ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:愛媛編 54番霊場
第五十四番札所 近見山 延命寺に向かう大凡38km。

第五十四番札所:近見山 延命寺 宝鐘院

仁 王 門
当寺には門が仁王門と山門(中門)と二つの門があるり鐘楼も二つある。仁王門を入ると左手の丘の上に一つ目の鐘楼がある。


今は老朽化し使われていない「近見二郎」と呼ばれる梵鐘: 鋳造 宝永元年(1704年) 口径 62cm 高さ 112cm。
この鐘には、四面に当山の歴史が刻まれている。今治市指定有形文化財に昭和六十三年四月六日指定。
この梵鐘は、長宗我部の兵士達が軍用金にしょうと略奪し海上へ運んだ時、梵鐘自ら海中へ沈み略奪を拒んだ、と(略縁起)にある。

右手の現在使われている「近見三郎」と呼ばれる梵鐘。
参道を進むと中門(山門)がある。

中 門 (山 門)
中門:総けやき造りの単層の小型の門、もと今治城の城門の一つ で天明年間(1781~1788年)の建造と云われている。明治3年~4年今治城解体の折り移築された。
中門を入ると、少し先に手水場があり左には薬師堂、納経所がある。石段を少し上ると正面に本堂が建ち、左の石段を上り詰めると大師堂がある。

薬 師 堂

手水場・売店・納経所・本堂

手 水 場
参道の正面に本堂が建つ。

本 堂

本尊は:宝冠をかぶった珍しい不動明王座像で、再三の火災から逃れていることから「火伏せ不動尊」と呼ばれている。

本 堂 内 陣

本堂前石段右脇にある、 「水 掛 不 動 尊」

本堂左側の石段を登ると、太子堂に至る。

太 子 堂

太 子 堂 内 陣

太 子 座 像

行 基 菩 薩 供 養 塔
太子堂の近くにある。

御 朱 印
無事参詣を終えて第55番札所 南光坊に向かう・・・・・・・合掌 4月5日午前9時30分
『略縁起』
天平年間、行基が不動明王を刻み本尊として、海抜224mの近見山に七堂伽藍を創建した。
のち、嵯峨天皇の勅願を受けて来錫した弘法大師が当寺で修学、荒れていた堂宇を再興し近見山・不動院・円明寺と号し信仰と学問の中心道場とした。
だがその後は、数度の兵火に遭いそれまで隆盛を見ていた七堂伽藍はことごとく焼失。
再建なったのは享保12年になってからであり、そのとき現在地に移した。
寺宝に宝永元年(1704年)鋳造の梵鐘がある。この梵鐘は、長宗我部の兵士達が軍用金にしょうと略奪し海上へ運んだ時、梵鐘自ら海中へ沈み略奪を拒んだ、という伝えがある。
寺名の円明寺だが、明治になって郵便制度が出来た時、郵便物が53番の円明寺と間違い双方ともに困った為、当寺が官許を得、それまで俗称だった延命寺を正式の寺名にしたのである。
★ 本尊:不動明王 (伝 行基菩薩作) ★ 開基:行基菩薩
★ 本尊の真言:のうまく、さんまんだ、ばさらだん、せんだ、まかろしゃだ、そはたや、うん、たらた、かんまん
本堂・太子堂での参詣を終えて引き返すと中門の右手の手水場の後方に「越智孫兵衛の墓」があった。

越 智 孫 兵 衛 の 墓
★ 越智孫兵衛とは:村人にかゆ弁当をすすめた越智孫兵衛。
寛文から元禄のころ(1661~1703)、阿方村(旧乃万村)の庄屋に越智孫兵衛通勝という人がいました。仏教を信仰し、慈悲深く聡明な人であったので、村人からも非常に尊敬され親しまれていました。阿方村は、先の忠左衛門の延喜村に隣接した村で、延喜村同様松山藩に属しておりました。当時七割もの年貢米が徴収されるというありさまで、農民の苦しみは大変なものでした。忠左衛門の例を見てもわかるように、こんな時に年貢米を減らしてくれるように訴状でも出そうものなら、それこそ打首かはりつけ刑間違いなしです。孫左衛門はいろいろ考えあぐんだ末、一策をたてました。 ある年のこと、藩の命令で用水池を造ることになりました。孫兵衛は村人を集め、「明日の工事には米麦半々にしたおかゆを竹の筒の入れて持っていきなさい。にぎり飯は絶対持っていかぬようにしなさい。」と言い渡しました。村人たちは不審に思い、なぜそんなことをするのか尋ねましたが、孫兵衛はそのことには触れず、「まあ、それはあとでわかるから私の言うようにしなさい。」と優しく言いました。平素尊敬され慕われている孫兵衛のことです。それ以上問い返す者もなく、皆その通りにすることにしました。池役の昼飯時がやってきました。どの村のお百姓もにぎり飯をほうばっているのに阿方村のお百姓だけは竹筒に入ったおかゆをすすっていました。他の村人や役人の目に止まらぬはずはありません。さっそく孫兵衛は役人から呼び出しを受け、「阿方村の百姓だけが真っ昼間からどぶろくを飲んでいやがる。なんということだ。」ときついおしかりを受けました。孫兵衛はいかにも悲し気に言いました。「実は百姓どもが飲んでいるのはおかゆでございます。阿方村は地味が悪く米が出来ませんので年貢米を納めましたら残りはほとんどありません。それで腹が減ってつらかろうと思いますが、他の村のようににぎり飯を持ってくることができないのです。まことに阿方村の百姓どもがあわれであわれでなりません。事情をおくみ取りいただき、ご年貢米を減らしていただきますようお取り計らいの程よろしくお願いします。」 孫兵衛の話を聞いて深く同情した役人が、このことを藩主に申し上げたため、年貢米をそれまでの七割から六割に下げてくれることになりました。阿方村のお百姓が孫兵衛に心から感謝したことはいうまでもありません。おかげで享保十七年(1732)の大飢饉のときに他村では多数の餓死者が出ましたが、阿方村では出さずにすみました。 孫兵衛は元文三年(1738)にこの世を去りましたが、その遺徳をしのび感謝するため、村人はりっぱな墓を延命寺(真言宗)の境内に建てて、てい重にお祭りしました。今でも毎年八月七日に感謝の慰霊祭を行っています。阿方貝塚の発見者故越智熊太郎氏は孫兵衛の子孫に当たります。 なお、減税の成功は竹筒法のほかに、孫兵衛の家が二、三の有力な藩士と血縁関係にあったことも影響しているのではないかという人もいます。 先に述べた近藤八右衛門と八木忠左衛門とここで述べた越智孫兵衛が、それぞれ郷土の誇る義民として、この地方では有名な歴史上の実在の人物ですが、古記録などあまりなく、ほとんどいい伝えによる伝説的な面が多分にありますので、ここに伝説として取り上げたようなわけです。 『今治地方伝説集より』
◎ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護)
(参考資料として)

縣邑にある。本尊の不動明王像は、行基菩薩の作だという。この他に伝わる話はない。四方を覆う竹林の緑が空へと連なり、盛夏の強い日差しが深い影をつくっている。
背後の山の上に、縣一円の総鎮守社がある。
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