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四国撮り歩記  霊場八十八ヶ所巡礼の旅:愛媛編  55番霊場


  第五十五番札所 南光坊に向かう大凡3,8km

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          第五十五番札所 別宮山 南光坊 金剛院






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                  山             門

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 正面・両側の仁王像。門口正面が本堂。

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                  山   門   扁   額


 山門の桜も咲き始め2~3部咲きか・・・。堂々たる仁王門である、四天王が東西南北を守護している。

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                  持      国      天   

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                  多      聞      天

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                  増      長      天

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                  広      目      天 

 山門を潜り本堂に向かう。
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                  本              堂

 太平洋戦争最末期の昭和20年8月、空襲により大師堂と金比羅堂を残して罹災した。現在の本堂は昭和56年秋、薬師堂は平成3年春に、山門は同10年に再建されている。

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                  本    堂    内   陣

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 本堂の左前には大日如来石像・
手水場と芭蕉の句碑がある。
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                  手     水     場 (本堂最寄りの)

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                  大 日 如 来 石 像

 本堂右側に修業大師石像・薬師堂・金毘羅堂が並ぶ。

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           修 業 大 師 石 像

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                  薬 師 堂 と 金 毘 羅 堂 
 
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  薬 師 堂 と 金 毘 羅 堂の間に建つ。南光坊中興の祖・天野快道(あまのかいどう)大僧正(1846~1923)の墓
 1918(大正7)年には真言宗醍醐派管長に選ばれ、京都醍醐寺の座主(ざす=学・徳ともにすぐれた大寺を統括する首席の僧)をも務めた高僧であった。

 大楠と三匹の狸(快道大僧正逸話):
 別宮の大山祗神社の境内に、何かかえもあるかといわれるほどのとても大きな楠の木があって、昼でも薄暗いくらい枝が四方八方に広がっておりました。
 ここに、いつのころからか三匹の姉妹の狸が住んでいました。その名を「お奈遠」(おなを)、「お佐遠」(おさを)、「お袖」(おそで)と呼んでおりました。 ―楠の木と関係が深いところから、別に三匹の狸を「大楠さん」とも言っています。―
 これらの狸は、とても賢かったそうですが、時々妙なものに化けて、参拝者に意地の悪いことをして困らせることがありました。(別にそんないたずらをしたことはなく、賢くて気だてが優しく、また、何でも知っていた上に、人々の願いをはっきりと聞いてくれたという人もいますが、古老の間では、時々意地の悪いことをしていたという話を多く耳にします。)
 しかし、別宮の大山祗神社と隣合わせにある南光坊(真言宗、別宮町三丁目)の快道和尚 ―弘化三年(1846)~大正十二年(1923)、頭脳明せきな上に体格にも恵まれた傑物であったといわれています。― の言うことは非常によく聞きました。
 これらの三匹の狸は、狸がくれならぬ神通力を使って、実際にその場にいて普通の人には姿をみせないでいろいろなことをしました。ところが、快道和尚にはよく見えたそうで、こんなおもしろい話があります。
 快道和尚がだれもいない縁側で、なれなれしく「これこれ、お奈遠や、そこで何をしているのかね。」と言うので、側にいた人が不思議に思ってだれかいるのか尋ねると「そこでお奈遠が日なたぼっこをしているのだよ。」と言われたそうです。
 ところで、ある時、金比羅堂の屋根の上に楠の木の枝がのしかかっていて、風が吹くと屋根をたたいて瓦をこわしてしまうので、村人たちが協議の上、これを切ることにしました。のこぎりやなたを持ちよって、木を切る用意をして木の下に集まると、何とそれまで屋根すれすれにはっていた枝が、お天道さんの方へ向きを変えていました。
 快道和尚が三匹の狸に頼んで方向を変えてもらったのだろうということが、村人たちの間でも、もっぱらうわさされました。
 その後、村人たちの勧めもあって快道和尚は神主さんと相談して、楠の大木の洞穴の側に祠を建てて、てい重にお祭りしました。
 この祠を建ててからは、狸が人を化かして困らせるようなことは一切なくなりました。今度の太平洋戦争で、空襲を受け焼けてしまったので、別に新しく楠の木を移植してその端に祠を建てました。これらの祠は、それぞれ「お奈遠大明神」、「お佐遠大明神」、「お袖大明神」と呼ばれ、お願を賭けに来る人も多いそうです。
 お袖大明神の楠の木だけは戦前のもので、わずかに昔の名ごりをとどめています。
                                              (大沢文夫著 今治地方の伝説集 より)


 山門寄りに引き返すと右側に十三仏石仏・水子地蔵・太子堂・手水場がある。

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                   十  三  仏  石  仏  
               
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                   水   子   地   蔵 

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                   太      子      堂 

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                   太  子  堂  扁  額

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                   屋   根 の 宝   珠

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               太 子 堂。手 水 場・右端 山 門  

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               慈  母  観  音  (太子堂前)

 
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                   納      経      所

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            御    朱    印



 無事参詣を終えて第56番札所 泰山寺に向かう・・・・・・・合掌    4月5日午前10時10分

 

 

  
 『略縁起』
 大宝3年(703年)に越智玉興の弟玉純が文武天皇の勅願により、瀬戸内に浮かぶ大三島の大山祗(おおやまずみ)明神に勧請し、法楽所として二十四坊を建立した。ただし海を渡らないと参詣できないため、和銅5年(712年)にその別宮を越智郡日吉村に移した。同時に別当寺院として南光坊を含む八坊を移したといわれる。弘法大師は四国巡錫の際に別宮に参拝し、坊で法楽をあげて霊地とした。大山積神社は武神海神として河野氏の尊信が厚く、祈願所として栄えた。しかし、天正年間に伊予を襲った長宗我部氏の兵火により八坊は焼失。さらに、越智氏の末裔である河野氏も滅亡。その後、南光坊だけは大山積神社の別当寺として再建された。慶長5年(1600年)には、★藤堂高虎の祈祷所として薬師堂が再建された。次の城主久松氏も祈祷所に定め、祭祀料を奉納したといわれる。文久年間には金毘羅堂が造られた。明治の廃仏毀釈の際、本尊の大通智勝如来や十六大王子を薬師堂に返して寺として独立。大正5年(1916年)には大師堂が建造された。だが、昭和20年8月の大空襲で大師堂と金比羅堂以外の建造物は焼失。本堂は戦後に再建された。


★藤堂高虎:戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。伊予国今治藩主。後に伊勢国津藩の初代藩 主となる。藤堂家宗家初代。
 何度も主君を変えた戦国武将として知られる。それは彼自身の「武士たるもの七度主君を変えねば武士と は言えぬ」という発言に表れている。
 築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築城した。高虎の築城は 石垣を高く積み上げる事と堀の設計に特徴があり、同じ築城の名手でも石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。




 ★ 本尊:大通智勝如来     開基:行基菩薩
 ★ 本尊の真言:なむ、だいつぅち、しょうぶつ









 ◎ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護)    (参考資料として)

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  別宮と呼ぶ。越智郡にある。三島明神である。記紀の神代巻に、生まれるときの炎で伊弉許を死に至らしめた軻遇突智を伊弉諾尊が三つに斬った一つが、大山積神であると伝える。聖武天皇の時代、天平五年に示現した。伊豆国賀茂郡、摂津国島下郡にも社がある。共に同じ神だ。三島明神社から伊豆に移ったという。治歴年中の頃、日照りのため雨乞いをしようと、伊予の国司・実綱は能因法師を招き、歌を詠ませた。能印の和歌は「天の河 苗代水にせき下せ 天下ります神ならば神」。歌を社に奉納すると、忽ちに雨が降った。歌の短冊は、宝殿に今も残っているという。
 太宰大弐・藤原佐理が任期を終え九州から京都へ帰る途中、伊予に停泊した。波風が荒れて、船を出せなくなった。夜になって夢に三島明神が現れ、社の額を佐理が書けば風はすぐに止むと告げた。額には日本惣鎮守三島大明神と書かれている。
 宮守を金剛院南光坊と呼ぶ。本尊は大通智勝如来で、三島明神の本地仏とされている。

・・・・・・・・「金葉和歌集」巻十雑歌下・・・・・・・・・・

(平)範国朝臣に具いて伊予国にまかりたりけるに、正月より三四月までいかにも雨の降らざりければ、苗代もえせで騒ぎければ、よろづ祈りけれど叶はで堪えがたかりければ、守、能因を歌よみて一宮に参らせて祈れと申ければ、参りてよめる
   能因法師
「天の川 苗代水にせきくだせ あま下ります神ならば神」

 ちなみに、空海はもとより、七十二番・曼荼羅寺の項で言及されている元杲や仁海には雨乞いの伝説が残っている。特に小野僧正・仁海は、雨僧正と称された。話は宋にも伝わり、彼の地では雨海大師と呼ばれた。当時は灌漑が重大な問題であり、雨乞いが僧侶に期待される能力の一つであったのだろう。
 
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