行きの船に乗り、三津の海岸から出発した。
 【註】漱石:明治22年(1889年)に初めてこの号を使っている。『流漱枕石』:石に枕し流れに漱ぐ、を間違えて『流枕漱石』と読んだ。同級生の子規辺りでは無かろうか?大いに囃し立てた、漱石は『流れで耳をあらい、石で歯を磨いたのだ』と即答したと言う。漱石の良く言う負けず嫌い、へそ曲がり、偏屈を現したエピソードで有るまいか?それが雅号:漱石の始まりだそうだ。子規の『七艸集』に「漱石」と署名している。
序でにもう一つ:漱石と子規が二人して東京の郊外を散歩していた。稲田が青々として広がり心地良い風が流れていた。漱石が『これは何だ』と聞いた。子規は呆れ顔で米のなる木を知らないのかと説明をした。この話が同級生に伝わり『夏目は稲を知らないそうだ』とからかわれた。
漱石は『稲ぐらい知っているさ、米が獲れることを知らなかっただけさ』とすまして答えたそうだ。
 序でにもう一つ:漱石が子規についてこんな事をいっている。
『子規といふ男は何でも自分が先生のやうな積りで居る男であつた。俳句を見せると直ぐにそれを直したり圏点をつけたりする。それはいゝにしたところで僕が漢詩を作つて見せたところが、直ぐに又筆をとつてそれを直したり、圏点をつけたりして返した。それで今度は英文を綴つて見せたところが、奴さんこれだけは仕方ないものだからVery goodと書いて返した。』
 二人とも負けん気の強い人達であった様だ。

★【註】愚陀仏:漱石の俳号である。明治28年(1895年)松山中学校英語教師として、月給八十円(校長住田昇は60円よりも高給であった)で赴任した漱石は、7月の頃、城山山裾の愛松亭から松山市二番町上野義方邸内の二階建ての離れ(上下階共6畳と8畳)に移った。その下宿を★愚陀仏庵と名付けた。
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 ★愚陀仏庵写真(2010年7月12日の記録的な豪雨で、松山城の城山において大規模土砂崩れが発生し「愚陀佛庵」が全壊しました。)この「愚陀佛庵」という名前は夏目漱石の自分の俳号「愚陀佛」から名付けたという説と、正岡子規が「愚陀佛がいる庵」と呼称しているところから、正岡子規が名付けたという説がある。
 この年子規は、日清戦争の従軍記者となり中国旅順の戦跡を踏んだが血を吐き帰還を命ぜられ神戸に帰港、神戸県立病院に入院(5月中旬頃)。退院後須磨保養院に移る。
子規が8月下旬に突然この愚陀仏庵に現れる。
『子規全集』漱石談話を其の儘、転載するとこんな風である:
・・・・・・・自分のうちえも行かず、親戚のうちえも行かず、
ここに居るのだと言う。僕が承知もしないうちに当人一人で極めている。御承知の通り僕は上野の裏座敷をかりているたので、二階と下、合わせて四間あった。上野の人が頻りに止める。『正岡さんは肺病だそうだから伝染するといけないおよしなさい』と頻りに言う。僕も多少気味悪かった。
けれど『断らんでいい』とかまわず置く。僕は二階に居る。大将は下に居る。そのうち松山中の俳句を遣る門下生が集って来る。僕が学校から帰ってみると毎日のように大勢来ている。僕は本を読むこともどうすることも出来ん。
 尤も当時はあまり本を読む方でも無かったが兎に角自分の時間というものが無いのだから止むを得ず俳句を作った・・・云々。
 この様な様子で50日間8月27日~10月17日(52日間の説あり)ここに滞在した。この間、子規はここで,「俳諧大要」を書き、地元『松風会』の句会が連日行われ、会員約30名を日夜指導した。漱石も誘われて俳句に熱中する様になった。
    愚陀仏は主人の名なり冬籠    漱石
    桔梗活けてしばらく仮の書斎哉  子規
松山中学の同級生で海南新聞に勤め、『松風会』の柳原極堂は明治30年子規と計って松山で月刊俳誌『ほととぎす』
(明治34年12月『ホトトギス』となる)を発行した。300部刊行、やがて21号から東京の高浜虚子に引き継がれ現在に及んでいる。
【註】『ホトトギス』には『我輩は猫である』(明治38年4月~明治39年年8月まで連載)『坊ちゃん』(明治39年4月掲載)漱石の小説家としてのデビューも『ホトトギス』である。他に「野菊の墓」伊藤佐千夫。「千鳥」鈴木三重吉。等々。
【註】『ホトトギス』は時鳥、杜鵑、不如帰、子規、とも書く、子規は漱石と親交の始まった頃の明治22年5月9日夜、突然喀血。時鳥の句を四、五十句作り、初めて子規と号している、血を吐く様な声で啼く時鳥と自身の姿に通ずるものを感じ子規と号したのではないかと思っている。
俳誌『ホトトギス』は子規その者であろうか。
当に近代俳句、近代文学の基礎がこの愚陀仏庵で誕生したと言っても過言ではあるまい。
 変わり種では:軍艦に乗っている筈の秋山真之(後に海軍大将)が尋ねて来ている。彼は子規の幼な友達で小学校、松山中学、東大予備門迄同級生で親友でもあった。
漱石とも予備門で同級生ではあったが顔を見知っている程度で親交はない、この時も会う事無く帰っている。
秋山真之は予備門を卒業する事無く海軍士官学校に入学し、日露戦争の日本海海戦の参謀として勝利に貢献した。
『敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ、連合艦隊ハ直チニ出動、之ヲ撃滅セントス・・・」と起案した若手参謀の一文に「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」』の一筆を加えた美文調の電文はあまりにも有名である。また、兄:秋山好古も騎兵隊の父と呼ばれ日清、日露戦争で活躍している。退役後は請われて松山の北予中学の校長をした。
子規と真之の親交、日露戦争に於ける秋山兄弟の活躍は司馬遼太郎の『坂の上の雲』に詳しく書かれている、一読に値する。


 閑話休題:



 『撮り歩記』からまた、逸脱し過ぎた様だ。こんな様子だと一向に前に進まないので本来の『撮り歩き』に立ち返る事にしま~す。
指定されたホテルは漱石の句碑から100mほど県庁よりで一番町の通りの向かい側にあった。
空き部屋が在れば良いがと案じつつフロントに聞くと『ご用意出来ます』との事、市役所の駐車場から車を廻しチェックインを終え、巡礼装束を解き一服したのがPm8:00
を遠くに回っていた。
暫くすると『高市さんがお見えに為りました』とフロントから連絡が入る。出掛ける用意は出来ていたので、早速階下に降りると20年前の記憶の氏と余り変わらないが顎鬚を生やした高市さんが其処に居た。去年100歳で天寿を真っ当されたご尊父も乳の辺りまで白鬚を伸ばした講道館柔道9段の猛者であった様に記憶している。
久方ぶりの挨拶もそこそこに、『遠いが旨い魚を食わせる店に案内する』と言う、私の好みを覚えていて下さったようだ、感謝、感謝である。
 ホテルを出て直ぐ隣のビルの地下に入り乍『遠かったろ?』とにやにやしている、ホテル指定の意味はこの辺に有ったのであろう。
『先生いらっしゃい!』『お久し振り』可也のお馴染みさんの様だ。
『久し振りに会った昔の友人なんよ、大の魚喰いで、養殖なんか出すと怒りよるよ!』と簡単に紹介して呉れた。
『まず地酒を冷で、魚は見繕いの盛り合わせ、さざえ刺身、鯛の刺身、鯛かまの塩焼き、鯛の兜煮順番に』てきぱきと私の好み通りに注文された。
昔ばなしに夢中に為りながら呑み且つ喰らった。皆旨い、昨夜とは大違いである。
矢張り刺身は天然物に限る。宇和島の刺身と大違いだ。
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 一日四十枚の鯛を大釣りした記念写真(06/4/4)丹後半島経ヶ崎にて光洋丸で
 兜煮が矢鱈と旨い、鯛釣りに行く度に兜煮を自分で造るが今までこの味は出せていない。
『兜最高です、自分で度々造るがこんな味はとても出せない。秘伝を是非教えて下さいな』とお願いしたら以下の方法を教えて呉れた。
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               天 然 鯛 の 兜 煮
プロの兜煮レシピ 
①二つ割にした鯛の頭を笊にとり熱湯をかけて臭みをとる。素早く水洗いして、血や鱗を丁寧に取る、皮を 剥さぬ様注意。
②調味料:醤油(自分は濃口を使う)1カップ。酒1カップ。みりん1/2~1/3カップ。水あめ少々(照りが 出て、こくが増す)砂糖でも良い。頭の大きさで調味料の分量を変えること。
③底の平らな鍋で酒を煮切り、醤油、みりんを入れ一度沸騰させ、頭を鍋に入れ落とし蓋をして中火で煮  る。煮汁が半分くらいに煮詰まったらOK。
 牛蒡を煮汁で煮て付け合せにする(頭と一緒に煮ても良い)。盛り付けたら、木の芽、香味野菜などあしらうと良い。

 地酒と旨い魚に加え、岩国市で接骨院開業の山中鶴美氏と三人で鯛、メバル、鯵釣り等の昔話で大いに酔いしれ再開を約して最後の乾杯をしたのは午前様になっていた。
『また3人で釣りに行きましょう』の約束は未だ果されていない。一度便りをしてみようっと!!。












 ◎ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護)
   (参考資料として)

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  温泉郡にある。近郷最大の立派な伽藍で、壮麗な建物が所狭しと並んでいた。柱に施した彫刻が流麗として連なり、珍しく美しい玉を垂れていたという。寺の草創として、元明天皇の時代、郡の大領・玉奥が和銅五年壬子年二月申辰日に白山権現を勧請したことが古い記録にあるいという。しかし白山権現は養老元年、越州の泰澄が登り思いを凝らして初めて現れた神だ。泰澄に先だって勧請したとは、疑わしいことだ。
 聖武天皇の神亀五戊辰の年、勅命を発して伽藍を建て、郡大領・玉純が天平元己巳年三月八日に薬師如来像を作って安置した。行基菩薩を招いて開眼供養した。孝謙天皇の勝宝七乙未年、三解脱門や東西の総門・韋駄天宮を建立し、勅命によって大般若経を与えられた。それまで法相宗であったが嵯峨天皇の時代、弘仁年間に真言宗の道場となった。当時の住持は、良賢であった。
 寺が真言宗に属した時代、伊豫浮穴郡花原の村に、右衛門三郎なる者がいた。四国の中でも屈指の長者であった。貪欲で倫理を解せず、神仏の教えに背いていた。男の子が八人いたが、八日の間に八人ともが急死した。異説もある。このことによって人様のことを思い遣る心が芽生え、神仏の存在を信じるようになった。出家して、霊場を巡礼した。阿波・焼山寺の麓で、鬱屈を抱きながら死の床に伏した。空海が通りかかり、右衛門三郎が菩提心を起こしたことに感激して、死出の願いは何かと問うた。三郎は、伊豫で河野家が最大の富を持っているから、河野家に生まれたいと願った。空海は、小石に右衛門三郎と書き付けて握らせた。三郎は死に、葬られた。塚が残っている。時が経ち、国司・河野家に男児が生まれた。左手に、件の石を握り締めていた。右衛門三郎の後身であると人々は覚った。男児は息方と名付けられた。
 ところで、輪廻転生といえば、羊■【シメスヘンに古】と円沢の説話が有名だ。
 「■【シメスヘンに古】年五歳、時令乳母取所弄金環、乳母曰汝先無此物、■【シメスヘンに古】即詣鄰人李氏東垣桑樹中探得之、主人驚曰此吾亡兒所失物也、云何持去、乳母具言之、李氏悲【■リッシンベンに宛】、時人異之、謂李氏子則■【シメスヘンに古】之前身也、又有善相墓者、言■【シメスヘンに古】祖墓所有帝王氣、若鑿之則無後、 ■【シメスヘンに古】遂鑿之、相者見曰猶出折臂三公、而■【シメスヘンに古】竟墮馬折臂、位至公而無子」(晋書巻三十五列伝第四羊■【シメスヘンに古】伝)
 中国の晋代、偉大な政治家・軍人として知られた羊■【シメスヘンに古】は五歳のときに、不思議なことを起こした。ある日羊は、「いつも玩具にしていた金環を持ってきて」と乳母に頼んだ。乳母は、「そんなもの持っていたの」と訝った。羊は、隣の李宅の東垣に生えている桑の木まで行った。木の中を探って、金の指輪を取った。李氏が驚いて言った。「私の死んだ子が持っていた金環だ。失くしたものだと思っていたが、どうしたのだ。どうして持っていく」。乳母は「だって、これ、ウチの坊っちゃんが、いつも遊んでいる金環でしょ。そう言ってたわ」。羊を見詰めていた李は、何故だか悲しみと愛おしさが込み上げてきた。羊を抱き締め、声を上げて泣いた。当時の人々は、話を聞いて不思議がった。前世で李の子供であった羊が、自分で隠していた金環の在処を覚えていたのだ。また、墓占いに巧みな者が、羊の家の墓を見て言った。「この子には、帝王の気が見られる。しかし、墓を傷つけたりしたら、跡継ぎが生まれなくなるぞ」。羊は墓を傷つけた。卜者は傷ついた墓を見て言った。「おやおや、坊やは外出して骨折しちゃうぞ」。羊は落馬し骨を折った。後に王に次ぐ官位・公まで昇進するが、跡継ぎは生まれなかった【以上、意訳】。

 また、「南嶽總勝集」【大正新脩大蔵経所収】などにも載せる、「三生石」の説話は、色々に伝わっているが、おおよそ次のようなものだ。
 人間の転生を見せ付ける僧が、唐代に現れた。名を円沢という。また唐の都・洛陽に、李源という者があった。父は官に就き東都を守っていたが、安禄山の乱で殺された。李源は国家というものに嫌気が差し、酒色に溺れて過ごした。しかし放蕩に虚しさを感じたか、全財産を慧林寺に寄進し堂宇を修復、自らは寺に寄宿した。二人は慧林寺で出会った。共に音楽的才能に恵まれていたため、馬が合った。暇さえあれば、膝を交えて詩文・音楽談義に耽っていた。
 幾年か経ち、二人は共に西部の蜀へと行こうとした。どこを通るかで意見が割れた。円沢は、古都・長安を回って行かなければ困ると懇願した。嵋峨山に薬を取りにいくため渓谷を通ろうとする李源は、言い返した。「俗世を捨てているべき僧が、華やかな都会に行くとは何事か」。言い負かされて円沢は、李源が勧める道を採った。暗澹たる表情をしていた。荊州に至り、将進峽を通り掛かった。女性達が色っぽい衣装で、水を汲んでいた。円沢は涙を流し、「恐れていたことが起こってしまった。彼女を目にするとは」、と悲しんだ。李源は訝った。「旅の途中で同様の女性を他でも見かけた。ここで何故、驚き嘆くのか」。円沢は答えた。
 「私は、仏の説く輪廻転生を、この世に示す運命を与えられている。女性たちの中に王氏の娘がいる。胎児を宿して三年が経つ。この胎児こそ来世の自分なのだ。私が、母となる女性を見ないうちは出産しない定めであった。しかし私は、彼女を見てしまった。子供は三日後に生まれる。それは即ち、私の死を意味するのだ。李源よ、私が早く再生するよう祈れ。そして、ここから少し進んだ所で宿をとり、数日を過ごしてくれ。私が死んだら、山の麓に葬るように。三日後、王の家を訪ね、生まれた子供に微笑みかけてくれたまえ。生まれ変わった私が、微笑み返そう。それで、嬰児が私であると分かるだろう。また、十二年後の仲秋の月夜、杭州・天竺寺の前に来てくれ。私も行く」。
 この道を強いて円沢を死に追い遣ることになった李源は、深く後悔し悲哀の海に沈んだ。二人は、件の女性に話しかけ、もうすぐ子供が生まれるとだけ告げた。女性は喜び家に帰った。親戚が集まった。魚を捉え酒を汲み、川の神を祭った。朗らかな宴の声が李源らの宿所にも伝わってきていた。円沢は沐浴し、新しい衣に替えた。座禅を組み、夜を更かした。その晩のうち、李源が気付かないほど静かに、逝った。三日後、李源は王家を訪れた。微笑みかけると、嬰児も笑った。李は王氏に顛末を話した。王氏は円沢を手厚く葬った。心虚ろとなった李は二日後、慧林寺に戻っていた。
 十二年後の仲秋月夜、円沢との約束に従って李は、杭州・天竺寺の前に立っていた。見回すと、円沢はいなかった。ただ、沢に円い月が映っていた。と、その畔で、牛に乗った牧童が、鞭で角を叩きつつ三峡地方特有の節回しで歌っていた。
 「三生石に昔の心が凝縮して宿っている。月を愛でよう、風に歌おう、小難しい話なんてしたくない。別れのきっかけつくった恋人が、後悔に胸を掻き毟りながら、遠い道を訪ねてくる。私は生まれ変わり、すっかり変わってしまったけれど、これからも、ずっと生きていく」。
 李と牧童は門の前で顔を合わせた。李の唇から、思わず言葉が迸り出た。「や、やあ、円沢」。牧童は応じた。
 「君は約束を守る誠実な人間だね。慧林寺ではいつも一緒にいたけれども、君と私は生きる道が違う。君の俗縁は、まだ尽きていない。でも、これから修行に打ち込めば、また私たちの会える時が来るよ」。
 あどけない少年に似合わぬ、老成した口振りだった。募った思いのたけを口にも出せず李は、ただ涙に暮れた。牧童/円沢は、牛の歩を進め、再び歌い始めた。
 「前世のことも来世のことも、はっきりとは分からない。人が生まれ変わるなんて教えたら、再び出会ったときの辛さを大きくするだけ。呉越の山々は、すべて見て回った。瞿唐峡、川を巡る舟の棹に、纏わり付く煙を私は見上げていた」。
 円沢は去っていった。遠ざかる歌声を聞きながら、李は立ち尽くしていた。
 これが高僧・円沢が死んだ渓谷に建つ三生石をめぐる物語である。

 ……しかし、どうだろうか。二つの話よりも、右衛門三郎の物語は、より明確に輪廻転生というものを表現しているように思える。右衛門三郎の生まれ変わりである息方は、石手寺の権現社を信仰し、神殿・拝殿を再建した。生まれたときに握っていた石を宝殿に納め、後世に伝えた。また、熊野十二所権現を勧請した。それまで安養寺と称していたが、このとき熊野山石手寺と改称したようだ。境内として山林を多く与え、花原郷を寄進して寺の維持費に充てた。建物は六十六宇を数えた。香の煙が立ちこめ、空の雲と連なるようだった。
 村上天皇の時代、天徳二年に令旨によって、阿闍梨位を継承するための秘儀・伝法灌頂を行うなど、重要な仏教拠点となっていた。記録に残っていることだが、表記が分かりにくいため、要点だけ記した。
 源頼義が北条親経【鎌倉幕府執権の北条氏ではなく伊豫土着の河野新太夫の別名と考えられる。河野氏が拠点とした風早郡は現在の愛媛県北条市あたり】に命じて、伽藍を再興した。
 永保二年の夏に大干害となり、勅命によって四国一円の降雨を祈った。褒賞として勅額を与えられ、住持の良寛は僧位を権僧都に進めた。
 寛治三年、堀河院が空海の御影を寺に与えた。北条親経に命じて、大師堂を建てさせた。
 永久二年、源頼義の末子・河野冠者親清が、堂宇の破損を修復した。
 治承元年、高倉院の勅命によって、唐から伝来した大般若経一部を与えられた。
 源頼朝から足利尊氏に至るまでの将軍家御教書が残っており、河野氏が修復したことも度々だが、特別なもののほかは一々記さない。
 元久元年三月三日、権現の祭礼を行った。十二社を仏教の立場で祀った。音楽を演奏し、威儀を整えた。河野四郎通信が月例の能を始めた【鎌倉幕府草創期に活躍した通信が、室町期前半に成立した「能」を行わせたとの記述には疑問がある。能のもとともなった、芸能を指すか】。
 弘安二年、河野対馬守通有が、三島明神を勧請した。本社・拝殿・十六王子祠を備え、九月二十六日に祭礼を執り行った。
 河野氏は、孝霊天皇の皇子で伊予に封じられた小千王から出たという。孝霊天皇の子供のうち誰のことかは分からない。河野氏は天正年間まで七十二代を相続して、石手寺も栄えた【孝霊天皇の子・狭島彦命/伊豫親王が海賊鎮圧のため下向し地元の海女と結ばれて三つ子をもうけた。三つ子は不吉であるとして、それぞれ船に乗せ海に流した。三番目の子供が小千/越智郡大浜に流れ着き、小千王と呼ばれ小千国造に任じられた。後に越智氏を名乗った。この越智氏から河野氏が分かれたとされている】。
 崇徳天皇が讃岐に流されたとき、お忍びで参詣したという。三月上旬のことだったらしい。歌が残っている。「名にし負はば又と来て見ん花の春 夕影残る雪の降る寺」。歌われた花は、車返しの桜と呼ばれた銘木であった。五十八九年前に枯れてしまい、それから出た檗が往事を偲ぶ縁となっている。
 霊宝には名高い物も多く、参詣したときに記録したもの総ては載せられない。
 橋の外に源朝義の石塔がある。

 
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