ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:愛媛編 52番霊場
旨い魚と地酒の所為で昨夜はぐっすり熟睡したので今朝の寝覚めは頗る良い。次の寺は近いし良く知った街なので余り早く出発する必要がないとゆっくり出発、AM6:40。
第五十二番札所 太山寺に向かう大凡13km
13kmは五十一から五十二までの距離、ホテルからは8km。

第五十二番札所:龍雲山 太山寺 虚空蔵院

一 の 門
一の門 :冠木門に切妻屋根を架けた簡素な門。門は3つあり、一の門から本堂までは800mある。1955年再建。


山 門 (仁王門)
二の門(仁王門)重要文化財 - 入母屋造八脚門、1305年再建。



「阿吽」の 仁 王 像
太山寺には三つの門があり一の門から本堂まで凡そ800mもある広大な寺で、二の門と呼ばれる仁王門からも570mも離れ本堂前の三の門(四天王門)までかなり遠い。

二の門を入ると左に一畑薬師、右の中門の奥に庫裏・納経所がある。参道の坂を進むと右に地蔵堂、左に十三仏石像、正面に手水場がある。

眼病にご利益のある一畑薬師堂

左に大日如来石像を中心に十三仏像が並び、右に太子石像が迎えて呉れる。

手 水 場

手水場の水掛け地蔵と水掛け観音
右の石段を登って三の門(四天王門)へ。


三の門(四天王門)
三の門(四天王門) - 入母屋造楼門、1683年再建

扁 額 と 門の造作




三の門に祀られる四天王像
三の門を潜ると正面に本堂が建つ。本堂右に護摩堂、稲荷堂、聖徳太子堂がある。

本 堂
国宝。本尊は十一面観世音菩薩。鎌倉時代造営、堂内から発見された墨書により嘉元3年(1305年)の建立と判明する。桁行7間 (16.38m)、梁間9間 (20.91m)屋根は入母屋造本瓦葺きで木造建築としては県下最大である。柱はすべて円柱。



本 堂 内 陣
本堂の左上段に太子堂。



太 子 堂
本堂右手に、護摩堂・稲荷堂・聖徳太子堂など数多くの堂が並ぶ。


護 摩 堂・稲 荷 堂・厄除け大師

聖 徳 太 子 堂

聖徳太子が伊予に来られ太山寺と縁を結んだといわれ、法隆寺の夢殿にある太子像と同じ像が安置されている。1月15日には太子祭が開催され、「願いをすくい取って頂き、幸せはすくい取ろう」という願いを込めて“おしゃもじ”を奉納し、聖徳太子の聡明さにあやかろうとお参りが多い。

本堂右側に鐘楼堂

鐘 楼 堂
江戸時代の明暦元年(1655)に再建。永徳3年(1383)の銘のある梵鐘がある。県の指定文化財。
大方の参詣を終えて第三の門(四天王門)に引き返すと右の中門の奥に庫裏・納経所がある。

納経所に通じる中門

納 経 所

御 朱 印
無事参詣を終えて第53番札所 円明寺に向かう・・・・・・・合掌 4月5日午前7時30分
帰路の途中参道で子規の句碑を見つけた。

参道にある正岡子規の句碑
菎蒻に つつじの名おれ 太山寺
昭和25年頃まで太山寺名物「こんにゃく田楽」を茶屋で売られていた。
美しいつつじがあってもいいではないかと戯れた気持ちの句。明治25年の句で、自筆の文字を拡大して昭和48年に建立。
『略縁起』
飛鳥時代の★第31代用命天皇2年(587年)の御代、豊後の国(大分)の真野長者が大阪に向かう途中高浜沖(現在高浜観光港)で難破しかけたが、信仰していた十一面観世音菩薩に救われたので、報恩のため一寺を創建した。その尊像を安置したのが始まりと言われている。
のち、聖武天皇の勅願により行基菩薩が十一面観世音を刻み本尊として安置。山号、寺号も天皇より下賜されている。その後の天長年間(824〜34年)に来錫した弘法大師が、胡摩ヶ森で護摩供を修せられたのち、五十二番札所に定められた。
寺には歴代天皇の勅願による★六体の十一面観世音菩薩像が安置してあり、そのいずれも重要文化財に指定されている。嘉元3年(1305年)伊予国守護河野氏によって本堂(現存)が再建され、近世には松山城主加藤氏の庇護を受けて栄えた。
★ 聖徳太子(574~622年)飛鳥時代の皇族。政治家。用明天皇の第二皇子。母は欽明天皇の皇女・穴穂 部間人皇女。
★ 後冷泉天皇(在位1045〜68)をはじめに、後三条、堀河、鳥羽、崇徳、近衛の6代にわたる各天皇が、十一面観音像を奉納されている。いずれも像高は150cm前後で、本尊の十一面観音像とともに国の重要文化財。
★ 【註】<一夜建立の伝説>
今から1400年ほど前のこと。
豊後の国の炭焼き小五郎に、奈良の三和神社のお告げがあり都の久我大臣の娘玉津姫と結婚(この姫は、 用命天皇がその婿になろうと草刈童になって近付こうとした程美人だったらしい)。
金鉱を発見して大金持ちとなり、天皇より「長者」の号をいただき真野長者と名を改めている。
真野長者は難波の港に向かう途中、高浜沖で嵐に遭いますが、一心に「南無観世音菩薩」と唱え祈ると、龍雲山山頂から御光がさし、ほどなく嵐もおさまり、無事に船を岸に寄せることが出来ました。
長者が山に登ってみると、草深い小さなお堂に十一面観世音菩薩が安置されていました。
報恩のため本堂を建てることにした長者はすぐ国に帰り大工を集めて本堂の木取りをして船に積み、追い風を受けて豊後臼杵から一晩で高浜に到着、山の中腹に一夜のうちに本堂を建立したということで「一夜建立の御堂」と呼ばれています。
☆ 本尊:十一面観音菩薩 ☆ 開基:真野長者
☆ 本尊の真言:おん、まか、きゃろにきゃ、そわか
◎ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護)
(参考資料として)

和気郡にある。天平勝宝年中に、聖武天皇が建立した。本尊は、行基菩薩が唐から得た十一面観音の小像を、六尺の像を作って中に納めたもの。
本堂の左に、孝謙天皇が建てた石塔がある。前には鎮守の五社明神。石段の右に樹木が居流ている。前には地蔵堂、東に五智如来。僧坊は東に建っている。本坊の前には岩の切り通しがあり、瀧になっている。訪れた人は、心が洗われるようだ。
惣門を入ると池がある。清い蓮が立っている。傍に弁財天祠がある。
この山は高くはないが周囲が五里八町あり、しっとりと落ち着いた雰囲気だ。
後冷泉・後三条・堀河・鳥羽・須藤・近衛院・後白河法皇が、それぞれ十一面観音像を作らせて安置している。奉納の年月が記されている。
第五十二番札所 太山寺に向かう大凡13km
13kmは五十一から五十二までの距離、ホテルからは8km。

第五十二番札所:龍雲山 太山寺 虚空蔵院

一 の 門
一の門 :冠木門に切妻屋根を架けた簡素な門。門は3つあり、一の門から本堂までは800mある。1955年再建。


山 門 (仁王門)
二の門(仁王門)重要文化財 - 入母屋造八脚門、1305年再建。



「阿吽」の 仁 王 像
太山寺には三つの門があり一の門から本堂まで凡そ800mもある広大な寺で、二の門と呼ばれる仁王門からも570mも離れ本堂前の三の門(四天王門)までかなり遠い。

二の門を入ると左に一畑薬師、右の中門の奥に庫裏・納経所がある。参道の坂を進むと右に地蔵堂、左に十三仏石像、正面に手水場がある。

眼病にご利益のある一畑薬師堂

左に大日如来石像を中心に十三仏像が並び、右に太子石像が迎えて呉れる。

手 水 場

手水場の水掛け地蔵と水掛け観音
右の石段を登って三の門(四天王門)へ。


三の門(四天王門)
三の門(四天王門) - 入母屋造楼門、1683年再建

扁 額 と 門の造作




三の門に祀られる四天王像
三の門を潜ると正面に本堂が建つ。本堂右に護摩堂、稲荷堂、聖徳太子堂がある。

本 堂
国宝。本尊は十一面観世音菩薩。鎌倉時代造営、堂内から発見された墨書により嘉元3年(1305年)の建立と判明する。桁行7間 (16.38m)、梁間9間 (20.91m)屋根は入母屋造本瓦葺きで木造建築としては県下最大である。柱はすべて円柱。



本 堂 内 陣
本堂の左上段に太子堂。



太 子 堂
本堂右手に、護摩堂・稲荷堂・聖徳太子堂など数多くの堂が並ぶ。


護 摩 堂・稲 荷 堂・厄除け大師


聖 徳 太 子 堂

聖徳太子が伊予に来られ太山寺と縁を結んだといわれ、法隆寺の夢殿にある太子像と同じ像が安置されている。1月15日には太子祭が開催され、「願いをすくい取って頂き、幸せはすくい取ろう」という願いを込めて“おしゃもじ”を奉納し、聖徳太子の聡明さにあやかろうとお参りが多い。

本堂右側に鐘楼堂

鐘 楼 堂
江戸時代の明暦元年(1655)に再建。永徳3年(1383)の銘のある梵鐘がある。県の指定文化財。
大方の参詣を終えて第三の門(四天王門)に引き返すと右の中門の奥に庫裏・納経所がある。

納経所に通じる中門

納 経 所

御 朱 印
無事参詣を終えて第53番札所 円明寺に向かう・・・・・・・合掌 4月5日午前7時30分
帰路の途中参道で子規の句碑を見つけた。

参道にある正岡子規の句碑
菎蒻に つつじの名おれ 太山寺
昭和25年頃まで太山寺名物「こんにゃく田楽」を茶屋で売られていた。
美しいつつじがあってもいいではないかと戯れた気持ちの句。明治25年の句で、自筆の文字を拡大して昭和48年に建立。
『略縁起』
飛鳥時代の★第31代用命天皇2年(587年)の御代、豊後の国(大分)の真野長者が大阪に向かう途中高浜沖(現在高浜観光港)で難破しかけたが、信仰していた十一面観世音菩薩に救われたので、報恩のため一寺を創建した。その尊像を安置したのが始まりと言われている。
のち、聖武天皇の勅願により行基菩薩が十一面観世音を刻み本尊として安置。山号、寺号も天皇より下賜されている。その後の天長年間(824〜34年)に来錫した弘法大師が、胡摩ヶ森で護摩供を修せられたのち、五十二番札所に定められた。
寺には歴代天皇の勅願による★六体の十一面観世音菩薩像が安置してあり、そのいずれも重要文化財に指定されている。嘉元3年(1305年)伊予国守護河野氏によって本堂(現存)が再建され、近世には松山城主加藤氏の庇護を受けて栄えた。
★ 聖徳太子(574~622年)飛鳥時代の皇族。政治家。用明天皇の第二皇子。母は欽明天皇の皇女・穴穂 部間人皇女。
★ 後冷泉天皇(在位1045〜68)をはじめに、後三条、堀河、鳥羽、崇徳、近衛の6代にわたる各天皇が、十一面観音像を奉納されている。いずれも像高は150cm前後で、本尊の十一面観音像とともに国の重要文化財。
★ 【註】<一夜建立の伝説>
今から1400年ほど前のこと。
豊後の国の炭焼き小五郎に、奈良の三和神社のお告げがあり都の久我大臣の娘玉津姫と結婚(この姫は、 用命天皇がその婿になろうと草刈童になって近付こうとした程美人だったらしい)。
金鉱を発見して大金持ちとなり、天皇より「長者」の号をいただき真野長者と名を改めている。
真野長者は難波の港に向かう途中、高浜沖で嵐に遭いますが、一心に「南無観世音菩薩」と唱え祈ると、龍雲山山頂から御光がさし、ほどなく嵐もおさまり、無事に船を岸に寄せることが出来ました。
長者が山に登ってみると、草深い小さなお堂に十一面観世音菩薩が安置されていました。
報恩のため本堂を建てることにした長者はすぐ国に帰り大工を集めて本堂の木取りをして船に積み、追い風を受けて豊後臼杵から一晩で高浜に到着、山の中腹に一夜のうちに本堂を建立したということで「一夜建立の御堂」と呼ばれています。
☆ 本尊:十一面観音菩薩 ☆ 開基:真野長者
☆ 本尊の真言:おん、まか、きゃろにきゃ、そわか
◎ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護)
(参考資料として)

和気郡にある。天平勝宝年中に、聖武天皇が建立した。本尊は、行基菩薩が唐から得た十一面観音の小像を、六尺の像を作って中に納めたもの。
本堂の左に、孝謙天皇が建てた石塔がある。前には鎮守の五社明神。石段の右に樹木が居流ている。前には地蔵堂、東に五智如来。僧坊は東に建っている。本坊の前には岩の切り通しがあり、瀧になっている。訪れた人は、心が洗われるようだ。
惣門を入ると池がある。清い蓮が立っている。傍に弁財天祠がある。
この山は高くはないが周囲が五里八町あり、しっとりと落ち着いた雰囲気だ。
後冷泉・後三条・堀河・鳥羽・須藤・近衛院・後白河法皇が、それぞれ十一面観音像を作らせて安置している。奉納の年月が記されている。
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